「2019.10.20 敵対者 詩篇3:1-8」

 あなたの周りに敵がいるでしょうか?敵にもいろんな種類があります。英語のEnemyは自分に害をなす者という意味です。スポーツでは競争相手を「敵」と呼ぶこともあります。政治においても、与党と野党のような「政敵」というのが存在します。私たちの周りに、命を狙うような敵はいないかもしれませんが、自分の立場や存在を脅かす敵対者はいるものです。若い女性の場合は、夜道を一人で歩いていると襲われる危険があります。お年寄りには、「オレオレ詐欺」から電話がかかってきます。学校では執拗にいじめてくる悪友がいます。「神の敵であるサタンが人やこの世のものを用いて、私たちを滅ぼそうとしている」と考えるのは聖書的です。

1.敵の存在

 私たちは敵が存在するということを最初に理解する必要があります。キリスト教は愛を強調することはだれでも知っています。「クリスチャンは、人を敵みたいに扱ってはいけない」と言うかもしれません。しかし、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とおっしゃいました。これは、敵は存在するという前提で語られています。イエス様にとっては、パリサイ人、律法学者、祭司長たちが敵でありました。イエス様の教えになんくせをつけ、最後には捕えて十字架に渡しました。神の敵であるサタンは、自然界や人々を通して、イエス様を滅ぼそうとしました。幼いときはヘロデ王を用いて命を狙いました。公生涯のときは、群衆がイエス様を崖から突き落とそうとしたこともあります。使徒パウロは最も用いられたイエス様の弟子ですが、もっとも多くの苦しみを受けた人物でもあります。せっかく教会を設立しても、ユダヤ人があとから来て邪魔をしました。エルサレムで捕えられ、囚人としてローマに渡りました。ローマの千人隊長も信用できませんでした。何度も議会の前に立たされ、不当な裁判を受けました。パウロは「肉体のとげを取り去ってください」と3度も祈りました。「とげ」とは、パウロに敵対するユダヤ人であるという説もあります。私たちがこの世において、信仰をもって生きるならば、必ず迫害が起こり、敵対する人が起るということを知らなければなりません。なぜなら、この世の君は、神の敵サタンであり、神に属する者を陥れようと隙を伺っているからです。サタンが直接、手を下すことはまれで、不信者や肉的な人を用いるということです。その人がサタンだと言うわけではなく、サタンによって用いられているというのが真実です。

 ジョエル・オスティーンは私たちの周りには4種類の人がいると言っています。第一は自分を無条件に愛して応援してくれる人です。多少の欠点があっても、自分を愛して支持してくれます。だから、全く気を使う必要はありません。第二は自分に好意を持っているけれど、こちらが気を使う必要のある人です。もし、失礼なことを言ったり、悪いことをしたら離れて行きます。第三は自分に対して否定的です。こちらは気をそこねないように緊張します。冷たい感じがして仲間とは言えません。第四は自分にあからさまに敵対する人です。こちらがいくら褒めて、持ち上げても全く効果がありません。陰で私の悪口を言い、評判を下げてくれます。何を言ってもやっても反対してきます。ジョエル・オスティーンはこういう人に「あなたは私を誤解しています」と追いかけてはいけませんと言っています。彼がかつて親切にしてあげたご夫婦がいたそうです。彼らが遠くに引っ越した先でも、良いと思うことは何でもしてあげました。ところが、自分のことを悪く言いふらしていると、他の人を通して聞きました。その時に、「ああ、いくら愛して良いことをしても、去って行く人はいるものだ」ということを悟ったそうです。第四番目の人はいわゆる「敵対者」というランクに入れても良いのではないかと思います。でも、「人は見かけによらないもの」ということわざもありますので、うわべや先入観ですぐ「敵」にしないでください。クリスチャンは、だれに対しても最初はオープンで、信頼する態度が必要だと思います。そのうち、「ああ、この人は良いことをしても、悪く返してくるんだなー」と分かってきます。そして、ランクを徐々に下げて行けばよいのです。あなたの大切な宝物を守るために、バウンダリー(境界線)が必要です。イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7:6)と言われたからです。

