聖書の中には、家族、家庭、社会生活、教会のあり方について語られている箇所がたくさんあります。
本日の聖書個所は「イスラエルの民をエジプトから導いたモーセが、シナイ山で神からいただいた「十のことば」、十の戒め「十戒」の中のひとつです。
十戒は皆さんご存知の通り、1.ほかの神々があってはならない、2.偶像を造ったり拝んだりしてはならない。3.みだりに主の御名を唱えてはならない、4.安息日を守りなさい、5.父と母を敬いなさい、6.殺してはならない、7.姦淫してはならない、8.盗んではならない、9.隣人に対し偽りの証言をしてはならない、隣人のものを欲しがってはならないという十の戒めがあります。今日のメッセージでは、この第5番目の戒め、
<出エジプト記 20:12>
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
というみことばを新約聖書のエペソ書でパウロが引用して訓戒している箇所がありますので、そのみことばと照らし合わせながら「父と母を敬う」とはどういう事なのかを考えていきたいと思います。
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聖書を読みましょう。
<エペソ6:1-4>
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
※「父と母を敬うとは?」
第一番目のポイントは、
1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。
・・・ということです。
時代はどんどん変化していきます。
聖書の中でも、旧約時代~新約時代と親の権威は移り変わっていきました。
では、どのように親の権威が移り変わっていったかということを、旧約時代~現代まで見ていきましょう。
Ⅰ.旧約聖書の時代
旧約聖書においての両親の位置づけは、「両親は子どもに対して神の権威を代表する者」 でした。
従って家庭における宗教の教育は、両親に課せられた重大な責任でした。両親は子どもを生んで、ただ育てるだけで親としての責務を果たしているわけではなく、神の戒めを正しく教え、信仰によって養育する必要がありました。そうすることによって、地上における神の代行者としての親の責任を果たすことになりました。
そういうわけで、両親に服従することは神に服従することと同様に考えられていました。
この十戒が与えられた部族時代は、父親の権威は驚くべきものでした。家長であったばかりか、統治の長、軍事的指導者、裁判官でもありました。剣を使っても、法律を使っても、呪いを使っても、子どもを生かしたり、殺したりすることができましたし、子どもに対する権力は絶対的でした。
当時はイスラエルの民たちが自分の所属する部族の一員であると認識することが重要であって、自分自身が何者であるかとか、個人というものは二の次でした。ですから、部族社会では、人はその人自身である以前に父の息子という立場でした。
またこの時代は、子どもの数というのは富と力のしるしでした。
ヨブ記には、家の繁栄のしるしとして、大家族であったことが、羊や牛の群れと同様に書かれています。
そういうわけで、たとえ利己的な父親でも、自分の家族を守るためにそれなりに面倒をみることは当然でした。だから文句のない忠誠と服従とで親を尊敬するように子どもを教育することが可能でした。
Ⅱ.新約聖書の時代
しかし、パウロの時代には大きく変わってきたようです。
そのころの地中海流域は人口が増加し過ぎたようで、必死で子どもを産まないようにする方法が盛んだったそうです。家族生活は崩壊し始めていました。
ですから、パウロはエペソの6章でこの第五戒を引用したときにこのような言葉を付け加えました。
<エペソ6:4>
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
「子どもをおこらせてはいけません。」・・・とパウロは付け加えたのです。
子どもは親に対しておこっても良い時代になったんですね~~。
旧約時代では、無条件に完全に支配できたはずの自分の子どもでしたが、ここでは、親の方にも戒めの言葉があります。親という立場を乱用することがないようにして、しっかり子どもを育てなさいと書かれています。
旧約の時代とはかなり違っていますね。旧約時代は親に対して子どもが意見するなどということは考えられなかったはずですが、パウロの時代には子どもが親に対して、自分の考えを言えるようになってきたということでしょうか。
Ⅲ.近世~近代(モダニズムの時代)
では次に、啓蒙思想などが出てきた中世は割愛して、もう少し新しい時代18世紀~20世紀あたりの近世~近代では親の権威はどのようになっていったかを見て行きましょう。
