2011.10.23「神の子ども Ⅰヨハネ3:1-7」

この世では、人に悪いことをさせないためにどうするでしょうか?「してはいけない」という規則をたくさん作ります。その次には、それを破った場合は、罰を加えるというものです。それで、人は悪いことをしなくなるのでしょうか?ますます、犯罪が巧妙になるばかりか、かえってひどくなるのが実情です。私たちはクリスチャンになるとき、行いではなく、恵みによって救われました。しかし、教会はクリスチャンになってから、「こういうことをすべきであり、こういうことをしてはいけませんよ」と新しい規則を作ってきました。つまり、「救われたのは恵みだけれど、救われてから行いや努力も必要ですよ」と言っているようなものです。しかし、それは立派な詐欺ではないかと思います。では、聖書は何と教えているのでしょうか?

1.神のこども

ヨハネは、何よりも先に、私たちが神どもであることを自覚するようにと教えています。私たちが神さまの子どもとなるために、神さまはどんなことをしてくださったのでしょうか?Ⅰヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」しかし、原文とか英語の聖書は、「見よ!」で始まります。何を見るのでしょう?英語の聖書はSee how great a love「見よ、何と偉大な愛でしょう」となっています。また、詳訳聖書はincredible of love、となっています。incredibleとは、「信じられない、驚くべき、途方もない」という意味です。よく、アメリカ人の若い人が、Oh! incredibleと言います。日本語の聖書は父の愛が後から書かれているので、感動があまり伝わってきません。本当は、「見よ。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょう。私たちが神の子どもと呼ばれるために。事実、私たちがそうです。」となるべきです。このところで強調されるべきことは、御父の偉大な愛があったということです。では、偉大な愛とは何のことでしょう?ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」偉大な愛とは、父なる神さまが、ひとり子を与えてくださったということです。神のひとり子イエスは、私たちの罪のため十字架につき、贖いを成し遂げられました。私たちは御子を信じることによって、罪赦され、神の子どもとされるのです。ハレルヤ!御父の偉大な愛のゆえに、救われ、神の子という身分が与えられたのです。

 ヨハネは私たちに「罪を犯さないように」とは命じていません。その代わり、「あなたがたは御父の偉大な愛を受け、神の子どもとされましたよ!」と言っているのです。なぜでしょう?この世の人たちは、御父の愛も知らないし、その愛を受けてもいません。だから、自分が何者であるかも分かりません。そのため彼らは罪を犯し、罪の中で生きるのです。でも、私たちは神さまの大きな愛を受け、神の子という身分まで賜りました。すると、当然、自分は何者なんだという意識、アイディンテティが自分の中に生じるのです。箴言23:7の直訳は「彼は心の中で考えている人そのものである」です。言い換えると、人は「自分はこういう者だ」と考えているように、行動するということです。これをセルフ・イメージとも言いますが、自分が自分をどう思っているかとても重要です。なぜなら、人は自分が思っている自分にふさわしく生きるからです。学校で先生が「お前は不良だ!」と生徒に言ったとします。言われた生徒は「ああ、私は不良なんだ。それだったら、不良らしく振舞うべきだなー」と思うわけです。世の中のしつけや教育があまり効果を上げていないのは、自分が何ものかを教えないで、「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」と教えているからです。もし、自分が何者であるかを知るならば、それにふさわしい行動をするでしょう。ルイ17世は子どもであったため、フランス革命後、死刑を免れました。しかし、革命家は憎きルイ16世の子どもが天国に行けないように、極悪人と一緒に牢に入れました。極悪人は子どもであるルイ17世に、「神を呪う言葉を吐け」とか、さんざん悪いことを教えました。しかし、ルイ17世は何と言ったでしょうか?「ぼくは王子なので、そんなことはしない!」と断ったそうです。残念ながら、ルイ17世は栄養失調から来る病気で10歳で亡くなりました。「自分はだれなのか?」ということを本当に知ったならば、私たちはそれにふさわしい生き方をするではないでしょうか。

