2011.11.13「神の命令 Ⅰヨハネ3:21-24」

「命令」ということばは、日本人は苦手です。命令と聞いただけで、戦争を思い出すでしょうか?あるいは、命令と言われると反発したくなるでしょうか?聖書には神さまの命令がたくさん記されています。しかし、その命令は私たちを不幸にするものではなく、幸福にするためのものです。親は子どもに命じるときがあります。多くの場合は、子どもを守るためのものです。「道路に急に飛び出すなよ」とか「宿題を今日中に済ませなさい」と言います。それは子どものことを思って命じているのです。神さまは、私たちを愛しておられます。そして、神さまも私たちが安全で、幸いを得るように、命令を与えてくださいました。それは不可能な命令ではなく、キリストにあって負い易い命令です。

 

1.神の命令

 

神さまが私たちに命じていることは何でしょうか?「命令」はギリシャ語でエントレーですが、他の箇所では「戒め」「律法」とも訳されています。ある英語の訳では、commandmentになっており、十戒と同じことばです。神さまの人間に対する命令ですから、絶対に守らなければなりません。少し前に、当教会の聖書日課で、伝道者の書を読み終えました。「ダイヤル一日一生」でも解説していますので、たまにお聞きください。この書は「空しい、空しい。人生とは空しいものだ」と、仏教の教えとよく似ています。そして、12章の最後に、結論というべきものが記されています。伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書いてあります。少し古い口語訳聖書は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と訳しています。本分?昔は「学生の本分とは○○である」と言われましたが、現代ではそんな言い方はしないでしょう。人間の本分、とても重いことばです。旧訳聖書は「人間の本分は神を恐れ、その命令を守ることである」と教えています。では、福音書では何と言われているでしょうか?マタイ22章で、イエス様は律法学者から「律法の中で、大切な戒めは何ですか」と聞かれました。イエス様はたくさんある旧訳聖書の戒めをたった2つにまとめました。マタイ22:37-39「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。最も大切な神の戒めは、第一に神さまを全身全霊で愛することです。第二は、隣人を自分自身のように愛することです。とてもわかりやすいですね。

では、ヨハネは何と言っているでしょうか?旧訳聖書、福音書、そしてヨハネの手紙から語ろうとしています。啓示としてはパウロやヨハネの手紙が一番すぐれています。なぜでしょう?旧訳聖書と福音書は、イエス様が十字架にかかる前のこと、つまり古い契約のことを語っているからです。もちろん、新しい契約についても語っていますが、それは預言としてであります。厳密に言いますと、新しい契約は、イエス様が十字架で贖いを成し遂げられてから効力を発揮したのです。ヨハネは十字架の贖いを通過した後の、神の命令を書いています。だから、「神を恐れよ」とか「神を信じなさい」あるは「神を愛しなさい」とは書いていません。それらは古い契約時代の古い命令です。では、新しい契約における新しい命令とは何なのでしょうか?Ⅰヨハネ3:23「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」おおー、なんと鮮明で、なんと分かり易いのでしょう。神様が私たちに与えておられる命令とは何でしょう?2つあります。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は私たちが互いに愛し合うことです。神様は第一に、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることを願っておられます。いや、命じておられます。命令、戒め、掟であります。なぜ、でしょう?御子イエスを信じたなら、人間の神さまに対する要求がすべて満たされるからです。なぜなら、御子イエスが私たちの代わりに、律法を全うし、また律法の責めも負ってくれたからです。神さまは私たちが御子イエスを信じたら、「もう十分ですよ」とおっしゃるのです。ところで、「キリストの御名」とありますが、御名とは何でしょう?御名とは、単なる名前ではなく、ご人格という意味です。「キリスト全体、丸ごと」という意味です。だから、イエス様はヨハネ福音書で「いのちのパンである私を食べよ」と命じているのです。食べるということは、丸ごとイエス様を私たちのうちに取り込むということです。つまり、イエス様を信じるとはイエス様を自分の中に受け入れ、イエス様と一心同体になるということです。そして、信じるという中には、信頼、忠誠、服従、依存が含まれます。キリストの御名を信じるとは頭だけではなく、私たちの全存在をかけるということです。

