2019.8.11「最後の審判 ヨハネ黙示録20:7-15」

 昨年から主題説教を続けておりますが、きょうのテーマは非常に厳粛なものです。私は説教を準備しながら虚脱感に襲われ、深いため息を何度もつきました。でも、このことを語らなければ、その後に続く、新天新地もありません。「最後の審判」はミケランジェロの大作であり、ほとんどの方は何かでご覧になった経験があると思います。身の毛もよだつと申しましょうか?あまり触れたくない内容ですが、思い切って、聖書から共に学びたいと思います。

1.第二の復活

 私たちはこれまで、「よみ」、「御国(千年王国)」について学びました。よみというのは、死んだ魂が行くところですが、キリストの復活昇天によって、様子が変わりました。なぜなら、イエス様がよみの上部を引き上げて、パラダイスを作られたからです。現在、悪人と不信者はハデスにとどまっていますが、信仰者はパラダイスで安らいでいます。これから患難期を経て、御国(千年王国)がやってきます。そのとき復活があります。これは第一の復活と呼ばれています。キリストが再臨されるとき、パラダイスにいた人たちがよみがえるのです。正確に言いますと、死んだ肉体がよみがえり、パラダイスにいた魂と合体するということです。そして、この人たちは御国(千年王国)に千年間、住まうということです。御国において、ある人は褒賞という報いを、ある人は懲らしめという報いを受けるでしょう。彼らは生前の行いによってさばかれます。これを「キリストのさばき」と言います。しかし、このさばきは火の池(地獄)でないことは既に申し上げました。御国は良い行いと関係があり、信仰者たちが報いを得る場所です。その後、何が起こるのでしょう?黙示録20章後半には、千年の終わりにサタンがその牢から解放されるとあります。サタンは1000年間縛られていたことになります。でも、彼は解放されて、諸国の民を惑わします。残念ですが、神に逆らう人たちがゴグとマゴグに集まり、戦いが始まります。彼らは聖徒たちの陣営と都を取り囲みます。しかし、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くします。黙示録20:10「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」「彼ら」というのは、千年王国を経ても神に逆らった人たちです。もう一度、ふるいにかけられなければならないとは、人間は何と罪深いのでしょうか。前にも言いましたが、御国に入りきれず、暗闇で歯切りしている者たちもいました。ある人たちはゲヘナの火で焼かれても、その魂がきよめられていなかったのです。私たちは春先、焼畑のシーンを目撃することがあります。焼畑は、害虫などを駆除するためのものです。草は焼かれますが、根っこが生きているので、新芽が生えます。千年王国は魂のきよめの時でもあったのです。でも、それでもきよめられない魂がいるとは残念です。

 その後、第二の復活が起こります。黙示録20:13「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」第一の復活はキリストが再臨するときに起る千年王国の直前でした。しかし、第二の復活はハデスにいた人たちが復活するのです。でも、「海はその中にいる死者を出す」とは不思議な表現です。G・Hペンバーという人は「海の中にいる死人は人類ではなく、アダム以前の時代に生きていた生き物の霊(悪霊)である」と言いました。黙示録11章と17章で獣が底知れぬ所(アビス)から上ってくると書いてありますが、海がアビスの出入り口なのかもしれません。海は神の敵がいる場所ですから、神はそれを取り除かなければなりません。聖書で海は不吉なものであり、新天新地には海が存在しません。前にも言ったことがありますが、肉体は死んでも魂は生きています。そして、聖書では肉体が死ぬことを、「眠る」(Ⅰテサロニケ4:13-15)といいます。眠るということは、いつかは目覚めるという概念がこめられています。ヨハネ5:28,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」これはイエス様のことばですが、クリスチャンはキリストの贖いを信じているで、善なるものであります。罪と悪はキリストの贖いによってすっぽり覆われていると考えるべきです。でも、神のさばきを受けるために復活するというのは、気の毒なことです。一体どれだけの数が海と地から復活するのでしょうか?その数たるや何百億、何千億かもしれません。

