2011.11.27「互いに愛し合う Ⅰヨハネ4:7-11」

1つの書物に頂点があるように、きょうの箇所は、ヨハネ第一の手紙の頂点、クライマックスと言えます。7-11節までの間に、愛ということばがなんと13回も出てきます。きょうの箇所を一言でまとめますとこうなります。「神は愛であり、神の愛を知っている者は、互いに愛し合うべきである」ということです。では、神の愛はどこに示されたのでしょう?ヨハネは「ここに愛があるのです」と言っていますが、神の愛の極致はどこにあるのでしょうか?きょうの聖書の箇所は有名なグレート・テキストの1つですので、語る方が負けてしまいます。でも、負けて良いのです。なぜなら、聖書のことばそのものを読んだだけで、満たされるからです。

 

1.神の愛を知る

 

 私たちが互いに愛し合う愛とはどのようなものなのでしょうか?世の中では愛が歌われています。教会ではこのように愛が説かれています。私たちは一般的にどういうものを愛するでしょうか?美しいもの、価値あるもの、自分を愛してくれる人を愛するには努力はいりません。男性だったら美人でしょうか?女性だったら宝石でしょうか?子どもたったら自分を可愛がってくれる人でしょうか?でも、それらと反対のものを愛することができるでしょうか?醜いもの、価値のないもの、自分に敵対する人を愛することができるでしょうか?たとえばゴキブリを愛することができるでしょうか?ゴキブリは醜いし、価値がないし、バイ菌を運び込む敵であります。か弱そうな女性でも、新聞紙を丸めて「えぃ!」と叩くのではないでしょうか?もし、人間が罪の中に生まれ、醜くて、神さまに敵対して歩んでいるとしたらどうでしょう?聖くて、義なる神さまは一体どうするでしょうか?「えぃ!」とやられても文句が言えないかもしれません。しかし、神さまのご性質の中には、愛があります。その愛は私たち、人間の愛とは全く違います。美しくなくても、価値がなくても、自分を愛してくれなくても愛する愛です。ギリシャ語ではアガペーの愛と言います。言い換えるならば、無条件の愛です。残念ですが、無条件の愛は、人間は持っていません。無条件の愛は神さまにしかありません。

 ヨハネは何と言っているのでしょうか?Ⅰヨハネ4:7,8「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」このところには、「愛のある者は神を知っている。愛のない者に神はわかりません」と書いてあります。このところにある「知る」はギノスコーで、体験的に知るということばではなく、「分かった」「知るに至った」ということばです。たとえば、1+1は、2です。1+1=2はギノスコーで「分かった」という分野です。これはだんだん分かったのではなく、あるときに分かったのです。そして、1+1=2という知識は増えもしないし、減りもしません。でも、この世には、1+1が必ずしも2にならないことがあります。私たちは「理屈どおりにならないことがある」ということを知ります。これは体験的に知るという方であり、ギリシャ語ではオイダという言葉です。それでは、「イエス・キリストは救い主である」ということを知るのはギノスコーでしょうか?それとも「体験的に知る」のオイダでしょうか?これは、ギノスコーという「知る」です。「イエス・キリストは救い主である」という知識は完全であり、減ることも増えることもありません。しかし、「イエス・キリストが私の人生のあらゆる面においても救い主だなー」と知るのは体験的に知るオイダです。 

実は、ヨハネが言っている「神を知る」という「知る」は、ギノスコーという「知る」です。神を知るのは、神からの霊、つまり啓示によって分かるのです。私たちがいくら研究しても、神さまを知ることはできません。神さまの方から、「私はこういう者だよ」と教えられて、「ああ、あなたが神さまですか!」と初めて分かるのです。その直後、私たちは神から生まれます。神から霊的に生まれると神さまがますます分かります。神さまと日々、交わると「ああ、本当に神さまは愛なんだなー」と体験的に分かるようになります。私たちは信仰生活において、ギノスコーの分野もオイダの分野もどんどん広がっていきます。でも、最初はギノスコーの「知る」が必要です。神の愛も同じです。9節と10節に、「ここに神の愛が示された」「ここに愛がある」と書いてあります。ここってどこでしょう?Ⅰヨハネ4:9,10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ここに示されている神の愛というのは、父がひとり子を世に遣わしたことです。つまり、父が罪のためになだめの供え物として御子を遣わしたことです。言い換えると、父なる神さまが私たちの罪を贖うために、御子を与えたことです。どこに与えたのでしょう?それは十字架です。十字架で死なせるために、御子イエス様をこの世に遣わしたということです。だけど、これがどうして神さまの愛なのでしょう?また、それゆえに、互いに愛し合うべきなのでしょう?これは私たちの方から理解しようとしてもできないことです。神さまの方から、教えていただかなければなりません。そして、あるとき、「ああ、神さまは愛なんだ。だから、互いに愛し合うべきなんだ」と分かるのです。

