2019.8.25「宗教改革の教会 ヨハネ黙示録3:1-6」

 サルデスにある教会は、16世紀の宗教改革時代の教会の姿を現していると言われています。堕落していた教会の中にも残りの民がいて、宗教改革がなされたのです。でも、みことばには「あなたの行いが、私の神の御前に全うされたとは見ていない」と書いてあります。つまりは、宗教改革は不完全であったことが暗示されています。前半は歴史的な視野から宗教改革時代の教会について、後半は、聖書のみことばから語りたいと思います。 

 

1.歴史における宗教改革の教会

 

 前回もそうでしたが、多くは『一冊でわかるキリスト教史』(日本キリスト教団出版局)から引用させていただきました。このことを断っておかないと、後でクレームを付けられるのが嫌だからです。私も教会史をかなり勉強した方ですが、15分間で宗教改革史を語るのは無理があります。そのため、だれかが書いた本から借用して語るのが良いと考えました。もっと学びたい人はこの本を買って自分で読んでください。宗教改革が起こる時代背景からまずお話しいたします。ローマ教皇を選ぶ際には、イタリアとフランスが何度も衝突しました。フランス側が教皇クレメンスを選び、アヴィニョンに教皇庁を70年間も移しました(教皇のバビロン捕囚)。その後、教皇庁をローマに戻そうとする動きが起こりましたが、結果的に3名の教皇が立つ、大分裂(大シスマ)が起こりました。教会はいよいよ末期的な状況に陥りました。教会の斜陽時代に堂々と教皇や教会に対する批判運動を展開したのは、ジョン・ウィクリフとヤン・フスです。ウィクリフは教皇の首位性を含む聖職位階制や聖変化(化体説)は聖書にそぐわないと批判しました。彼は聖書に立ち返ることを説き、はじめてラテン語の聖書を英語に翻訳しました。一方、ヤン・フスは高位聖職者批判の主張を取り下げなかったので、聖職をはく奪され、火刑に処せられました。また、その頃のドイツの教皇庁は高圧的に教会税を取り立て、腐敗していると考えられていました。いたるところで修道院の改革が叫ばれ、その広大な所有地は、貴族たちや、そこで生活していた農民たちのねたみの種でした。一般に農民たちは不安定な経済状態にあり、聖職者達によって徴収される十分の一税や諸料金は、彼らの苦情の主要な原因となっていました。その頃、ヨーロッパではフランスとイングランドと100年戦争がありました。また、ペストの大流行と農民反乱の影響により、社会不安が増大しました。中世後期はとても暗い時代でありました。

 ドイツの宗教改革はマルチン・ルターによって起こりました。ルターは1483年11月10日アイスレーベンで生まれました。1501年にエルフルト大学に入学し、父の希望で法学の専門の勉強の準備を始めねばなりませんでした。しかし、1505年、ルターは突然の友人の死と、雷雨に打たれて危うく死にそこなうという2つの体験をしました。その時、心底から揺り動かされ、法律家になることを断念し、自己の魂の救いを切望して、アウグスティヌス修道士会に入会しました。ヴィッテンベルク大学で1509年に神学士号を取得し、副修道院長に任じられました。しかし、厳格な修道生活の努力にもかかわらず、ルターは心の安らぎを見い出すに至らず、自分の罪の深さを考え、打ち沈んでいました。ヴィッテンベルク大学で、詩篇やローマ書、ガラテヤ書から講義をしつつ、「神の義」に悩まされました。しかし、ローマ1:17から「罪人は神の恵みにより救われるしかない」とする信仰義認を悟るに至りました(塔の経験)。1517年、大学の討論形式として、『95箇条の提題』を呼びかけました。これはローマ教会に批判を突きつけるというものではなく、贖宥符の実践とその根底にある救いの理解に対する批判でした。ローマ教会が贖宥符を購入すれば、煉獄にいる魂の罪が赦され天国に入れると呼びかけていたからです。しかし、そのことが教皇や教会の神学論争へと展開しました。1520年、ルターは3つの改革文書を著し、信仰義認論に基づき、ローマ教会の制度や実践を批判し、それに代わる新しい教会やキリスト教的生活の在り方を示しました。強調されたのは「万人祭司論」「聖書のみ」です。1520年1月、ルターは破門され、4月にヴォルムスの帝国会議へ召喚されました。ルターは「我、ここに立つ」と良心と神のことばで撤回に応じませんでした。その帰り、身の危険を案じたザクセン選帝候によって城にかくまわれ、10か月の滞在中に新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年出版しました。その間にルターは多くの支持者を得ました。名もない修道士の問題提起が大きな改革運動へ展開したのです。しかし、ルターは農民戦争の際、世俗権力への服従を訴えたので改革の火が消えてきました。メランヒトンがルターの思想を体系化し、「アウグスブルク信条」を執筆しました。