神様が私たちに与える第二の命令とは何でしょう?「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」ここにも、「キリスト」が入っています。神様は「私が命じたとおりに」とはおっしゃっていません。「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合いなさい」と命じておられます。古い契約は何と命じられていたのでしょう?「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ですしかし、この戒めは古いのでしょうか?ヨハネはⅠヨハネ2章でこのように教えています。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。」これは、古い命令なのですが、ヨハネは「新しい命令として書き送ります」と言っています。何故、ヨハネはあえて新しい命令として言い換える必要があったのでしょう。古い命令から、新しい命令になる過程において、何があったのでしょう?そうです。先週、学びました。キリスト様が私たちのために命を捨ててくださいました。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。古い命令と新しい命令との間に、イエス・キリストの十字架があるのです。イエス様は弟子たちに「私が愛したように、互いに愛し合いなさいよ」と前から命じていました。しかし、それができませんでした。いつから本当にできるようになったか?イエス様が十字架に死なれ、本当の愛を示してからであります。それから、弟子たちには古い戒めではなく、新しい戒めになったのです。ですから、新しい命令、新しい戒めとは、「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合いなさい」ということなのです。

私たちの周りには赦せない人が何人かいるでしょう。「あの人は好きじゃない。イヤだ。とても愛せない」。そういう人がいるんじゃないでしょうか?「はい、それは鈴木先生です」と言われるかもしれませんね。ありえるかもしれません。でも、そういう人はメッセージも聞きたくないので、礼拝にも来ないでしょう。でも、新約の戒めを心から理解している人は、好き嫌い関係なく、礼拝に参加してメッセージを神さまからいただく人です。日本人は義理人情に篤い国民です。よく、間に人を立てて、和解したり、契約を成立させたりします。仲介者、仲人、交渉人という人もいます。中に立つ人というのは、両者を知っている人で、両者は何らかの恩義を受けています。つまり、直接的にはいろいろ問題や不満があるけれど、間に立ってくれる人の顔を立てるということです。「その人がそういうなら良いでしょう」となります。私たちの最大の仲介者とはだれでしょう?イエス・キリスト様であります。もし、イエス様があなたに「あの人のことを赦してあげなさい」とお命じになられたならどうしますか?「ムーリー。イエス様、無理ですよ」と一蹴できるでしょうか?イエス様は「言いたかないけど、私はあなたのあの罪も、あの罪も、あの罪も赦してあげたのですよ。あの人の罪くらい赦してあげられないのですか」と言います。「いや、だめです。あの人だけは例外です」。イエス様は「私の十字架に免じて、赦してやってはもらえないだろうか」と懇願します。私たちの上に重石が載って、辛くなり、最後に何と言うでしょう。「主よ。わかりました。赦します」となるのではないでしょうか?愛することは、赦すことでもあります。多く赦された者は、多く愛するのです。私たちはイエス様によって多大の罪が赦されました。だから、私たちも自分の隣人、兄弟姉妹を赦すのです。赦したら、こんどは神の愛が注がれ、愛せるようになります。神の命令とは何でしょう?「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」

 

2.神の命令を守る者

 

もし、私たちが、神さまの命令を守ったならどのような保障、約束、祝福があるのでしょうか?神さまが私たちに命令を与えた理由は、私たちが幸いに生きることができるためです。人間だったら、みな、「幸福になりたい、幸せになりたい」と思うでしょう。多くの人は、幸福を人生の目標にしています。たとえば、「幸せになるために結婚する」と言います。あるいは「あなたをきっと幸せにします」と約束するかもしれません。ある人は「幸せになるためキリスト教を信じます」、あるいは「キリスト教の目的は人間が幸せになることです」と言うかもしれません。私は幸福を人生の目標にしたら失敗すると思います。カール・ブッセが「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいふ」と言いました。また、「青い鳥」という童話もあります。幸福は追いかければ、追いかけるほど遠くに行って、なかなかつかまえることができません。虹も、そうでが、虹を追いかけても、虹をつかむことは決してできません。では、あらためて、キリスト教の幸福観を申し上げたいと思います。幸福を人生の目的にしてはいけません。幸福は人生のボーナスです。神さまの命令を守るとき、ボーナスとして幸福が訪れるのです。幸福は神さまに従うことによって受ける、おまけであります。昔、グリコのおまけがありました。キャラメルよりも、おまけが目当てだったかもしれません。でも、大事なのはおまけではありません。神の命令に従うことが大事なのです。では、私たちがキリストの御名を信じ、互いに愛し合うという神さまの命令を守るならば、どのような保障、約束、祝福、つまり幸福があるのでしょうか?