19世紀の文学者グリム兄弟の作品のひとつに「としよりのおじいさんと孫」という話があります。
このお話はこの時代の様子をうまく表していると思いますのでご紹介します。
************** 「 としよりのおじいさんと孫」 *****************
昔、小柄な老人がいた。
目はしょぼしょぼ、手は震え、ものを食べるときはカタカタ食器を鳴らして不愉快な音をたて、うまくスプーンで食べ物を口に入れることができないので、食べ物をテーブルクロスによくこぼした。
他に住む所もなかったので、所帯をもった息子と一緒に住んでいた。
嫁は現代的な女で、家庭の中で年寄りの舅に耐えるべきではないと思った。
「もう我慢ができないわ!私の幸せがダメになるわ。」と嫁が言った。
そこで嫁と息子は老人の腕を優しく、だがしっかりと掴んで、台所の隅に連れて行った。
小さな椅子に座らせ、僅かな食べ物を粗末なボールに入れて渡した。
それから老人は、食卓の方を悲しそうにしょぼしょぼと見ながら、いつも隅で食事をした。
ある日、老人はいつにもまして手が震え、食器を落として割ってしまった。
「豚のように食べるのなら、飼い葉桶で食べなさい。」と嫁は言った。
そこで小さな木の飼葉桶を作り、老人はそれで食べるようになった。
この夫婦には4歳になる息子がいて、二人はこの子をとてもかわいがっていた。
ある日、夫はその子が木切れで熱心に何かを作っているのを見て、「坊や、何を作っているんだい?」
と、尋ねてみた。
「お父さん、ボク、飼葉桶を作ってるの~」
・・・とほめられることを期待して、親の顔をニコニコと見ながら子どもは答えた。
「ボクが大きくなったら、お父さんとお母さんに食べ物をあげるときに使うんだ~ 」
夫婦はしばらく何も言わずに顔を見合わせていた。
・・・それからちょっぴり泣いた。
それから、隅に行くと、小さな老人の腕をとり、食卓に連れ戻した。気持ちの良い椅子に掛けさせ、お皿に食べ物をとってあげ、それからは、音を立てたりこぼしたり物を割ったりしても、文句を言う人はなかった。
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グリム童話は、残酷な結末が結構多いのですが、この話はわりと爽やかな結末ですね。この小話が語っているのは、「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」という戒めのようですね。
この時代は、「モダニズム(近代主義)の時代」と言われています。
モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動を指しますが、思想や体系としては、権威主義的なものから啓蒙主義を経て人間の理性中心へと変わって行った時代です。人間中心、進歩主義、産業中心、画一化といわれるこの時代は、良くも悪くも人々は団結し、みんなが信じる共通の真理がありました。また、一つの目標に向かってみんなで進むことができた時代でした。科学なども発達しました。
ですから、親の権威に関してもこのグリム童話のように、
「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」
と言われると「ああ、やっぱり親は大事にしなきゃね。」「そうだね。」とみんなが思うことができました。
親の権威に関しても、かろうじて「あった」と言えます。
Ⅳ.現代(ポストモダンの時代)
では現代、21世紀はどうでしょうか。現代は近代の後の時代、「ポストモダンの時代」と言われています。
ポストモダンは、みんなで共通の真理を持つことがなく、中心になるものもありません。個々が自由に動き、自分の価値観を大切にする時代です。おのおの大切にするものが違いますから、先ほどの小話のように、両親を大事にしている姿を自分の子どもにばっちり見せて育てたとしても、将来思ったように自分を大事にしてくれるかどうかは怪しいですよね・・・。
「親の権威は地に落ちた」と言った感もありますが、正しく言えば画一化されていた近代の“親の権威”という言葉に対する認識が、現代は変わってしまったということかもしれません。
ですから、「親の敬い方もそれぞれでいいじゃないか。田中さん家や鈴木さん家がこうでも、うちはこれでいいじゃないか。」と考えるのです。
しかしここで大切なのは“聖書は何と語っているか”ということです。
聖書は
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「両親に従う」ということは「正しいこと」だとパウロは言っています。
「正しいことだからです。」とはっきり言われると、何にも言えなくなりますね。
