2020.1.19「愛は寛容で親切 Ⅰコリント13:4」

これから4回に分けて、愛の讃歌と呼ばれる、Ⅰコリント13章の中心部分から学びたいと思います。これまで御霊の賜物との関係について何度か学びましたが、愛について集中的に学ぶのは今回がはじめてです。しかし、私は結婚式の司式では、このところから数えきれないほど語ってきました。初めに注意をさせていただきますが、これは「愛とはこのようなものですよ」と愛の特徴を述べているのであって「このようにしなさい」と命じているのではありません。いきなり、律法的に捉えると、辛くなりますので、主の恵みを通して見て行きたいと思います。

1.愛は辛抱強い

みなさんは、「寛容」と聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか?英国の女王、エリザベツは宗教に対して寛容な態度をとりました。当時、ピューリタンが「もっと教会を清く、正しいものにしよう」と強硬な態度で迫りました。それに対して、エリザベツは「まあ、まあ、それもわかるけれど、制度や儀式も重要だから」と妥協策を取りました。そうなると、寛容というのは、「中途半端、なまぬるい、どっちつかずの」というイメージを持ってしまいます。では、寛容とは「両者の争いを避けるために、右の意見と左の意見の真中を取る」ということなのでしょうか?「まあ、まあ」という態度が寛容であるということではないと思いますが、聖書の言葉から、まず調べて行きたいと思います。パウロは「愛は寛容である」と言っていますが、この「寛容」はギリシャ語では「気の長い、辛抱強い、忍耐強い」という意味があります。直訳の英語の聖書はLove suffers longと訳しています。「愛は長く辛抱する、長く容赦する」です。というと、私たちが考えている「寛容」とはずいぶんと意味が違ってきます。

意味が分かったからと言って、愛の人になれる訳ではありません。なぜなら、愛は意志と感情と行動が関わっているからです。愛についてはいくらでも語ることができます。しかし、愛があるか、愛をもって生きているかというと全く別問題です。でも、聖書が言う愛は、この世の人たちが言う、愛とは全く異なります。愛はよく歌にもあります。でも、その場合、愛は「好き」だとか、「恋している」と言う意味が近いと思います。もし、「私はあなたに対して長く辛抱しています」と言ったら、ぶん殴られるでしょう。この世で言う愛は、湧き上がってきて抑えられないものだからです。もちろん、男女の愛は、最初はそうかもしれません。でも、結婚して、1年もたつと「あれっ?」と思ってきます。なぜなら、あの愛が自動的に湧き上がってこないからです。そのときに、「愛は長く辛抱するものだ」ということが分かってきます。おそらく、結婚生活の場合は、後者の愛がほとんどではないかと思います。この間、テレビで「夫源病」というのがあると聞きました。知恵蔵の解説です。夫の言動への不平や不満がストレスとなって自律神経やホルモンのバランスが崩れ、妻の心身に不調が生じる状態。2011年に医師の石蔵文信(いしくらふみのぶ)が考案した造語で、正式な医学用語ではない。高圧的で無神経な言動が習慣化している夫は「夫源病」を招きやすく、我慢強く不満を表に出さない妻ほど「夫源病」にかかりやすいとされる。…と解説されていました。つまり、長く我慢した結果、このような病気になるのだということです。つまり、長く辛抱すると病気になるということでしょうか?でも、「夫の存在や何気ない行動が原因で妻が体調を崩す」というのですから、Ⅰコリント13章から愛について学び、それを実行すべきだということになります。大体、この世では愛について学ぼうというクラスも機会もありません。そういう意味で、離婚率が増えている現代こそ、聖書から愛について学ぶ必要があります。

 私は良く家内と衝突するときがあります。それは、ある話題になり、「私はこうだ」と意見を言います。すると家内は、「こういう見方もあるわよ」とか言いだします。すると私はむかっと来て、「俺がこうだと言うんだか、そうなんだよ」と言うときがあります。すると、「あなたはいつも自分が正しいと思っているかもしれないけど、そうじゃない時が多いのよ」みたいな答えが帰ってきます。すると私はさらにむかっと来ますが、「まあ、いいか」となります。私は牧師なので、講壇から「こうだ!」と言える機会がありますので、ストレス解消になります。なぜなら、この時間はだれも、「違います」と反論しないからです。でも、家庭の中ではそういうわけにはいきません。家内も子どもたちも、「そうじゃない」と自由に発言します。昔、娘が高校生のとき「家でも牧師やらないで!」と言われたことがあります。私としては、決めつけて言っているとは思っていません。自分は正しいと自信をもって言っているつもりです。でも、その決めつけが、愛ではないということなのかもしれません。つまり、「愛は辛抱強い」というのは立場が上の人が身に着けるべき愛なんだと思います。夫婦だったら夫が、会社だったら上司が、スポーツだったら監督が、年上の人がそうであるべきだということです。なぜなら、自分にある程度の経験や知識や権威があると思っているから強く出るのです。そのため、立場的に下の人が「愛は辛抱強い」となるので、ストレスがたまり病気になるのです。

