2011.10.30「神から生まれた者 Ⅰヨハネ3:8-12」

この世には2種類の人しかいません。第一は悪魔から出た者、悪魔の子どもです。第二は神から生まれた者、神の子どもであります。人は悪魔の子どもか、神様の子どもか、どちらかであって、中間はありません。私がこういうことを言うと、「人は神さまから造られたものであり、みんな神さまの子どもではないか」と反発する人がいるかもしれません。確かに人は神さまから造られた存在です。しかし、アダムが罪を犯してから、すべての人が悪魔の支配下にあり、悪魔の所有物になっているのです。これが聖書的な考えです。もし、すべての人が神さまの子どもであるなら、救われる必要もありません。キリストが来られたのは、悪魔のしわざを打ちこわし、その中にいた私たちを救い出すために来られたのです。

1.悪魔から出た者

悪魔から出た者の特徴は何でしょうか?Ⅰヨハネ3:8「罪を犯している者」と書いてあります。しかし、ギリシャ語の現在形は、継続を意味しますので「罪を犯し続けている者」と訳すことができます。一方、神から生まれた者の特徴は何でしょうか?Ⅰヨハネ3:9「だれでも、神から生まれた者は、罪を犯しません」と書いてあります。これも正しく訳すと「罪を犯し続けません」となります。ヨハネは10節で「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします」と言っています。聖書を良く見ると、「悪魔から出た者」と書いてありますが「悪魔から生まれた者」とは書いてありません。厳密に言いますと、人はすべて神さまから生まれ、神さまの子どもであったのです。ところが、初めに悪魔が罪を犯しました。おそらく、天使長の一人が「神になりたい」と高慢になって、天から落とされたのだと思います。その後、神さまはアダムとエバを創造し、エデンの園に住まわせました。そこに、悪魔がやってきて、「これを食べたら、神のように善悪を判断する者となる」と誘惑しました。二人がそれを食べたということは、神の主権を犯したということです。そのため二人は堕落し、全人類に罪が入りました。それだけではありません。エペソ2章にあるように、人々は自分の罪過と罪との中に死んだ者となりました。そして、空中の権威を持つ支配者、悪魔のもとで生きるようになりました。ですから、悪魔の支配で生きる人は、神に逆らい、肉と心の望むままを行います。つまり、罪を犯し続けるのがライフ・スタイルだということです。

神さまはそれでも、私たちに良心を与えました。だから、できるだけ悪いことをしないように努力します。悪いことをすると良心が咎め、「ああ、悪いことをしたなー」と後悔します。でも、中には良心が麻痺して、悪いことを平気で行う人もいます。Ⅰヨハネ3:10「義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」とあります。そして、12節には兄弟を殺したカインについて言及しています。12節「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました」と書いてあります。世の中には、カインのように人を殺す人、犯罪人がいます。最近は人を殺して、首と同体を離して、どこかに埋める事件が多くあります。カインがアベルを殺して、土の中に埋めましたが、全く同じです。私たちはテレビや新聞を見ながら「ああ、ひどいなー、なんて悪い人なんだ。世の中にこんな人がいるとは」と嘆くかもしれません。確かにこの世には、善良な人、罪を犯さないように努力して歩んでいる人がいます。では、「彼らに全く罪がないか」というとそうではありません。人を実際に殺すようなことはしていないかもしれませんが、人を憎んだり、「馬鹿者」と言ったり、「あいつがこの世からいなければ良いのに」と思っているかもしれません。それは、実際に人を殺したか、心の中で殺しているかの違いです。神さまの目から見たら、50歩、100歩であります。私たちも殺人者の予備軍です。私たちも姦淫の予備軍です。私たちも窃盗の予備軍です。私たちも詐欺師の予備軍です。違いは摘発されて、法的に裁かれたかどうかです。しかし、神さまの前の裁判では、みんな黒、有罪です。なぜでしょう?すべての人が悪魔の支配のもとにあって、罪を犯す罪の奴隷だからです。私たちはすべて悪魔の持ち物だったのです。このまま悪魔と一緒に、火と硫黄の燃える地獄に投げ込まれる運命だったのです。パウロはエペソ2章で「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と述べています。つまり、神のさばきを受ける子どもであったということです。

