2011.07.17 耐え忍びなさい ヤコブ5:7-11

ヤコブは「耐え忍びなさい」と当時の人たちに命じています。分脈から見ると、賃金を払ってもらえない労働者かもしれません。また、金持ちや権力者たちによって、虐げられている人たちかもしれません。日本だったらそういう場合、「がんばりなさい」と言うでしょう。他には「我慢しなさい」とか「辛抱しなさい」と言うのでしょうか?ヤコブが言う「耐え忍びなさい」と「がんばりなさい」とでは、どこが違うのでしょうか?ヤコブはいくつかの例をあげて、耐え忍ぶことの大切さを教えています。

1.耐え忍ぶ農夫

 ヤコブ5:7,8「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」世の中に色んな職業がありますが、農夫ほど忍耐を要するものはありません。私は秋田の出身ですから、よく見て知っています。雪が解けたら、田んぼを耕運機で掘り起こします。そのあと、春の雨が降るので、田んぼをかきまぜることが容易になります。昔は、学校を休んで、みんなで田植えをしました。その後、除草機をかけて草取りをします。真夏はイモチ病にならないように、薬をかけます。数年前、家内の実家、岩手に行きましたが、リモコンのヘリコプターで薬を撒いていました。秋は収穫です。昔は杭を打って、刈り取った稲を干したものです。今はコンバインで刈り取り、すぐ袋詰めするようです。でも、台風が来る前に収穫しないといけません。稲だけではなく、他の農作物もそうですが、農家の方は本当に大変です。大地の貴重な実りを得るために、耐え忍んで待っています。私たちは忍耐を農夫から学ぶ必要があります。

 でも、現代人は「耐え忍んで待つ」ということがとても苦手ではないでしょうか?自動販売機で缶コーヒーを買うとき、10秒たっても出ない場合は、機械を蹴るんじゃないでしょうか?エレベーターに乗っていても、ボタンを押して、閉めるかもしれません。私はレジで並んでいて、前の人が、お金を出すのが遅いとき、「ちゃんと用意しておけよ!」と思います。パソコンは年数がたつとだんだん遅くなります。「ああ、早く開けよ!」とイライラします。私たちはどんなとき、忍耐を学ぶのでしょうか?なんでも、インスタントリーで、すぐ結果がでなければ、諦めてしまう。昔は「石の上にも3年」と言ったものですが、就職しても、どのくらい忍耐することができるでしょうか?何でも、インスタントリーで、スピード化の時代ですが、時間をかけなければ良くないものもあります。たとえば、熱いところで育った木は、成長が早いけど、柔らかくて柱には向きません。一方、寒いところで育つ木は成長が遅く、冬に年輪が刻まれ、硬い木材になるのです。さまざまな試練の中に、遅延という項目があることを忘れてはいけません。私たちの人生において「予定通りに事が進まない」ということがよくあります。そういう時に、その人の人格が整えられるのです。ヨセフは夢がかなうために13年かかりました。ヤコブはラバンの家で20年間仕えていました。モーセはミデヤンの荒野で40年間待ちました。イエス様ですら、公の生涯を始められたのは30歳になってからでした。神さまは、私たちを整えるために、「耐え忍んで待つ」レッスンを与えるお方です。個人の霊的な成長においても、教会の成長においても、避けられないレッスンであります。

ところで、ここに、「主が来られる」と二回書いてあります。その中に、サンドイッチのように農夫のことが書かれています。つまり、主が来られるまで待つことと、農夫が収穫を待つということとが、関係があるということです。「秋の雨」と書いてありますが、原文は「前の雨」です。パレスチナで10月に始まる雨であって、土が軟らかくなってから人々は種を蒔きます。そして、「後の雨」というのが、収穫前の3月4月に降って、その後で穀物を収穫します。収穫を祝うペンテコステが、5月のはじめくらいになっているのはそのためです。かなり前に奥山実先生が、「雨は二度降る」と題して、このことを詳しく話されたことがあります。キリスト教会では「雨」というのは、霊的復興(リバイバル)のことをさします。最初の雨はいつ降ったのでしょうか?それは2000前のペンテコステの時です。ペテロの説教で一日に3000人が救われ、教会が誕生しました。そして、あっと言う間に福音がローマにまで達しました。これが「前の雨」であります。そして、終わりの日、イエス様が再び来られるときにもう一度、雨が降ります。これが「後の雨」です。では、「前の雨」と「後の雨」の間に、雨がまったく降らないかというとそうではありません。パラパラとだけ降ります。教会の歴史を見ますと、16世紀の宗教改革、18世紀のジョンウェスレーのリバイバル、そして、20世紀は福音派、ペンテコステ派のリバイバルが起きました。でも、世の終わり、イエス様が来られる前に「後の雨」が降ります。つまり、世の終わり、大収穫が来ると聖書は約束しています。