 

2.なだめの供え物

 

9節と10節に、「ここに神の愛が示された」「ここに愛がある」と書いてあります。その中心的なものがこれです。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」どこに神の愛があるのでしょうか?それは、父なる神さまが、なだめの供え物として御子を遣わされたことにあるのです。ですから、私たちは「なだめの供え物」とは何なのか知る必要があります。「なだめの供え物」という言葉が新約聖書の3つの書物にあります。第一はローマ人への手紙3章です。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」なだめの供え物に神ご自身の義が現れていると書いてあります。神さまは義なるお方です。1つの罪もそのままにしておくことはできません。罪であるならば、必ず、さばかなければなりません。もし、「どんな罪でも赦すよ」と言ったならば、そのときから神さまは神でなくなります。人間はアダムの子孫であり、生まれたときから罪を持っています。そして、成長して大きくなるにしたがって様々な罪を犯します。アダムの罪、先祖が犯した罪、そして自分が犯した3つの罪のためにさばかれるべき存在です。では、どうしたら神さまは犯した罪を赦すことができるのでしょうか?それは血を流すことが必要です。血というのはいのちであります。いのちと引き換えに、罪が赦されるのです。罪はいのちである血でしか贖うことができません。それで、御子イエスはご自身の血を流して、神が義であることを証明されたのです。私たちは十字架を見るとき、「ああ、神さまは義なるお方で、罪はさばかなければならない。だから、御子イエスを十字架でさばいたんだ。私たちの罪のためにイエス・キリストはさばかれたんだ。」と知るべきです。万引きをどうしてもやめられない子どもがいました。お父さんはそれまで、何度か、お尻や手を叩きました。しかし、それでも子どもの万引きは止みませんでした。そのとき、お父さんは竹刀を取り出し、息子を叩きました。大きな音がしましたが、息子は痛くありませんでした。「どうしてだろう?」と薄目を開けると、なんとお父さんは息子の上においていた自分の腕を叩いていたのです。息子は「お父さんやめて!」と叫びました。お父さんは「いや、お前は盗みが罪であることをわかっていない!」と、なおも自分の腕を叩きました。腕から血が飛び散りました。息子は「わかったよ、わかった。お父さんもうやめて!」と叫びました。それから、その息子は万引きをしなくなったそうです。なぜなら、お父さんの心を痛めていたことを知ったからです。

「なだめの供え物」が記されている第二番目の箇所は、ヘブル人への手紙です。ヘブル9:5「また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。」ヘブル人への手紙の「贖罪蓋」はギリシャ語で「ヒラスティーリオン」ですが、「なだめの供え物」と同じことばです。契約の蓋を贖罪蓋と言い、贖罪の日に、大祭司が至聖所に入り、その蓋に清い動物の血を注ぎました。大祭司がイスラエル全体の罪を贖うために、年に一度だけ、清い動物の血をたずさえて、至聖所に入りました。ふだんは、至聖所には決して入ることができません。その日だけです。そこに、契約の箱が安置されており、契約の箱の上には、金でできた蓋があります。蓋の両側から中央に向かって、天使ケルビムをあしらった像が翼を広げています。その真中に、血が注がれるのです。しかし、動物の血では限界があります。毎年、毎年、それを繰り返さなければなりません。そこで、イエス様はまことの大祭司として来られ、ご自身の尊い血をささげました。ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」キリストの血よって、一度で永遠の贖いを成し遂げられたのです。福音書においては、イエス・キリストの十字架の死として歴史的な事実として記されています。しかし、ヘブル人への手紙においては、それは贖いの完成であると記されています。

