2019.9.1「遣わされた者 ヨハネ17:14-20」

 きょうの聖書箇所は、「イエスの大祭司としての祈り」と言われています。十字架に捕えられる前、イエス様が父なる神さまに祈っておれます。しかし、この祈りは、弟子たちに対する「告別説教」の直後に祈られたものです。これだけイエス様の祈りが詳しく書かれているのですから、少なくとも弟子のヨハネが聞いていたに違いありません。また、イエス様の祈りの内容は、私たちクリスチャンがどのような存在であるかを明確に教えている箇所でもあります。

1.この世のものでない

 クリスチャンはこの世のものではないということです。ヨハネ17:14-16「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」文脈的にはこの祈りは、弟子たちに対する、父なる神さまへのとりなしの祈りになっています。つまり、弟子たちがどういう存在なのかということが、この祈りの中に現されています。ヨハネによる福音書に出てくる「世」あるいは「この世」といのは特別な意味があります。ギリシャ語はコスモス「世界」でありますが、ここでは「神にそむき敵するものとしての世」という意味です。この世の君は、悪魔でありサタンです。罪の中にある人類は、すべて悪魔のとりこ、持ち物になっているという理解です。パウロは私たちの救いのことをこう述べています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」私たちクリスチャンは、罪が赦されただけではなく、サタンの支配から神の支配のもとに移された存在だということです。

 イエス様は「この世のもの」とか「この世のものではない」と祈っていますが、これはどういう意味でしょう?英語の詳訳聖書はnot belong to the world「この世に属していない」と訳しています。もちろん、以前は、この世に属し、この世のものでありました。でも、今はそうではないということです。しかし、生まれつきの人間は、生まれたときからこの世に属し、この世の中で生きています。両親や学校の先生から、いろんなかたちで「人生とはこういうものなんですよ」と教えられるでしょう。価値観、善悪、知恵、知識、宗教…様々であります。でも、多くの場合、創造主なる神がいない、人間中心の教えであり、この世的な価値観でしょう。まさしく、盲人が盲人の手引きをするということと同じです。ただし、人間は神のかたちに造られた存在なので、堕落しているとはいえ、わずかばかりの光が差し込んでいます。ですから、「人に迷惑をかけてはいけない」とか「人のために役立つ人になりなさい」ぐらいは教えるでしょう。でも、そこには絶対的なものはなく、全て相対的であり、人によって、民族によって全く異なります。

でも、ヨハネが言う「この世のもの」というのはもっと深い意味があります。それは先ほども言いましたが、悪魔の所有物であるということです。また、もっというと、神から離れた人たちはすべて悪魔的であるということです。なぜなら、まことの神ではなく、悪魔からすべての力を得ているからです。イエス様が弟子たちに、ご自分がエルサレムに行って、長老や祭司長たちから苦しみを受け、殺される」と告げました。するとペテロが「そんなことが、あなたに起るはずはありません」とイエス様をいさめました。すると、イエス様は「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。ペテロは悪魔崇拝者ではありませんでした。ただ、イエス様のことを心配して、人間的な配慮で言っただけです。でも、イエス様は「下がれ、サタン」とペテロを叱りました。ペテロがサタンだったというわけではなく、ペテロはサタンが入れた思いを語ったということです。でも、ペテロのヒューマニズムはこの世の考えであり、イコール、サタンの考えであったということです。本来、この世においては中立などありません。悪魔のものか、あるいは神のものか、であります。多くの人は目隠しをされ、ごまかされて、サタンの持ち物として生きているだけです。