イエス様が再び来られることを「再臨」と言います。初臨とは、イエス様が救い主として、この地上に来られたクリスマスであります。多くの人たちは、世の終わりに、もう一度、来られるということを信じていません。新約聖書には「世の終わり」あるいは「再臨」について、10分の1くらい書かれています。世界で最も福音宣教が難しい国は、イスラム圏と日本であります。タイやインドの方が日本よりもクリスチャンの%が高いでしょう。ネパールやモンゴルは20-30年前、ほとんどクリスチャンがいなかったようですが、今はどんどん救われています。日本だけが難しい。日本は宣教師の墓場みたいに言わるほどです。キリシタンから始まり、多くの福音の種が蒔かれてきました。でも、クリスチャン人口は1%にも満ちません。プロテスタント教会で毎週礼拝を守っている人は25万人くらいしかいないそうです。当亀有教会も毎週平均、60名台に落ちました。頭、痛いです。でも、今、東北の方から良い知らせが届いています。特に三陸海岸は教会もなく、伝道が難しい地方でした。しかし、東京や仙台の教会が継続的に支援活動をしています。先日、練馬の横田先生からこのようなことを聞きました。練馬教会の姉妹の実家が、陸前高田にあります。そこを拠点として、支援と伝道活動を始めました。4月から毎月、出かけましたが、まず、姪御さんが救われました。陸前高田の避難所に、いろんな教会が助け合って物資を送りました。不思議なことに、地元で有力な昭和建設の社長が姉妹と同級生でした。あるとき、避難所のスタッフのために、昭和建設の社長と焼肉パーティをしました。横田先生も加わり、良い関係が生まれました。次の日は、以前からつながりのある、南三陸町の避難所に出かけました。そのとき、1組の夫婦がイエス様を受け入れたそうです。そのご夫妻は、3月頃、宣教師が初めて声をかけました。それから、色んな人が助け、最後に横田先生が刈り取ったのです。尾山謙仁先生は新生宣教団で奉仕していますが、何百万も作った小冊子やちらしが全部なくなったそうです。以前は、見向きもしなかったのに、今回、大震災にあってから、だれもがみんな受け取るようになったそうです。

確かに大震災や津波、原発事故はない方が良いです。でも、人々の心に飢え渇きが与えられていることも確かです。もう、日本にはリバイバルが来ないのではないかと思われていました。しかし、終わりの時代、大震災という大きなマイナスの出来事が、霊的復興を与えているのかもしれません。江戸時代から、たくさんの種が蒔かれてきました。そして、世の終わり、不思議なかたちで刈り取りがなされようとしています。自分の教会が蒔いていないのに、それを刈り取ることができる。また、自分の教会が蒔いたけど、他の人が刈り取っても構わない。神の国が広げられていけばそれで良いのです。イエス様はヨハネ4章でこのようなことをおっしゃいました。「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」。終わりの時代、私たちは「自分の教会さえ良ければ良い」という教会エゴから脱するべきです。当教会は7月13日をもって、単立になりましたが、日本全体を視野に入れた、伝道牧会を進めてまいりたいと思います。世の終わり、イエス様が再び来られます。黙示録にあるような大きな患難もやってきますが、同時に大きな収穫もやってくるからです。農夫のように、耐え忍んで、大きな収穫をものにしたいと思います。

