2011.10.16「注ぎの油 Ⅰヨハネ2:24-29」

ヨハネは反キリスト、あるいは偽り者に惑わされないようにと注意しています。なぜなら、世の終わりになると自分がキリストだと名乗ったり、偽預言者が多く現われるからです。では、どのようにして教会は正しい教えに基いた信仰を保ち続けることできるのでしょうか。ヨハネは「とどまっている」とか「とどまっていなさい」と何度も述べています。私たちは何にとどまるべきなのか、3つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.初めから聞いたこと

ヨハネは、初めから聞いたことにとどまるように命じています。Ⅰヨハネ2:24-25「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。」初めから聞いたことにとどまっているなら、御子および御父のうちにとどまっていることであり、永遠のいのちが与えられるということです。では、「初めから聞いたこと」とは何でしょうか?「初めから聞いたこと」とは、イエス様が語られたことばです。ヨハネもその一人ですが、使徒たちはイエス様が語られたことばを記憶し、それを書き留めました。でも、最初から私たちが持っているような聖書というのはなかったと思われます。彼らはいくつかの塊として記憶し、それを伝えて行ったのでしょう。やがて、人はこれを信じれば救われるという福音の標準みたいなものを作ったのではないでしょうか。それをギリシャ語ではケリュグマと言いますが、日本語では「使信」とも訳しています。つまり、公に宣べ伝えられたメッセージの内容であります。もし、伝えるべき使信を標準化すれば、次から次へと伝えられてもずれることはありません。

Ⅰコリント15章にそういうものの証拠があります。Ⅰコリント15:1-4「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」ここには、幾度も「宣べ伝えたもの」と書かれています。おそらく、パウロ自身も「宣べ伝えたもの」を受け、それをコリントの人たちに宣べ伝えたのでしょう。その内容というのは「キリストが罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」です。パウロは、「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」と言っています。パウロが言っていることと、ヨハネが言っていることは、ほとんど同じです。教会も礼拝中にケリュグマ、使信をみんなで告白したり、あるいは説教で宣言しています。当教会ではあまりやりませんが、「使徒信条」というのがあります。そこには、まさしく、キリストの受肉、十字架の死、復活、王としての支配、再臨まで含まれています。たまには、告白すべきだと思いますし、礼拝で告白すべきだという声もあります。私は最初の頃「使徒信条」を告白しましたが、10年前くらいから、あまり礼拝で告白しなくなりました。

使徒信条は使徒たちが亡くなった後にできたものです。初期の頃はキリストに関する誤った教えがたくさん世に出てきました。そのため、キリストのなされたことを確認するためにも使徒信条を告白しました。でも、啓蒙主義以降、聖書に攻撃の矛先が向けられました。19世紀には自由主義神学が起こり、「聖書は本当に神のことばなのか」疑われるようになりました。そして、聖書は他の書物と同じように批評学の名のもとでバラバラにされました。結局、「これはモーセが書いたのではない。これはパウロが書いたのではない。聖書に書かれているイエスと歴史的なイエスとは違う」とまで言い出しました。それでも、教会はケリュグマ、使信をかろうじて守ってきました。しかしながら、現代の教会は、聖書のその他の部分は自由主義神学に妥協してしまったのです。多くの教会は「聖書は全部正しいとは言えないが、使徒信条だけは正しい」として告白しているのです。私が牧師として一番、主張したいのは、ヨハネが言う「初めから聞いたこと」とは、「使徒信条のイエス・キリストの受肉と死と復活のことだけではない」ということです。私はイエス様が弟子たちに教えた1つ1つのことばも守るべきだと思います。また、イエス様がなされた奇跡やしるしもすべて事実であり、意味があると思います。それだけではありません。旧訳聖書と新約聖書は、神のことばであり、それらを丸ごと信じ、丸ごと守り行うべきだと思います。もちろん、イエス様の新しい契約のもとでという条件付きです。私たちはイエス様が弟子たちに教えた教え全部に、とどまるべきです。

