◆聖書箇所: ゼカリヤ書4章1-7節 (聖書引用:新改訳2017)
4:1
私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。
4:2
彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
4:3
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」
4:4
私は、私と話していた御使いに言った。「主よ、これらは何ですか。」
4:5
私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
4:6
彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。
4:7
大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」
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今年も主の守りの中で、クリスマスの行事を無事終えられたことを感謝します。
CSのキッズクリスマスパーティーも、亀有ゴスペルクワイアのコンサートも、クリスマス礼拝も地域のみなさんをはじめ、たくさんの方々が教会に集まってくださいました。
また、外部に出かけての慰問やコンサートなどもあり、福音の種は各地で蒔かれました。
その蒔かれた種が芽を出し、主によって成長し、実を結ぶことができますように心から祈ります。
さて、今年最後の聖日礼拝となりました。
みなさんの2019年はどのような年だったでしょうか。
この礼拝の時、みなさんそれぞれに起こった、様々な出来事を振り返りつつ、主のご計画の素晴らしさを味わい知る時となれば幸いです。
昨年から12の小預言書を順番に語らせていただいています。
「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」「ハバクク書」「ゼパニヤ書」「ハガイ書」と続きました。今日は11番目であり最後から2番目の預言書、「ゼカリヤ書」の一書説教です。
ゼカリヤ書は14章までありますので、小預言書の中ではホセア書と同じくらいボリュームのある預言書です。
内容は大きく2つに分けられています。
1-8章は神殿再建までの預言で、9-14章は神殿再建後の預言です。
預言者ゼカリヤは、前の預言書「ハガイ書」に登場する預言者ハガイとともに、旧約聖書では「エズラ記」「ネヘミヤ記」の時代に活躍した預言者として知られています。
前の「ハガイ書」は、「エルサレム神殿再建のために民たちを励ます」という内容でした。
ハガイは実際に第二神殿を建てた史実とともに、さらに終末の完全なる神殿について預言していました。
「ゼカリヤ書」も同じように、第二神殿の再建の預言を語っていますが、ゼカリヤは、預言者でもあり祭司でもあったので、神の主権を明らかにし、イスラエルの民たちの霊的な回復、刷新へと導く預言を語っています。
そしてハガイよりも多くの終末預言を語っています。
新約聖書は、ゼカリヤ書から70箇所以上も聖句を引用していますが、その半分が実は黙示録です。
残りは福音書のイエス様の最後の一週間だということからも、ゼカリヤ書が終末預言を多く語っているということがよく解ります。
ゼカリヤ4章6節の、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』 という、よく知られている聖句をご存じでしょうか。
この御言葉は、ゼカリヤの時代の民への戒めとともに、現代の私たちへの戒めも含んで解釈されることが多いのですが、実はこの聖句は終末預言、神のご計画の実現を語っているということが解ります。
また、神と人とが交わる場所、闇の中の光といった霊的な場所へと導いている聖句でもあります。
とは言え、預言そのものは時空を超えているものですし、ゼカリヤは霊的な部分だけではなくて、現実的なことも語っています。
彼は、人間と国家に対する、過去、現在、未来へと、一貫して通じている神の主権について教えていますので、現在の私たちへの戒め、慰め、励ましも含んでいるとも言えます。
そして、「ゼカリヤ」という名前の持つ意味は、「主は覚えてくださる」というものです。
ゼカリヤ・・・「主は覚えてくださる」・・・人は嘘をつき、約束を破り、裏切るという罪の性質をもっていますが、主はご自身の約束に忠実な御方であり、それを実現するために私たちを導いてくださるお方です。
それはどのようにして、でしょうか?
