2011.11.6「兄弟を愛する Ⅰヨハネ3:13-20」

ヨハネは、兄弟を愛するように何度も勧めています。これはキリストを信じて救いを受けたものが互いに愛し合うということです。ここに「兄弟」と書いていますが、「兄弟姉妹」救われた者たち、クリスチャンのことを言っているのです。一番最初はイエス様が弟子たちに互いに愛し合うように命じました。次は弟子であるヨハネが、「互いに愛し合うように」と、私たちに勧めています。しかし、元来からある日本の愛は「かわいがる」とか「いとしく思う」という意味です。聖書が言う愛とは、やはりズレがあります。きょうは、聖書が言う愛とはどのようなものなのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.命から来るもの

愛は命から来るものです。先週は救いということのいくつかの局面をお話ししました。第一はキリストの十字架の血潮によって罪が贖われた、つまり罪が赦されたということです。第二はキリストによって悪魔の支配から、御子のご支配のもとに移されたということです。第三はキリストを信じたとき、神の種、新しい命が与えられたということでした。内側の性質が変わったということです。ヨハネは今日の箇所で、それらのことをまとめて、死から命に移ったんだと言っています。Ⅰヨハネ3:14「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」ヨハネは、死のうちにとどまっている人と命に移った人を愛という観点から対比しています。死のうちにとどまっている人はどうなのでしょうか?兄弟を愛さないということです。もっと言うならば、15節「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」とあります。愛さないだけではなく、兄弟を憎むということです。憎む者は人殺しと同じだということです。この世においては、人を憎むことを殺人だとは言いません。人を憎んだだけで、殺人と同じならば、これまで何十人、何百人殺していたか分かりません。かつての私たちは、人を憎むことは普通であって、人殺しをしているなどとは全く思いませんでした。私の口癖は「ちくしょう」でした。「ちくしょう」「ちくしょう」と言いながら頑張っていました。と言うことは、私のエネルギーは恨みであり、憎しみだったということです。つまり、心の中で、人を殺しながら生きていたということです。なんということでしょう。まさしく、カインの末裔であります。

しかし、そういう者がキリストを信じて救いを受けました。それは言い換えると、死からいのちに移ったということです。いのちに移ったらどうなったのでしょうか?憎しみがだんだん消え、その代わり、愛が芽生えてきたということです。イエス様を信じてもすぐ、愛の人になる訳ではありません。長い間、狼に育てられた子どもが、パッと人間らしく生きられないのと同じです。だれか、自分の食べ物を取るんじゃないかと「ウォー」と威嚇します。だれかが近づくと傷つけられるんじゃないだろうかと「キー」と爪を出すかもしれません。しかし、既に自分は神のいのちに移されています。さらに、神の愛がいのちと共に入ってきます。そうするとどうでしょう?だんだん、愛が生まれ、兄弟や姉妹を愛することができるようになるのです。これは不思議です。これまでは、自分に何か良いことをしてくれるから、自分の味方だったら愛するという条件付きでした。でも、神さまの愛が注がれると、こっちから進んで愛せるようになるのです。兄弟、姉妹を愛するというのは、救われた結果であり、証拠と言っても良いでしょう。みなさんも、そういう経験はないでしょうか?最初は、「クリスチャンって気持ち悪い」と思ったことはないでしょうか?みんなニコニコして、「ハレルヤ!」「感謝します!」とか言って、「ちょっとおかしいんじゃないだろうか?」あるいは、「偽善者かもしれない」と思ったのではないでしょうか?しかし、洗礼を受けて、その交わりに入っていると、いつしか同じようなことをしている自分がいます。「あれー?何だかなー」。それは、イエス様を信じて救われたからです。何べんも言いますが、キリスト教は道徳とか修養ではありません。神のいのちであり、奇跡であります。私たちは奇跡を生きているのです。ハレルヤ!ガラテヤ書5章に「御霊の実は愛である」と書かれています。私たちがイエス様を信じると内側に聖霊が与えられます。この聖霊が、愛という実を結ばせてくださるのです。私たちが愛するのは、いのちに移された結果、つまり救われたからなのです。ハレルヤ!