 スイスの宗教改革はドイツに始まった宗教改革の影響によって起こりました。16世紀はじめ、スイスは13邦からなる同盟国で、神聖ローマ帝国から事実上、独立したばかりでした。市参事会は教会の重要な権限(教会税や結婚に関する裁判権、財産や人事権)を獲得し、聖職者の道徳的堕落や下級祭司の貧困の問題を解決しようとしていました。1518年、市参事会は人本主義的な改革を導入すべく、ツヴィングリを大聖堂の司祭に任命しました。ツヴィングリは「67箇条」を作成し、キリストに一致しない教会の制度や慣習(教皇、聖職位階制、ミサ、良い行い、聖職者の独身性など)を退けました。市参事会は聖書に基づいた説教を課し、聖像や聖遺物、オルガンを撤去しました。さらに修道院を廃止し、その財産をツヴィングリの助言に従って困窮者や病人の救済に用いました。ミサを廃止し、聖餐を導入し、説教を中心とするドイツ語の礼拝を始めました。しかし、ツヴィングリはルターと聖餐論のことで対立してしまいました。ツヴィングリは、カトリック教会連合と従軍し、1531年戦死しました。その後、立てられたのが、ジョン・カルヴァンです。カルヴァンは、いわゆる人本主義の影響を受けた法律家でした。改革者ファレルに協力を要請されジュネーブに立ち寄りました。ちょっとのつもりが、牧師に任命されてしまいました。早速、「教会規則」を定め、「聖書注解」を著し、『キリスト教網要』の改定を重ねました。『網要』はカルヴァンの代表作であり、宗教改革神学の優れた体系書です。彼の素晴らしいところは、「神の選び」「神の主権」を強調したことです。彼の神学はオランダやイングランドにも影響を与えました。カルヴァンは教会政治と政治権力を強調しました。なぜなら、この世にあって、人間の回復は部分的に過ぎず、不完全性のゆえに規範が必要であると考えたからです。次第に破門や告訴、刑罰が科せられる制度が整えられていきました。その当時、幼児洗礼に反対する再洗礼派が現れました。幼児洗礼は国教会の存在を支える者であったので、この主張は危険視されました。チューリッヒの市参事会は討論会で彼らの主張を退け、1526年には死刑命令が出されました。このように宗教改革主流派は政治権力と結びつき、体制的教会を形成しました。

 イングランドに宗教改革を導入したのは、国王ヘンリー8世です。彼は後継者問題で、王妃キャサリンとの離婚を望みましたが、教皇に認められませんでした。彼はそれを機に、ローマ教会から独立して自国の教会を設立し、イングランドの主権確立を試みました。ヘンリーはローマの影響を退けるために、ローマ教会への支持を反逆罪と定め、司教は国王自ら任命し、教皇への上訴と上納金を禁止しました。そして国王至上法により、国王を教会の首長とし、否定者は大逆罪法により死刑に処しました。トマス・モアをはじめ、司教や多くの修道士がこれにより処刑されました。さらにこの政策の結果、カトリック諸国からの攻撃の危険が生じたため、ヘンリーは軍事費捻出のためにすべての修道院を閉鎖して、財産を没収しました。また、ルターの神学を取り入れた信仰箇条「10箇条」を定め、聖書主義、サクラメント論、信仰義認を受容しました。国内には聖職者や指導者層など多くの改革支持者が現れ、英訳聖書が許可されました。本格的な改革はエドワードの時代に導入されました。カンタベリー大司教クランマーにより、聖像の撤去や聖餐の導入、聖職者の結婚許可が進められました。また祈祷書がプロテスタント的に改定され、その使用が礼拝統一法により義務付けられました。しかし、これらの改革は、メアリー1世によって中止されました。キャサリンの娘で皇帝カール5世のいとこでもあったメアリーは、一連のカトリック制度を復活させました。教皇の権威とミサを復活させ、使用用語を英語からラテン語に戻し、妻帯聖職者の職務を剥奪しました。そのため、多くのプロテスタントが国外に亡命し、そこで本場の改革を学びました。エリザベス時代になるとメアリー時代に大陸に亡命していた人々が帰国し、徹底的な改革を求めるようになりました。それがピューリタン運動です。彼らは非聖書的な伝統的習慣を排除し、特に聖職者の式服を廃止しようとしました。しかし、彼らの改革案は国教会から認められませんでした。これに対し、エリザベスは全説教者に認可を受けるように要求し、論争的説教を禁止し、規定通りの式服の着用を求めました。これによりピューリタン聖職者の多くはその地位を失いました。ピューリタン運動への弾圧がさらに激しくなり、分離派はアムステルダムに亡命しました。エリザベツに続くジェームズ1世は王権神授説を唱え、「主教なければ国王なし」と宣言しました。厳しい弾圧を受けたピューリタンは「北米メイフラワー号」で北米へ移住しました。