そして、Ⅰヨハネ2:2「なだめの供え物」とあります。また、Ⅰヨハネ4:10「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子」とあります。神さまは義であると同時に愛なるお方です。神のかたちに似せて造られた子どもを、さばいて、滅ぼしたくはありません。しかし、そのまま赦すならば義が立ちません。どうしたのでしょうか?これは私の想像です。聖書に書いてありません。父なる神さまにはひとり子がおられました。永遠の神さまが、永遠の昔に生んだ、ひとり息子です。父なる神さまは息子に「私は人類の罪を赦して、救ってあげたい。人類がこのまま滅びに行くのは忍びない」と言いました。息子は「良いでしょう、お父さん。私を地上に送ってください。そして、私の上に全人類の罪をおのせください」。父なる神さまは「愛する息子よ。そうすればお前は、罪となってさばかれ、地獄に行くことになるんだよ」と言いました。息子は「お父さん。それでも構いません。私を地上に送ってください」と言いました。ヨハネ3:16には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。私たちは本来、罪ある者として、滅びるべき存在でした。しかし、御子イエス様が私たちの代わりにさばかれることによって、私たちは生きる者となったのです。ここに神の愛があるのです。厳密に言うならば、父の愛は罪のさばきのために、御子をなだめの供え物として遣わすことでした。また、御子の愛とは、だまって、なだめの供え物となったということです。ここに神の愛があるのです。

 

3.互いに愛し合いなさい

 

 日本人は、よく「お互い様」と言います。それは、「両方とも同じ立場や状態に置かれている」という意味です。英語では両者とも同じ状況下にある場合、in the same boatと言います。「私たちは同じ船に乗っている」という意味です。「同じ穴のムジナ」とも訳されています。一見、無関係でも、同じ仲間、同じ運命のもとにあるということです。クリスチャンとは、どんな立場、どんな運命のもとにあるのでしょうか?Ⅰヨハネ4:11「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」私たちは互いに愛し合う前に、自分たちが、どれほど神さまから愛されているかを知るべきです。どれほど愛されているかというと、私たちはこのままではさばかれ、永遠の死を迎える存在でした。しかし、神さまが御子イエスをなだめの供え物として遣わしてくださいました。御子イエスは私たちの罪を負って、さばかれ死なれました。それゆえに、私たちの罪は取り除かれ、信じるだけで永遠の命が与えられました。ハレルヤ!私たちが救われるためには、神さまの大いなる犠牲があったということです。「ああ、神の愛の背後には犠牲があったんですねー、感謝します。」となります。すると、どうなるでしょうか?私たちが互いに愛し合うとき、自分は神さまから多大な恩義を受けています。図式に表したいと思います。ここにAさんがいます。「お互い様」と言っても、目の前のBさんからはお中元もお歳暮もいただいていません。でも、その前に、イエス様の贖いという大きな贈り物を神さまからいただいています。神さまは「私に返さなくて良いから、それを目の前のBさんにあげなさい」と命じておられます。「ああ、そうですか」とAさんはBさんを愛します。では、Bさんの立場から言うとどうなるでしょうか?「お互い様」と言っても、目の前のAさんからはお中元もお歳暮もいただいていません。でも、その前に、イエス様の贖いという大きな贈り物を神さまからいただいています。神さまは「私に返さなくて良いから、それを目の前のAさんにあげなさい」と命じておられます。「ああ、そうですか」とBさんはAさんを愛します。これが、互いに愛し合うということです。

