2011.12.4「神は愛です Ⅰヨハネ4:12-21」

聖書を読むと、そこには鍵となることば、キーワードがあります。キーワードをつかまえると、文章全体の構造が見えてきます。きょうの聖書箇所のキーワードは、「全うされる」「完全なものとなる」という言葉です。ギリシャ語ではテレオゥですが、英語ではperfectです。perfectを動詞で使うと「…を完全にする」「…を完成する」という意味になります。しかし、聖書では、これが受身の完了形になっています。has been perfected「完成される」「全うされる」となります。では、どのようにして、「神の愛が完成される」のでしょうか?このことばが、12節から21節まで3回出てきますので、3つのポイントでお話ししたいと思います。

 

1.互いに愛し合うことによって

 

 私たちが互いに愛し合うことによって、神の愛が完成されるということです。私たちは神の愛を受けています。果たして、神の愛を受けていないクリスチャンがおられるでしょうか?復習になりますが、神の愛はどこに示されたのでしょうか?神さまが私たちにいのちを与えるために、御子イエスを遣わされました。御子イエスはなだめの供えものとして、十字架にかかって死んでくださいました。私たちはイエス様を信じたことにより、罪赦され、永遠のいのちをいただくことができました。このように、私たちがさばかれないでいのちを得たのは、神さまの愛のゆえであります。クリスチャンであるならば、もれなく、神さまの愛を受けています。私たちは、神さまの子どもとして、目に見えるものから、目に見えないものまでたくさんのものをいただいています。この地上でも、経済的な祝福、健康、心の平安、守りをいただいています。家族や友人、兄弟姉妹、仕事、奉仕も神さまからいただいたものです。今、お座りになっている周りの人をごらんください。あなたが教会に来て、クリスチャンにならなければ、決して出会うことのなかった兄弟姉妹がいるのではないでしょうか?私たちは新しいコミュニティ、共同体の中に生きています。やがて、この地上の生活が終ると、御国に永遠の住まいがご用意されています。すべてが、神さまの愛、神さまの恵みであります。

 でも、ヨハネは神の愛を受けているだけでは不十分であると言っています。Ⅰヨハネ4:12「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」とあります。そうです、互いに愛し合うことなしには、神の愛は私たちのうちに完成されないのです。面白いことに20-21節は、12節と同じ内容を語っています。ヨハネ4:20-21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」神さまは霊ですから、目には見えません。では、どうしたら、目に見えない神さまを愛していることが分かるのでしょうか?それは、目に見える兄弟姉妹を愛しているかどうかで分かります。ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言っています。みなさんは、神の愛をいただき、同時に神さまをも愛しておられると思います。でも、本当に神さまを愛しているのでしょうか?もし、兄弟姉妹を憎んでいるとしたら、偽り者、つまり本物のクリスチャンではありません。本物のクリスチャンとは、神さまを愛し、また兄弟姉妹を愛している人であります。神さまを愛してはいるけど、相変わらず兄弟姉妹を憎んでいるならば偽物であります。さきほどのperfect「完成する」を使うならば、神の愛が完成されていない人であります。本当のクリスチャンは、神さまを愛し、そして兄弟姉妹を愛する人であります。もし、神さまは愛するけれど、ある兄弟、ある姉妹を相変わらず憎んでいるとしたら、完成していない人であります。