 宗教改革が起った時代背景、ルターによるドイツの宗教改革、ツヴィングリとカルヴァンによるスイスの宗教改革、さらにはヘンリー8世によって始まったイングランドの宗教改革について学びました。あまり霊的でなかったかもしれませんが、神さまは人を用いているということは確かです。当時の教会があまりにも制度的で腐敗していたために、宗教改革が起こりました。

 

2.サルデスにある教会

 

 後半は黙示録3章から記されている「サルデスにある教会」について学びたいと思います。サルデスはヘルムス川の流域にあり、トモルス山脈の北に位置しています。と言っても分からないと思いますが、アジアの7つの教会は現在のトルコの西側にあります。サルデスは紀元前6世紀中頃までは、古代リディア王国の首都でした。富裕な都市であり、切り立った岩壁に囲まれているので、難攻不落を誇って安心し切っていました。しかし、ペルシャ軍の兵士が夜ひそかに岸壁の亀裂のところから絶壁を上り、攻め込んでついに陥落させました。黙示録3:3後半「もし、目をさまさなければ、私は盗人のように来る。あなたには、私がいつあなたのところに決してわからない」とあります。新約聖書の時代、サルデスは小アジアでは最大の都市でした。サルデスの教会は、外見的には活気があり生きているように見えますが、実は死んでいる状態でした。しかし、4節に「サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」と書いてあります。神さまは、サルデスの教会に残りの民を置いていてくださったのです。

 サルデスのギリシャ語は「残された者」あるいは「復興」を意味します。この箇所を霊的に解釈すると、サルデスは宗教改革時代の教会を描写しています。確かに、マルチン・ルターの時代に始まった宗教改革は黙示録3章の預言の成就でした。宗教改革は良かったのですが、その中にあるすべてのものは極めて貧弱でした。歴史によれば、その働きは何一つとして完成しませんでした。黙示録3:2後半「わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」と書いてあります。そういうわけで、主は言われます。黙示録3:1後半「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」。ウィトネスリーの本から少し引用させていただきます。一方で、多くのものは宗教改革で回復されましたが、他方では、それらの多くは衰退しました。改革の教会、すなわち、プロテスタント教会には、常に回復があり、次に衰退があります。多くの回復、そして多くの衰退が続きます。多くの復興もありますが、その後に堕落があります。プロテスタント教会の歴史は、復興と堕落、回復と衰退の歴史です。そこには、力強くて、適切で、生きている、永久のものは何もありません。ですから、主は改革の教会であるサルデスには満足しておられないのです。

 多くの聖書学者はサルデスの教会が「宗教改革の教会である」とは断言しません。なぜなら、それをすると「未来主義者」というレッテルを貼られるからです。でも、ヨハネが黙示録を書いた当時は、迫害下にあったので、まともなことは言えないので、黙示文学の形式を用いて、象徴や比喩で励ましました。つまり、黙示録を過去のことに閉じ込めではいけません。黙示録には、「7つの封印」「7つのラッパ」「7つの鉢」と出てきますが、「7つの教会」も同じように預言的なものなのです。黙示録の構造は、「7つの教会」を述べた後、主の再臨の約束が出てきます。いよいよ教会が世の終わりに向かっていくことが明らかになります。これまで、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラと4つの教会から時代的に教会を学んできました。本日のサルデスはプロテスタント教会の始まりであり、教会史的に最も華々しい出来事が起こりました。どんな人でも、ルターとかカルヴァンという名前を聞いたことがあるでしょう。でも、人間というものは改革者たちの功績をたたえて、どうしても教会に彼らの名前を付けたがります。今でも、世界にはルターという名前の教会が数えきれないほどあります。また、「カルヴァン教会」はありませんが、彼から「改革派」とか「長老派」なる教会が生まれ、今日に及んでいます。一度は大きく変えましたが、二度目がありません。彼らの功績が偶像になっているのかもしれません。ルター派の牧師の書斎を見たことがありますが、ルター著作集がずらりと並んでいました。また、聖契神学校時代、ある神学生の部屋に入ったらカルヴァンの『キリスト教網要』が所狭し、と並んでいました。私も一冊、買って読んでみましたが、だれかへの手紙形式で「長ったらしいなー」と思いました。もちろん、読む人にとっては価値があると思います。これはあくまでも私の考えなので、ご批判は甘んじてお受けいたします。