 私はセルチャーチ・ムーブメントに20年以上も関わって来て、人間関係が大切だということを教えられました。だから、「どんな人にも良いところがある」と良い所を見つけ出して、なんとか人間関係を構築しようと努めてきました。しかし、ジョエル・オスティーンの4つのランクを知ってから、あまり悩まなくなりました。人間関係を構築しようとすると、フラストレーションがたまります。大和カルバリーの大川牧師は「気配りの牧師」と呼ばれており、それで教会員の数も多いのではないかと思います。先生は2,000名以上の方々をフルネーム、それも漢字で覚えておられます。でも、私は大川牧師とは賜物が違うと分かりました。そして、2017年1月でセルチャーチの働きから離れました。「ジョエル・オスティーンの4つのランクの考え」で行けば良いと思ったからです。もちろん、機械的にしてはいけませんが、「だれにでも好かれようとしなくても良い」と思ってから楽になりました。ジョエル・オスティーンの本には「敵対する人がいる」と書かれています。それは、先生自身がいろいろ批判されているからです。お父さんの後を継いで、牧師に就任したときもそうでした。「神学校も出ていないのに無理だ」とあからさまに批判され、教会を去る人が続出しました。現在の礼拝堂、コンパック・センターを購入のときもものすごく反対されました。また、彼はテレビ放送をしていますが、「功利主義で、本当の福音を語っていない」と批判されています。そういう意味で、先生には敵対する人が山ほどいます。ある人たちは「キリスト教の牧師のくせに敵呼ばわりしてはいけない」と言うかもしれません。でも、聖書には敵対する人が存在することが数多く書かれています。次のポイントでは、ダビデのまわりに敵対する人がたくさんいたことを取り上げます。でも、最初に知っておきたいことは、この世においては、あなたに敵対する人はいるということを知っていただきたいと思います。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)アーメン。

2.ダビデの敵

 詩篇3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。セラ その時の背景が冒頭にしるされています。「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」と書かれています。ダビデはサウロ王からいのち狙われ、10年以上も荒野や洞窟をさまよいました。その後やっとユダとイスラエルの王様になることができました。ところが、それで安泰かというとそうでもありませんでした。ダビデがバテシバと姦淫の罪を犯してから、ダビデの家系に剣が入り込みました。ダビデの子アブシャロムに、タマルという名の妹がいました。異母兄弟のアムノンがタマルを好きになり、策略をもうけて彼女に乱暴しました。父ダビデは彼がしたことを咎めませんでした。そのため、アブシャロムがアムノンを殺しました。ダビデは非常に悲しみましたが、アブシャロムを遠ざけただけで、何もしませんでした。二年後、アブシャロムがヨアブのとりなしで、戻ってきました。アブシャロムは門に立って、ダビデの代わりにさばきをしました。アブシャロムは訴えに来た人たちに良くして、イスラエル人の心を盗みました(Ⅱサムエル15:6)。それから4年たって、時は熟しました。アブシャロムは200人の人々を連れてエルサレムに向かいました。この謀反は根強く、アブシャロムにくみする民が多くなりました。ダビデはその知らせを聞くと、家来を連れて町の外に逃げました。Ⅱサムエル15:30「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。」もとはと言えば、ダビデが犯した罪が原因であります。ダビデは立派な王でしたが、家庭を正しく治めることができませんでした。なぜなら、自分の罪を棚にあげて、息子たちをさばくことができなかったのです。

 詩篇3篇にはこのような背景がありました。詩篇3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。シムイという人物が、山の中腹をダビデと並行して歩きながら、のろったり石を投げたり、ちりをかけたしました。Ⅱサムエル16:7シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」泣きっ面に蜂とはこのことです。ダビデは彼を剣で殺させることもできました。でも、ダビデはこう言いました。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」(Ⅱサムエル16:11-12)。ダビデは甘んじて、敵のそしりを受けました。主がそのことをご覧になり、呪いにかえて自分に幸せを報いてくださるだろうと考えたからです。