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』です。
本日は、この御言葉を中心にゼカリヤ書をみていきましょう。
◆ゼカリヤの終末預言
①権力によらず・・・ミルトスの木のように
ゼカリヤが見た第1の幻は、1章7-17節のミルトスの木の間に立っている人です。
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1:11
すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」
1:12
それに答えて主の使いは言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」
1:13
すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。
1:14
私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
1:15
しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』
1:16
それゆえ、主はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の主のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』
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「ミルトス」という名前の出版社があるので、みなさんも「ミルトス」というワードを聞いたことがあるかもしれませんが、このミルトスの木は旧約聖書では、実は6回しか使用されていません。(ネヘミヤ8:15、イザヤ41:19、55:13、ゼカリヤ1:8、10、 11)そのうちの3回はゼカリヤ書です。
このミルトスの木は、地中海沿岸によく見られる常緑の低木です。「銀梅花(ギンバイカ)」とも呼ばれます。
葉や果実が芳香を放ち、香水などの原料に使われます。果実には鎮痛効果があるようです。花が結婚式などの祝い事の飾りに使われるため、「祝いの木」と呼ばれています。
また、ユダヤ教の3大祭りである「仮庵の祭り」(モーセの律法で、イスラエル人は第七の月の祭りの間仮庵の中に住まなければならないという教え)では、現在でもミルトスの枝を使って仮庵を作っているそうです。
そして、ユダヤ人の間ではミルトスは人名として使われ、エステル書のエステルの別名「ハダサ」(エステル2:7)は、ヘブライ語で「ミルトス」という意味があります。
このミルトス、有名なレバノン杉のような高木に比べて低木のため、見栄えもなく建築材としては使えません。
このことから、謙遜さ、慎ましさの象徴ともされています。
ミルトスの木の間に立っている人は、ゼカリヤに語ります。
周囲の諸国が権力によりイスラエルの民を抑圧しているが、主はよい言葉、慰めの言葉で答えられました。
主はエルサレムとシオンをねたむほど激しく愛し、ご自身の民、町、神殿を回復させると語られました。
ハガイ書で語りましたが、イスラエルの民たちは、ペルシャのクロス王の勅令によって帰還し、B.C.536年には神殿の基礎(礎)が完成しました。
しかしその後、神殿の再建はB.C.520年まで16年ほどストップしてしまいました。
近隣諸国の権力に恐れおののき、貧しい状況に置かれ、霊的な力も失ってしまったからです。
そのような状況でも、主は決して権力で立ち向かって武器を持って戦えとは言われませんでした。
それよりも、ストップしていた神殿再建を行うように言われました。
神殿は、神と人とが交わる場所、闇の中の光といった霊的な場所だからです。
この時の民たちには、神殿を再建して、霊的な回復、刷新をされることが、もっとも大切だったのです。
新約の時代に生きる私たちには、目に見える神殿はありません。
しかし今はイエス様ご自身が神殿となってくださいました。
私たちは日々イエス様と交わる場所をもつことが、何よりも大切です。
私たちが主のご計画の実現にできることは、『権力によらず』、ミルトスの木のように生きることです。
ミルトスの木のように、謙遜さ、慎ましさを持ちながらも、その葉や果実の芳香のように、かぐわしいキリストの香りを放つことです。
またミルトスの果実のように、世の人々の痛みに寄り添う鎮痛剤となることです。
◆ゼカリヤの終末預言
②能力によらず・・・ゼカリヤのように
4章を見てみると、ゼカリヤは、主から見せられた幻について、4節「主よ。これらは何ですか。」11節「この二本のオリーブの木は何ですか。」12節「このオリーブの二本の枝は何ですか。」と主(あるいは御使い)に質問します。御使いは、「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」と問い返します。
ゼカリヤは「主よ、知りません。」と答えます。
この問答形式の教え方は、イエス様も取り入れられた教え方です。
ソクラテスやプラトンなどの哲学者の教え方も、また仏教などの教え方にも、このような問答形式はあります。
「主よ。私は知りません。教えてください。」と問う謙虚さ、また向学心こそ、神の国を知る教育法です。
ゼカリヤは祭司であったので、霊的な部分以外にも様々な能力を持ち合わせていた人物だと思われます。
それでもゼカリヤは主に教えを請いました。
この世の中には、自分の能力で努力して成功している人がたくさんいます。
しかし一見成功しているように見えても、主の目からみて好ましいかどうかはわかりません。
今クールのテレビドラマで、「私、失敗しないので!」という決め台詞で見事手術を成功させる天才女医の話と、「私、失敗しちゃった」という失敗から学ぶ「失敗学」を研究している、天才女性工学者の話が、別々のテレビ局で対照的に放送されていました。
どちらの主人公にも共通しているのは、天才であり、目的を達するための向学心が強く、並々ならぬ研究やスキルを積み重ねているということです。
またふたりとも、目標が自分自身や家族といった身近なことだけではなく、人類全体の幸せという大きな視点で貢献しようとしている、ということです。
それ自体は素晴らしくてカッコイイ生き方です。
しかしゼカリヤと全く違うのは、主に主権がなく、自分の能力と経験によって生きているということです。
先日のゴスペルクワイアのコンサートで”I Surrnder All”という歌を歌いました。
「聖歌541番 みなささげまつり」で知られている曲です。
日本語の歌詞だと、「われ捧ぐ~みな捧ぐ~」と歌うので、自分のすべてを捧げる献身の歌のように思えますが、英語の”I Surrnder All”の”Surrnder”は、降参する、降伏するという意味です。
「万能の主に、私は降参します。私の握っているすべてのものを明け渡します。」という意味です。