 言い換えると、神さまを愛することと、兄弟姉妹を愛することはセットなのであります。日本語では一対と言いますが、英語ではそれをpairと言います。日本語では「1足の靴」と言いますが、英語では、a pair of shoesと言います。shoesと複数形になっています。2つの靴があって1足なのです。靴下もa pair of socksです。2つの靴下があって1足なのです。調べてみましたら、ハサミもズボンも手袋もめがねも、複数形になっています。当たり前のことですが、靴は右と左あって1足の靴なんです。どうでしょう?左足だけ靴をはいて、右足が素足の人を見たことがあるでしょうか?片足だけ靴を履いて歩いたら、どうなるでしょう?ペタンコ、ペタンコとなって、すっごく歩きづらいですよね。「両方履くか、両方素足か、どちらかにしてくれ」と言いたくなるでしょう。しかし、クリスチャンは、こと愛に関しては、このようにやっている恐れがあります。とても信仰熱心で、神さまを愛しています。「天のお父様!イエス様!」と愛しています。奉仕も熱心にしているかもしれません。でも、兄弟姉妹を愛せないで、憎んでいる。教会では「ハレルヤ!イエス様、あなたを愛します」。しかし、家に帰ると妻を「ビジュ、ビジュ」叩いている。その人は、片方の足に靴を履いていますが、片方には靴を履いていない状態です。それでクリスチャンの歩みをしたなら、どうなるでしょう?とてもぎこちないですね。ヨハネは「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」と言っています。神さまを愛します。そして、兄弟姉妹を愛するならば、その愛は完成されるのです。神さまを愛することと、兄弟姉妹を愛することは、2つで1つ、分けることができません。目に見える兄弟姉妹を愛するならば、目に見えない神さまを愛していることになるのです。どうぞ、神さまの恵みによって、愛を完成させていただきましょう。

 

2.救いを受けることによって

 

 私たちは救いを受けることによって、神の愛が完成されるということです。Ⅰヨハネ4:17前半「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。」「このことによって」とありますから、前の事柄があって、神の愛が完成させられるということです。文脈を見ると、その内容は、13-16節だと思われます。13節に「神は私たちに御霊を与えてくださった」と書いてあります。14節には「御父が御子を世の救い主として遣わされた」とあります。15節には「イエスを神の御子を告白するなら」とあります。16節には「神の愛を知り、信じるなら」とあります。これらを全部1つにまとめるとどうなるのでしょうか?「救いを受ける」ということではないでしょうか?イエス様を信じて、救いを受けるとはどういう意味なのでしょうか?第一に、神の御霊をうちにいただくということです。神の御霊をいただくと、どうなるのでしょうか?13節後半「それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」とあります。そうです。イエス様を信じたら、私たちの中に神の御霊が宿ります。ということは、私たちの内に神さまがおられるということです。同時に、私たちは神の霊の中にも住んでいます。神さまは霊であり、どこにでもおられる、つまり偏在しておられます。ということは、私たちは神さまの中にいるということです。第二に、救いを受けるとは、御父が遣わした御子イエスを、神の子です」と告白することです。新共同訳は「公に言い表す」と訳しています。救いを受けると、公にイエス様は神の子であると告白する。それは洗礼を意味しています。そうすると、どうなるのでしょうか?15節後半「神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」とあります。第三に、救いを受けるとは、「神の愛を知り、神の愛を信じる」ということです。そうすると、どうなるのでしょうか?16節後半「神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」とあります。ヨハネの書物は本当に繰り返しが多いというか、くどい書物です。私は家内から、たまに「くどい」といわれます。しかし、ヨハネは私以上です。でも、ヨハネの書物は、よーく見ると、統一性、ハーモニーがあります。

 これら3つの中の1つだけを取り上げたいと思います。それは16節です。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」。本日のメッセージのテーマになっている「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにいる」とはどういう意味でしょうか?私たちが神のうちにいるとは、愛のうちにいることと同じです。なぜなら、神は愛だからです。うちにいるとは、ギリシャ語や英語で言うと、「住む」「とどまる」「ずっといる」という意味です。もし、私たちは愛なる神さまの中で住むならば、どうなるでしょうか?それはまるでエデンの園のようであります。神様は、人間が必要なすべてのものをエデンの園に備えました。食べもの、安全、健康、仕事、伴侶、お家…全部ありました。アダムは堕落以前、仕事をしていたと思います。畑を耕したり、動物の名前をつけました。本当に豊かな生活をしていました。しかし、人類に問題が起きたのは、罪を犯して、エデンの園を追い出されたときからです。食べ物も、安全も、健康も、仕事も、伴侶も、お家も、すべて自分で得なければならなくなりました。日本では「自分を信じる」ということが、美徳とされています。一方、日本人ほど保険に入っている国民はいないそうです。生命保険、がん保険、火災保険…今は、地震保険があります。アメリカの保険会社は日本をターゲットにしています。なぜなら、日本人は恐れやすく、心配しやすい国民だからです。そこへ行くと南米の人たちは楽天的です。一日分をかせいだら、仕事を途中でやめて家に帰るそうです。彼らは、明日のことは心配しないで生きています。日本人は、明日の分、来月の分、来年の分も心配しています。なぜでしょう?神さまの愛の中に生きていないからです。