2.そそぎの油

Ⅰヨハネ2:26-27「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」第二は、そそぎの油があなたがたのうちにとどまっている。だから、他の人たちから教えを受ける必要はないということです。J.Bフィリップスは「人間的な教師から教えられる必要はない。御霊がすべてのことをあなたがたに教える」と訳しています。「そそぎの油」とは何でしょう?今、もう言ってしまいましたが…。御霊、聖霊ですね。ヨハネ14章に同じような表現があります。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」アーメン。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」イエス様は、真理の御霊、聖霊のことを話す前に、「しかし」と言ってから話しています。「しかし」というのは、前のことを否定して、「実はこうだよ」という接続詞です。弟子たちは「イエス様がいなくなったら、だれが教えてくれるのだろう」と心配しました。そして、イエス様自身も、話すことがたくさんあるけれど、弟子たちにはそれに耐える力がないということを知っていました。「しかし、真理の御霊が来ると、私が話したことを思い起こさせ、教え、真理に導いてくれる。だから、大丈夫だ」ということです。

弟子たちは実際、そのことを体験しました。ペンテコステの日、天から聖霊が下りました。弟子たちはそそぎの油を受けたのです。すると、一斉に預言や異言を語りました。それだけではありません。旧訳の預言とイエス様がおっしゃったことが、マッチしたのです。そして、イエス様が十字架で死んで、よみがえらなければならなかった理由を知りました。だから、ペテロは聖霊に満たされ、火を吐くようなメッセージを語りました。それで、3000人が福音を信じて救われたのです。数日後、生まれつき足なえの男が癒されて、またペテロがメッセージしました。今度は5000人がイエス様を信じました。それで、当時の指導者は驚いて、ペテロたちを捕らえ、裁判にかけました。再び、ペテロは聖霊に満たされて、キリスト以外に救いはないことをメッセージしました。それで彼らはどう思ったでしょう?使徒4:13「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」アーメン。彼らは、自分たちこそ聖書の専門家だと思っていました。しかし、聖書を学んでいない、無学な普通の人たちが、あのような教えをしてびっくりしたのです。真理の御霊、聖霊が彼らに教えたので、だれも太刀打ちできなかったのです。

今の時代も同じことが言えます。近年、教会に復旧したのが、ディボーションあるいはQ.Tと言われるものです。これは聖書のみことばを深く思う、黙想するということです。日本では榎本保郎先生がアシュラム運動でことのことを教えました。榎本先生は聖書の全部が神のことばと信じない神学校を出ていましたが、「みことばに聴く」ということを徹底した先生です。それから、キャンパスクルセードやナビゲーターが、Q.T「静思の時」を広めました。それまでの、ディボーションは「荒野の泉」とか「日ごとの糧」のように、だれかが書いた本を読んで、祈るというのが主流でした。そうではなく、聖書だけを静かに読んで、そこから教えや適用をいただくようにしたのです。そこで、問題になるのが、一般の信徒が、聖書を読んでも間違って解釈するのではないかという心配です。「やっぱり、牧師とか正しい教師から教えてもらわないとだめだろう。」まるで、中世のカトリック教会のようなことを言っていたのです。しかし、聖書に何と書いてあるでしょう。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」、「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える」とあります。多くのクリスチャンは、こういう約束があるにも関わらず、「聖書は分かりにくいからやっぱり解説書が必要だ」と直接、聖書を読むことを避けてきました。そうではありません。1章でも、たった10節でも良いです。静かな心で、じっくり何度も読んでいると、「ああ、こんなことが書いてあるなー」「ああ、こういうことなのか」「ああ、すばらしい」という発見が必ずあります。聖書は難しい書物ではありません。聖書は読んで分かる書物です。なぜでしょう?聖書は聖霊なる神が書いたのです。聖霊がいわば聖書の著者です。だったら、著者である聖霊に聞けば、一番良いのではないでしょうか?