 世の中には、弱い者いじめをする人がいます。調子の良い時はおべっかを言い、形成が逆転すると、悪く言う人がいるものです。人間には怨念晴らしという性質があります。韓国の大統領に対してもそうですが、「自分たちが選んだ人をあんなにも悪く言って良いのだろうか?」と驚きます。何か不正が起ると、テレビ番組ではコーナーを作って、批判的なことを言います。権力者や有名人をこきおろします。人間は「恨みに思っている人が、罰を受ければ良いのだ」と思っています。だから、そういうニュースに興味を持つのでしょう。私が敬愛する大川牧師はあることないことを訴えられて、最高裁まで争い、10年間苦しみました。私はすでに亀有に赴任していましたので、最初の頃しか分かりません。私の知る限り、大川牧師は言い訳をしませんでした。賜物があって有力な人たちは先生を非難して反対側に立ちました。しかし、教会の古い役員さんたちはずっと先生を支えていました。私はそのとき、はっきりと分かりました。教会では、信仰よりも、賜物や能力のある人や社会的立場のある人たちを起用したがります。そして、そういう人が役員に選ばれます。しかし、最も重要なことは、牧師との「霊的な一致があるかどうか?」です。「信仰の一致が重要だ」と言う意見もありますが、「自分が信じていることが正しい」とだれもが思っているので、一致は生まれません。今から数年前、CSキャンプに招かれたとき、そのときの長老さんとゆっくり話す機会がありました。「長老さんたちが先生の見方になって支えてきたんだなー」と分かりました。「教会にそんなことがあって良いのか」と躓いて教会を去る人がいます。サタンの策略は、そのようにして信仰的に弱い人を散らすことです。最も重要なのは、神さまが油を注いで立てている人を簡単に非難しないということです。ダビデは自分のいのちを狙うサウロを二度も殺すことができました。しかし、「主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」(Ⅰサムエル26:9)と言いました。

 もし、あなたがダビデと同じ立場だったらどうするでしょう?ダビデは最も優れた戦士であり、司令官でもありました。敵対する者たちを直ちに殺すこともできました。ところが、今回の敵は自分の息子、アブシャロムでした。さらに、ダビデは自分が蒔いたものを刈り取っているということを自覚していました。だから、敵たちのあざけりを甘んじて受けたのです。ダビデは「主がそう命じられたのだ。主がのろいにかえて、私にしあわせを報いでくださる」と信じていました。ダビデは、すべてのことは主の御手の中あると信じていたので、ゆっくり眠ることができました。詩篇3:4 「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。(セラ)私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」「どんなことが起きても、主の御手の中にあり、主が私をささえてくださる」これが一番です。なぜなら、敵に囲まれているときは、神経が最初にやられるからです。サタンは神経戦にもちこんで私たちを倒そうとします。ですから、「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」主のもとで安らぎ、心を守るということが重要です。

3.ダビデに対する守り

 詩篇3:3「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」詩篇3:6-8「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ セラと何度か出てきますが、音楽的な休止を意味したのではないかと言われています。「しばし静まって考よ」ということです。詩篇には主が自分を守ってくれるお方であることが比喩的に記されています。ここでは「私の回りを囲む盾」と書かれています。詩篇31:3「あなたこそ、私の巌、私のとりでです。」詩篇46:1「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」。詩篇62:6「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」あげてみますと、盾、巌、とりで、避け所、岩、やぐら…みな戦いと関係があります。岩は暑い日差しに対して、影にもなります。ダビデは17歳まで羊飼いとしてのんびり暮らしていました。その後、戦士に抜擢され勝利を重ねました。ところが、サウル王から妬みをかい、命を狙われました。30歳でイスラエルの王になったので、13年間は逃亡の生活と言って良いかもしれません。ダビデにとって、主こそ、巌、とりで、避け所であったのです。今回はアブシャロムと彼にくみした人たちによる反逆です。これまで主からダビデは支えられてきました。だから、ダビデは「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」と言うことができたのです。