握っているものとは、権力や能力も含みます。
コンサートでもこのように曲の説明をしましたが、お客さんで未信者の方の中には、”Surrnder”の本当の意味が解らないと言っていた人がいたようです。
自分の力で努力して頑張っている人ほど、主に委ねることが難しいということです。
どんなに優秀な人物でも、どんなに完ぺきな仕事を行ったとしても、この天地を創造され、万物を造られた主にかなうわけはありません。
主を信頼する者がまずやるべきことは、無から有を造られ、人を形造られた主に降参することです。
主の声を聞き、主の教えを請うということです。
神の完全なるご計画のうちを歩むには、ゼカリヤのように謙虚な心をもち、『能力によらず』、主の導きに従うことが大切です。
◆ゼカリヤの終末預言
③わたしの霊によって・・・燭台(メノーラー)の油のように
メノーラー(מְּנוֹרָה)とは、モーセの時代から幕屋の中に置かれている燭台です。
ソロモンの神殿にもありました。
<ゼカリヤ4章2-3節>
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4:2
彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
4:3
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」
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4章のこの部分、「金でできている一つの燭台」がメノーラーです。
「そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」
をイメージすると、このような感じかもしれません。
イスラエル国の国章(紋章)にも描かれていますので、イスラエル民族にとってどれだけここの記述が大切かということが解ります。ちなみに国旗は、ダビデの星です。
なぜメノーラーがそれほど重要なのか、モーセの幕屋とソロモンの神殿の構造をみながら説明します。
<モーセの幕屋、ソロモンの神殿>
◆外庭には、①祭壇、②洗盤
◆聖所には、 ③香壇、④パンの机、⑤金の燭台(メノーラー)、⑥たれ幕
◆至聖所には、⑦契約の箱
がありました。
実は聖所、至聖所の中のものは祭司以外は誰も見ることが出来なかったそうなので、よく出回っているこれらの画像とは違った形なのかもしれませんが、参考までに掲載します。
幕屋、神殿には、このような聖なる道具が置かれていましたが、ゼカリヤの時代には問題がありました。
前回のハガイ書の時にもお話ししましたが、捕囚から帰還して、第二神殿を再建するときには、聖所、至聖所の道具はかなり失われていました。
至聖所の①契約の箱をはじめ、祭司が胸当てに入れて使った②ウリムとトンミム、神の臨在を表す③シェキナー、④聖なる火、⑤預言の霊。
この④聖なる火がメノーラーのことだと思われます。メノーラーは金の塊から造られた燭台です。
台座があって、七つの枝があり、それぞれの枝の上に「ともしび皿」があるという形です。
「ともしび皿」には、純粋なオリーブ油が注がれ、そこに芯が置かれ、点火されます。
聖所には、自然の光は入ってきません。メノーラーの光だけが、そこにあるものを照らします。
聖所は本来神と人とが交わるためのものです。そこには神の光のみがあります。
この燭台、メノーラー自体は、キリスト(メシヤ)を表しています。
また、その中にある純粋なオリーブ油は聖霊を表しています。
主はこの大切なメノーラを祭司ゼカリヤに『わたしの霊によって』と語られて、再び油を注いでくださいました。ゼカリヤの役割は、神の主権を明らかにし、イスラエルの民たちを霊的な回復、刷新へと導くことです。
『わたしの霊によって』、主の霊、聖霊によってメノーラーは再び光輝きます。
その光によって照らされる机、香壇、たれ幕は、その光を受けて、今度は逆にメノーラーを照らします。
これは、私たちがイエス様の光輝く栄光を受けて力を得て、賛美と証をもって福音を宣べ伝えるとき、イエス様にその一切の栄光をお返しするという姿を表しています。
私たちは、神の光がなくては、主の働き人になることが出来ません。
祭司たちは、キリストを啓示している燭台、メノーラーの火が消えないように常に奉仕をしました。
今は、神殿はなく、イエス様ご自身が聖なる宮となられたので、目に見えるメノーラーはありませんが、主の霊によって、私たちはメノーラーのともし火を燃やすことができます。
マタイの福音書25章の「花婿を出迎える賢い娘たち」は、いつ花婿が来てもいいように、油を絶やさないようにしていました。そしていつの時も目をさまして、その日その時が来た時の備えをしていました。
私たちも、祭司やこの賢い娘たちのように、『わたしの霊によって』いつも聖霊の油注ぎを受けて、主の栄光を照らし出す者となりましょう。
ゼカリヤ9章から14章の終わりまでは、神様の完全なるご計画が実現する預言が語られています。
<ゼカリヤ14:3-4>
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14:3
主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
14:4
その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
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ハルマゲドンの戦いが始まり、イエス様が再臨されエルサレムのオリーブ山に降り立つ姿、そして千年王国の新しい世界が始まることが預言されています。
エルサレムは常に主の光に照らされ、昼も夜もありません。
神殿から流れ出るいのちの水はすべてのものを生かします。
2019年もあと2日で終わります。2020年の神様のご計画はどのようなものでしょうか。
来るべきイエス様の再臨の日まで、私たちひとりひとりにも用意されたご計画があります。
<詩篇37:5-6>
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37:5
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6
主はあなたの義を光のようにあなたの正しさを真昼のように輝かされる。
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あなたの道を主にゆだね、信頼しましょう。主が成し遂げてくださいます。
『権力によらず』ミルトスの木のように、『能力によらず』ゼカリヤのように、『わたしの霊によって』メノーラのように聖霊の油注ぎを受けて、その日、その時が来た時の備えを怠らないようにしましょう。