2011.11.20「神からの霊 Ⅰヨハネ4:1-6」

きょうは霊的なことをお話したいと思います。キリスト教会でも霊的なものを全く排除し、教え中心のところもあります。また、ある教会は奇跡や預言など、神秘的なことばかり追い求めます。片方は知的過ぎて、まるで哲学になっています。もう片方は知性を捨て、神秘的な霊の世界に入り込んでいます。神さまは私たちに知性をくださいました。知性も必要です。しかし、世界には私たちの知性では理解しえないこともたくさんあります。ですから、右に偏り過ぎてもいけないし、左に偏り過ぎてもいけません。信仰においてもバランスが必要です。

1.霊だからと言って

Ⅰヨハネ4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」戦後は物質を追い求めました。その後、「心の時代」ということが言われました。そして、今は「スピリチュアル」という言葉がさかんに聞かれるようになりました。髪の毛を黄色に染めた人と和服を着た太目の人が「スピリチュアル、スピリチュアル」と言っています。昔は霊能者と言いましたが、今はスピリチュアル・カウンセラーと呼び方が上品になりました。多くの人が解決をいだだこうと、そういうところに通っています。日本人は西洋の教育を受けました。ですから、頭では「目に見えないものは信じない」という合理主義です。しかし、心はアニミズム的で霊の存在を信じています。だから、スーパー・コンピューターを設置するときは、神主を呼んで御祓いをしてもらうそうです。おそらく、あのスカイツリーを建築するときも、工事の安全を祈願したことでしょう。頭では「そんなのジンクスだ、迷信だ」と思っています。しかし、心では「得体の知れない力がこの世には存在するんだ」と恐れています。だから、何か悪いことが立て続けに起こると、御祓いをしてもらうのです。また、就職や結婚などの人生の岐路に立たされたとき、神がかったものに助けを求めるのです。

大学でちゃんと勉強した人がいます。その人は、科学的に証明できないものは信じない人です。しかし、占いが当ったり、不思議な体験をすると、コロッとひっくり返ります。科学しか信じないという人に限って、危ないのです。なぜなら、霊的なことに対して免疫がないからです。そういうことが起こると、世界観がひっくり返ってしまい、今度は何でも信じるという極端な方に傾きます。だれとは言いませんが、そういう人が政界や経済界、芸能界にもたくさんいます。何か重要な決断をするとき、霊能者のところにお伺いを立てに行くようです。しかし、その背後には悪魔、悪霊がいるのです。ここに「にせ預言者」と出ていますが、平たく言えば、神さまの代わりに告げる人のことです。彼らは「お告げ」とか「おことば」と言うかもしれません。そこには真理も多く含まれているので、「ああ、もっともだなー」思うかもしれません。でも、その背後で語っている霊が重要なのです。現代訳聖書はⅠヨハネ4:1をこう訳しています。「愛する皆さん。人が何かを語る場合、その人の語ったことの背後に、その人の実体とも言うべき霊がある。その霊にはいろいろあって、神からのものもあれば、そうでないのもある。だから、それを区別しなさい。今日、多くの偽預言者が現れて来ているからである」。現代訳の尾山令仁先生は、「その人の語ったことの背後に、その人の実体とも言うべき霊がある」と言っています。霊は実体であり、本当にあるのです。その霊がにせ預言者を通して、もっともらしいことを語っているのです。全部、嘘ではありません。全部、嘘だったらばれるでしょう。だから、そこにいくつかの真理が含まれています。本物に限りなく似てはいますが、本物ではありません。

にせ預言者の背後にいる実体ともいうべき霊とは、悪霊であり悪魔です。聖霊と比較して、諸霊と言ったりもします。では、なぜ諸霊はそんなことをするのでしょうか?人間は本来、神さまから造られた神の子どもであります。しかし、ほとんどの人たちは造り主から、離れて生きています。そこに悪霊が付け込み、人々を惑わし、造り主から遠ざけ、救われないようにするのです。そして、本来は神の子である人々をいたぶり、奴隷にし、滅ぼそうとしているのです。大体、そういう「お告げ」や「おことば」をいただいた人は、どうなるでしょう?ジンクスや恐れにますます支配されます。どういう方角が良いのか、どういう色が良いとか、どういう食べ物を食べるとか、いちいち指示されます。ある人は階段をいつも右足から昇るとか、お風呂に入るときも右足から入ると決めています。常にそういう占いや霊能者から、あるいは悪霊から直接、聞いている人たちがいます。しかし、みなさん本当の神さまは細かいことまで指示しません。私たちに自由意思を与えておられますので、「自分で考えなさい」と言われます。