 私たちはあまりヨハネ黙示録から学びません。難しいし、きっと先のことだろうと思うからです。私たちは「イエス様を信じたら天国に行けますよ」と伝道します。しかし、天国はあまりにも漠然としています。クリスチャンはもう少し勉強して、言い方を変える必要があります。この世ではあまりにも天国が安売りされているからです。私たちクリスチャンは死んだら、天国に行くのではなくパラダイスに行くのです。そしてキリストを信じていない人、新生していない人は、よみ(ハデス)に下るのです。ルカ16章でも学びましたが、そこは地獄の一丁目のように火炎が迫っています。しかし、それで終わりではありません。両者とも肉体が復活します。第一の復活というのは、御国(千年王国)の直前復活する人たちです。彼らの魂はパラダイスにいました。今度は、イエス様のような復活のからだをいただいて千年間御国で生活するのです。しかし、第二の復活もあります。これは御国(千年王国)の直後に起ります。地上の時間で、千年遅いということです。彼らの魂はよみ(ハデス)にいました。今度は神のさばきを受けるために、肉体が復活するのです。これを第二の復活と言います。第二の復活の人たちは希望がほとんどありません。なぜなら、自分の義によって神さまの前に立たなければならないからです。第二のポイントで学びますが「最後の審判」です。そこには弁護をしてくださるイエス様はおりません。単独で義なる神さまの前に立つということです。高木慶太師は、それを宇宙服にたとえています。宇宙は真空なので、血液が沸騰すると言われています。クリスチャンはキリストを信じているので「神の義」をすっぽりかぶっています。罪と汚れがすっぽりと覆われています。でも、キリストを信じていない人は、義の衣がありません。宇宙服のない状態で、宇宙にいるのと同じです。どうか、キリストを信じて、神の義をいただき、第二ではなく、第一の復活に預かってください。

2.最後の審判

 ヨハネ黙示録20:11,12 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」これが、「神の白い御座のさばき」と呼ばれる、最後の審判です。そこにはいくつかの巻物があることがわかります。第一の巻物は未信者の働きと行為の記録であり、第二の巻物はいのちの書です。「いのちの書」の存在は、出エジプト記32章に記されています。山から下りてきたモーセが金の子牛を拝んでいる民を見て、愕然としました。そして、神さまにこのようにとりなしています。出エジプト32:32,32 「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」おそらく、この書物はいのちの書であり、モーセの時代からその存在が信じられていました。イザヤ4:2,3「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。」つまり、いのちの書には、旧約時代の人たちも含まれているということです。もちろん、キリストを信じる人たちの名も記されています。ピリピ4:3「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」私はいのちの書に一度でも名前が記されたら、消されることはないと信じます。昨年、公文書が改ざんされるという大事件がありました。ある部分がすっぽり抜けていたり、あるいは書き換えてられていました。でも、いのちの書にかぎってそういうことはありません。いのちの書に名前が記されたら、消されることはありません。なぜ、そんなことが言えるのでしょう?神さまの選びがあるからです。確かに信仰には私たちの意志や願いがあります。でも、神さまがそのことを受け入れ、承認して下さらないと救いはなりたちません。ある人は信じていないのに洗礼を受けるかもしれません。でも、神さまはすべてをご存じです。神さまがこの人は信じていると分かります。そして、いのちの書に名前を記すのです。救いを支えているのは私たちの信仰ではありません。神さまの選びが私たちの救いを支えているのです。だから、年とって頭がぼけて、信仰がおかしくなっても大丈夫です。