私はこの方法で、いつもメッセージを準備します。駆け出しの頃は、注解書や参考書を読んで、こことあそこをくっつけて、1つの説教にしようとしました。すると頭がものすごく痛くなります。そればかりではありません。恐れで一杯になり、まだ、足りないような気がします。借り物なので、話し方に力がなく、「…と書いてあります」「そう言われています。ご参考までに…」全然、力がありません。でも、注解書や参考書を読まないで、まず、聖書をじっくり瞑想して、神さまからメッセージをいただきます。その後に、注解書で確認したり、例話を入れます。でも、メッセージは神さまからいただいたという確信がありますので、全然、違います。どうぞ、聖霊は牧師にだけ働くのではありません。みなさんにも聖霊のそそぎの油がとどまっています。だから、毎日、ご飯を食べるように、霊の食物、みことばをいただいてください。真理の御霊が家庭教師のようにあなたに教えてくれます。そして、一日中、聖霊は共におられ、あなたに知恵と導きを与えてくださいます。

3.キリスト

第三はキリストのうちにとどまるということです。Ⅰヨハネ2:27の後半から「また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」アーメン。構成から見てみますと、キリストのうちに正しくとどまるためには、2つのことが必要です。第一は、はじめから聞いたことにとどまるということです。これは現在の私たちで言うなら、聖書のみことばにとどまるということです。もしも、聖書のみことばが正しくないならば、神さまもイエス様もゆがんでしまうからです。第二は、そそぎの油が私たちのうちとどまるとうことです。聖霊がみことばの意味を解き明かし、神さまのみ旨とイエスの教えを理解させてくださるのです。第三は、最終的にキリストにとどまるということです。聖書、聖霊、そしてキリストです。なぜ、このような順番なのでしょうか?ヨハネが生きていた頃は、イエス様お一人で十分でした。イエス様ご自身がことばであり、教える助け主でした。弟子たちは目の前におられるイエス様にとどまることはとても容易でした。そのお方に、ただ、着いて行けば良かったのです。でも、イエス様は天にお帰りになり、その後、使徒たちも天に帰りました。残されたのは、イエス様がなされたことと、その教えを記した聖書です。そして、イエス様の代わりに来られた聖霊様です。だから、私たちの時代は、どうしても、聖書と聖霊を通して、イエス様に出会うしかないのです。たまには、聖書と聖霊をバイパスして、イエス様に出会う人もいます。インドネシアではイスラムがとても盛んで、キリスト教徒たちを迫害します。あるとき、イスラムの人が建物の前にやってきました。連日の雨のため、水溜りができていました。目の前の建物は普通の建物です。しかし、その水溜りに建物だけが写っていたのではありません。イエス・キリストが大きく写っていたのです。「うぁー」と、イスラムの人たち全員が、そこに打ち倒されました。そして、起き上がったときにはみなクリスチャンになっていたそうです。リバイバルが起こっているところではそういうことがあります。でも、そうでないときは、ちゃんと聖書、聖霊、イエス・キリストと順番を踏むべきなのです。

では、キリストのうちにとどまるとはどういう意味でしょうか?実は、前の聖書と聖霊のとどまるはちょっと表現が違っていました。そのことに気付いていたでしょうか?第一は「初めから聞いたことがとどまっているなら」と書いてありました。主役が初めから聞いたことで、こちらは受身です。第二は「そそぎの油があなたがたのうちにとどまっています」と書いてありました。これも、主役がそそぎの油で、私たちは受ける方です。とどまるかとどまらないかは、聖霊次第みたいなところがあります。でも、第三は「キリストのうちにとどまっていなさい」となっています。あきらかに主役は私たちであり、「意思を持って、そうしなさい」ということです。英語の聖書には、キリストにとどまるということをいろんな表現をしています。J.Bフィリップスは「キリストのうちに継続的に生活しなさい」と訳しています。英国の聖書は「キリストのうちに住みなさい」と訳しています。リビングバイブルは「いつまでも、主と親しい友好関係を保ちなさい」と訳しています。「キリストにとどまる」とはヨハネの中心的な教えです。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえが書いてあります。ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ここからも分かるように、キリストにとどまるかどうかは私たちの責任です。神さまは私たちの意思を尊重しておられます。もし、私たちがキリストにとどまるなら、キリストも私たちの中にとどまるのです。そして、どうなるのでしょうか?キリスト様が実を結ばせてくださるのです。私たちはキリストを離れては実を結ぶことができません。枝である私たちが、幹であるキリストにとどまるときに、キリスト様から命が流れてきて、結果的に実を結ぶのです。とどまるのは私たちがすべきことであり、実を結ぶのはキリスト様の責任です。

