2011.10.2「反キリスト Ⅰヨハネ2:18-23」

中東問題は、世の終わりの目印と言っても過言ではありません。今、パレスチナ自治区が国として認めて欲しいと、国連に求めているようです。アラブ諸国はイスラエルを共通の敵とみなして、パレスチナを後押ししています。おそらく、アメリカはパレスチナの国連加盟に対して、拒否権を行使するでしょう。そうしないと、イスラエルを強硬姿勢に追いやることになるからです。しかし、結果的に、オバマ大統領はアラブ諸国に対して、信用をなくし、大変苦しい立場になります。聖書は、イスラエルが孤立した後、大規模な戦争になると預言しています。その後、一人の人物が現れ、中東の紛争を終らせます。世界中から英雄としてもてはやされたその人物こそが、反キリストのかしらであります。私たちは今後のニュースに注目すべきであります。

1.反キリスト

ヨハネは終わりの時に、反キリストが出現すると言っています。マタイ24章にも同じことが書かれています。反キリストとは何でしょう?まず「私がキリストである」と人々を惑わす人です。人々を偽キリストの方に誘って、本当の信仰を与えないようにします。さらには、本当にキリストを信じる者に対して、迫害を加え、根絶やしにしようとします。ヨハネは紀元後100年近くまで生きていました。その当時、グノーシスという異端が力を増し加えていました。グノーシスとは元来、知識という意味ですが、神秘的なことをして深い知識を求めます。彼らにとってキリストも深い知識を求める1つの方法でありました。しかし、いろんな神々や天使、諸霊を混合させた怪しげな宗教でした。彼らは、聖書よりも、神秘的な体験で得られる悟りを求めていたので、だんだん本質からずれて行きました。最初はキリスト教会の中にいたと思われますが、そこから出て行き、別の群を作ったものと思われます。しかし、ヨハネは「彼らはもともと、私たちの仲間ではなかったのです」と厳しく言っています。

この世の多くの宗教は、いろんな神々、諸霊を合体させています。日本にはインドの神さま、中国の神さま、日本古来の神さまを寄せ集めて、ご本尊にしているものもあります。彼らは1つよりも、大勢いた方が、御利益があると思っています。近くに、柴又の帝釈天があります。帝釈天というのは、密教の守護神で、インドから来た神さまです。毘沙門天もインドや中国から来た、戦いの神さまです。仏教でも密教というのがありますが、大乗仏教と違い、非常に神秘的です。修行を積んだり、呪文を唱えたり、癒しや奇跡も行ないます。新興宗教にも、そのような共通したところがあるようです。しかし、現代において最も驚異的なのがニューエイジの出現です。ヨーロッパのキリスト教会は非常に低迷しています。スペインなどでは若者たちは教会に行かないで、東洋の禅とか、霊的な体験を求めているそうです。ニューエイジはオカルト、チャネリング(死者と語る交霊術)、呪文が含まれます。彼らもキリストを認め、自分も神さまの子どもであるとまで言います。しかし、彼らの神さまは私たちのような人格を持っていません。彼らの救いは、宇宙の大霊なる神と一体化することです。自分が神の一部になり、神が自分になる汎神論的なものです。ニューエイジは音楽や科学、マンガ、ゲームにどんどん入り込んでいます。ヒーリングの音楽の半分以上はニューエイジです。筑波大学の村上和雄という人は『人は何のために祈るのか』『生命の暗号』などの本を書いていますが、完全なニューエイジです。また、子供たちのマンガやゲームもニューエイジの影響を受けています。「セーラー・ムーン」「遊戯王」「ジョジョの奇妙な冒険」というマンガがありました。彼らの特徴は自分ともう1人の自分がいることが特徴です。もう一人の自分は霊であって、特別な力を備えています。自分が戦うというよりも、自分の分身である霊(スピリット)が戦うというような構造です。映画ですと「マトリックス」「インセプション」もその部類です。サタンは仮想の現実を作らせ、そこがまるで現実であるかのように思わせます。ホーム・ページを見ますと、「自分は天使の一人だ」と完全に行っている人もいます。