第一は心が安らかであるということです。別の表現では心に責めがないということです。このことは、Ⅰヨハネ3:19-21に書いてあります。19節には「神の御前に心を安らかにされる」とあります。20、21節には「たとい自分の心が責めても大丈夫」と書いてあります。私たちの心には良心というものがあります。良心とは、いわば心に書かれた律法です。イスラエルの人たちは、石に書かれた律法がありました。しかし、私たち異邦人には良心という板に書かれた律法があります。私たちが罪を犯すと良心が責めます。良心は罪を犯さないようにさせる神さまからの一般的な恵みです。しかし、石に書かれた律法が万能でないように、心の板に書かれた良心も万能ではありません。なぜ、良心は不完全なのでしょう?こういうことです。神さまが「キリストにあって赦すよ」と宣言したにも関わらず、良心が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感がそうです。恥意識、未達成感、トラウマもその中に入るかもしれません。良心は体重計みたいなものです。体重計は大事に扱っていると正しい重さを知らせてくれます。でも、体重計に衝撃を与えたらどうでしょうか?ドーン、ドーンと上でジャンプしたり、放り投げたらどうでしょうか?どこかがおかしくなり、正しい数値を示さなくなるでしょう。心で言うなら、平安がなく、罪責感や恥があるということです。でも、ヨハネは何と言っているでしょうか?20節「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」アーメン。私たちの心よりも大きな神さまに信頼すべきです。私たちの良心を神さまに向けたらどうなるでしょう?ヘブル9:14「キリストの血が私たちの良心をきよめる」と書いてあります。ヘブル9:22「心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられる」とあります。キリストの血によって良心がすすがれ、きよめられるのです。その結果、大胆に、神さまの御前に出ることができるのです。キリストにあって、もう責めも咎めもありません。心が安らかなのです。これこそ、幸福な人生の1つではないでしょうか。

第二は何でも神からいただけるということです。Ⅰヨハネ3:22「大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」「何でも」とはどのようなものでしょうか?何でもです。福音書でイエス様は「求めるなら与えられる」と何度も何度も約束しておられます。しかし、私たちは求めるものは何でも神さまからいただいているでしょうか?正直に答えるとどうでしょうか?神さまに求めて与えられたものと、求めても与えられなかったものがあるはずです。では、求めて与えられたものと、求めても与えられなかったもの、どちらが比率的に高いでしょうか?信仰の人ジョージ・ミューラーみたいな人はともかく、求めても与えられなかったものの方が多いのではないでしょうか?そうなると、このみことばは何なのでしょうか?眉唾でしょうか?ヤコブは、求めても与えられないのは何故か理由を述べています。ヤコブ1:6-7「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」そうです。求めても与えられないのは、心に疑いがあるからです。二心のある人とは、信じる心と信じない心がある人です。しかし、全く疑わないで100%信じられる人っているのでしょうか?おそらくいないと思います。でも、私たちは疑い、つまり不信仰をできるだけ避けて、信じる方を選び取る必要があります。私たちの心から疑いをできるだけ取り除き、求めたら与えられるという信仰の領域をできるだけ広げるのです。そうすると、求めたら与えられる確立がぐっとアップするでしょう。どうしたら良いのでしょうか?私たちの言葉を変えることです。私たちはイエス様のお名前によって、一心不乱になって求めます。病が癒されるように、必要なものが与えられるように、問題が解決されるように祈ります。「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」その後が、問題なのです。「しかし、現実は難しいよなー」「いやー、相変わらず痛むよなー」とポロっとつぶやかないでしょうか?それは、「今、祈った祈りをキャンセルします」と言っているようなものなのです。なぜなら、自分の口で否定しているからです。旧約聖書に「主を待ち望め」と何度も言われています。祈り求めたら、主を待ち望むのです。そうすれば、時がかなったら与えられます。信仰とは、目で見えていなくても、手でも触っていなくても、「既に得ている」と確信することです。