 もう1つは、「神もその人のうちにおられます」です。愛なる神さまが私たちの中に住んでおられるということです。なぜ、こんな表現をするのでしょうか?それは、私たちはこの世に生きているからです。この世とは、神に敵対している人たちのことを表します。イエス様は「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)と言われました。また、パウロは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)と言いました。私たちはクリスチャンであっても、この世に住んでいます。裏切り、そねみ、迫害、試練、批判、告発…いろいろあります。仲間もいますが、どうしても衝突や仲たがいが起こることがあります。そういうときに、自分の内側に愛なる神さまが住んでおられるという信仰が重要です。愛なる神さまは私たちに何とおっしゃっているでしょうか?「私があなたの味方、あなたを見捨てない。私は世の終わりまで共にいるよ。だから、勇気を出しなさい。」と励ましや慰めをくれます。神さまは、私たちのよりどころ、力の源です。この世にあって私たちを内側から助けてくださるのです。イエス様がどうして、地上でも満たされて暮らすことができたのでしょう?イエス様は「私が父におり、父がわたしにおられる」と言われました。神学的には難しいですが、私たちもそれに近いのではないかと思います。だから、17節後半に「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」と書いてあります。私たちが救いを受けるということは、イエス様のような状態になるということです。私たちが愛なる神さまの中にいて、私たちの中に愛なる神さまがおられるということです。神の愛が完成されるとは、神さまの愛の中にどっぷりつかっているということです。

 

3.恐れを締め出すことによって

 

 恐れを締め出すことによって、神の愛が完成されているということです。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」この箇所には、「完全」ということばが2回出てきます。1つは形容詞で、「完全な愛は恐れを閉め出す」となっています。もう1つは、受身の完了形です。ここでは「愛が完全なものとなっていない」と否定形になっています。恐れは不信仰と同じように、私たちが持ってはならないものです。ここでは愛と恐れが対立的なものとして表現されています。神さまの愛は完全な愛です。私たちは神さまの完全な愛の中で、過ごすことができます。そして、完全な愛は恐れを閉め出します。もし、恐れるならば、刑罰が伴うと書かれています。これはどういう意味でしょうか?神さまが「コラ、恐れるな」と、バシッと私たちに刑罰を加えるのでしょうか?愛なる神さまがそのようなことはしないと思います。私はこのように解釈しています。神さまはこの世界を秩序あるものとして作りました。そこには自然科学の法則があります。また、道徳的な法則もあります。もし、私たちはその法則に逆らうなら、当然、その報いを受けるはずです。私が2階から飛び降りたら、万有引力のゆえに地面に打ち付けられ、大怪我をするでしょう。打ち所が悪ければ、死ぬかもしれません。これは私が自然界の法則に反するようなことをしたからです。このことと神さまが愛であることとは別問題であります。