クリスチャンはひょっとすると、罪を犯す人たちを、別人のように思っているかもしれません。「私はあんなひどい人たちとは違う!」と言うかもしれません。「ビフォー、アフター」というテレビ番組があります。古いどうしようもない家が、匠のわざによって、全く新しい家になります。一番最後に、音楽がかかり、「ビフォー」の家の各部分と、「アフター」の家の各部分と対比されます。先月、井上先生が牧会している、明石の清水ベテル教会におじゃましました。その教会は一般の家を教会堂にリフォームした教会でした。普通の家が本当に、教会堂らしくなっていました。井上先生もあの番組の音楽を入れながら、「ビフォー」と「アフター」が交互になるようにDVDを作っていました。私たちも長年クリスチャンをやっていると、罪の中にいた「ビフォー」を忘れてしまうかもしれません。そして、世の中の人たちを「ああ、とんでもない人たちだ」と眉をひそめるかもしれません。しかし、かつては、私たちは悪魔のもとで、罪の奴隷だったということを忘れてはいけません。そういう自覚がないと、世の人たちに伝道できません。また、神さまの恵みがどれほどすばらしかったのか感激が失せてしまうでしょう。私たちは毎週のこの礼拝において「ビフォー、アフター」を確認すべきです。かつては、アメージンググレースのように、「卑劣な罪を犯し、盲目で、失われていた」存在でした。しかし、今は、驚くばかりの恵みで、罪赦され、眼が開けられ、神の子どもとなったのです。アーメン。

2.キリストのみわざ

Ⅰヨハネ3:8「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです」。神の子とは、イエス・キリストであり、悪魔のしわざを打ち壊すためにこの世に来られたということです。では、「悪魔のしわざ」とは何でしょう?「悪魔を滅ぼす」ということでしょうか?そうではありません。悪魔が滅ぼされるのは、黙示録にあるように、千年王国の後であります。「打ち壊す」というギリシャ語は「廃棄する」「無効にする」「拘束力のないものとする」という意味です。つまり、キリストは悪魔が持っている力を取り除き、活動できなくするために来られたということです。しかし、悪魔は今も忙しく活動しています。それなのに、力を取り除くとはどういう意味でしょうか?イエス・キリストは私たちを救うために2つのことをしてくださいました。私たちの側から言うと救いは2つの要素があるということです。第一は、イエス様は十字架において、私たちのすべての罪を贖ってくださいました。悪魔のしわざは、私たちの罪であります。私たちが罪を持っているなら、合法的に、罪と死の中に捕らえておくことができたのです。アダム以来、すべての人類は罪のもとにあり、また、自分も罪を犯したので、悪魔はそれを訴えることができます。でも、イエス様は十字架で血潮を流し、私たちを訴える律法を満たしてくださいました。キリストが律法を全うされたので、悪魔はキリストの内にある人を「罪あり」と訴えることができません。第二は、悪魔が罪ある人たちを、自分の国の持ち物としていたということです。生まれつきの人間は神から離れ、失われていただけではありません。なんと、悪魔の持ち物、奴隷となっていたのです。イエス様はご自分が復活するとき、ご自分の領土を造りました。そして、イエス様を信じる者は全て、ご自分の領土の中に移されることになったのです。イエス様は私たちの罪を贖いましたが、同時に、悪魔の支配から私たちを贖ってくださったのです。

これはエジプトにいたイスラエルの民が贖われたことと同じです。エジプトの王様、パロはイスラエルを所有し、自分の町を建てるために奴隷として使っていました。彼らは神によって造られ、神の名前がついていたのに、パロ王のもとで奴隷として暮らしていました。しかし、主はモーセを指導者としてイスラエルを解放しようとしました。そのときに、主は2つのことをしました。第一は1歳の羊を殺して、血を流し、それをかもいと柱に塗らせました。その血が塗ってある家の住民は神の怒りが過ぎこしたのです。その中には良い人も悪いひともいたでしょう。でも、血が塗ってある家にとどまっている限りはさばかれることはありません。第二は、主はモーセを通して10の災いをエジプトに下しました。10番目の災いこそが、血が塗られていない家の長子を殺すということです。エジプト人はそのことをしなかったので、王様の長子から奴隷、家畜まで長子が神によって打たれて死にました。それでパロはどうしたでしょう?「お前ら、出て行け!」と解放しました。エジプトから出て行かせたのです。しかし、途中で気が変わり、パロたちは戦車に乗って追いかけました。目の前は紅海、後ろはエジプトの軍勢が追いかけてきます。しかし、モーセが杖を上げると海が別れ、イスラエルの民は海の底を歩いて渡りました。その後、エジプト軍が追いかけてきましたが、モーセが杖を降ろすと、海が元通りになりました。エジプト軍は戦車もろとも、海の底に沈んでしまいました。エジプトからの脱出は、私たちクリスチャンの救いと同じであります。小羊の血によって神の怒りから贖われました。もう1つはモーセによってパロの支配から解放されたということです。私たちもイエス様を信じたときに、悪魔が支配しているこの世から救い出されて、御子の支配に移されたのです。コロサイ1:13-14「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」アーメン。この箇所にも、罪の赦しと、悪魔からの解放ということが書かれています。