ですから、私たちはイエス様を信じることによって、サタンの所有物から、神の所有物になる必要があります。私たちは、以前は、サタンに属し、サタンの思いの中で生きていました。しかし、キリストを信じて、神の国に移されると、今度は神に属し、神の思いの中で生きるようになるということです。また、以前は、サタンから力と知恵をいただいていました。しかし、今は神さまから力と知恵をいただく存在だということです。これが、この世ではなく、神に属しているということです。イエス様は「私がこの世のものでないように、彼らもこの世のものでありません」と言われました。その証拠に、この世はイエス様を憎み、迫害しました。すると、この世のものでない私たちも、この世から憎まれ、迫害されるということです。もし、キリストを信じていて、この世の中で気持ちの良い生活をしているのなら、信仰的に妥協している人です。詩篇34:19「正しい者の悩みは多い、しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」。Ⅱテモテ3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とあります。私たちはもう以前の私たちではないのです。もう、以前と同じような生き方はできないのです。たとえば、トンボの幼虫はヤゴと言いますが、泥の中を貼って生きています。しかし、さなぎから変えるとどうでしょう?天空を舞って生活します。蝶々も幼虫の時は葉っぱの上を貼って生きています。とても醜い姿をしています。しかし、さなぎから変えるとどうでしょう?天空を舞って生活します。もう、葉っぱを食べたりしません。食べ物まで違っています。自分がだれかということを正しく知るならば、自分の生活や行いが後からついてきます。あるクリスチャンは、罪は赦され、天国に行けると思っていますが、この世の人たちと全く変わらない生活をしています。私たちは以前はこの世に属し、悪魔の所有物でした。しかし、今はキリストによって贖われ、神のものとなりました。私たちは、まことの神さまから力と知恵と必要をいただいて生活します。人間中心という中途半端な生きかたではなく、神に属する者として神中心の生き方をしましょう。

2.聖別してください

 ヨハネ17:16,17「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」、ヨハネ17:19、20「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」このところに、「聖め別つ」ということばが、何度か出てきます。口語訳聖書は「聖別」と書かれています。ギリシャ語はハギヤゾウであり、もともとは宗教・祭儀的に「清くする、聖なるものにする」という意味です。祭司が動物を神さまに捧げるときは、動物を聖別したわけです。しかし、人物においても、「神に献げた」という意味で「聖別」と言うようになりました。ですから、「聖い」とか、「聖別」というもともとの意味は、道徳的な意味はなかったということです。私たちは「この人は清められている」とか、「清められていない」と言います。もちろん、そういう言い方も可能であります。私も神学生のとき、喫茶店の伝道に遣わされました。私がその時、証をするように言われていました。女性の先輩の神学生が私の隣で祈ってくれました。「どうか、鈴木兄弟の口びるをきよめて下さい。どうか、口びるをきよめて下さい」と何度も祈ってくれました。「これから、証をしようとしているのに、ひこむだろう」と思いました。ですから、私が「聖別」などというテーマを語るのはまことに場違いかもしれません。

 でも、自己弁護でなく申し上げますが、もともと聖別というのは道徳的なきよさ、人格的なきよさをさすものではありません。それはどういう意味かと言うと、「神のものに別たれる」という意味です。私は日本ホーリネス教団の神学校で学びました。小林和夫先生の授業をいくつか学ばせていただいて本当に感謝でした。小林先生は聖別とは、set apart from…「…から分かたれること」とおっしゃっていました。滴礼の洗礼式を行いますが、そのときクリスタルのようなガラスの器を用います。しかし、その器は洗礼式だけにしか使いません。洗礼式が終わってから、そこにサラダを入れたりはしません。もちろん、そういう形のものはサラダをいれるために使用されるでしょう。でも、その器は、洗礼式のために特別に別たれたもの、聖い器だということです。もし、神さまから「あなたは私のものですから、この働きをしなさい」と言われたらどうでしょう?「わかりした。私の能力とこの時間をあなたにささげます」と答えるでしょう。たとえば、この礼拝で、奏楽の奉仕や賛美の奉仕があります。お花や受付、送迎などの奉仕もあります。これは神さまのために、自分を聖別しているということになります。牧師の説教だけが、聖別された奉仕だということは全くありません。また、この世の仕事がみな世俗的な仕事だということでもありません。マルチン・ルターは「ベルーフ(天職)」ということを言いました。当時は、神さまに直接仕えている人たちが聖人であり、聖なる仕事をしていると思われていました。しかし、ルターは神さまから召された仕事であれば何であれ、それはベルーフ(天職)なんだと言いました。つまり、神さまの御目から見たら、聖い仕事とか、聖くない仕事というものはないということです。