2.耐え忍んだヨブ

 ヤコブ5:11「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」忍耐といえばヨブ、ヨブといえば忍耐です。ヨブという人物は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。しかし、一瞬にして、10人の子どもが亡くなり、すべての財産が奪われました。さらには悪性の腫物で全身が覆われ、土器のかけらで掻かなければなりませんでした。その時、妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と言いました。それでも、ヨブはひとことも、罪を犯すようなことを口にしませんでした。ところが、3人の友人が来てから、ヨブに平安がなくなりました。友人たちは、「ヨブよ、お前が罪を犯したからそうなったんだ。罪を悔い改めよ」とヨブを責めました。ヨブは「そのような罪は犯していない。ああ、私は生まれてこなければよかった」と自分が生まれた日をのろいました。傷口に塩を塗るようなことが延々と続きます。最後に、年若いエリフという人が来て、ヨブは神さまを見上げるようになりました。なんと、最後の章、ヨブ記42章で「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と告白しました。「長い40章は、なんだったんだ」と思います。ヨブ記2章読んで、そのあと、飛ばして42章を読みたくなります。確かに、ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。でも、神さまはヨブに耐え忍ぶことを学ばせたかったのです。「ああ、いやです。神さま」と私も言いたいです。1987年から24年たっても100名礼拝なりません。8月、小学生キャンプで子どもたちを大和カルバリーまで送っていきます。そのとき大川牧師と必ず会います。毎年、会うんですね。そのとき、毎回「100名礼拝なったか?どうして100名礼拝ならないの?」と聞かれます。私の皮膚病(乾癬)も1999年発病して、12年たっても治っていません。まるでヨブです。癒しを心から信じ、癒しを行っている者として、「なぜですか、神さま?」と文句を言いたくなります。

 でも、ヤコブは何と言っているでしょうか?11後半「また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」ヨブの結末とは何でしょう?ヨブ42:12-17 主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。」羊、らくだ、牛、雌ろばなどの財産はすべて前よりも倍の数になりました。息子娘は同じ数の10人です。それからヨブの寿命ですが、おそらく200歳くらいまで生きたかもしれません。ヨブの人生はまさしく逆転勝利の人生です。しかし、多くの人たちは、ヨブの逆転勝利、倍の祝福のところまで行きません。なぜでしょう?途中で「もう、やーめた!」と諦めてしまうからです。私がよく利用する、富士箱根ランドというホテルがあります。10数年くらい前に、温泉を掘りました。1000メートル掘るのに1億円かかったそうです。しかし、温泉が出ませんでした。「うぁーどうしよう。やめようか」。でも、やめたら1億円が「ぱぁ」になります。それで、あと10メートル掘りました。そうしたら、やっと出たそうです。全部で1億1千万円かかりました。源泉は湯河原につながっており、無色透明な良質の温泉です。アメリカでは油田の話がいっぱいあります。どこの話か忘れましたが、ある人が「ここに、大きな油田がある」と試掘しました。何年間も、堀り続けましたが、見つかりませんでした。その人は「もう、やーめた」と諦めました。次に来た人が、同じ場所を掘ってみました。すると、ちょっと掘っただけで、大油田にぶち当たったということです。彼はほとんど労することなく、大金持ちになりました。前の人は、なんぼ悔しかったでしょうか?もちろん、そういう油田や鉱脈に当らないで、一文無しになる人もいるでしょう。

 でも、聖書は何と言っているでしょうか?ヤコブ5:10「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。」また、11節では「主がヨブになさったことの結末を見なさい」と教えています。結末、これはなかなか見ることができません。私もときどき、映画を見に行きますが、結末ってとっても大事です。映画ではそこに、たくさんのお金と爆弾をかけるのではないでしょうか?ハリーポッターも10年かけて、やっと終わりのようですが、結末はどうなるのでしょうか?私が見る多くの映画は、正義が勝つ、すべてが報いられるというものです。そういう映画以外のものは見ません。昔、プラトーンというベトナム戦争の映画があったようですが、報いのない映画は見ません。どうでしょう?私たちの信仰生活には結末、報いある結末というものがないのでしょうか?ヤコブは「預言者たちを模範にしなさい」とか「ヨブの結末を見よ」と勧めているのですから、期待して良いということです。ところで、アメリカでは牧師がどんどん辞めているそうです。フラー神学校の調査によりますと、2008年には、毎月1700人以上の牧師が牧会を辞めたそうです。1年では20,400人です。さらに、こういうデーターがあります。「牧師の70%がうつに陥らないように絶えず戦っている。牧師夫人(配偶者)の80%が、教会のメンバーたちから疎外され、充分に感謝されていないと感じている。牧師の50%が、あまりにも落胆しているので、できることなら牧師を辞めたいと思っているが、他に生計を立てることができないのでとどまっている。」最近、日本の若い牧師たちも、うつになり、辞めている人が多く出ています。なぜでしょう?牧師になっても報われないと思うからです。私もコーチングの働きに携わっていますが、10人中、3-4人はギリギリ牧師をやっているか、あるいは「無理なんじゃないか」という人たちです。牧師の仕事量は確かにサラリーマンよりは少ないのでずっと楽かもしれません。しかし、人から批判されると打たれ弱いということは確かです。「教会が伸びない、人が来なくなる、予算がない」みんな牧師のせいみたいなところがあります。だんだん、うつ的になり、信仰や霊力が弱くなります。

