2011.9.25「三つの誘惑 Ⅰヨハネ2:15-17」

先週は毛利佐保伝道師が、教えの賜物をフルに発揮して、良きメッセージを取り次いでくださり感謝します。私もCDで聞いて大変、教えられました。きょうは、3つの誘惑と題して、ヨハネ第一の手紙からメッセージさせていただきます。この世の背後には悪魔がいて、何とか私たちを「神さまから離そう、離そう」とやっきなっています。悪魔は私たちの自由意思はコントロールできません。だから、人々が手に入れたい欲望を目の前に置いて、それを自らの手で選択させ、罪の中に招き入れるのです。この3つの誘惑は不思議なことに、聖書の始めと真中、そして、終わりの3箇所に書いてあります。創世記3章はアダムとエバが誘惑に負けた記事です。そしてマタイ4章はイエス様が悪魔から誘惑を受けて勝利した箇所です。きょうは、それらの記事も参考にしながら共に学びたいと思います。

1.肉の欲

第一は肉の欲、肉体に対する欲望です。創世記3章に何と書いてあるでしょう。創世記3:6「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く」と書いてあります。エバはその木の実を見て、「ああ、美味しそうだなー、一口、食べてみたいなー」と思ったのです。私たちもデパ地下を歩いていると、「わぁー、美味しそうだなー」と思うものがいくつもあります。マタイ4章で悪魔はイエス様をどのように誘惑したのでしょうか?イエス様は40日40夜、断食をして空腹を覚えておられました。そういう人には何が必要でしょうか?マタイ4:3「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と誘惑しました。お腹が減ると、丸い石が、丸いパンに見えてくるでしょう。イエス様は石をパンに変えるくらい、何でもありませんでした。しかし、それをしないで、「人はパンだけで生きるものではない、神のことばである」と退けました。すごいですね。アダムとエバは誘惑に負けましたが、イエス様はその誘惑に勝利しました。

では、私たちはどうでしょうか?「肉の欲」とは、食欲だけではありません。性欲もあれば、いろんなものを消費することの喜びも含まれます。女性は一般的に食欲に弱いですが、男性は性欲に弱いかもしれません。テレビのCMを見て多いのは何でしょう?ビールのコマーシャルが非常に多いですね。他にコーラー、ハンバーグ、ケンタッキー、チョコレート、カレー、カップラーメンがあります。また、グルメ番組や産地直送のTVショッピングがあります。バスでも観光や温泉だけではなく、産地のものを食べられるバイキングがセットになっています。カニやステーキ食べ放題。梨、桃、いちご、みかんの食べ放題。それで、5,980円なんて言われると「行こうかなー」と思います。行ったらどうでしょう?「元を取らなくちゃ」と腹いっぱい食べるでしょう。私は先週、大津バプテストのセルの会議が終った後、明石の井上先生が牧会している教会に行きました。土曜日の朝と夜、近くのレストランに行きました。そこはバイキング形式で、食べ放題でした。私は貧しい家庭で育ったので、どうしても、お皿にいっぱい盛ってしまいます。家にいるときは、粗食なんですが、外に出るとどいう言う訳か食べたい。井上先生から「そんなに取るの?」と笑われました。やっぱり、心の奥底に「元を取らなければ」という思いがあるんですね。

戦後は、とても貧しかったので、食欲に弱いという人はいるかもしれません。町を歩くと、「うぁー、ウェート、オーバーしているんじゃないの」という人が結構いらっしゃいます。今は、食べられなくて困っている人はあまりいません。逆に、「ダイエットして、痩せたい」と言う人が大勢います。現代は消費文明です。どれくらい多く消費するかが喜びになっています。文明国になればなるほど、ゴミや生ゴミが増えてきます。人々は大きな胃袋を抱えて、「もっとくれ、もっとくれ」と叫んでいます。私も近くのアリオのヨーカドーに行くときがあります。前の人の籠を見ると、「え?そんなに食べられるの?」と、驚くことがあります。どうして、必要以上に、食べたり、飲んだりしなければならなのでしょう?それは心の奥底が満たされていないからかもしれません。イエス様は「この水を飲んでも、また渇く」と言われました。また、イエス様は「私の食物は、父の御心を行うことです」とも言われました。私たちは、この世のものだけではなく、神さまがくださる食べ物や飲み物も必要です。もし、心が満たされていないならば、食べても飲んでも満足しないばかりか、それらの中毒になってしまいます。大体、この世のものはみな、中毒性があります。お酒、マックのハンバーグ、ポテトチップス、コーラー、コーヒーも中毒性があります。私たちはそれらのものを「急にやめろ!」と言われても無理です。その代わり、心を満たす、神のことば、神の飲み物を内側に入れます。そうすると、この世が与える、肉の欲を欲しがることが抑えられるのです。