 さらにヨハネは、「神の子どもとされた私たちの後の状態はどうなのか?」言及しています。Ⅰヨハネ3:2-3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」ヨハネは、「私たちは既に神の子どもではあるが、後のことは全部分かっていない。しかし、これだけははっきりしていますよ」と言っています。はっきり分かっていることは、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見る」ということです。同じことをパウロもⅠコリントで言っています。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」アーメン。私たちはイエス様のことを完全には分かっていません。逆に判っていないから信仰が必要なのです。私たちは天に行ったら、イエス様をはっきり見ることができるでしょう。でも、それだけではありません。私たちはキリストに似た者となるということです。キリストに似た者とはどういう意味です。それは顔かたちではありせん。キリスト様が持っていらっしゃる品性に似た者となるという意味でしょう。その品性とは、愛、柔和さ、きよさ、高貴さであります。

 ヨハネはそういう望みをいだいている者はみな、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」と言っています。でも、「この地上で適当に暮らして、終わりの日に、キリストに似た者になれば良いんじゃないの」と言いたくなります。どうせ、地上でいくらがんばっても、100%似た者になることは不可能です。では、キリスト様のようにきよくなるのは、死んだ後のことなのでしょうか?ここが問題です。私たちは「清い」というと、世の中から遠ざかり、禁欲的な生活を送らなければならないと思ってしまいます。イエス様の時代、清い人が3種類いました。1つは「自分は清い」と言っているパリサイ人、律法学者でした。彼らは律法を守り行い、清い生活をしていました。しかし、心の中は「ねたみや争い」でいっぱいでした。外側は確かに清かったでしょうが、内側は汚れたものでいっぱいでした。2つ目はエッセネ派と言われる人たちです。バプテスマのヨハネもその一人ではないかと思われていますが、彼らは荒野で生活していました。俗世間から離れ、質素な生活をして、神様を礼拝していました。中世の修道士もそのような生活をしていました。汚れた世とは交わらないという生き方です。3つ目はイエス様のような生活です。イエス様は清いお方でしたが、町や村にでかけました。取税人や罪人と一緒に食事までしました。でも、イエス様は御父と親しく交わり、み旨を行い、清い生活をしていました。神学的に、「イエス様が本当に笑ったかどうか」研究の対象になったことがあります。新約聖書に「カンラカンラと笑った」とは書いていません。しかし、私は、イエス様は笑ったと思います。たとえばペテロが大漁の奇跡を見て、驚いたとき、「私は罪人です。私から離れてください」と言ったときです。当時の船は狭いのですから、離れたら海に入るしかありません。そのとき、イエス様は笑ったんじゃないかと思います。とにかく、イエスさまは清いお方ではありましたが、世の中でちゃんと生活していました。30歳までは大工をし、父ヨセフが亡くなった後は、家族を支えていたと思われます。そのように考えますと、私たちが一般的に「清い」という考えと、聖書が言う「清い」は、ずれがあるようです。

 ガラテヤ書5章に御霊の結ぶ実について書かれています。御霊の実こそが、イエス様に似たきよさではないかと思います。ガラテヤ5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」これらの品性をあわせたものがイエス様に似たきよさであると信じます。そして、これは御霊の恵みによって、この地上でも与えられるものです。私たちはやがて、イエス様と顔と顔を合わせるまで、少しずつではありますが、御霊によってイエス様に似た者となることができるのです。私たちはすでに神のこどもです。神のこどもとしての身分は確かにありますが、神様は、実質も神の子となることを願っています。