 私は大川牧師が結婚式でこのところからメッセージをするのを何度も聞いたことがあります。大川牧師はLove is understandと言っておられました。Understandはよく見ると、underとstandがくっついた言葉です。直訳すると「下に立つ」となります。日本語では「愛は理解する」ですが、「愛は下に立つ」という意味にもなります。ということは、さきほどあげた立場上、上の人が、相手より一段降りて、下に立つということです。言いかえると、すこし降りて、相手の立場になって考えるということです。すると、今まで見えていなかったことが見えてくるということでしょうか?そのとき、大川牧師はよくルカ15章のいなくなった羊のことを取り上げておられました。ルカ15:4「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」とあります。欽定訳はgo after the one which is lost until he finds it?となっています。go afterは、「追いかける」ですが、「一歩、一歩、羊の跡をたどっていくという」イメージがあります。「この藪でひっかけたのではないだろうか?」ここに羊の毛がひっかかっているから。「ここで転んだのではないだろうか?」「この崖から落ちてしまったのではないだろうか?」と、羊飼いは跡をたどって行きます。最初は「なんてドジな羊なんだろう?面倒かけやがって」と思っていましたが、だんだん「可哀そうに」という思いに変わりました。これがunderstandです。私たちは「なんで、この人はこのような態度を取るのだろう?」「なんて、この人は恩知らずなんだろう?」と思う時があるかもしれません。でも、その人がこれまでたどってきた人生を少しでも知るなら、「ああ、さもありなん。この人は被害者だったんだなー」というふうになります。怒りやさばく気持ちが消えて、思いやりに変わります。いじめられて育った犬や猫は、「うー」とか言って、なかなかなつきません。「ああ、この人はこういう境遇で育ったから、こういう態度を取るんだ」と、understandするなら、怒りがおさまり、同情心が湧いてきます。これが愛の1つの形ではないかと思います。

Ⅰコリント13章を書いたパウロが、最初から愛の人だったとは思えません。パウロがまだサウロのとき、バルナバと一緒に異邦人伝道に向かいました。そのとき、バルナバの甥のマルコが一緒についてきました。最初、バルナバの故郷であるキプロスに伝道に行きました。その後、海を渡り小アジアに行こうと思いました。ところが、マルコは一行から離れ、エルサレムに帰りました。ホーム・シックにかかったのか、あるいは異邦人伝道が気に入らなかったのかもしれません。第二次伝道旅行に出かけるとき、パウロは「一行から離れ、仕事に同行しなかったような者は一緒に連れて行かない方がよい」と言いました。激しい反目となり、バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを選んで小アジアとギリシャに向かいました(使徒15章後半)。パウロは気が短いと言いましょうか?「パウロの愛は辛抱強い」とは思えません。それから何年かたち、パウロのマルコに対する思いが変わってきました。パウロの最後の手紙、Ⅱテモテ4章でこのようにマルコのことを言っています。「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」(Ⅱテモテ4:11)と評価しています。マルコも前は幼かった可能性があります。福音書にイエス様が捕えられたときの記事があります。マルコ14:50-52「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。」マルコは自戒のために、マルコ福音書に自分のことを書き残したのではないかと言われています。つまり、彼は意気地なしで、途中で逃げてしまうような人たったかもしれません。あのときパウロは怒ったのは最もだと思いますが、マルコも成長したのだと思います。また、同時にパウロも成長し、愛をもって人々を見るようになったのだと思います。

 年取ってますます頑固になる人と、柔和で愛の人になるという2つのタイプがあるかもしれません。願わくば、後者の方でありますように。愛は忍耐深い、Love is understand.イエス様につながり、そのような愛をいただきながら生活していきたいと思います。生まれつき、そういう人もいますが、それだと神さまの栄光というよりは人徳となります。元来、気が短くて、自己主張の強い人が、愛の人になるなら、それはその人のものではありません。愛のない人が、主の恵みによって、愛は忍耐深い、Love is understandとなれたら、それは主の栄光としか言えません。