しかもここでは、「両親の面倒をみなさい。愛しなさい。」とか言っているのではなく、「従いなさい」なのです。
ポストモダンの時代は曖昧な時代でもあります。
「みんな違ってみんないい」という言葉や、「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉をよく聞きますが、“互いの価値を認め合う” という点ではとても聖書的で素敵だと思いますが、注意する必要もあります。
例えば、「いろんな考えがあるからパパは君の考えを尊重するよ。パパはパパ。君は君。もし君がパパに従いたいと思ったら従えばいいよ。」と言ってあげたいけれど、そうなると聖書のみことばの本来の意味からずれてしまいます。聖書は旧約の時代から一貫して「あなたの父と母を敬いなさい」と語っています。
ですから、「いやぁーん、もう!イエス様の言う事もパウロの言う事もこの時代にマッチしてないし、ちょっと変えてみてもいいんじゃない?“あなたの父と母を敬いたかったら敬いなさい”とかに・・・。」
などと言いたくなっても、聖書のみことばは永遠で、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めは、変更不能の戒めなのです。
ですから、父と母を敬うとはどういうことなのかを、世の風潮に惑わされないで聖書のみことばを読み返し、神様に祈って聞いて実行する必要があるのではないでしょうか。
※「父と母を敬うとは?」 第一番目のポイント
1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。
・・・ということでした。
しかし今までの話は、理屈や頭では理解できても、実際に両親を敬い従うことを実行に移せるのかというと、いろいろと難しい問題があります。
例えば、両親の仲が良い円満な家庭に育てば、子どもたちも自然と、両親を敬い、従えるものですが、とてもじゃないけれど、両親のどこをどう見たら敬うことができるのだろうか?という家庭に育った人には、このような主の命令は苦痛でしかありませんね。
また、天涯孤独に育った人、敬いたくても両親はもうすでに亡くなってしまった人もいます。
「この聖句は自分には全く当てはまらない」と感じておられる方は、どう受け取れば良いのでしょうか。
※「父と母を敬うとは?」
第二番目のポイントは、
2.みことばの本質を知り幸せになりましょう
実はこの聖書の「父と母」とは自分の両親のことを指しているだけではないのです。
ウエストミンスター大教理問答という、改革派の教理問答がありますが、そこにはこう書かれています。
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<ウエストミンスター大教理問答 問124>
問124 第五戒の父や母とは、だれのことであるか。
答 第五戒の父や母とは、本来の両親ばかりでなく(1)、すべて年齢(2)や賜物(3)での上の人、特に家庭(4)・教会(5)・または国家社会(6)のいずれであれ、神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指すのである。
(1) 箴言23:22,25、エペソ6:1、2 (2) Ⅰテモテ5:1,2 (3) 創世4:20,21,22、45:8
(4) 列王下5:13 (5) 列王下2:12、13:14、ガラテヤ4:19 (6) イザヤ49:23
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第五戒の父と母とは、「神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指す」
と、広い意味ではこのように考えられています。
ということは、とんでもない上司にも、大嫌いなあの人にも、従わなければならないのか?!
・・・ということになりますね。
ではなぜ、神様はそこまで、権威に従い敬いなさいと言われるのでしょうか。
聖書の次のみことばを見て行きましょう。
<エペソ6:2-3>
6:2
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
・・・権威に従い敬いなさいと主が言われるのは、私たちがしあわせになるためなのです。
出エジプトに書かれているモーセの十戒では、「あなたの齢が長くなるためである。」とだけ記されていますが、申命記5:16に書かれている十戒には、「それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」と、「しあわせ」という言葉が加えられています。
この「しあわせ」とは、どのような状態になることを言っているのでしょうか?