韓国の『二つの翼』でこういうお話を聞きました。ある人が牧師先生のところに相談に来たそうです。お祈りすると、白い服を着たイエス様が現れ、「きょうは○○しなさい。明日は○○しなさい」と言います。これは本当でしょうか?お祈りするとイエス様がいつも現れる?では、霊を試してみなさい。イエス様が来られたら、「ナザレ・イエスの御名によって出て行け!」と一発殴られても良いからやってみなさい。光の御使いとして装っている可能性があるので、一回だけ試してみなさい。その人がお祈りをすると、また、現われました。その時、「イエスの御名によって出て行け!」と言いました。頭から角みたいなものが、にゅっと生え、出て行ったそうです。聖霊の働きはこと細かく干渉しません。悪霊が「ああしなさい、こうしなさい」と言うのです。神は私たちに自由意志を与えておられます。私たちの人格を尊重します。「ああしろ、こうしろ」、結果的に自分が拘束されます。神さまは私たちが成長すると私たちにゆだねるのです。霊だからといって、みな信じてはいけません。神さまは私たちに、一般恩寵として知性と意思を与えておられることを忘れてはいけません。

2.ためしなさい

Ⅰヨハネ4:1後半-3「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」ヨハネは「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と言っています。では、どのようにしたら、神からの霊か、反キリストの霊なのか分かるのでしょう?ヨハネは「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」と言っていますが、これはどういう意味でしょうか?当時、グノーシスという神秘主義的な異端がはびこっていました。彼らは「肉体は悪なので、神さまは肉体を取らない。キリストも肉体はなかった」と主張しました。彼らもキリストを信じてはいましたが、それは肉体を持たない天使のような存在でした。でも、本当の救い主は肉体をもってこの世に来られました。なぜでしょう?それは人類の身代わりなって罪を引き受けるためです。言い替えると、私たちの罪の贖いを成し遂げるために十字架にかかられたということです。贖いなしで、キリストを信じると言う場合、その信仰は怪しいものとなります。世の中には数多くの宗教があり、彼らの説く救いがあります。しかし、人類の罪を贖われたキリストによる救いは1つだけです。他の宗教には残念ですが、「罪の贖い」がありません。だから、人となって来たイエス・キリストを告白するかどうかが、決め手になるのです。

もう1つはだれを告白するかです。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。」とあります。使徒パウロはⅠコリント12章でこう言っています。Ⅰコリント12:3神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。厳密に言えば、Ⅰヨハネは「告白する」で、Ⅰコリント12章は「言う」です。しかし、両者は同じことを表現しようとしていることは確かです。告白する、あるいは言うということは、重みがあります。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました。悪霊はイエス・キリストが大嫌いです。ヤコブ書には「悪霊どもは身震いしている」と書いてあります。ですから、もしその人の中に悪霊がいるならば、あるいは悪霊によって語っている人ならどうでしょう?その人に、「イエスは主です」と告白してみてくださいと頼んだら良いです。おそらく、「イ、イ、イ…」と詰まってしまうでしょう。なぜでしょう?「イエスは主である」という告白は、聖霊様がなさせる事柄だからです。逆に、その人の中に聖霊がおられるなら「イエスはのろわれよ」とは言えないのです。もし、その人が、「イエスはのろわれよ!」と言えるなら、その人の救いは怪しいでしょう。きっと、救われていないのかもしれません。