2.罪を犯さない

Ⅰヨハネ3:6「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」これを読むと驚かれるのではないでしょうか?「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」とあるからです。リビングバイブルは「罪を犯し続けない」と訳しています。英語の詳訳聖書は「習慣的に罪を犯さない」と訳しています。では、本当はどうなのでしょうか?ヨハネは「キリストのうちにとどまる」と「罪を犯しません」の両方を動詞の現在形を使っています。これは継続的行為、習慣、態度を表すそうです。と言うことは、その人が「キリストのうちにとどまっています」。継続して、習慣的にとどまっているわけです。そして、同じ人が罪を犯すことがあるかもしれません。でも、それは継続的ではありません。つまり、罪を継続して、習慣的には犯さないということです。キリストにとどまっている人が、どうして罪にもとどまることが可能でしょうか?一時的には罪を犯すことがあっても、罪のないキリストに戻るということです。9節に何と書いてあるでしょう。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」こっちの方がもっと強烈です。私たちは神から生まれた、神の子どもです。神のいのちがあるので、罪を犯し続けることができないのです。つまり、かつての古い私たちは罪を犯すのが当たり前であり、罪を犯しても何の痛みも感じませんでした。かえって「気持ち良い」と感じたかもしれません。しかし、キリストを信じて新しく生まれ変わると、神さまのいのちが与えられます。そうすると、罪を犯すことが当たり前ではなく、不自然になります。神のいのちが私たちを支配しているので、「罪を好んで犯したい」とは思わなくなるのです。ですから、キリスト教の場合は、道徳とは全く違います。道徳は外側から「ああしてはいけない。こうしなさい」と、人を変えようとします。それは、一時的にできたとしても、人が見ていなければやっちゃうでしょう。しかし、神さまはそうではなく、新しい命を与え、おのずと罪を犯さないように性質を変えてくださるのです。罪の法則に対する、御霊の命の法則です。

また、ヨハネは、イエス様が罪に対して画期的なことをされたことも延べています。Ⅰヨハネ3:4-5「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」私たちの性質が変わることも大切ですが、実はこのことがもっと重要なのです。「キリストは現われたのは罪を取り除くためであった」とありますが、ここから私たちはヨハネ1章のバプテスマのヨハネのことばを思い出します。ヨハネ1:29「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と同じ意味です。多くの場合、「私たちはイエス様が十字架で私たちのすべての罪を負われた。そのことによって、私たちの罪が取り除かれたんだ」と言います。私もイエス様は「私たちの過去の罪、現在の罪、将来犯すであろう罪をも負われたのです」とメッセージします。このことは救いのメッセージとしては間違いありません。そのとおりです。でも、それだけでは罪を取り除くことはできません。確かに、私たちが犯す行為の罪は取り除くことができるでしょう。でも、私たち自身の中には、罪を犯す性質があります。私たちは律法に逆らいたい、律法なんか守りたくないという生まれつきの性質が宿っています。イエス・キリストは十字架で血を流し、代価を払って私たちを贖い出してくださいました。では、その代価はだれに支払われたのでしょう?神さまは私たちをどこから買い取ってくださったのでしょう。ある人は、サタンの支配下から買い取られたとか、罪過から買い取られたとか、あるいはこの世から買い取ってくださったと言います。しかし、それらは正しくありません。合法的な手続きで買うということは、元の所有権が合法的であったことを認めるということになります。神さまはサタン、罪悪、この世が合法的だと認めたことはありません。彼らは非合法的に私たちをぶんど取り、そして支配していたのです。神さまは十字架上の救いによって私たちをこれらから救い出してくださいました。ですから、この面から言えば、救われたのであって買い取られたのではありません。

 では、いったい神さまはどこから私たちを買い取られたのでしょう。ウィットネスリーの『命の経験』という本から引用させていただきます。ガラテヤ4章5節には「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」とあります。私たちは神の子としての身分を受けるために、何が必要であったか書かれています。私たちは一体、どこから買い取られて、神の子どもとなることができたのでしょう?そうです。神さまは私たちを律法の下から贖いだされた、つまり、律法の下から買い取られたのです。私たちは罪を犯して堕落したとき、サタン、罪悪、この世の下に落ち込んでそれらの奴隷になりました。しかし、それだけではありません。神の公義にそむき、神の律法を犯して、罪人となってしまったのです。罪人となってしまったので、私たちは神の律法の下に落ち込んだのです。そして、この律法に拘留されたのです。ですから、もし神が私たちを神の義なる律法の下から解放したいのなら、神の律法の要求を完全に満たすような、完全な代価が払われなければなりません。この代価が、神の御子によって流された尊い血なのです。この尊い血が神の律法の要求を満たしたので、私たちは神の律法の下から贖い出されたのです。…あまり感動はありませんでしょうか?みなさん、律法の下にある人間は、いつも「あなたは律法を満たしていない」とか「罪を犯していますよ」とさばかれます。律法はこれで良いということがありません。あなたが生きている限り、律法はあなたを追いかけ、「あなたには罪があります」と私たちを告発するでしょう。でも、イエス様が代価を払い、律法の下から、つまり律法の奴隷から贖い出し、神の子としてくださったのです。私たちが救いを得た、その日以来、もはや律法の支配下にいないのです。ハレルヤ!