 では、なぜ、あえて最後の審判のとき、「いのちの書」が開かれるのでしょうか?彼らはすでに「キリストのさばき」を通過して永遠のいのちをいただいているはずです。私は確認であろうと思います。私たちは空港で出国審査を受けます。順番が来たら、パスポートと搭乗券を出します。パスポートの写真と顔を照合され、パスポートに出国スタンプを押されて、審査終了です。中には偽造パスポートの人もいます。だから、間違いのないように、いのちの書とその人自身を照合するのです。最後の審判がどういうものであるか分かりませんが、罪のさばきではありません。ヨハネ5:25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエス様は「さばきに会うことがない」とはっきり約束しておられます。なぜなら、イエス様がその人の代わりにさばかれたからです。エペソ1:13,14「あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。私たちには聖霊の証印が押されているのですから、間違うことはありません。最後の審判をちゃんとパスすることができます。聖霊の証印は目には見えませんが、御使いにはきっと見えるでしょう。昔、稲毛浜海浜プールに子どもたちを連れて行ったことがあります。プールの敷地か海岸に行ける出入り口があります。そこには係員がいて手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬ひやっとしますが、目に見えません。再び海からプールに戻るとき、係員は虫めがねみたいなものを当てます。すると、手の甲にスタンプが押されていることがわかります。蛍光塗料みないたものなのでしょう。

 問題は、いのちの書に名前をしるされていない人たちです。彼らは行いによってさばかれます。義なる神さまの前に、自分の正しさで立ち尽くせる人が果たしているでしょうか?彼らは神さまの前でひとり一人申し開きをしなければなりません。「いや、そんなことはしていません」と言っても、書物に記されています。書物は複数ありますので、各方面からさばかれるのではないかと思います。罪には大きく分けて2種類あり、 行った罪と行わなかった罪があります。それらのことが克明にしるされています。人間でもコンピューターにたくさんの情報を入れることができます。何千冊の本でも、CDロム1枚に入ります。私はカシオのEX-wordを持っていますが、国語や英語の辞書はもちろん、広辞苑、ブリタニカ大辞典、図鑑、名作集…数多くの本が入っています。もし「そんなことはしていません」と言ったなら、その時の画像が「ばーっ」と出てくるでしょう。動画がばっちり出てきたら、もう言い逃れはできません。暗やみでしたことも明るみに出されるでしょう。この地上では、裁判があり刑罰があります。被害者の家族は上訴しても、刑罰が軽すぎると思っているかもしれません。また、この地上のさばきを逃れた、罪がたくさんあります。ある事件は闇に葬られ、ある事件は時効になっているかもしれません。「本当に神はいるのか」と泣いている人がたくさんいるでしょう。でも、大丈夫です。この地上でさばかれなかったものは、その分多く、神さまの前でさばかれるでしょう。私は遠山の金さんや大岡越前、必殺仕置き人などをたくさん見ました。さばきが正しく行われない人たちの悲哀があとでさばかれるようになっています。しかし、それは人間が作った物語です。でも、神の白い御座のさばきは完全です。ちゃんと決着がつけられるようになっています。

3.第二の死

 ヨハネ黙示録20:13-15「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」もう一箇所引用いたします。黙示録21:8「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」このところには「第二の死」と書かれています。人はだれでも一回は死にます。例外的に、世の終わりキリストが再臨したときに生きている信者は、死なないで天に移されます。しかし、それ以外の人はすべて肉体的に一度死にます。「え?死ぬのは一回限りじゃないの?」と質問されるでしょう?でも、聖書には肉体の死と、魂の死があります。私たちの魂は永遠に生きるように造られました。創世記1章に「神のかたちに似せて造られた」と書かれているのは、私たちの魂が永遠に生きるように造られたということです。でも、この魂を神さまは滅ぼさなければなりません。本来、地獄は人間のために造られたのではなく、サタンのその仲間のために造られたのです。黙示録20:10 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」ですから、神さまの本来の目的は、サタンに最終的なさばきを下すことです。人類歴史の最初から最後までにもたらした、数かぎりない悲劇と不幸を考えると、このときは最高の歓喜の時です。天には大群衆の歌がこだまします。