2.自己犠牲

愛とは自己犠牲です。愛がだんだん成熟してくると、自分のことはどうでも良くなり、むしろ、兄弟姉妹の方が大事になってくるということです。Ⅰヨハネ3:16「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」すごいですね。私が最初にこのみことばを読んだときは、ハンマーで頭を叩かれた気がしました。「そんなの、ありえなーい!」と思いました。人のために死ぬなんて、よっぽどでないと、できないですね。数年前に『タイタニック』という映画がありました。あの豪華客船は絶対に沈まないという自信があったので、救命ボートの数が少なかったのです。最初は子どもや女性を乗せました。やがて、金持ちはわれ先にと乗り込み、定員数に達していないのにボートを降ろしました。定員数を乗せたら、恐らく倍は乗れたでしょう。救命胴衣さえもみんなに行き渡りません。そこには、自分さえ助かれば良いというエゴが映し出されていました。しかし、楽団の人たちは最後まで、船上で演奏をしていました。人間の生まれつきの本能は自分の命をまず守りたいということです。この間、ある方の知り合いが北海道で大事故に見舞われたことを聞きました。地元の先輩が助手席に乗り、本土から来た後輩に運転をさせました。北海道での運転を慣れさせるためです。まだ、10月半ばというのに雪がちらついていたそうです。突然、キツネが道路に飛び出して来ました。後輩は急ハンドルを切って、道路標識に激突したそうです。道路標識に守られ、崖から下には落ちなかったそうです。しかし、道路標識に助手席を当てたので、先輩は大怪我をしました。大たい骨が折れて、骨盤に食い込んだということです。運転手の後輩はほとんど怪我はなかったそうです。なぜでしょう?とっさに、自分をさけたのです。しかし、助手席のことは考えなかったのです。自分の命だけは守りたいというのは、人間の本能であります。

ところが、このⅠヨハネ3:16は「人のために命を捨てろ」と真逆のことを言っているようです。しかし、この聖句を見ると、その前に何か書いてあります。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから・・・」となります。つまりは、「キリストが自分のためにいのちを捨ててくださった」ということを心底、体験するならば、ということです。不思議なことに、Ⅰヨハネ3:16とヨハネ3:16はリンクしているところがあります。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」どこか、共通しています。神さまがひとり子を与えたという意味は、十字架に御子を与えたということです。まさしく、キリストは私たちの救いのために、ご自分のいのちを捨ててくださったのです。もし、キリスト様が「そんなのいやだ。十字架になんかかかりたくない」と天にお帰りになったらどうでしょう?贖いは成立しないことになり、私たちは今も罪と死の中にいたことでしょう。でも、イエス様はご自分の命を捨ててくださったのです。それゆえに、私たちに救いが与えられました。それは神の愛であり、キリストの愛がそうさせたということです。イエス様は私たちを愛しておられたので、ご自分の命を捨てられたのです。ですから、新約聖書で「愛」ということを語るとき、必ず、イエス様の犠牲的な愛を考えなければなりません。明治の文豪、二葉亭四迷はロシア文学の研究家でもあり、ツルゲーネフの作品を訳しました。あるとき、I love youにあたるロシア語を日本語に訳そうとしました。彼は、二日二晩、悩んだ末、「私は死んでもいいわ」と訳したそうです。彼は、愛とは死ぬこと、命を捨てることだと分かったのです。

また、Ⅰヨハネ3:16を英語の聖書で読むとこれまた感動します。「命を捨てる」ということを、lay downと書いています。直訳すると「身を横たえる」ですが「命を捨てる」という意味もあります。ギリシャ語では「置く、横たえる」が第一の意味です。「命を捨てる」という意味は見つかりません。しかし、どうでしょう?イエス様は十字架に身を横たえました。すると、ローマ兵が手と足に釘を打ち付けました。その後、彼らは十字架につけられたキリストをロープで引っ張りながら、十字架として立てたのです。ということは、身を横たえるとは、十字架の死とやはり関連があります。サイモンとガーファンクルが「明日に架ける橋」というすばらしい歌を歌いました。サイモンが作詞をしたと思いますが、なんとその歌詞がこのⅠヨハネ3:16と同じです。Like a bridge over troubled water I will lay me down.「私が橋となって、激流の中に身を投げ出すよ」と訳せます。まさしく、聖書の兄弟愛を歌った歌ではないでしょうか?私たちの最大の友とはイエス・キリスト様であります。私たちの神さまとの間には、罪という永遠の淵があります。罪人である私たちはどんなに頑張っても、義なる神さまのところへは行けません。このままでは、私たちは死んで、さばかれ、永遠の滅びに行くしかありません。ところがイエス・キリストが十字架で死なれ、罪の代価を払って、3日目によみがえられました。そのことによって、私たちと神さまの間に、十字架の橋をもうけてくださったのです。私たちは橋となられたイエス様を渡りさえすれば、神さまのところへ行くことができるのです。そこはまさしく天国であり、永遠のいのちがあります。私たちはイエス様を信じて、自己犠牲の愛を悟りました。そうすると、今度は、兄弟、姉妹のために命を捨てることができるようになるのです。この愛は、私たちの本能的な愛ではなく、神さまが与えてくださる超自然的な愛なのです。