「私たちはどこにいるのか?」ということを知らなければ、悪魔にやられてしまいます。確かに私たちは罪の世の中に生きています。テレビや新聞のニュースを聞いて、「本当にひどいなー」と思うでしょう。そして、「世の中には、悪い人たちがいるから気をつけなければ」と思うでしょう。それは間違ってはいません。用心すべきです。でも、もっと大切なのは、私たちは霊的にどこに住んでいるかです。かつては悪魔の支配にいましたが、今は御子の支配に移された存在であるということです。悪魔、悪霊は勝手に私たちに危害を加えることはできません。なぜなら、私たちは神の国の住民であり、神の子だからです。何か悪さでもしようものなら、「イエスの御名によって退け!」と命じれば良いのです。悪魔は私たちを恐れてはいませんが、私たちの背後にある御子の権威を恐れているのです。ですから、キリストのみわざ、イエス様がどんなにすばらしいことをしてくださったのか、忘れてはいけません。

3.神から生まれた者

やっと本論まで来ました。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」ここにある、「罪を犯しません」とは、罪を習慣的に犯さないという意味です。つまり、神から生まれる前は罪を犯すことが普通であり、当たり前のことでした。しかし、神から生まれたら、罪を犯すことが普通でなくなったということです。その人の何かが変わったのです。さきほど、救いとは罪が赦され、悪魔の支配から解放されることであると申し上げました。しかし、それではまだ不十分なのです。なぜなら、私たち自身が変わらなければ、また罪を犯してしまうでしょう。イスラエルの人たちも、エジプトから解放されましたが、やっぱりエジプトが恋しいとつぶやきました。その後、律法を与え、約束の地に彼らを住まわせました。しかし、イスラエルは律法を破り、偶像礼拝を行って堕落してしまいました。神さまは「これではいけない、彼らに新しい心を与えなければならない」とお考えになられました。すばらしいことに、新約時代にそのことが成就されました。人はイエス様を救い主として信じると、霊的に生まれ変わり、神の子どもとされます。神の子という身分だけではなく、神の子という性質が与えられます。これを新生とか、新創造と呼んでいます。ヨハネは、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」と言いました。これは聖霊によって生まれた者に、神の種、神の命が与えられているので、罪を犯し続けないということです。すばらしいことではないでしょうか?

道徳というのは、外側からその人を矯正し、押さえつけることです。「…してはいけませんよ。こういうことになるから」と教えます。私たち自身も自分に対して、「…してはいけない」と言い聞かせます。でも、どうでしょうか?人が見ていないとき、あるいは刑罰が伴わないものであれば、平気でそれを破ります。この間、テレビで見ました。はまぐりを取ってはいけないところで、人々がはまぐりを取っています。そこは漁師さんたちがはまぐりを養殖しているので、勝手に取ってはいけないのです。人々は看板を見て、十分、分かっているはずなのですが、監視員がいないと獲ってしまいます。そして、海岸の道路は「漁師さんが通るので、駐車をしてはいけません」と町で看板を立てています。でも、公安委員会が立てたものでないため、交通違反にはなりません。それで、潮干狩りをする人たちの車が止まっています。監視員につかまると、人々は取ったはまぐりを海に返します。人は罰則がないと、きまりを守らないというところがあります。だから、この世においては、やってはいけない罪に対しては、罰則を設けます。では、教会も犯してはいけない罪とそれに伴う罰則を提示すべきなのでしょうか?実際、ジョンカルバンは、ジュネーブにおいて、教会規則を設定し、罰則も与えました。そのため、再洗礼派の人たちは死刑にされました。