世の人々がうらやむような生活の事をいっているのでしょうか?財産や地位や名誉を得ることでしょうか?
それも祝福ですが、「本当の幸せ」とは、「神様とともに歩む」ということではないでしょうか。
イエス様を信じて、クリスチャンになっても、私たちの人生には辛いことがたくさんふりかかってきます。でも、
そんな時でも不思議と心に平安があったり、立ち上がる力が湧いたりするのは、私たちの創造主、完全で、真実で、永遠なるお方、主がともにおられるからです。イエス様が私たちのくびきを負ってくださるからです。
権威上私たちの上にある人は、神様が権威を与えた人なのです。また、神様は私たちにとって最高の権威者です。神様は私たちの父と母でもあるということです。「あなたの両親に従いなさい、父と母を敬いなさい。」というみことばは、神の戒めに従いなさいということです。神様からの戒めを守ることによって、私たちは神とともに歩む幸せと、神からの大いなる祝福を得るのです。また、その幸せは、愛の連鎖となって、私たちの周りの人をも幸せにしていきます。
そしてその幸せは教会にも広がっていきます。
先ほど現代はポストモダンの時代だという話をしました。現代は個人主義の時代ではありますが、「誰かと何かを共有したい。どこかで繋がっていたい。」と思うのもポストモダンの特徴です。ですから、FacebookやMixiなどのソーシャルネットワークなどが盛んになるのです。私たちは何か共有するものを見つける時、無意識に良いものを選びとろうとします。教会は、主に在って人と人とがリアルに繋がることが出来る場所です。
教会を知らない人たちが、この亀有教会に繋がっていたいと思うような場所にして行けるといいですね。
そのためにも、主の戒めに従うことが大切です。神様は私たちに素晴らしい命令をくださっています。
聖書に書かれている神のご命令は、時には厳しく耳が痛いこともありますし、理解しにくい箇所もあります。でも、すべての命令が、私たち人間が幸せになり、豊かになるようになるためのものばかりなのです。
2番目のポイントは、
2.みことばの本質を知り幸せになりましょう
でした。
最後に三つ目のポイントです。
3.親の務めを果たしましょう
もうひとつ、大切な事をパウロは語っています。
<エペソ6:4 >
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
聖書は、子どもに対して父と母を敬いなさいという戒めを与えるとともに、父や母なる立場である人々、権威上、上の立場となる人々にも、訓戒を与えています。
「子どもをおこらせず、主の教育と訓戒によって育てなさい」
「子どもを育てる」ということは、愛と忍耐がなければできないことです。子どもは何度でも失敗をします。
その失敗を大きな愛で赦し、慈しみ、導かなければなりません。また子どもはまったく私たちの思い通りにはなりません。私も一人ばかり子どもがおりますが、何かあるたびに親として責任を感じてしまうような時も多々あります。また、会社で言えば、手塩にかけて育てた部下が恩を仇で返すような形であっさりと辞めてしまったり、裏切られたりということもあります。
親の立場に立つ人たちはいろんな葛藤を覚えながらも、イエス様を模範として子どもたちを導いていかなければなりません。
イエス様は弟子たちをどのように育てましたか?
イエス様は、当時地位の低かった女性や子どもたち、疎んじられていた病人たちや、奴隷たちにどのように接して育ててくださいましたか?
このポストモダンの時代に、権威が失墜しつつある状況の中で私たちは子どもを、部下を、自分より弱い人や守らなければならない人たちをどう育てていけばいいのでしょうか?
エペソの6章でパウロはこのあと、奴隷と主人に対して訓戒し、このみ言葉が記されています。
<エペソ6:18>
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
主のみことばに聞き従い、父と母を敬っていきましょう。そして、幸せになりましょう!!