私はこのようにダビデが敵によって命を狙われ、主の助けを求めているという経験をしたのは、私たちのためではないかと思います。そうでなければ、ダビデがこれだけ苦しんだ意味がなくなります。ですから、私たちがダビデと同じような立場に立ったとき、「主はわが盾、わが巌、わがとりで、わが避け所、わが岩、わがやぐらです」と告白すべきなのです。もし、私たちが中東で暮らしていたなら、いつテロリストの襲撃に会うか分かりません。シリアなどでは住むべき場所がありません。旧約聖書の時代、シリアはアラムの国で、首都ダマスコは栄えた町でした。ところが今は戦争のために廃墟のようになっています。もし、中国で暮らしていたならどうでしょう?表向きの信教の自由はありますが、本当の信仰を持つことができません。たえず監視されており、政府の批判など1つでもするなら公安に捕えられるでしょう。アメリカ合衆国はどうでしょう?日本のように、夜は、女性がコンビニなんか買い物に行けません。銃社会なので、いつ撃たれるか分かりません。日本は海外と比べて比較的平和ですが、毎日のように殺人事件が起こっています。私が子どもの頃は数か月に1件だったのが、毎日、何件も起っているので、記憶からすぐ消え去ります。もちろんクリスチャンは平和を求めます。でも、この世には悪を行う敵はいるのです。だから、主の祈りで「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

 私たちの周りには命の危険がなくても、どうしても馬が合わないというか、敵対する人がいるものです。何度も言いますが、イエス様にとってそれは、パリサイ人や律法学者、祭司長たちでした。使徒パウロにも敵対する人がいて、パウロは「犬には気をつけなさい」と言っています。黙示録22:15「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」と書いてあります。みんながみんな天国に入れるわけではありません。自分の周りは、敵対する人はいるということを腹に据える必要があります。そして、ダビデのように主の助けを求めましょう。そして、「主はわが盾、わが巌、わがとりで、わが避け所、わが岩、わがやぐらです」と告白しましょう。ダビデのように、主の御手の中で安らぐのです。しかし、新約聖書を見ると、もっと積極的なことが命じられています。ローマ12:19 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」これは、パウロのことばですが、イエス様が言われた「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と共通するところがあります。なんという崇高な、実行不可能な命令でしょうか?これは、神さまの愛がないと決してできないことです。でも、私たちの内には神の愛が注がれ、愛なるイエス様が住んでおられます。

 今日のメッセージの適用です。ローマ12章で「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」と言われています。あなたの敵とはだれでしょう?あなたにひどいことをした人たちのことではないでしょうか?あなたが決して会いたくない人はいるでしょうか?あなたが恨みや憎しみを持ってはいないでしょうか?そのような苦々しい思いは、私たちを内側から汚してしまう毒物です。あなたは憎しみという汚染物質を心の底に隠してはいないでしょうか?神さまは私たちの味方です。神さまが私たちの代わりに復讐してくださいます。ですから、あなたの怒りや憎しみを主にゆだねましょう。確かに敵は赦しがたい存在です。でも、その前に、あなたの中に恨みや憎しみが存在して、それがあなたを汚しています。確かに敵は存在してします。何故、神さまがそのような存在を赦しているのか分かりません。私たちはただ主に頼るばかりです。私もこれまでそう多くはいませんが、「あの人は私の敵である」と恨んできた人たちがいます。でも、ローマ12章のことばによって、自分で復讐しないで神さまの怒りに任せました。するとどうでしょう?恐ろしいことですが、ちゃんと神さまはさばいてくださいました。私はそのとき、神さまを恐れました。ヘブル10:31「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」と書いてあります。神さまはダビデの敵であるサウロにも、アブシャロムにも報いて下さいました。どうぞ、私たちに敵対する人たちを主にゆだねましょう。いかなることがあっても、主の懐で安息を得ましょう。主はわが盾、わが巌、わがとりで、わが避け所、わが岩、わがやぐらです。アーメン。