3行いと真実

 愛とは行いと真実の伴ったものであるということです。Ⅰヨハネ3:17-19「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」とかく、愛というのは、ことばや口さきだけで終わりがちです。私も講壇から「愛とはこういうものである」と10時間くらい語ることが可能です。実際、私も結婚式の司式を200組以上してきましたので、愛についてすらすらと語ることができます。しかし、愛について語ることと、実際に愛することは隔たりがあります。J.Bフィリップという人は、「愛は単なるセオリーや言葉ではありません。真実にそして実際に愛そうではありませんか」と訳しています。theoryというのは、理論、理屈という意味です。うぁー、教会というところは、一番、愛を語っているところかもしれません。しかし、実際に兄弟姉妹を愛しているかというと、どうでしょうか?ヤコブの手紙にも似たことが書いてありました。ヤコブ2:15-16「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」まさしく、ことばや口先だけです。教会ではありませんが、私は23歳の頃、百合丘のバッテングセンターでアルバイトをしていた時がありました。建設業を辞めて、就職口を捜していたときです。失業保険もなくなり、厳しい時でした。あるとき、事務の女の人が「きょうは頑張ったわねー、お昼はカツどんでも良いわねー」と言いました。私はてっきり「カツどんが出るのかなー」と、午前の仕事を終えて、休憩室に戻りました。ぜんぜん、そういう気配もありません。私は事務の人に「あれ?お昼、カツどんを出してくれると言ったんじゃないですか?」と聞きました。すると、「カツどんでも食べたら」という提案だったらしいのですね。私は「紛らわしいことを言うなよ!」と怒った記憶があります。アルバイトの先輩に聞いたら、「そんなことがあるわけないだろう」と言われました。彼女はクリスチャンではありませんが、私たちは似たことをしているのではないでしょうか?

愛の伝道者、岸義紘先生は、「愛は名詞ではなく、動詞です」とメッセージされたことがあります。そういえば、聖書に出てくる愛は、名詞よりも動詞形が多いかもしれません。特に、Ⅰヨハネ3章、4章、5章に「愛する」という動詞がたくさん登場します。私はヤコブの手紙もそうでしたが、ヨハネの手紙から連続して語るのは初めてです。ヤコブの手紙は厳しすぎてイヤでした。またヨハネの手紙は、愛さなければならないのでイヤでした。牧師がこういうことを言うと躓くかもしれませんね。正直、私はあまり愛されないで育ちました。狼少年のように一人で生きて、生きて、生き抜こうとがんばってきました。ところが、25歳でクリスチャンになり、神さまの愛を知りました。でも、愛し方をほとんど知りません。人との愛となると面倒なことが多々起こります。衝突したり、傷つけあったり、誤解したり、うまくいかないことが多いのですね。だから、教会は「イエス様、あなたを愛します」でやっていれば良いです。教会に来て、神さまを礼拝して、ちょっと挨拶して帰れば、ぶつかり合うことはありません。多くの牧師は、礼拝説教を終えたら、ほとんど、人とは会いません。集会では話しますが、個人的に話すというのは少ないです。面談やカウンセリングはありますが、自分のことはおそらく話さないでしょう。愛を語ることはあっても、実際に兄弟姉妹を愛するということが少ないのです。しかし、私は1996年に、セルチャーチ、共同体の教会を奨励しました。「教会は建物ではなく、互いに愛し合い、互いに祈り、互いに助けるところが教会なんだ」と言いました。そして、みんなが、積極的に交わり、具体的に愛し合うことを勧めました。