私は『二つの翼』という韓国の弟子訓練プログラムを先月、卒業しました。1段階が4日間あり、それが6段階までありましたので、計1年半かかりました。講師はプサンのキム・ソンゴン牧師です。プサンは仏教のお寺がとても多く、プサンだけで韓国全体のお寺を養っているそうです。また、占いや拝み屋がとても多く、霊的に最も悪い場所だそうです。そういうところで、4000人以上の教会になったのですから、たいしたものです。福音を伝えますが、単なる福音ではなく「福音の絶対的な能力」です。つまり、イエスの御名によって病を癒し、悪霊を追い出すことによって神の国が来ていることを証明するのです。その教会では、牧師は3時間、セルリーダーは2時間、一般聖徒は1時間祈ることが決まりになっています。なぜなら、悪霊の力がとても強いので、それだけ祈らないとやっていけないからです。日本も八百万の神がいるというので、セミナー期間、プサンでは200人のとりなし手が祈っていました。セミナーは、朝9時から夜の9時半くらいまでとても長いんです。最初、賛美と祈りを1時間くらいやります。各セッションの前にも賛美と祈りがあります。大声で賛美し、大声で祈ります。それを4日間やるとどうなるでしょう?その次の日曜日、力があるんですね。同じメッセージを語っているのですが、内側に力があります。なぜでしょう?やっぱり、イエス様を賛美し、大声で祈ったからです。悔い改めもするし、信仰の告白もしたからです。そのため、内側の汚いものが吐き出され、聖霊に満たされて帰ってくるわけです。だから、力があるんですね。当教会はセルチャーチを目指してから祈祷会を全部やめました。私は一人でも声を出して祈っていますが、教会員はそうでないかもしれません。やっぱり、定期的に大声で賛美し、大声で祈るときを持たないといけないと思います。とにかく、「イエスは主である」と口で告白したなら、聖霊に満たされ、信仰も増すということです。

3.霊を見分ける

Ⅰヨハネ4:5-6「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」もう1つそれが神さまから来ているか、悪霊から来ているのか見分ける方法があります。この世には2種類の人間しかいません。第一はこの世の者です。この世の者とは、この世に属する者と言う意味です。第二は神から出た者です。「出た」というギリシャ語は「エン」ですが、起源、源、出どころ、出生、所属を表す前置詞です。私たちは、かつてはこの世に属していました。悪魔の支配のもとにあり、罪と死の奴隷でした。みんなかつてはそうだったのです。しかし、イエス様のことばを聞いて、神様のもとに来て救われたのです。J.Bフィリップスという人は「この世の子ら」と「神の子ら」とに分けています。世の中には、「この世の子ら」と「神の子ら」の二種類いるわけです。それでは、両者の特徴とは何でしょうか?「この世の子ら」の特徴は、「この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾ける」ということです。この世のことばとは、私たちの理性にぴったりで、納得のいくものでしょう。世の中には、絶対的なものはなく、すべてが相対的である。善と悪は時代によって人間が決めるもの。同性愛者にも人権があり、できちゃった婚もあり。できるだけ権利を主張し、義務は最小にとどめる。教育の場では、聖書や神さまの話はタブーであり、進化論しか教えない。目に見えるものがすべてであり、人生は生きているうちが花である。死んだら天国に行くか、ひょっとしたら何かに生まれ変わるだろう。こういうのが、この世のことばです。そして、その背後には、にせ預言者、反キリストがいます。反キリストが政治や教育、経済、芸術、娯楽に手を伸ばしていたらどうでしょう?「世の終わり」に詳しい先生によると、反キリストは黙示録にあるような準備をしているそうです。黙示録13章に「刻印を受けない者は、買うことも売ることもできない」と書いてあります。科学者は、将来、すべての個人情報が入った、マイクロチップを額か手に埋め込むことを考えているようです。黙示録に「背教の教会」が記されていますが、やがて、すべての宗教が統一されるでしょう。「私はキリストしか信じない」という人は迫害され、買うことも売ることもできなくなります。