2.目の欲

第二は目の欲です。創世記3章で、エバはどうだったでしょう。創世記3:6「目に慕わしく」と書いてあります。マタイ4章ではどうでしょうか?悪魔はイエス様に対して「神殿の頂から、飛び降りてごらんなさい。神の御使いがあなたを支えるから」と言いました。何故でしょう?その当時、メシアは神殿の頂から、突然、現れ、大いなる奇跡を行うことが期待されていました。子供のヒーローものがみなそうです。ヒーローはどういう訳か、崖の上とか、ビルの上など、高いところに現れます。そこで、自分の名前を名乗り、「ひゅー」と飛び降りてきます。イエス様も奇跡を行なって、人々を驚かせて、「私がメシアだ」と言えば、言えたはずです。でも、イエス様は「主を試してはならない」と、それを拒まれました。人の注目を集めたい、パフォーマンス指向、皆さんにもあるのではないでしょうか?AKB48も、カラや少女時代もパフォーマンスが売り物です。私も、なぜ、そんなに詳しいのでしょう?

目の欲はだれにでもあります。これは容姿ということです。女性ですと、「もっと美しくなりたい」ということです。男性ですと郷ひろみのように「いつまでも、かっこ良くありたい」ということです。テレビCMでは、やはりお化粧のコマーシャルが多いですね。アイシャドー、マスカラ、ファンデーション、化粧水…色んなので化けた後、それをさっと洗い流すものもあります。だったら、はじめからしなければと思いますが、そういう訳にもいきません。たまに、電車でお化粧している若い人を見ます。ずっと、目をいじっている人がいます。最初は、目を大きく開け、アイスクリームを取り出すような機械で何かやります。それから、黒い棒で伸ばし、最後にアルミのような板で整える。目だけで、20分かかります。髪の毛や顔を入れたら、たぶん1時間はかかるのではないでしょうか?それよりも、「中味を磨け」と言いたくなります。しかし、男性にも人によく見せたいという欲望があります。使徒の働き12章にヘロデという王様が出てきます。彼はヤコブを剣で殺したあと、ペテロをも捕らえにかかりました。使徒12:21-23「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」とあります。使徒パウロは普通にしていたのですが、ヘロデは自分を何か偉大な者であるかのように見せたかったのです。

目の欲とは容姿だけではありません。ある聖書の訳では「心が切望しているもの」とあります。肉の欲が肉体に関することであるなら、目の欲は心や思いに関することであります。「目は心の窓である」とイエス様がおっしゃいました。その人が何を欲しているか、何で満たされたいのか?それは、「心が欲しているものである」と言い換えても良いのです。どうして、人々は目立ち立ちことをしたいのでしょうか?それは、たぶん人々からうとんじられたり、無視されて育ったからかもしれません。あるいは価値がないと思われていたかもしれません。そうすると、「私はここにいますよ」「私はこれだけ価値がありますよ」とアピールしたくなります。「人から認められたい。」「人から重要な人物と思われたい。」そういう思いはだれにでもあるのではないでしょうか?だから、人々は一生懸命、働いたり、良いことをします。それで、正当な評価を得れば満足しますが、ある場合は、認められない場合があります。そういうときは、失望落胆し、この世を恨むかもしれません。もし、人の評価で自分の価値を量るならば、どうなるでしょう?エレベーターのように、上がり下がりするような人生になるでしょう。テレビに出てくる人たちは、人の拍手喝采の量で自分の価値を評価しています。彼らはエンターティナーですが、私たちはそうであってはなりません。イエス様はメシアとして、まだ何もしていないのに父なる神さまから何といわれたでしょうか?マタイ3:17「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」。イエス様はまだ、何もしていないのに、父なる神さまから是認され、評価されていたのです。行いではなく、存在そのものが認められていたのです。だから、サタンから誘惑されても平気だったのです。私たちも、「神さまがどう私を見ておられるか、どう思っていらっしゃるか?」ここに焦点をあわせるなら、目の欲に誘惑されることはありません。