 日本人は「お互い様」と言う場合、人間同士のことです。巡り巡って、いつか自分のところに返ってくるからという気持ちがこめられています。人間同士だと貸し借りがあるない、あるいは世話になっているかいないか、考えてしまいます。私たちはそれぞれ心の中に通帳を持っています。この人にはこれまであのこと、このこと、いろいろお世話になっている。だから、ちょっとした失礼があっても、「良いですよ」と赦します。また、その人が困っているなら、「いざ鎌倉」とばかり、喜んでお助けするでしょう。しかし、別の人はこれまであのこと、このこと、イヤな思いをさせられてきました。お世話になっているどころか、いろんなお世話しても返してもらったことは一度もありません。だから、心の通帳はゼロかマイナスになっています。そのとき、相手からいやなことを言われました。少々、損失をこうむったかもしれません。そのとき、「もう、赦さない」「もう、助けてあげない」と思うのではないでしょうか。だって、そうでもしないと収入と支出のバランスシートが合わないからです。これが、人間同士の愛の限界です。私たちの心の通帳を見ますと、神さまから無限大の赦しと無限大の愛がどっかーんと振り込まれています。だれかに支払っても、支払っても、心の通帳はプラスのまんまです。相手を見ると、「んー、損するなー、痛いなー」と思うかもしれません。しかし、神さまを見ると、「んー、いっぱいもらっているからなー」となります。みなさん、これが互いに愛し合うということなんです。互いにと言っても、二人の間に、多大な愛と犠牲を与えてくださった神様がおられるのです。私たちは愛なる神さまを介して、互いに愛し合うことが可能なのです。私たちは時々、「愛せないなー、赦せないなー」と思うときがあるかもしれません。そのときは、自分がどれだけの愛をいただいているか、Ⅰヨハネ4章の7節から11節から考える必要があります。

 「ここに愛がある」とヨハネが言っています。私たちは神の愛をみことばから啓示を受けて、知る必要があります。まず、「神さまは愛なんだ」と、ギノスコーで知る必要があります。その後に、神の愛を体験して知る必要があります。あとから、「ああ、神さまは本当に愛なんだ。アーメン」と、オイダという体験的な知識がやってきます。その次に、互いに愛することを実行します。すると、「ああ、神さまが私たちを赦して、愛するって、大変なことだったんだ」と分かります。これは、ギノスコーであり、オイダでもあります。区別するのが難しいです。別に区別しなくても良いかもしれません。どっちだって良いのです。昔、本田弘慈先生から、『ここに愛がある』という伝道メッセージを何度か聞いたことがあります。先生は、最後に「さっちゃん」のことを良く話されました。そのとき、「ああ、前にも聞いたなー」と思うのですが、聞いて、また感動するお話なんです。小学生のさっちゃんには、お母さんがいました。お母さんはひどいやけどで、醜い顔をしていました。さっちゃんは、授業参観日には、「お母さん、絶対に来ちゃだめよ」と断りました。さっちゃんは、滅多に友だちを家に呼びません。なぜなら、「さっちゃんのお母さんはお化けみたいだ」と言われるのがイヤだからです。あるとき、さっちゃんの誕生会をどうしても自分の家でやることになりました。なぜなら、友だちの誕生会に招かれて、こんどは自分の番になったからです。お母さんがごちそうを準備してくれて、誕生会が開かれました。友だちは「さっちゃんのお母さんはいないの?」と言いました。さっちゃんはとっさに「さっちゃんにはお母さんはいないの。あの人は家のお手伝いさんなの」と言いました。友だちが帰ってから、お母さんはさっちゃんに「お話があるの」と言いました。あなたも、大きくなったから話すわ。さっちゃんが2歳くらいのことだったわ。私が買い物に戻って来ると、お家が火事だったの。人々が止めたけど、私は燃える火の中に飛び込んで、あなたを助けたのよ。後から分かったんだけど、さっちゃんが、マッチで遊んでいたらしく、その火が何かに燃え移ったらしいの。お母さんの顔は、その時のやけどなのよ。でも、さっちゃんが無事で大きくなって、お母さんとっても嬉しいわ」と言いました。さっちゃんは「お母さん、ごめんなさい。お手伝いさんなんて言って」と謝りました。それから、さっちゃんは胸をはって、友人にさっちゃんのお母さんは日本一のお母さんと自慢して言ったそうです。

なだめの供え物とは、イエス様の十字架です。十字架とは、当時、最も醜悪で、残酷な死刑の道具であり、「ローマ市民は手を触れてはいけない。呪われるから」と、避けられていました。その十字架にイエス様がかかり、私たちの罪を負われ、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」と叫ばれました。ある人たちは「どうせ、復活するから良いだろう」と言います。しかし、Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書いてあります。イエス様は全く罪のないお方だったのに、罪そのものとなり、神さまから捨てられました。これまで、一瞬たりとも、御父から離れたことがないのに、捨てられたのです。この痛みと苦しみはイエス様しか分かりません。ここに愛があるのです。醜い十字架こそが、神さまと御子イエスの愛の現れなのです。この愛を知るとき、私たちは互いに愛し合うことが可能になってくるのです。