第三は神さまが私たちのうちにおられるということです。Ⅰヨハネ3:24「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」「神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられる」とはどういう意味でしょうか?実は同じことをイエス様も福音書でおっしゃっていました。ヨハネ14章10節「私が父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか」。これはイエス様がピリポに言ったことばです。これは、イエス様と父なる神さまが一体だということです。イエス様は、神が共におられるインマヌエルの神さまでした。しかし、私たちが神の命令を守るなら、つまり御子イエスを信じ、互いに愛し合うなら、神さまがともにおられるということです。しかし、これはどのようにして私たちに実現したのでしょうか?それは「神が私たちに与えてくださった御霊によって」であります。私たちがイエス様を信じると、神の霊であられる聖霊が私たちの内に宿ります。そうすると、神がその人と共にいることになります。チョーヨンギ先生が「神さまはどこにいますか?」というお話をされたことがあります。創世記を見ると、神様はエデンの園におられました。でも、アダムとエバはエデンの園から追い出されました。もう、エデンの園がどこにあるかも分かりません。出エジプト記を見ると、神様はシナイ山におられたと書いてあります。モーセだけが、神さまに近づくことができました。地が震え、雷鳴がとどろくシナイ山には恐ろしくて登れません。さらに、神さまは幕屋におられたようです。神が臨在する至聖所には年に一回、大祭司しか入れません。その後どうなったでしょう?ソロモンが神殿を建てました。立派な神殿です。そこに神さまはおられました。でも、バビロンによって神殿が壊されました。その後、ナザレのイエス様の内に宿られました。イエス様は十字架に付き死なれました。霊を神さまの御手にゆだねられました。ああ、もう神さまはどこにもおられないのでしょうか?イエス様が天にお帰りになって、10日後、ペンテコステの日に聖霊が降りました。聖霊はキリストの御霊であり、神の霊でもあります。なんと、イエス様を信じる者には、もれなく聖霊が宿るようになったのです。あなたは今、どの時代に住んでおられるでしょうか?神の箱に宿った、旧訳聖書の時代でしょうか?イエスさまと共におられた福音書の時代でしょうか?私たちは、ペンテコステ以降に住んでいます。もう、約束はかなえられたのです。神の命令を守る者に、つまり御子イエス様を信じ、互いに愛し合うなら、神が共におられるのです。ハレルヤ!

旧訳聖書では神が共におられるということが救いでした。神が共におられる、これ以上の幸いはないのです。あなたは神が共におられるということを感謝したことがあるでしょうか?モーセはかつて神のしもべと言われました。アブハラムは神の友と呼ばれました。エリシャは神の人と呼ばれました。なぜなら、彼らと神さまが共におられたからです。新約聖書の私たちはどうでしょうか?「神のしもべ」「神の友」「神の人」みんなすばらしいです。しかし、もっとすばらしい立場があります。それは、「神の子」です。私たちクリスチャンは、神の息子、神の娘なのです。イエスさまが長子で、私たちはみな、その兄弟姉妹なのです。どうぞ、神さまが共におられ、神の子という身分が与えられていることを喜びましょう。私たちは、私たちにすばらしいことをしてくださった、神さまをもっと喜ぶべきです。神さまを喜んだらどうなるのでしょう?そうです。私たちは幸せになれるのです。喜ぶことは、感情ではなく、意志ですから選ぶことができます。私たちが神さまを喜べば、幸福がやって来るのです。幸福は山のかなたにあるのではなく、私たちのすぐ近くにあります。私たちと共におられる神さまを喜び、感謝します。