すると当然、牧師自身のあり方というのも問われます。従来の牧師では互いに愛し合う、共同体を作るのは難しいところがあります。講壇から降りて、互いに交わることをしなければなりません。でも、そこにはリスクも伴います。地金が出るというか、欠点や心の傷も見せることになります。いわゆる「ため口」も聞くことになり、新たな傷も受けるでしょう。でも、それが本当の教会なのです。セルチャーチという名前を使う、使わないはともかく、新約聖書の教会は、互いに愛し合い、互いに祈り、互いに助ける教会であります。ですから、傷を受けるリスクを負うことを当然覚悟しなければなりません。また、相手を傷つけてしまうこと、失敗すること、それも覚悟しなければなりません。お互いに親しくなると、つい、思っていることを話すでしょう。他人であれば、見過ごすところを、兄弟姉妹であれば、親切心も加わって、「こうしたら」と言いたくなります。「余計なお世話です」という時もあるかもしれませんが、多くの場合は、兄弟愛から来るものです。結婚生活もそうですが、ハネムーンの後に葛藤期がやってきます。最初は猫をかぶって「私たち気が合うわねー」とやってきました。しかし、親しくなると地金が出て、葛藤期を迎えます。1年後か、2年後です。そのとき、諦めて離婚する人もいます。そうではなく、いろんな衝突を調節してから、本当の親密さがやってくるのです。これは兄弟姉妹の間でも同じです。

浅草の東京ホープチャペルの西田先生も4年前からセルチャーチを始めました。いきなり、20個くらいセルができてとっても楽しかったそうです。しかし、1,2年たったら、ものすごく教会が荒れたそうです。空中分解するセルがどんどん出てきました。そのとき、エリヤハウスをみんなが受けることにしたそうです。エリヤハウスというのは心の傷の癒しをするミニストリーです。教会は「神の家族」と呼ばれています。多くの兄弟姉妹は自分が生まれ育った家庭の傷を持っています。その傷を今度は、神の家族で取り替えそうとします。自分が得られなかったものを、教会で得ようとします。ある人が「私に無条件の愛をくれ」と言います。こっちも「私にも無条件の愛をくれ」と言います。でも、無条件の愛を持っている人はほとんどいません。神さまは無条件の愛をもって愛してくれますが、人間の場合はそうではありません。「教会は、無条件の愛を説いているんじゃないか!」と牧師に言っても、その牧師がそうでありません。日本にはセルチャーチに対して2つの考えがあります。1つは問題が起こるのでセルチャーチをしない。「集会が終ったら、さっさと帰るように。『ハレルヤ!感謝します』と信仰によって勝利するように」言います。もう1つは、当教会のように問題が起こることを覚悟してセルチャーチになることです。私も何度もセルチャーチはやめようと思いました。役員の方からも「うちの教会はセルチャーチなのですか」「うちの教会はセルチャーチではありませんよ」と言われました。私はセルチャーチという名前にはこだわりません。でも、教会は神の家族であり、キリストのからだです。ですから、信仰は神さまと自分の関係だけでは成り立ちません。どうしても兄弟姉妹と交わり、兄弟姉妹と一緒に働いて神さまの使命を果たさなければなりません。兄弟姉妹との交わりは選択科目ではなく、必須科目であります。兄弟姉妹を愛さなければ、本当の信仰はないんだと言わざるを得ません。

あるセルセミナーで、私が司会をしました。ベン・ウォン師が愛についてのメッセージをした後、私が最後に「私には愛がないので、神さま、どうか愛せるように助けてください」と祈りました。ベン・ウォン先生が私の祈りに意義を唱え、次のセッションはそのことが1時間、話し合われました。神さまは「人を愛せない」という人を愛する人に変えられるかということです。ベン・ウォンが教えてくれた結論はこうです。神さまは私たちの意志を変えて、愛することができるように変えてくださるのか?それは不可能です。私たちが自分の意志で愛しますと言えば、神さまの愛が私たちから出てきて、愛せるのです。なぜなら、神さまの愛が私たちの内側に既にあるからです。神さまは私たちの中にご自分の愛があるので、互いに愛し合いなさいと命じているのです。