どうでしょう?この世は逆を行っているのではないでしょうか?特にスポーツの世界では結果を出さなければなりません。サッカーでもいくら惜しいシュートをしても、入らなければ意味がありません。スポーツの世界は結果がすべてです。ビジネスもそういうところがあるのではないでしょうか?途中の努力とか関係ありません。ある場合は、動機すらも関係ありません。動機が多少不純でも結果が良ければ良いのです。人々は結果を出すために、一生懸命頑張っています。ごく一部の人が結果を出して、頂点を極めます。しかし、多くの人は挫折したり燃え尽きたりします。なぜでしょう?結果ばかりに、フォーカスを当てているからです。私たちはイエス様を信じてクリスチャンになったかもしれません。でも、ある人は思いが変わっていません。「やっぱり頼れるのは自分だけだよな」「まず、お金を稼がなくては」。牧師なら「何とか人数を増やして、教会を大きくしたい」ということでしょうか。私もそういうふうに、30年がんばってきました。でも、それは結果であり、実なのです。香港のベン・ウォン師は「実よりも根が大切なのです。根とは本質です」と口をすっぱく言ってきました。根のまわりに、土があります。その土の中に嘘と真実があり、嘘がいっぱいの場合は、木も育ちません。だから、嘘を真実に置き換える作業が必要だということです。結果よりも、本質が重要だということです。私たちも、本質である、キリストご自身にとどまることが大切なのです。

ある人たちは聖書の教え、教義にとどまっています。カルバンやルターはたくさんの信条を作りました。ある教会ではそういう信条や教理問答を学んで、それを守ろうとしています。それでは人間は変わりません。キリストのうちにとどまるとは、人格関係であり、単なる教えではありません。何故、私たちが教えを守るのでしょうか?それはイエス様を愛しているからです。そして、イエス様の愛を受け、イエス様に従うときに、結果的にそれらの教えを全うしているのです。教えが第一に来るときは、それは律法主義になり、人を死なせます。「文字は殺し、御霊は生かすからです」。私たちはたえずイエス様と交わり、イエス様に聞くのです。すると、イエス様の方からやる気が与えられます。なんと、意思や努力や力さえもイエス様がくださるのです。ある人は、「やる気は別だ」と言いますが、信仰は意思信仰ではありません。私たちの生まれつきの意思は弱いのです。聖書に「主の御名を呼ぶものはみな救われる」とあります。朝、起きれないとき、どうするでしょう。「ああ、あと5分寝たい。ああ、起きたくない。でも起きなければ」。もがけばもがくほど、ふとんにのりが付いたようにへばりついて離れません。でも、その時、試してください。「イエス様、イエス様、感謝します」と言ってみてください。1,2分後、自動的に起きることができます。「ああ、あの人を赦せない」「ああ、あのことが心配でたまらない」「ああ、イヤな出来事を思い出した」、そんなとき「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」と言ってみてください。瞬間的に思い煩いが去り、平安に満たされます。イエス様にとどまることはそんなに高尚なことでも、難しいことでもありません。日々、イエス様と交わり、イエス様と共に歩むことなのです。そうすると、あとから結果である実が結ばれていきます。