2019.9.8「ベテルの教会」 創世記28:10-19

 ヤコブは父と兄をだまして、長子の権利を得ました。もう、家にいられないので、母リベカの勧めで、おじのラバンのところに出かけました。しかし、その途中で日が暮れて、ヤコブは野宿することになりました。何もない寂しい荒野で、石をまくらにして横になりました。すると、ヤコブは夢を見ました。なんと、天からはしごが降りて来て、神の御使いたちが上り下りしているではありませんか。主は「私はあなたと共にいる。あなたの子孫にこの地を与える」と約束されました。ヤコブは目がさめて「主がこの所におられるのに、私は知らなかった。ここは神の家である。ここは天の門だ」と言いました。このところに出てくる「神の家」「はしご」「天の門」の3つのことばは、キリストの教会を象徴しています。これから、1つずつを学びたいと思います。

1.神の家

 最初に考えたいのは「神の家」とは何かということです。2箇所お読みしたいと思います。創世記28:17 「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」、創世記28:19「そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。」17節に「神の家」と書かれています。家はヘブル語でバイートであり「家、場所、家族、容器」という意味です。19節でヤコブは「ベテル」と呼びました。ベテルは、「バイート」という「家」と「エル」という「神」が合わさってできたことばです。本来、その場所はルズでしたが、ヤコブが「ベテル(神の家)」と名付けたということです。しかし、神の家と言っても、一本の柱も軒下もありませんでした。そこには、主なる神とヤコブだけがいました。ヤコブは眠りからさめて「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言いました(16節)。ということは、「神の家」とは「神さまがおられる場所」という意味になります。キリスト教会では神さまがおられる場所を「神の臨在がある」と言います。これまでの話をまとめると、「神の家」とは、神がおられるところ、「神の臨在」ということになります。ビル・ジョンソンは本の中でこう述べています。「おそらく彼はその夢の意味が何のことかわからずに困惑したでしょうし、私たちの知る限り、その預言的な夢の答えは見つかりませんでした。おそらく彼は一生そのことに戸惑いを覚えたに違いありません。その答えは何百年もたってから、人となられたイエス様を通して現れました。イエス様がその預言を初めて成就されました。」アーメン。

 ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「住まわれた」の原文のギリシャ語は「天幕を張る、天幕に住む」という意味です。つまり、イエス様は人間の肉体という天幕に一時的に住んだということです。言いかえると、イエス様は肉体を持った神の家、神の住まわれるところとなったということです。このことは、創世記28章に描かれた預言の最初の成就でした。そのことを証明するみことばが、ナタナエルとの会話の中にあります。ヨハネ1:50,51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」このところの描写は、ヤコブが見た天のはしごのことです。今度は、神の家であられるイエス様の上を神の御使いたちが上り下りするということです。「はしご」のことは、次のポイントで詳しくお話しいたします。イエス様が、神がおられる「神の家」であったということです。

 しかし、それだけではありません。ヨハネ14章でイエス様はこのようにおっしゃいました。ヨハネ14:17「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」その方、つまり「聖霊があなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるようになる」とイエス様は約束されました。このことがペンテコステの日に成就し、イエス様を信じる者の内側に、神である聖霊が住むようになったのです。Ⅰコリント3章には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と書かれています。さらに、エペソ2章には「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:21,22)。私たち個人の中に住み、私たちの間に神が臨在してくださるのは、神の永遠の計画であったのです。ハレルヤ!私たちこそが神の家なのです。

 でも、ヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」(創世記28:16)と言いました。そのことは、私たちは「神の家」の前にいながら、それを全く知らないということがあり得るということです。神の家とは神の臨在です。私たちの間に神さまがおられる、それが教会です。ビル・ジョンソンは「私は教会の礼拝や集会において、神が一人の人物の人生をドラマチックに完全に変えてしまわれる時を見てきました。ところがその人の隣に座った人は、神が同じ部屋におられることさえも気がつかないのです。彼らは家に帰ったら何を食べようかと考えているのです。一方、1メートル離れていない所にいる別の人たちは、霊的大改革を受けているのです。しかし、同じ部屋にいながら何も気づかずにいた人たちが多くいました。彼らは夢を見る前のヤコブのようでした。神がそのところにおられるのに、それがわからなかったのです。」と言っています。私たちはこのように礼拝をささげているとき、神の臨在を体験します。「ああ、神さまが栄光のうちにいらっしゃる」ということを感じないでしょうか?複数のクリスチャンが教会という建物に集まっています。でも、教会は建物ではなく、私たち自身のことです。私たちが教会であり、神の家なのです。私たちが主をあがめているとき、当然、神さまはここに臨在してくださいます。ただ臨在されるだけではなく、私たちを祝福し、癒し、救って下さいます。

2.天のはしご

 創世記28:12 「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」もう一箇所、引用します。ヨハネ1:50-51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」前半は、ヤコブが夢で見た天よりのはしごです。後半は、イエス様がナタナエルに語られた預言です。共通しているのは、神の御使いたちが上り下りしていることです。違うのは、創世記はヤコブがいた場所「神の家」に天からはしごが地に向けて立てられています。そして、ヨハネ1章では、はしごとは書かれていませんが、人の子であるイエス様の上に、神の御使いたちが上り下りするということです。しかも、そこには「天が開けて」ということがはっきり記されています。さて、この二つの箇所が教会の要素を象徴しているというのなら、それは、どんなことなのでしょうか?