 ローマ・カトリックは国際的な教会となり、1つの頭である法王の下で、すべての国々と混合しました。宗教改革の時に、教会は国際的な性格を捨てましたが、堕落して国教会になりました。ルター自身はこれが間違いであることを認めましたが、その政治的な影響があまりにも大きかったため、彼はそれを避けることができませんでした。ルターは主の最も偉大なしもべの一人でした。でも、彼はローマ法王との対決には強かったのですが、王たちの前では弱かったのです。彼も一人の人間ですから、仕方ありません。彼は強硬にカトリックとローマ法王に対決しましたが、ドイツ国王や諸侯には弱かったのです。その証拠に、農民が反乱を起こしたとき、ルターは「農民の殺人・強盗団に抗して」という痛烈な小冊子を著して非難しました。ドイツ諸侯は農民の反乱鎮圧に本腰を入れることが可能になりました。反乱は恐ろしい流血をもって鎮圧されたのです。ルターの主張に対する共感は、ドイツの低社会層の間で大幅に失われてしまいました。ルターの一般大衆に対する不信も増大し、改革は世俗の諸侯の手に委ねるべきであるという気持ちが強まりました。最終的に、ドイツ王国は国教会を設立しました。そして他の国々も先例にならいました。だから、今日もいたるところに国教会が存在しているのです。デンマークには、国王がデンマークの教会の長です。そして、それはルーテル教会です。同様に、英国では、女王が国教会である英国国教会の長です。

 国教会のどこが悪いのでしょうか?まず、幼児洗礼が義務付けられており、信仰あるなしに関わらず、国教会に属さなければなりません。ということは、教会内にはキリストを信じて新生している人とそうでない人とが混在することになります。さらには、教会の首長がキリストではなく、国王もしくは、スイスのような市参事会になります。霊的なことに関しても、多数決もしくは、王様や諸侯が決めます。とても人間的であり、神さまの御旨を伺うという信仰的な立場は見当たりません。また、教会政治と政治権力が合体するため、宗教的なことで有罪になり、処罰を受けることになります。プロテスタント教会でも、宗教裁判で数えきれない人たちが死刑になりました。プロテスタント教会はローマ教会のような聖職位階制は廃止しましたが、聖職者と平信徒の考えは残りました。国教会が存在するようになると、多くの追求をする人たちはそれらに満足しませんでした。彼らは非国教徒となって、異議を唱えました。たとえば、英国では国教会から弾圧を受けたピューリタンと分離派があります。彼らは祈祷書の使用と式服着用に対して抵抗しました。私的な宗教集会は禁止され、しかも高等宗務官裁判所が設置され、分離派の指導者は処刑されました。女王の首位権の拒否者、国教会出席拒否者、秘密集会出席者は国外追放とされ、分離主義者の多くはアムステルダムへ亡命しました。エリザベスの後のジェームズは「王権神授説」を唱え、ピューリタンに厳しい弾圧を始めました。チャールズ1世よって、宗教的統一政策はますます促進され、宗教的、政治的に絶望したオランダの分離派とピューリタンは北米に移住しました。アメリカに渡ってから英国ではじまった長老派教会やバプテスト派教会が栄えました。ジョン・バニヤンは鋳掛屋を本業とする信徒伝道者でした。しかし、1658年ジョン・バニヤンは免許無しで伝道したかどで起訴されました。最初は禁固3か月となりますが、彼が反抗して伝道を止めなかったので、禁固は12年近く延長されました。出獄後、また伝道したので6か月間投獄されました。その後、彼は『天路歴程』を出版しました。

主の御目から見たら、国教会も長老派教会やバプテスト派教会のような私立教会も貧弱で、死に満ちていました。だから、主は彼らを叱責されました。彼らが教会の正常な状態に完全に戻らなかったので、宗教改革の教会は主の心を満足させることはありませんでした。教会は一回の改革でとどまらず、絶えず悔い改め、妥協せずに信仰的な純粋さを求めていかなければなりません。黙示録3:4,5「しかし、主は最後にこのような恵みある約束も与えておられます。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」「白い衣」とはどのような意味でしょうか?いのちのことば社による『新聖書注解』にすばらしい解説が載っていました。「スウィートによれば、白い衣は、祝祭の時に、勝利の時に、純潔を表すため、天における身分を表すためなどに用いられている。彼はこれらを全部総合した意味であると考える」とありました。この後、黙示録に白い衣を着た人たちが出てきますが、殉教を乗り越えて勝利した聖徒たちに与えられています。まさしく、白い衣は勝利と栄化の衣、キリストの花嫁の衣です。私たちも信仰を守り通して、その仲間に入りたいと思います。主は私たちの名前を「いのちの書から消すようなことは決してしない」と約束しています。そして、主が私たちの名前を父の御前と御使いたちの前で言い表して下さることを信じます。私たちがこの世で受ける迫害はむしろ、良いことなのです。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:10)。