 では、なぜ、本当の信仰から離れ、異端の方に走ってしまうのでしょうか?1つは教理の1箇所だけを極端に強調し、他の教理を捨ててしまうことです。エホバの証人というキリスト教の異端がありますが、彼らは地獄のさばきを否定しました。その代わり、14万4000人の中に入って、千年王国を受け継ぐことが彼らの救いです。キリストも神さまではありますが、エホバである神様から造られた低い存在とみなされています。彼らは神さまを「エホバ」と呼びますが、それは不可能です。エホバはイスラエル民族が呼んだ神さまの名前であり、私たち異邦人は無理です。私たちはイエス・キリストという贖い主がいてこそ、神さまに近づくことができるのです。そして、私たちは神さまをエホバではなく、「天の父」「お父さん」と呼びます。また、異端の特徴は霊的な体験、預言、さまざまな奇跡を強調します。私は奇跡や預言も信じています。しかし、聖書が土台であり、聖書の方が勝っていることを疑いません。マルコ16章には「みことばに伴うしるし」と書いてありますから、みことばが第一で、しるしや奇跡はそれを証明するものです。しるしや奇跡はおまけであり、あれば良いけれど、なくても良いのです。今、預言喫茶というのがとても流行っているようです。コーヒーを一杯注文したら、預言をしてくれるクリスチャンがやっている喫茶店があるようです。私は預言を否定しません。神さまは今も、預言を通して語られるでしょう。でも、クリスチャンが基本的にしなければならないことは、毎日、聖書を読んで、そこから神の御声を聞くことです。自分でちっとも聖書を読まないで、「預言してください」とあちらこちらに行くのはとても危険です。その人は、占いの霊にはまってしまうでしょう。多くの預言は、私たちが既に神さまから語られていることの確認であります。「ああ、やっぱり神さまはわかっていてくださったんだ」というものがほとんどです。

 世の中はますます終わりに向かっています。そうしますと、隠れていたものがだんだん表面化し、反キリスト的なものがどんどん出てきます。これまでは、密かに騙していましたが、仲間が多くなると、信仰を持っているクリスチャンを真っ向から攻撃してくるでしょう。そこで、私たちは自分が持っている信仰が本物なのか、偽物なのか試されるでしょう。多くの教会がそう言うから本当だろうと考えないでください。日本の半分以上の教会は「聖書は誤りなき神さまのことばである」と信じていません。かろうじてキリストの十字架の贖いを信じているかもしれません。しかし、アダムとエバの歴史性、処女降誕、数々の奇跡、終末論は信じていません。聖書のある部分は理性が受け付けないので信じないのです。私たちは理性を尺度にしてはいけません。それは啓蒙思想が唱えたことです。私たちは聖書がそう言うなら、「アーメン」と信じるしかありません。私は宗教ということばはあまり使いたくありません。しかし、あえて言うなら、キリスト教は聖書の宗教、永遠に変わらないみことばに土台した宗教です。そして、聖書の中心は、私たちのために十字架にかかり、3日目によみがえられた、イエス・キリストです。ですから、私たちは聖書を土台とした教会にちゃんと留まるべきです。虫のように、甘い水を求めて、さまよっているとパクっと食べられてしまいます。自分が洗礼を受けて、属している教会を母教会と言います。他の教会から来られて、客員として留まっておられる。そういう方を決して拒みません、歓迎します。でも、教会員として、メンバーシップがあるなら、相互責任があります。ある場合は、指導や訓戒を受けるかもしれません。でも、お客さんには決してそういうことはしません。「縛られるのが嫌だ、自由にさせて」という人は構いません。でも、世の終わり、ますます誘惑が強まり、反キリストが横行してくるでしょう。イエス様はヨハネ10章で「私の羊は私の声を聞き分けます。また私は彼らを知っています。そして彼らは私について来ます」と言われました。

2.偽り者

 Ⅰヨハネ2:23「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」私たちは神さまのところへどのようにして行くことができるのでしょう。イエス様はヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。なぜ、イエス様以外には、神さまのところへ行けないのでしょうか?このことはとても重要です。旧訳聖書において、イスラエルの民は神さまから特別に選ばれていました。彼らは律法と儀式という古い契約によって、神様に近づくことができました。しかし、私たちは異邦人であり、イスラエルの民ではありません。では、イスラエルの民だったら大丈夫なのでしょうか?いえ、彼らも律法を全うできなかったので、やはり、イエス・キリストが必要です。すべての人類は罪の中にあるので、キリストの贖いがなければ、神さまのもとへ行くことができないのです。では、その人が本当に信じて、救われているのか、どうやって分かるのでしょうか?