 あなたは律法の支配下から、花婿なるキリストのもとに移されました。律法はあなたに罪があると告発します。しかし、もう、あなたは律法とは別れたのです。だれと結婚したのですか?そうです。イエス・キリストと結婚したのです。イエス様は本当に優しくて、あなたが罪を犯さないように守り、導き、励ましてくださいます。私は生まれてこの方、ずっと、叱られ、怒られてきました。家の中だけではありません。小学校で、中学校で、高校で、先生からいつも、いつも叱られてきました。友人からも、会社の人たちからも、批判や非難を浴びました。また、サタンからも「お前には罪がある。お前はこういうことをした。お前はダメなやつだ」と訴えられてきました。クリスチャンになってから、罪が赦されたはずなのに、神様から「まだ足りない。なまけている。罪を犯している」と叱られている気がしました。教会員からも、役員会からも「牧師らしくない。そこが違う」と批判されている気がします。テレビを見ると、「日本の首相にはなりたくないなー」と思います。もちろん、なれませんけど。首相は選ばれたときは、高められます。でも、まもなく非難やバッシングを受け、辞職に追い込まれます。牧師も政治家も面の皮が厚くなければできません。だけど、聖書は何と言っているでしょう?「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」とあります。律法から贖いだされたとは、もはや律法の下にはいないということです。それは、具体的にはどういう意味でしょうか?もう、だれからも咎められない、訴えられないということです。咎めが去ったということです。パウロはローマ8章で何と言っているでしょう?ローマ8:33-34「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」アーメン。律法から贖い出されたということは、だれからも罪に定められない、咎められないということです。もし、「罪あり」と訴えられることがあったら、イエス様が神の右の座でとりなしてくださいます。

まとめると、本当の神の子どもとはどういう人でしょうか?第一は、自分は神の子どもなので神の子どもらしく生きます。そして、人格的にもキリストに似るようになるということです。第二は、神の子どもは罪を犯し続けないということです。なぜなら、神のいのちが与えられているからです。また、神のこどもは律法から贖われたので、罪を責められることがないということです。これまでは、私のように「また何か言われるんじゃないかな」とびくびくしていたかもしれません。そういう生き方は、律法の下にある人です。神さまが私たちの味方であるなら、だれからも訴えられることがありません。しかし、現実には私たちの過失や怠惰のゆえに、人々からさばかれることがあるでしょう。でも、「私は律法の下にはいないのだから、だれからもさばかれない」という信仰を持っていたらどうでしょう。今までは、ちょっと注意や忠告を受けたとき、「ああ、さばかれた」と過剰反応していたかもしれません。でも、心の深いところに「キリストのゆえに、咎めは去った。裁かれない」という確信があればどうでしょう。「ああ、ごめんなさい。今後は、気をつけます」となるのです。さらには「正してくれてありがとう」と感謝することができるのです。これが神の子の生き方です。神の子はたとえ、罪を訴えられても壊れないのです。反対の立場から言うなら、どうなるでしょう。神の子は律法の肩を持って、人を訴えてはいけません。むしろ、イエス様のように人々をとりなし、犯した罪を軽くする人です。神の子は贖い主イエス様のようになるべきです。人の罪を責めるのではなく、むしろ、人の罪を贖おうとするのです。