一方、神から出たもの、「神の子ら」の特徴は何でしょう?「神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾ける」とあります。「私たちの言うことに耳を傾ける」とはどういう意味でしょうか?「私たち」とは使徒ヨハネや使徒パウロ、あるいは神の預言者たちです。今で言うなら、旧訳聖書と新約聖書です。エペソ2:20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」当亀有教会が日本基督教団から出て、単立になった理由の1つがこれです。亀有教会のニュースレターができました。これは、お付き合いのある教会の先生方に「新しい歩みを始めましたよ」と送る案内です。その中に、「亀有教会が目指す価値観」というのが書いてあります。4つありまして、第一は「かしらなるキリストに聞き従う教会」です。教会はキリストのからだであり、教会のかしらはイエス・キリストです。単立教会は牧師がかしらになる傾向があるからです。牧師も教会員もみんなかしらなるキリストに聞くのです。第二は「神のことばである聖書を土台とする教会」です。すべてのキリスト教会は聖書を信じているでしょう。でも、「創世記から黙示録まで、神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばである」と信じている教会は半分くらいしかないでしょう。私たちは全部、丸ごと、聖霊によって霊感された神のことばであると信じます。第三は「互いに愛し合い、互いに仕え合う教会」です。本当はセルチャーチにしたかったのですが、セルと限定すると、うまくいかないところがあります。しかし、聖書に「互いに愛し合い、互いに仕え合う」と書いてあるのでみんなが同意できると思います。第四は「伝道し、弟子を作り、教会を生み出す教会」です。これまで教会は教団に全部任せていました。宣教師の派遣、牧師の育成、教会の開拓を地域教会がやってきませんでした。そのため、それらが全部、弱ってしまいました。先ほどのプサンの教会もそうですが、オンヌリ教会、ラルフモアーのホープチャペル…まず、教会が取り組んでいます。

神の子は聖書のみことばに耳を傾けるということです。私がこうやって公の礼拝で、聖書からメッセージを取り次いでいることはとても重要なことです。私のことばが神のことばなのではありません。私は誤りなき神のことばである聖書から語っているのです。パウロがテモテにこのように命じています。Ⅱテモテ2:15「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」アーメン。真理のみことばをまっすぐに説き明かす、このことが重要です。みなさんは牧師が「聖書から正しく語っているなー」と思う限りは、どうぞ耳を傾けてください。「怪しいなー」と思ったら、どうぞ耳をふさぐか、私を追い出してください。イエス様はヨハネ10章で、「羊は彼の声を知っているので、彼について行く」と言われました。クリスチャンは神の子であり、聖霊を内に宿しています。だから、神のことば、すなわちイエス様のことばであるなら、「アーメン」と同調して聞き従うのです。自分の声ではなく、内なる御霊の声に耳を傾けてください。ローマ・カトリックでは、黙想を強調し、自分の声に耳を傾けなさいと指導します。しかし、私たちは霊的存在なので、悪魔の声も人の声も自分の声も入ってきます。昔、夜、ラジオを聞くと、外国の放送も入りました。遠くのモスクワや北朝鮮の放送も入りました。霊の世界もそれと同じです。霊だからと言って、みな信じてはいけません。イエス様を主と告白するチャンネルに合わせるのです。いつもイエス様と交わっているなら、御霊の声がどれか分かります。

悪霊の話をずいぶんしたので、最後にこのみことばをもってまとめなければなりません。Ⅰヨハネ4:4「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」私たちクリスチャンは、神さまから生まれ、神さまに属するものです。イエス・キリストが悪魔に勝利したので、その中にいる私たちも悪魔に勝利したのです。そして、私たちのうちにおられるイエス様は、この世のうちにいる悪魔よりも力があるのです。私たちには御子イエス・キリストの血が注がれています。悪魔は私たちを訴えることはできません。また、私たちの内には聖霊によってイエス・キリストが宿っています。私たちはキリストの御名の権威を用いることができます。イエス様はご自分が持っておられる、すべての力と権威を私たちに授けてくださいました。ですから、ピストルに実弾である神のみことばを詰め込みましょう。御霊の剣をいつでも抜けるように準備しましょう。救いのかぶと、信仰の大盾を取りましょう。正義の胸当てを付け、真理の帯を締め、福音の靴を履きましょう。今、野球の日本シリーズが行われているようです。私たちは選手としてどこに属したら良いのでしょう。チーム・ジーザス、イエス様に属するべきです。たとえ補欠であっても、イエス様のチームに属していれば勝利を味わえるのです。イエス様はこの世と悪魔に勝利されました。だから、私たちも主にあって勝利できるのです。