 第一のポイントで申しあげましたが、ヤコブがいたところは神の家です。なぜなら、そこに神がおられたからです。そして、ヨハネ1章で言われている人の子は、イエス様です。イエス様は神がおられる「神の家」でした。さらに、教会は聖徒たちによって構成される「神の家」です。私たちの中に神さまが臨在してくださっているからです。問題は、御使い(天使)が上り下りするという天よりの「はしご」です。その前に、「神の御使いは何のために遣わされているのか」ということを考えたいと思います。ヘブル1:7 「また御使いについては、『神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。』と言われましたが」とあります。さらに、ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。つまり、御使い(天使)は、神さまから、神の子クリスチャンに仕えるために遣わされた霊的な存在であるということです。旧約聖書では、穴に投げ込まれたダニエルがライオンに食べられないように助けてくれました。イエス様が誕生する前後は、マリヤやヨセフに現れてくださいました。マルコ1章には「御使いたちがイエスに仕えていた」と書かれています。ペテロが牢に捕えられ、明日は処刑されるというところを主の御使いが助け出してくれました。また、パウロを乗せた船が地中海で遭難したとき、御使いが現れて励ましてくれました。このように聖書には御使いの存在、御使いの働きがはっきりと記されています。しかし、残念ながら、今日の教会では、御使いのことをさっぱり言わないし、期待もしません。そのことは、あとでお話ししますが、御使いは神から私たちを助けるために遣わされた霊的存在です。でも、はっきりしなければならないのは、御使いは私たちの願いや命令はきかないということです。このところに「風」と書かれているので、自由にならないという感じがします。御使いは父なる神さまの命令だけを受けて、命令があるときはじめて、私たちのところに遣わされるのです。つまり、私たちと御使いとの間には経路がなく、父なる神さまを介してであることを忘れてはいけません。私たち人間は、御使いを拝んだり、神のように礼拝してもいけません。

 その次に問題になるのが、天よりのはしごのことです。私たちははしごを日常的にも見ることがあります。ヤコブは天からはしごが降りて来て、そこを御使いたちが上り下りしているのを見ました。それは、どういう意味でしょうか?ビル・ジョンソンは「上るとは役目を果たした御使いであり、下るといういのは神の使命を果たすため地上に降りることである」と言っています。すばらしい解釈です。ヨハネ1章で、ナタナエルにイエス様が「天から上り下りするのを、あなたは見る」と言われました。つまり、それはイエス様にあって成就されたということです。しかも、イエス様の場合は「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」(ヨハネ1:51)と言われました。ヤコブの見たのは夢であり、幻でした。しかし、イエス様の場合は幻ではなく、「天が開けて、御使いが上り下りする」のをはっきり見ることができるということです。では、いつから天が開けたのでしょうか?マタイ3:16 「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様がバプテスマを受けた直後、天が開け、神の御霊が鳩のように下って来られました。おそらく、イエス様以外に、見た人がいるのではないでしょうか?少なくとも、バプテスマのヨハネは見たのではないかと思います。だから、聖書に客観的に書いてあります。重要なのは、イエス様が公生涯を始めたときから、天が開け、神の国がこの地を侵略し始めたと考えるべきです。

神の御使いは私たちが命令しても動きません。御使いは神さまからの命令だけに従います。私たちがすべきことは神さまに祈る(願う)ことです。私たちの祈りが香のように神さまの御前に立ち上るなら、神さまから御使いに命令が下り、私たちのところに遣わされます。ビル・ジョンソンはこのように述べています。「ただし、御使いは私たちが奇跡を来なうために冒険、リスクを犯しているときでないと働きません。私たちは御使い(はしご)を暇にさせています。あまりにも安全に暮らしているので、天から下る必要を与えていないのです。神の家についてもう一つ大切なことは、それが開かれた天の下で機能するということです。つまり、悪霊の領域が打ち破られ、神の領域と地上で起っていることの間が透明になっている時です。それはヤコブの夢の中では御使いが上り下りするためのはしごとして描かれました。御使いは任務を果たすと上に昇り、超自然的な仕事をするときには、下って来るのです。しかし、残念ながら、あまりにも長い間、はしごが使われていません。私たちが超自然的な分野に足をふみ入れていないために、行ったり来たりする御使いがいないのです。それが私たちの問題です。」アーメン。

 神の家である教会、私たちの上に天からのはしごがかけられるのを期待すべきです。私たちは神さまに「あなたのみわざがこの地になされるように」と熱く祈るべきです。祈りが香のように神のみもとに上ったなら、御使いを送って下さり、超自然的なことを行って下さるでしょう。