 世の終わりのクリスチャン、そして世の終わりの牧師たちにやっぱりヤコブ書は必読書です。神さまはどういうお方でしょう?「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」神さまは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」です。しかし、なぜ、ここに神さまと書かないで「主は」となっているのでしょう?多くの場合、「主」は、契約の神さまをさし、主人とか王様という意味になります。そうすると、クリスチャンや牧師はどういう立場になるでしょうか?しもべ、あるいは召使いということになります。主人であり、王であるお方が「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」であるなら、その下で仕えている人たちはどうなるのでしょうか?「結末がどうなるか分からない。きっと報いられないんじゃないだろうか。だから、もうやめてしまおうか?」と言えるでしょうか?最後の「結末」、とか「報い」とかは、しもべが考えることなのでしょうか?もっと言うと、だれの責任なのでしょうか?主人の責任でしょうか?それとも、しもべの責任でしょうか?ローマ14:4「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」ここには、「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第である」と書かれています。もし、しもべが「結末があてにならないので、私はやめます」と言ったらどうなるでしょう?それは、主なる神様に対する最大の侮辱であり、不信仰になります。最終的に面倒を見るのは主人である神様だからです。

 17年飼っていた黒猫の「クル」が先月、亡くなりました。ミーヤから生まれたので、家の中で子どもたちと一緒に育ちました。クルも「自分は人間の一人だ」と思っていたのかもしれません。それだけ、素直な猫でした。しかし、おしっこをいろんなところにします。昔、教会の中で、おしっこをして迷惑をかけました。気はやさしいのですが、おしっこをする。これが一番の難点でした。ミーヤのときもそうですが、クルのためにいろんな猫缶を与えました。アジの塩焼きも与えました。また、ドアの開け閉めを朝に夕に行いました。最後にからだが弱り、階段も上がれなくなりました。家内が2晩くらい、添い寝して、夜中の3時頃、吐いてから息を引き取りました。猫は何にも役にたちません。仕事もしないし、食べては寝て、寝ては食べます。こっちは餌や水、トイレ、ドアの開け閉め、病気になれば病院といろいろ考えます。でも、猫から学んだすばらしいことが1つあります。それは何も心配しないで、寝ている姿です。猫は明日のことを思い煩ったりはしません。主人のもとにいれば、ごはんも食えるし、すべてが守られます。おそらく、そんなことも考えていないでしょう。ドアも自動、ご飯も自動だと思っているのでしょう。でも、猫はその日、その日を満喫して生きています。明日は死ぬかもしれない。もう命がないというのに、死ぬまで生きていました。ペットと人間は違うと文句を言うかもしれません。でも、私は猫から信頼することの大切さを教えられました。私たちには、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主なる神さまがおられます。何をしなくても、何ができなくても、神さまは私たちを愛して、面倒見て、責任を取って、そして報いてくださいます。だから、結末がどうなるかなどと、心配しなくても良いのです。主が再び来られる日まで、農夫のように収穫を期待して、耐え忍びましょう。つぶやかないで、主の豊かな慈愛とあわれみの中で、憩いつつ、与えられた一日一日を生きることにしましょう。主が生かしてくださる限り、主に仕えていきましょう。