2.愛は親切です

 続いて「愛は親切です」とありますが、原文のギリシャ語はどうなんでしょう?もちろん「親切である」で良いのですが、他に「善良な」「慈悲深い」という意味もあります。口語訳は「愛は情け深い」と訳しています。「親切」はちょっと軽い感じがします。「小さな親切、大きなお世話」ということばもあるからです。「こっちは、良かれ」と思ってやってあげたのに、かえって迷惑だったということもあるかもしれません。そうなると、親切なことをするのに、二の足を踏んでしまうでしょう。でも、「愛は情け深い」となると、日本人の心にジーンときます。英語の聖書は、love is kind.となっています。kindの中には、「親切な、思いやりのある、情け深い、優しい」という意味があります。How kind of you.「あなたはなんて優しんでしょう?」て言われたら、うれしいですね。J.B.フィリップはものすごい面白い訳をしています。It looks for a way of being constructive.「愛は建設的な道を捜す」と訳しています。私は土木建築に5年ほど関わったことがあります。構造物というものは、基礎があり、上部は互いに組み合わされています。また、柱と柱の間にbrace筋違を入れて補強しています。親切は人を建て上げることです。反対に、裁いたり、欠点をあげつらねるのは、人を壊す道でしょう。同じ言い方でも、親切な言い方と、不親切な言い方というものがあるようです。不親切なコーチは、「もう、話にならない。やめちまえ」なんて言うでしょう。でも、親切なコーチは、「ここをこうしたら、もっと伸びるよ」と言うのではないでしょうか?ところで、2018年10月に秋田の吉田投手が、「外れ一位」で日本ハムファイターズに入団しました。つまり、他の球団が指名しなかったということです。私は「彼が栗山監督のもとに行ってよかったなー」と思いました。なぜなら、栗山監督はヒルマン監督のように、選手を良く育て上げられる建設的な指導をなさるからです。球界には、使い捨てのチームもないわけではありません。

 「愛は親切です」とありますが、その反対は何でしょう?「意地悪する」とか、「不親切」ということばが当てはまるように思います。昔はこのようにクリスチャンを揶揄することばがありました。「酒飲まず、たばこ吸わずの耶蘇教はああめんどうな宗旨なり」。クリスチャンはまじめでも、意地悪な人がいるかもしれません。反対に、酒やたばこをやっていても、親切な人もいます。どちらが良いでしょうか?イエスさまの時代のパリサイ人や律法学者はまじめであっても、意地悪で人をよくさばいていました。だから、だれも近寄りたくありませんでした。一方イエス様は聖いお方でしたが、罪人や遊女、取税人が近くに集まりました。と言うことは、イエス様は親切で、情け深いお方だったからでしょう。罪を犯さない、真面目であることは良いことですが、親切で情け深いならば、申し分ありません。ある教会に行きますと、とても聖い感じがしますが、水も凍るほど冷たいという教会があるそうです。「だれかから、さばかれている」というのは、良くありません。その点、亀有教会はどうでしょうか?「聖い感じはあまりしないけど、親切な感じはするかな?」でしょうか?ガラテヤ人への手紙5章に御霊の実について記されています。御霊の実の中に「親切、善意」があります。親切と善意は、双子の兄弟ではないかと思います。私たちはものごとを捉える時、悪意で捉えると、親切な思いは湧きません。でも、善意で捉えると、「ちょっと親切しようかな?」と思います。善意は愛の目であり、親切は愛の手かもしれません。私たちは心で思っているだけではなく、行動も必要です。私が小学生の頃、村の中学校で文化祭がありました。どこでも模擬店というのがありますが、食券を買ってうどんを頼みました。そそっかしい私は、食べようとしたとき、どんぶりをひっくりかえしてしまいました。床にうどんが散らばった時、恥ずかしくてどうしようかと思いました。すると、中学生の「まがとのとしくん」が、ぱーっと来て、床のうどんを片付け、そして新しいうどんをテーブルに置いてくれました。もし、これはお家だったら、「ああ、この!」と、罵声を浴びせられていたでしょう。私はそのとき、人から親切にされるとこんなに嬉しいものなんだと分かりました。じつは「としくん」のお兄さんは、前科者ということで、村では良く知られていました。その弟ですから、肩身の狭い思いをしていたと思うのですね。でも、そんなの関係なく、「私に親切にしてくれて有り難いなー」と思いました。