 みことばに戻りますが、なぜ、イエス様は弟子たちを聖別するとおっしゃったのでしょうか?さらに、19,20節では「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」とおっしゃっています。旧約時代は、祭司は動物のいけにえをささげる前に自分自身を聖別しました。大祭司アロンも、他の祭司たちも、血をふりかけて自分たちをきよめました。イエス様はヘブル書で「まことの大祭司」と言われています。しかし、ここでは弟子たちに血をふりかけるのではなく、「ことばによって」と言われています。ことばと言うのは、真理です。つまり、弟子たちは真理によって聖め別たれた存在であるということです。なぜなら、これから真理のことばを伝える者として遣わされるからです。第三のポイントは「遣わされる」でありますが、その前にどうしても聖別される必要があるんだということです。聖別されないままで、この世に派遣されるとどうなるでしょう?ミイラ取りがミイラになります。この世の罪と汚れにそまって、自分の使命も、自分がだれも分からなくなるでしょう。ですから、神から派遣される前には、どうしても「あなたは神のものです。神から特別に選び別たれた存在です」とお墨付きをいただく必要があるということです。

 もう1つ聖別は聖化の問題で、救われた人がだんだん聖くなるということです。私たちは救われた瞬間、神の子どもとしての身分をいだだきます。また、法的には罪赦され、義と認められます。でも、実質はどうかということです。聖化、聖められるとは、人格的に神の子どもらしくなるということです。ガラテヤ書に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。他に謙遜とか、忍耐、敬虔、さまざまな徳があります。つまり、イエス様につながることによって、人格的に変えられて行くということです。でも、順番的には、自分は神さまから聖別されている、聖い存在と思われているという認識が必要です。使徒パウロもコリントの人たちに「あなたがたは聖徒として召され、キリストにあって聖なるものとされている」と言っています。実際、コリントの人たちは、救われてはいましたが、この世の罪にまみれていました。でも、パウロはキリストの恵みによって、「聖徒」「聖なるもの」と見ています。コリントの人たちは、そのことばに励まされて、「あなたがそのように見ているのでしたら、そうさせていただきます」と答えたのです。私が中学、高校生のときに悪いことをして、何人かの先生方から怒られました。でも、その顔がまるで犯罪者を見ているかのようでした。それだったら、卑屈になって、立ち直ることは困難です。でも、父なる神さまは、あの放蕩息子のように、いつでも無条件で私たちを愛して、受け入れてくださいます。でも、その根拠は、御子イエス様が私たちのために尊い血をもって贖ってくださったからです。言いかえると、神のものとして聖別してくださったからです。私たちは聖い者と認められているので、聖い生活をしたくなるのです。

 

3.世に遣わしました

 ヨハネ17:18「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」「遣わした」ということばが、21節、23節、25節にも出てきます。つまりこれは、父なる神が御子イエスさまをこの世に遣わしたように、弟子たちをもこの世に遣わすということです。「遣わす」というギリシャ語は、アポステロウであり、「使徒」のもとのことばです。ヨハネ福音書では弟子たちを「使徒」とは呼んでいませんが、ルカ6章には「12人を選び、彼らに使徒という名を付けられた」と書いてあります。弟子たちは主から派遣された「使徒」でありました。実は、弟子たちが派遣されたのはこのときだけではありません。この前も、また復活して昇天する直前も派遣しています。しかし、共通しているのは、弟子たちを派遣するときは、決して手ぶらではないということです。マタイ10:1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。悪霊を追い出したり、病を癒す権威と力を与えておられます。ルカ福音書には別に70人を派遣しています。ルカ10:19「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」このところにも、権威を授けたと書いてあります。きわめつけはマタイ28章です。マタイ28:18,19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」。つまり、イエス様が弟子たちを遣わすときは、いつでも権威と力が授けられていたということです。彼らは、遣わされてどうしたのでしょう?イエス様と同じ働きをしました。福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、時には死人さえよみがえらせました。