3.天の門

 創世記28:17「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」教会を表す3つ目の概念は「天の門」です。門はヘブル語で「シャヤル」ですが、「gate門」「entrance入口」「forum裁判や取引を行う、都市の中央にある大広場」という意味があります。聖書中「門」を指す原語は、370回以上の用例があります。外敵の侵入を防ぐ城壁のある町は、住民の出入りのために門を必要とします。その数は必ずしも多くなく、旧エリコには実質上、門は1つだけでした。防衛のため近くにやぐらが設けられ、見張りが置かれ、開く扉はしばしば「かんぬき」で補強されました。もし、「神の家」すなわち「教会」が「天の門」であるとしたなら、どういう意味になるでしょうか?教会は、この世と神の国の間に存在する、gateway出入口ということにはならないでしょうか?ビル・ジョンソンは「私たち教会が門であると言う時、神の主権の現実がすべての人間に開放される場所、神の世界がこの世界に侵入するところであることを指しているのです」と言いました。かなり前に、北朝鮮のキム書記長と韓国の大統領が国境付近で互いに合いました。両国の間に、小さな建物があり、そこが通路になっていました。そこだけが、両国を行き来できる門のような存在でした。門はとても重要なところで、そこに防備のための力が集結していることがわかります。もし、町の門が破られたなら、敵が侵入してくるからです。でも、町の門は商売とか物資の移動のために使われます。町の門がずっと閉じられたままということはないでしょう。門は開けたり、閉じたりして、人々や物や動物が行き来する出入口であります。

 イエス様がマタイ16章と18章で「門」のことを話されました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」ここには「ハデスの門」とありますが、教会という門に対抗するものとして言われています。その後に、「つないだり、解いたりする」天の御国のかぎのことが言われています。同じようなみことばが、マタイ18章にも記されています。マタイ18:18 「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」であり、「くくる、鎖につなぐ、縛る」という意味です。また「解く」はギリシャ語で「ルオウ」であり「解く、ほどく、釈放する」という意味です。天の御国のかぎは、私たちが考えるような棒状のものではなく、「縛ったり、ほどいたりして開け閉めをする」ということでしょう。でも、天の門の鍵の形状がどうの、こうのと言うのではありません。神の家である教会は、天の門のような、神からの権威を授かっているということです。つまり、神の国とこの地を結ぶ重要な出入口なんだということです。これを救いのこととして考えるならどうでしょう?私たち教会が「あなたの罪は赦されました」と洗礼を授けるなら、その人は救われて、天の御国に入ることができるということです。しかし、これが行き過ぎると、「破門」とか言って、カトリック教会がやった権威の乱用です。パウロはⅡコリントで「私たちは和解をもたらすキリストの使節(大使)です」と言いました。私たちは天国行きのパスポートとビザを発行できるのです。しかし、それだけではありません。天の御国をこの地にもたらすために、神の権威を行使できるということです。それは病の癒し、悪霊の追い出し、そしてサタンのわざを縛るということです。イエス様が「地獄の門も打ち勝ちません」と言われました。これは、私たちは守る側ではなく、攻撃する側だということです。地上をめぐるどんな領地、または「門」を備えた支配と権力も私たちに打ち勝つことはできないのです。私たちは前進し、勝ち続けることができるのです。そして最後には、地獄の門もそれに打ち勝つことはないとイエス様は約束されています。

 ビル・ジョンソンは『奇跡への入口』という本で興味深いことを述べています。ところで、地獄の門は正確にはどこにあるのでしょうか?悪魔はどこに力ある座を設けているのでしょう。イエス様はご自分がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されると弟子たちに言われました。するとペテロが、「そんなことが、あなたに起るはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様は振り向いて「下がれ、サタン、あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。イエス様は「ペテロ、お前は悪魔崇拝者だ」と言われませんでした。「あなたの心は人のことで満ちている」と言われたのです。忘れてならない最も大切なことは、悪魔は人間の同意によって力を得るということです。そのような心の状態が、悪魔に破壊を持ち込ませる門となるのです。「私は人間に過ぎません」と言うことは、「私は悪魔的でしかありません」と言うことと同じです。キリストを中心としないヒューマニズムは、根本的には悪魔的なのです。あなたが神である聖霊を授かった時から「私は人間に過ぎません」と主張する特権を失います。あなたはそれより遥かにすばらしいのです。私たちが敵に同意するときは、いつでも地獄の門は私たちの心の中にあります。人間中心の見方や、神を知らず、生まれながらの知恵に同意するときはいつでも敵に力を与えているのです。ですから、私たちの目標は、いつでも天の御国に同意することです。私たちの心を、神の任務についている御使いたちが自由に上り下りする天の門にするのです。私たちは天の御国の領域が、この地に自由に侵入するための入口に立つ人々になるべきです。アーメン。

 今日は、教会を象徴する3つのことを学びました。教会が「神の家である」とは、神さまが私たちのところにおられる臨在されるということです。教会が「天のはしごである」とは、私たちが神さまに祈り求めると、御使いがそのとおり働いてくれるということです。教会が「天の門である」とは、この地に御国をもたらすことの権威が、神から与えられているということです。私たちは思いを変える必要があります。イエス様を信じて、死んだら天国に行くだけではありません。この地上に、私たちを通して、御国が来るように願いつつ、生きることなのです。