3.暮らし向きの自慢

第三は暮らし向きの自慢です。口語訳は「持ち物の誇り」と訳しています。これを持ったら、「幸せになるだろうなー」という物です。アダムとエバはどうだったでしょうか?創世記3:6「賢くするという木はいかにも好ましかった」。これは、神の代わりに善悪を知ることができるということです。人間はより多くの知恵や知識を持ちたいという欲望があります。では、イエス様の場合はどうだったでしょうか?マタイ4章、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて何と言ったでしょう。マタイ4:9「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言いました。ルカ福音書には「それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言っています。イエス様はここで、「馬鹿こけ、これは神さまのものだ」とは言いませんでした。悪魔は本来、人間のものであったものを、人間が罪を犯した後、横取りしていたものと思われます。つまり、この世の物の背後には、悪魔がいるということです。

私たちは自分が何を持っているかによって、自分を量る傾向があります。昔、自分が小さな貿易会社に勤めていたころ、社長の車を運転したことがあります。クラウンを運転していて、自分が何か特別な存在のように思えました。たまにアウディに乗っている人を見ると、私などは振り返ってしまいます。乗っている人は「ああ、振り向かれたかなー」と思うかもしれません。女性ですと、ハンドバックとか、指輪、洋服、靴、そういうもので自分の価値を高めることはないでしょうか?高級品を身につけていると、「自分はすごいんだ」と思うのではないでしょうか?また、住んでいる家はどうでしょうか?一戸建てでお庭がついている、○○ハウス。いや、注文住宅。家の中は高級な家具調度品。大塚家具というのは結構、高いですね。「いや、うちはニトリで良い」という人もいるかもしれません。やっぱり、暮らし向きの自慢というのは、人間の中にあります。携帯でも新型を持っているだけで気分が良いのではないでしょうか?世の中は、「これを持ったら、リッチな気分を味わえますよ」「これを買ったら、快適な生活を送れますよ」と誘惑してきます。ある人たちは、大きな借金までして、そういう生活をしようとします。生活のレベルを上げ過ぎたため、破産状態になっている人もいます。

私たちはこの地上で生きるためにいろんなものが必要です。家や車、家財道具、電化製品、衣類、装飾品、無いよりもあった方が良いに決まっています。でも、なぜ、これが誘惑になるのでしょうか?それは神さま以外のものに頼ってしまうことになるということです。物があれば大丈夫、お金があれば大丈夫。そうすれば、神さまに頼る必要がありません。そして、自分が持っているものをどうしても誇りたくなります。持てば持つほど、プライドも高くなり、神さまは低い存在になります。ベン・ウォン師のおじょうさんがネパールへ短期宣教に行ったことがあるそうです。今から、10年以上前です。当時のネパールは非常に貧しく、不衛生な国でした。おじょうさんが、テントに泊まったら、なんとサソリが入ってきたそうです。もちろん、おトイレも粗末で、穴がぽこんと掘られ、ちょっとした囲いがあるだけです。お嬢さんは、またネパールに行きたいと言ったそうです。若い人は欧米を旅行するよりも、カンボジアやバングラディッシュに行ったほうがよっぽど勉強になるかもしれません。おそらく、人生観が変わります。でも、現代文明を全部否定して、貧しくなるというのは不可能です。私たちはそういう生活に慣れてしまいました。贅沢はよくないかもしれませんが、ある程度のものはやはり必要です。でも、物があれば快適で幸せかというと、それだけではないということも知る必要があります。イエス様は金持ちの人に「人の命は持ち物によらない」と言われたことは真実だと思います。