確かに、旧約時代は、人々に律法を守らせ、守らない者には罰を与えました。しかし、新約の時代はそうではありません。神さまは私たちがイエス様を信じたときに、聖霊によって新しく生まれ変わらせ、そこに神の種を与えてくださったのです。神の種とは神さまの命であり、神の性質であります。私たちが罪を犯したいという誘惑に駆られたとき、神さまの命が働き、罪に打ち勝つことができるのです。それは自分の意志や努力ではありません。私たちの内側に与えられている命の法則が働くのです。ですから、私たちがすべきことは道徳を守るように意志力を増すことではありません。自分の意志に頼るのではなく、むしろ神さまの命の法則に落ちるのです。パウロはローマ8:2で「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」と言いました。私たちの肉は「ああ、罪を犯したいなー」という罪の法則の力を受けています。しかし、私たちの内側にある神のいのち、御霊の法則が「そうではない、あなたはこっちの方に行くんだ!」と守ってくれます。では、私たちの意志をどこに向けるべきなのでしょうか?「この罪を犯してはいけない」「あの罪も犯してはいけない」と罪のリストを1つ1つあげて、それを避けるべきなのでしょうか?そういうことをわざわざしてはいけません。そうではなく、私たちの意志を罪から解放してくださるイエス様に向けるのです。罪が来たら「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」と礼拝します。イエス様に向くと、いのちの御霊が自動的に働くのです。イエス様と聖霊は連動しています。私たちが「イエス様!」と呼ぶと、聖霊様が私たちの内側で働くのです。イエスの御名は、罪と悪魔に勝利させます。また、イエスの御名は、聖霊様を発動させ、そこに救いをもたらしてくださるのです。

まとめて言うとこうなります。救いとは、私たちが罪赦され、悪魔の支配から御子の支配に移されたことです。しかし、それだけではありません。私たちが神の子としてふさわしい生き方ができるように、神さまは新しい命を与えてくださいました。それは神さまの性質であり、罪に打ち勝つ力でもあります。神の種、神の命があるので、私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。これを神学的には新生から聖化へと向かうと言います。新生とはイエス様を信じて新しく生まれた状態です。これを私たちは「救われた」と言います。しかし、新しく生まれたら成長していくのが本当です。赤ちゃんもこの世に誕生したときは大きな喜びがあります。でも、その赤ちゃんがずっと赤ちゃんのままであったら、親は悲しむでしょう。赤ちゃんが成長して、やがては一人前の大人になることがゴールです。私たちも神の子どもとして、霊的に生まれました。その後は、神の息子、神の娘として立派に成長していくのが本当です。私たちが霊的に成長する1つのしるしがあります。それは、幼い時に犯した罪をだんだん犯さなくなるということです。赤ちゃんのときはちょっとした段差でころんで、泣いたでしょう。しかし、大きくなると石ころがあってもころばなくなります。足もひざも強くなり、義の道を進むことができるようになります。ですから、人間の成長と霊的な成長は似ているところがあります。人間は成長すると親の気持ちがだんだん分かるようになります。同じように、霊的な子どもも、父なる神様の気持ちがだんだん分かるようになります。時々、私たちは神さまを悲しませるようなことをするかもしれません。でも、すぐ悔い改めて、正しい道に戻ります。御子イエス様はこの地上で、父なる神さまといつも交わり、みこころの内を歩まれました。イエス様は私たちが地上でどのように生きるべきか、模範をも示されました。「罪を犯さない」というのは悪い表現ではありません。でも、もっと積極的なのは「みこころの内を歩む」ということです。では、みこころの内を歩むとは具体的なはどういうことなのでしょうか?ヨハネはⅠヨハネ3:11でこのように教えています。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」兄弟を愛すること、姉妹を愛することが、神の子どもの大事な特徴の1つです。ヨハネは「互いに愛し合うべきであるということは」神の教え、神のみこころであるとはっきり示しています。神から生まれた者として、また、大人へと成長しつつある者として、「互いに愛し合う」ことに力を向けていきたいと思います。