 聖書は、「御子イエスを告白するか、それとも否認するか」が決め手であると言っています。では、御子イエスを告白するって何でしょう?Ⅰコリント12:3「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」とあります。主というのはギリシャ語でキュリオスと言いますが、当時、ローマ皇帝がキュリオス、主であり、神的存在でした。ヨハネの頃は、ものすごく迫害が強くなりました。もし、人が「イエスは主である」と言うならば、ローマ皇帝は主ではないということになります。もし、それを公に告白するならば、捕らえられて火あぶりの刑にされるかもしれません。ですから、その時代、「イエスは主」と言うことは命がけだったのです。でも、キリスト教が国教になって平和な時代がやってきたらどうでしょうか?「イエスは主です」「私はイエスを信じます」と告白しても、本当にそうなのか分かりません。口で告白しても心ではそうでないかもしれません。また、信じると言っても、どの程度、信じているのでしょうか?ある曲芸師が、ナイアガラの滝の両側にロープを張って、その上を渡ったそうです。その後、大勢の人たちに向かって「私は一人の人を背負って、向こう側に渡ることができるでしょうか」と言ったそうです。人々は「ああ、きっとできるでしょう」と賛成しました。曲芸師は「できる」と言った人に、「では、私の背中におぶさってください。あなたを背負って行きましょう」と言いました。すると、その人は「無理」と断ったそうです。曲芸師は他の人にも呼びかけましたが、一人もいませんでした。最後に、曲芸師の息子が彼に背負われて、向こう側まで無事渡ったということです。信じるというのは、頭で信じるのではありません。「ひょっとしたら死んでしまうかもしれない」と自分の存在をかけて信じるのが本当の信仰です。でも、イエス様は私たちを決して裏切るようなお方ではありません。私たちは真実でなくても、彼は常に真実だからです。

 では、偽り者とはどういう人でしょうか?ヨーロッパやアメリカでは、洗礼を受けていても、クリスチャンである人がとても少ないと言われています。日本の仏教と同じで、「うちはキリスト教だよ。幼児洗礼も受けたよ」と言います。でも、個人的にキリストを救い主として受け入れていません。聖書は1つの物語であり、良くても哲学か思想です。彼らにはキリスト教の文化や思想があります。「神はおられる。隣人を自分のごとく愛せよ。」くらいは信じています。でも、頭の中は、この世の考えでいっぱいです。合理主義、ヒューマニズム、功利主義に満ちています。この世で成功をおさめ、お金持ちになることが第一です。教会でも毎週、そういうことを話しています。特にアメリカの大教会ではそうです。しかし、偽り者とは、もうちょっと高度だと思います。自分はクリスチャンであると名乗りながら、実はそうではないということです。彼は自分だけが偽り者ではなく、裏で、偽り者を増やすことをしています。聖書では、「毒麦」「ヤギ」「パン種」などとも言われています。私は今の時代、霊を見分ける賜物が本当に必要だと思います。いろんな癒しや奇跡を行い、預言や異言を話したとしても、それが本当に神の霊から来たものなのか?あるいは、悪魔から来たものなのか見極めることが必要です。反キリストの組織は、偽り者を正統的な教会にもぐりこませ、内部から分裂させていくということも聞いたことがあります。表面から見たら、熱心なクリスチャンかもしれません。でも、内部はそうではない。そういうこともありえるのです。

 では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ2:24「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」ヨハネは初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい」と言いました。逆に言うと、「新しい教え」は危険であるということです。私もそうですが、牧師や教師が教えている教えは、新しい教えではありません。聖書にはじめから語られていた教えを、再発見し、それを、洋服を変えて語っているに過ぎません。伝道者の書1:9-10「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。」アーメン。16世紀、ルターは信仰義認を唱えましたが、ちゃんとパウロが語っていたことです。18世紀、ジョン・ウェスレーが聖化(きよめ)ということを唱えましたが、聖書が教えていたことです。20世紀、ペンテコステ運動が起こりましたが、やはり聖書で言われていたことです。今は、セルチャーチとかハウスチャーチなどと言われていますが、そういう教会論は新約聖書にあったことです。私たちは「むしろ、聖書に立ち返ろう」と教えています。内容は古くて同じものですが、伝え方とか、方法論が新しいだけです。でも、本質的なものは全く変わりません。