結論:

ヘンリ・ナーウェンという人の本が日本の牧師たちの間でとても読まれています。銀座の教文館にもたくさん並べられていました。彼はオランダのカトリック司祭で、大学教授でした。50代になってから霊的な不安を体験し、知的障害者の施設で働くようになりました。彼は自分の知識や体験が通用しない世界に放り込まれました。その生活を通し、自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の関心を集め、権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを知ったということです。ヘンリ・ナーウェンも「イエス様が受けたような誘惑をそこで受けた」と、ある本に書いてありました。第一は「自分の能力を示すこと」、第二は「人の関心を買うこと」、第三は「権力を求めること」です。彼は20年間もイェールやハーバード大で教え、また司祭でした。彼はたくさんのものを持っていたので、人々を教えることができ、導くことができると思っていました。しかし、知的障害者の施設で働いてみて、そういうものが全く役に立たないことを知ったのです。そして、能力を示すことから祈りへ、人気を求めることから仕えることへ、導くことから導かれることへと変えられたのです。イエス様も神の子でしたから、奇跡を行い、パフォーマンスし、天国の奥義を示すことができました。しかし、地上の人たちは、地上のことしか分かりませんでした。「今、食べられれば良い。」「この病気が治れば良い。」「生活が豊かになるように祝福してください」というものでした。現代の教会もある意味では、人々に一時的なものを提供して終っているところがあるかもしれません。人が集まっている大きな教会は良い教会。設備やスタッフが充実しているのは良い教会。そのように祝福された教会が人々に祝福を与えることができる。「だから、神さま、もっと私たちを祝福してください。もっと私たちに力を与えてください。もっとあなたの奥義を示してください」。何か、似ていることをしているように思います。

イエス様は「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言われました。私たちはこの世がいつか滅びることは知っています。しかし、世にあるものは、いつまでも続くと勘違いしているのではないでしょうか?「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」今さら、驚きます。「え、神さまがくださったものじゃないのですか?」では、一体、だれがくれたのでしょうか?それはこの世の神である悪魔です。悪魔はこれら地上のものをつかませ、これがすべてであるかのように思わせます。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢こそが、いつまでも続くものであるかのように思わせます。これらの欲に捕まった人たちはどうなるのでしょうか?この世のものを愛すれば愛するほど、神さまを愛さなくなります。私たちの心が1つの部屋だとすれば、どうでしょう?そこにいろんな欲望や関心ごとがつまっています。あるとき、KGCの交わり会がありました。そこで、自分が今、願っているものを証ししました。ある人が「オーブンが欲しい」と言いました。私は「プリンターが欲しい」と言いました。「良い仕事が見つかるように」と言う人もいました。そこでは、だれも言いませんでしたが、結婚相手が欲しい人もいたでしょう。そうすると、心の中に神さまのおられるところはどこになるのでしょうか?神さまが家具調度品の裏側に追い込まれるかもしれません。なんと、私たちの関心ごとはこの世のものなのでしょう?悪魔はその点で、本当に成功しています。日本中、いや、韓国もアメリカの人たちも、「これを持てば幸せになれる」「これをしたら人々から注目される」と誘惑され、それに負けています。どうぞ、この世とこの世のものは過ぎ去ることを認めましょう。

では、一体、何が永遠に続くのでしょうか?Ⅰコリント13章に書いてあります。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」アーメン。この世のものがすべて悪いと言っているのではありません。私たちは所有者ではなく、過ぎ行くものの管理人であることを自覚すべきです。そして、これらのものを、信仰と希望と愛のために用いるのです。そうすると、それらのものを自分の欲を満たすのではなく、神さまと隣人のために用いることができます。そうするとその人は、世のものの奴隷ではなく、むしろ管理者です。ハレルヤ!イエス様はマタイ6章でこのように言われました。マタイ6:32-33「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神の国とその義を第一に求め、優先順位を立てながら、この世の誘惑に勝利していきたいと思います。