同じように、私たちが神さまの愛を信頼しないで、恐れるとどうなるでしょう?神さまが罰をくださるのではなく、道徳的な法則によって私たちに刑罰が下るということです。このことを水の上に浮いている船にたとえることができます。重たい鉄の船がどうして、水の上に浮いていられるのでしょうか?それは、船が水を締め出しているからです。これを理科では浮力と言います。船は鋼鉄でできており、1滴の水も入らないように溶接されています。しかし、何かの理由で、船底に穴があいたらどうなるでしょうか?タイタニック号ではありませんが、どんどん水が入ってきます。船にはハッチがあって、それ以上、浸水しないように工夫されています。浸水を止めて、ポンプで水を外へ吐き出せば、沈没しないで浮いていられます。恐れとは何でしょう?恐れとは船底か船体に穴が空いている状態のことです。恐れを自分の中に入れているとしたら、それはとても危険です。ヨブ記はとても複雑な書物で、一言で語ることができません。でも、ヨブが大きな災難を受けてしまった原因があります。それは恐れです。ヨブ3:25「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」ヨブを直接的に打ったのはサタンです。「もしかしたら、こんなことが起こりはしないだろうか?」と恐れたのです。そこから、サタンが災いをもたらしたのです。しかし、よく見ると神さまはヨブをサタンから守っていたのです。ヨブ1:10「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」これは、サタンの証言ですから、何ともいえませんが、神さまがヨブと、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしていたとあります。この垣こそ、完全な愛とは言えないでしょうか?でも、神さまはヨブを試すために、その垣を一時的に取っ払ったのです。

今は新約聖書の時代です。ヨブは確かに試されましたが、愛なる神さまはそういうことはしないと思います。なぜなら、主イエス・キリストが私たちの代表として試みに会われ勝利されたからです。でも、私たちはこの世に生きています。私たちはこの世という海に浮いている船であります。私たちと海水の間には、神さまの完全な愛があります。それは鋼鉄に匹敵するほど丈夫なものです。私たちは船として、この世のものを排除しながら、浮いています。でも、この世はなんとか船に侵入しようと圧力をかけてきます。水圧と同じです。恐れというものは、鋼鉄の船体に穴を開けるほどの破壊力があります。ある人が聖書に「恐れるな!」と何回書いてあるか調べたそうです。なんと、365回もあるそうです。365は何かの数字と同じです。つまり、神さまは365日、毎日、「恐れるな」「恐れるな」とおっしゃっているということです。主は恐れおののく人と共にいることができません。子どもに自転車の乗り方を教えたことがあるでしょうか?子どもがハンドルを握り、後ろからお父さんが荷台をしっかり押さえています。スピードが出てくると、子どもは「怖い」とか言って、ハンドルを放します。すると、いくら後ろで押さえていても、ハンドルが「くにゃっ」と曲がって、前には進めません。子どもがハンドルを握ってさえいれば、お父さんがどこまでも押して行けるのです。人生のハンドルを握るのはあなたです。神さまが後ろから支えて、あなたの人生を押してくれます。だから、何かを恐れてハンドルを放してはいけません。

3つものが私たちの愛を完成させてくれます。第一は互いに愛し合うことによって神の愛が完成されます。第二は救いを受けることによって神の愛が完成されます。第三は恐れを締め出すことによって神の愛が完成されます。このメッセージを準備して思ったのですが、神さまが最初にくださった愛は不完全だったかということです。私たちがイエス様を信じて救われたとき、霊的に新しく生まれました。その時の愛は不完全だったのでしょうか?私は神さまの愛は、完全な愛だったと思います。しかし、神さまは、その完全な愛が、私たちの内に完成されるというプロセスを歩むように計画されました。たとえば、ここに5歳の子どもと、30歳の大人がいるとします。5歳の子どもは人間として不完全でしょうか?たとえ、子どもであっても、目もあるし、手もあるし、歩けるし、自分で考えることができます。人間としては完全です。しかし、いろんなところが成長していません。私たちも信仰の年数がどうであれ、神さまの完全な愛をいただいていることは確かです。問題は、私たちの中で、神の愛を成長させる、完全なものとさせていただくということです。何べんも言いましたが、これは受身の完了形です。私たちが成長させ、私たちが完全なものにするのではありません。神さまの恵みによって、神の愛が私たちの中で完全なものとなるのです。どういう訳か、神さまは、一度で全部、完成させようとは考えておられません。天国に行くまで、共に歩みながら序々に、完全なものとなるようにしたいのです。まるでお菓子のバームクーヘンです。バームクーヘンは焼いては巻いて、焼いては巻いて、手間暇かけて作るお菓子じゃないでしょうか?世の中、何でもインスタントですが、私たちの内に神の愛が完成されるまでには時間がかかります。「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。…愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」