松戸に岡野先生という牧師がおられます。私たちの常磐セルの仲間から、「仙人」と呼ばれています。ほとんど現在のキリスト教会の神学とかには興味がなく、ただ、聖書を信じて、それを行うことに徹しています。私は1996年から「教会は共同体だとか、人間関係だ」とか言ってきました。しかし、岡野先生ははじめから、関係中心の伝道をしていました。地方に行くと歌っている賛美も古くて、話している内容も古いなーという教会もあるでしょう。確かに、方法や手段は古いかもしれません。でも、教えている内容はほとんど同じです。私は都内に住んでいるので、毎月のように、聖会やセミナーに出掛けることができました。そのこと自体はとても感謝なことなのですが、頭の中で統制がとれなくなってしまいます。いろんな知識やいろんな情報が交錯し、焦点が絞れなくなります。ある教会は、毎年、新しい方法を取り入れています。「昨年はあのプログラムだったけど、今年はこのプログラムを入れよう」とやっています。まさしく、プログラム教会です。人間はいつか飽きますので、いつも新しいプログラムを導入しなければなりません。大切なのは本質です。本質は何なのか、その本質に留まる必要があります。その次には聖霊に導かれ、時代を見ながら、方法を変えていくべきでしょう。本質は変えないけど、方法は変えて良いということです。それは、伝道でも、賛美でも、教え方でも共通しています。

ヨハネは、偽り者にならないで、御子および御父のうちに留まることを教えています。ところで、当教会が単立になって数ヶ月になりますが、たとえて言えば船の進路を変えたということです。今、進路を変えて新しい航路を進み始めたところです。最近、私自身の中に「伝道をしなければ、弟子訓練をして後継者を育てなければ」というあせりがありました。私は教会のビジョンを立てるとどうしても、5年後は何名、10年後は何名と右肩上がりのグラフを書いてしまいます。なぜなら、韓国のチョーヨンギ師の影響を受け、大きな信仰を持って求めるなら必ずそうなると信じてきたからです。しかし、ウィットネス・リーがある本の中で「献身」とはどういう意味なのか教えくれました。その中の2つだけお分かちしたいと思います。これは御子および御父のうちに留まることと同じことだからです。第一はこういうものです。「献身の意義は供え物となる事ですから、ささげられたものは全く神のためのものです。ですから献身の目的は神に用いられ、神のために働くことです。しかし神のために働くには、先に神に働いてもらわなければなりません。神に働いてもらった人だけが、神のために働ことができるのです。神のためにどれだけ働けるかは、神にどれだけ働いてもらったかによります。」アーメン。そうです。神さまに働いてもらわなければ、私は何もできないんだということです。神さまに働いてもらわないで、自分が先にやろうとしてきたところが多々あります。自分が勝手に描いたビジョンを神さまに押し付けてやってきました。イエス様はヨハネ5章で「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行なうことができません」と言われました。父なる神さまが働いておられるなら、はじめて、私たちも働くことができるのです。第二はこうです。「牛が供え物としてささげられ、火で焼かれたならば灰と化し、何もなくなります。すべてが終ってしまうのです。同じように献身の結果とは、前途を絶つことです。ある兄弟姉妹は、献身した後も、まだ自分の理想を追っています。それはその人の前途がまだ断ち切られていなことを証明しています。」私は「10年後、カウンセリングとかコーチングして生活できるだろうか?どこに住もうか?でも、家を持つことができるだろうか?」と心配していました。しかし、その本には、「わたしたちの前途も全く一握りの灰と化し、神以外の一切の出口が断たれ、神だけがわたしたちの前途であり、わたしたちの道です。」とありました。「うぁー、私は半分しか焼かれていない、生焼けのはん祭だったなー」と思いました。だから、自分の老後のことを心配していたのです。神さまにささげたなら、私の前途は絶たれますが、神さまが責任を取ってくださいます。神さまを差し置いて、自分で「ああしたい、こうしたい」というのはおかしな話です。御子および御父のうちに留まるとは、神さまに献身することと同じです。「主よ、あなたが働いてくださるなら、私はあなたのために働くことができます。」ただ、業績を上げるために、がんばるというのはクリスチャンの生き方ではありません。まず、神さまに徹底的に働いてもらって、それから神さまのために働くことができるのです。また、将来のことを思い煩う必要もありません。なぜなら、私たちは神さまから買われた者であり、主権はみな神さまの手中にあるからです。どうぞ、永遠に変わらないみことばと御子および御父のうちにとどまりましょう。