 しかし、重要なのは「あなたがたを世に遣わす」という命令は、弟子たちだけではありません。これはイエス様を信じた私たちに向けて語られていることばでもあります。もし、マタイ28章をはじめ、弟子たちに命じたことが、福音書の弟子たちだけだとしたら、聖書を読む必要はありません。聖書を棚に飾っておけば良いのです。でも、私たちは聖書を神のことばと信じています。でも、多くの場合、「私は罪赦されて天国に行ける。私は救われている」で終わってしまいます。そうではありません。私たちはイエス様がそうであったように、神さまのもとから、この世に派遣されている存在であることを忘れてはいけません。キリスト教会の初期のころは、この世があまりにも汚れているので、修道院をつくり、そこで生活をしていました。トルコのカパドキアに洞穴がたくさんあり、世界遺産になっています。私たちクリスチャンは、「隠遁者」とか「世捨て人」ではありません。私たちは神さまから命を帯びて、この世に遣わされている存在です。この礼拝が終わって、みなさんは家に帰るのではありません。「ああ、やっと礼拝終わった、家に帰ろう!きょうの話長かった」ではありません。家に遣わされるのです。あるいは、会社に遣わされるのです。私が座間キリスト教会で働いていた頃、日本キリスト教団の深沢教会に見学に行きました。深沢教会の近くには国立競技場や日本体育大学がありました。体育会系の方がたくさん来ている教会でした。そこの牧師は軍隊上がりで、とても厳しい方でした。なんと、朝6時からの早天祈祷会に70人くらい毎朝、出席していました。聖歌の持ち方も斜め45度にぴしっと揃って大声で賛美していました。最後に牧師が祈るのですが、彼らは一斉に「行って来ます!」と大声で答えていました。今思えば、危ないカルト系の教会だったかと思います。だけど、「行って来ます!」というのは、正しいかなと思いました。私たちは礼拝でみことばをいただき、神さまを礼拝します。祝祷があり、報告があり、礼拝が終わります。でも、家に帰るのではありません。神さまのもとからこの世に派遣されていくのです。アーメン。でも、手ぶらではありません。そのとき、神さまから権威を力という油そそぎをいただくのです。そうすれば、この世の悪魔にやられることはありません。ぼーっとして帰るので、家で待っている未信者の家族にやられるのです。そうではなく、権威と力を帯びて、神さまから遣わされて行くのです。

 創世記にソドムとゴモラの町に住んでいたロトのことが記されています。Ⅱペテロ2章には「この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きし、日々その正しい心を痛めていた」と書かれています。確かにロトは義人でした。でも、ロトとその家族は、ソドムとゴモラの町の中に住んでいました。この世の者でないのに、本当の姿を現していませんでした。聖別とか派遣されているという考えはなく、彼らの罪と汚れに悩まされて生きていました。娘二人もその町の人と結婚するつもりでした。ロトの妻もその町で得た宝を家の中に蓄えていました。やがて、二人の御使いが現れ、「主がこの町を滅ぼそうとしておられるので、立ってこの場所から行きなさい」と言いました。しかし、彼女の婿たちは、それを冗談のように思いました。ロトはためらいました。しかし、御使いたちは4人の手を掴んで、連れ出し、町の外に置きました。「いのちがけで逃げなさい。後ろを振り返るな、立ち止まってもいけない」と命じました。ロトは「あそこには遠くて行けない」と言うし、ロトの妻は後ろを振り返り塩の柱になりました。私たちはロトの家族から大きな教訓を得ることができます。私たちはこの世に住んでいますが、この世のものではありません。しかし、この世の中で生活していますので、心の中にこの世が入ってきているかもしれません。頭では私は神のものであり、聖徒であると知っています。でも、「そうは言ってもなー」と言い訳して、この世に流されているかもしれません。ロトは心を痛めてはいましたが、ソドムとゴモラから離れようとは思いませんでした。それは、ロトの妻も娘たちも同じです。ソドムとゴモラは天から下ってきた硫黄の火によって滅ぼされました。聖書には「この世は滅びる」と書いてあります。私たちはこの世のものではありません。私たちはこの世と一緒に滅びる運命ではありません。私たちは御国に属する者、キリストに属する者です。この世は仮住まいで、あちらが永遠の住まいです。私たちがこの世でまだ生きているのは、使命があるからです。神さまから、権威と力を帯びて、この世に遣わされていることを忘れないようにしましょう。