 愛は親切です。雨の日、傘をさして歩いていると、向こうからも傘を差した人がきます。すれちがうときにお互いの傘を斜めにするというのは、本当に粋な感じがします。スーパーの会計のときも、籠をレジの人に動かしてあげるのも、良いですね。彼女らの中には、腱鞘炎にかかっている人もいるからです。また、車を運転している時、スマホを見ながらゆっくり横断しているのを見るとむっときます。私が歩行者の場合は、横断歩道をさーっと渡るようにしています。亀有駅に急いで向かっている人に、車で送ってあげたくなります。でも、「危ない人?」と思われるかもしれません。人に何か差し上げると、「何か裏があるんでは」とかんぐられます。純粋な気持ちでしたのに、曲げて捉えられるとショックを受けます。「こっちが親切心でやってあげたのに。なんだよ、あの態度は…」と悲しくなります。そういう意味で、人に親切にすると言うのは、ある意味では、愛の投資であります。喜んで受けてもらえるときもありますが、むげに断られ、いやな思いをするときもあります。三浦綾子さんが、だれかに親切にしました。その人は、冷たい態度で、断ってきたそうです。そのとき、三浦綾子さんは「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ」という聖書のことばを思い出したそうです。「私は太陽の光はいりません」という人にも、太陽の光は降り注ぎます。「親切というのは、返礼を期待しない、一方的な行為なんだ」いうことです。よく、「アイドルにプレゼントしたのに、受け取ってくれなかった」と逆恨みするフアンがいます。気持ちはわかりますが、心がすさんでいるような気がします。

 愛は親切です。私は5年くらい前から、毎年、スキーにでかけることにしています。ある日、疲れたので、まだ午後1時過ぎでしたが、帰ろうと車を走らせました。すつと、駐車場ですべり止めをつけるのに苦労しているご夫婦がいました。「どうしたんですか?」と聞くと、「帰りは雪が積もりそうなので、すべり止めをつけているんです」と言いました。私は、「このダルマジャッキを貸してあげましょうか?これはとても便利ですよ」と言いました。ささっと、行って、「きゅきゅきゅ」と車体を上げてあげました。タイヤが浮いて、すぐ取り付けられました。話を聞くと「3時間半もうまくいかなくてここで格闘していた」というのです。「え?私がすべっている間、ずっと駐車場にいたの?」と思いました。二人に私のリフト券とリフトの割引券をあげてからその場を去りました。なんだか、すがすがしい気持ちになりました。その時、親切というのは、相手から頼まれる前に、「どうしましたか?」と聞く必要があるのだと思いました。最近は「だいじょうぶ」と言いますけど、良いのか、いらないのか、分からない返事の仕方ですね。ルカ10章には、「良きサマリヤ人のたとえ」が記されています。一人の旅人がエリコで強盗に襲われて、着物をはぎ取られ半死の状態でした。祭司は彼を見ましたが、反対側を通り過ぎました。あとから、レビ人も、その場所に来て、彼を見ましたが、反対側を通り過ぎて行きました。当時のエリコは峠でしたが、とても狭い道だったそうです。もしかしたら、二人は旅人をまたいで通り過ぎたのではないでしょうか?でも、サマリヤ人は彼の手当をし、ロバに載せて、旅館に連れて行きました。翌朝、宿屋の主人に、デナリ銀貨2つを渡し、「介抱してあげてください。費用がかかったら、私が帰りに払います」と言いました。ここには「そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」と書かれています。これこそが、「愛は親切、愛は情け深い」ということです。彼は動けず、何もできなかったわけですから、本当に助かったと思います。

 イエス様はマタイ25章で「これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」と言われました。主がいつか報いてくださるということです。最後に詩篇41を引用したいと思います。詩篇41:1-3「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」この世においては、良いと思ってしたことも、受け入れられなかったり、粗末に扱われたりすることもあるかもしれません。もちろん、心から感謝されるときもあるでしょう。でも、相手の反応がどうであれ、「主がしなさい」と心に語ってくれたなら、勇気を出して行動に移したいと思います。弟子たちが伝道旅行に行ったとき、家に入るとき「平安があるように、あいさつしなさい」と言われました。でも、その祝福を受け入れてくれない場合もあります。イエス様はその平安はあなたがたに返ってくるとも言われました。これは親切な行いも同じではないかと思います。伝道者の書11章にも「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう」と書かれています。無駄だと思うようなことでも、主の前では覚えられているということです。人からの報いを期待せず、主の御目の前で生活したいと思います。今日は、愛について2つ学びました。愛は辛抱強いこと、そして、愛は親切です。この愛は、父なる神さまが私たちに与えておられる愛です。神さまが私たちに愛を与えてくれるので、そうしないではおられないのです。