 でも、残念ですが、新天新地にすべての人を迎えるわけにはいきません。黙示録21章には、このような罪を犯した者は入れないとありますが、その中に「不信仰の者」とあります。これはキリストの救いを拒んだ人であります。そして、その人はいのちの書にも名前がありません。せっかくのチャンス、神の愛を拒んだということは他の罪と同じような扱いになっています。その人は、殺人を犯したり、不品行や魔術を行っていないかもしれません。でも、サタンと同じ火と硫黄との池に投げ込まれるとあります。ある人たちは、「神さまは愛なので、地獄などは造らない。みんな救ってくださるだろう」と言います。しかし、新天新地に入れる人は、いのちの書に名前のある人たちだけです。なんと厳粛なことでしょう。ウィットネス・リーはある本で、こう述べています。「最終的に、聖書の終わりには二つの結末があります。すなわち、積極面では新エルサレムであり、消極面では火の池です。神は地から新エルサレムを生み出し、海を地に縮小させます。元々、大きい海であったものは、今、火の池の中にあります。私たちは、これを家を掃除することにたとえても良いでしょう。最初は、ゴミだらけであるかもしれませんが、私たちが掃除した後、それらは小さなゴミ箱の中に片付けられます。同様に、宇宙にある、すべての汚れ、間違ったものは、わずかな場所である火の池に制限されます。」イエス様はマタイによる福音書で地獄を「ゲヘナ」と呼んでいますが、それは焼却炉と言う意味です。

 地獄はあります。今はありませんが、千年王国が終わり、新天新地がはじまる直前にあります。まさしく、不要なものを焼き尽くすのは、新しい世界を迎えるのに必要なことかもしれません。よく私たちは「地獄のように熱い」とか「地獄のような苦しみだ」と言います。しかし、本当の地獄を一度でも見たなら、そんなことは言えなくなるでしょう。また、最大級に怒っていることを「カム着火インフェルノ」と言うそうです。インフェルノというのは、ダンテの『神曲』から来たものです。Infernoは一般に「地獄」と訳されますが、灼熱地獄です。ダンテは地獄篇を書いていますが、まるで見てきたように書いています。神曲によると地獄は逆さ円錐で9層に分かれています。地獄の門に来たとき、「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」ということばがきざまれていました。ダンテは先生に連れられて、第一から第九までの圏谷(たに)を訪れます。私も本を読みましたが、ウィキペディアから少し引用します。第一圏は「辺獄(リンボ)」です。洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす場所です。第二圏「愛欲者の地獄」です。肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流されている。第三圏は「貪食者の地獄 」です。大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれてぬかるみでたうち回っている。でも、礼拝にメッセージにふさわしくないので、最後の第九圏「裏切者の地獄」を紹介して終わります。コキュトス」(嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。そこにはキリストを裏切ったユダがいます。あとはご自分で調べてください。とにかく、ダンテが言うように、地獄の門に来たなら、一切の望みを捨てなければなりません。

 『天国と地獄』という本を読んだがあります。メアリー・バクスターという人は、40日間、イエス様に連れられて天国と地獄を体験したそうです。その手の本が今、いっぱい出版されていますので、「まゆつばもの」と思うかもしれません。もちろん、聖書でないので霊感されていませんが、ポイントだけでもご紹介したいと思います。第一は地獄に下った人たちは激しい苦しみの中で、大変後悔しています。第二は、彼らはイエス様に「犯した罪を悔い改めますから」と懇願しています。しかし、イエス様は「あなたが地上にいた間、私はあなたを私のもとに来るように何度も何度も呼びました。しかし、今では遅すぎます」と答えました。第三は、サタンと悪霊がそこにいて苦しみを増し加えているということです。第四は、彼らは生前犯した罪にふさわしい場所にいます。ダンテの『神曲』と似ています。何年か前に、フランクリン・グラハムという人が武道館でメッセージしたことがあります。「あなたは今晩、心臓が止まっても天国に行ける自信はありますか?」と何度も繰り返し、語っていました。正直、この手のメッセージは好きではありません。人を脅して、信じさせようとしているように思えるからです。もちろん地獄に行かないで、天国に行くことは救いの一局面です。でも、永遠の滅びがあるからこそ、永遠のいのちもあるのです。良い面だけを語りたくなりますが、永遠の滅び、地獄は存在します。死と地獄を免れる道は、イエス・キリストを救い主、主として信じる以外にありません。