2011.07.24 信仰による祈り ヤコブ5:12-15

ヤコブは竹を割ったような性格があり、それが手紙にも出ています。12節から15節まで、4つの命令が記されています。12節は「何よりもまず、誓わないようにしなさい」とあります。13節では「苦しんでいる人は祈りなさい」、そして「喜んでいる人は賛美しなさい」。14節は「病気の人は祈ってもらいなさい」と書いてあります。一読して、「当たり前のことだよなー。ここからどうメッセージしたら良いんだ!」と文句を言いたくなります。しかし、いろんな訳の聖書を平たい気持ちで、何べんも読むと、神さまがメッセージをくださいます。これは説教者が体験できる奇跡でもあります。神さまからメッセージが与えられたら、もう、しめたものです。エレミヤのように語らずにはおれなくなります。

1.簡素な生活

 12節をお読みいたします。私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。このことは、マタイ5章で、イエス様が教えられた内容と同じです。私はメッセージのために、いろんな聖書を読みますが、今回はニュー・イングリッシュ・バイブルが良くはまりました。その聖書には、「あなたが『はい』か『いいえ』と言うとき、『はい』か『いいえ』と簡素にしなさい」と書いてあります。「簡素な」は、英語ではplainであります。プレーン・ヨーグルトとか、プレーン・ケーキなどと言ったりします。「あっさりした、味のついていない」という意味です。でも、plainには、「明白な、簡単な、装飾のない、簡素な、率直な、気取らない」という意味があります。私はそれらの中から、「簡素な」を選びました。でも、「はい」か「いいえ」と簡単に言わないで、あれこれ誓ったならどうなるでしょうか?日本では「誓います」とは、あまり言わないかもしれません。その代わり、「きっと、必ず、絶対に、この次は」という言い方をよくすると思います。これも「誓い」の中に入ると思います。

 なぜ、人々は、誓ったり、「きっと、必ず、絶対に、この次は」と言うのでしょうか?それは、信用されていないからです。もし、その人が普段から、言ったことを実行する人、約束を守る人だったらどうでしょうか?別に誓ったり、強調したりする必要はないでしょう。おそらく、過去において、そうしなかった、約束を果たさなかった。だから、言い訳がましく、「今度こそは」「絶対に」とか、言うのではないでしょうか?それが、2回目、3回目になると渾身の力をこめて「今度こそは!」「絶対に!」と言います。私の子どもたちは、「絶対、○○しない」「絶対、○○する」とよく使ったものです。おそらく、友だちもみんなそういう言い方をするのを真似ているのでしょう。そういう時、私は「『絶対に』ということを使ってはいけないよ。人間は絶対にということはありえないから」と注意したものです。「絶対に」ということを使うと、そうできなかった場合、もう言い逃れができなくなります。ヤコブは「さばきに会わないためです」と教えています。私たちは年を取ればとるほど、知識が増せばますほど、信仰が深くなればなるほど複雑になりがちです。国会中継を見ていても、「はい」なのか「いいえ」なのか「はっきりしろ!」と言いたくなります。最初は「はい」と言ったのに、後から「いいえ」と言ってみたり、最初は「いいえ」なのに、最後は「はい」になったりします。なんだか、教会の総会を思い出してしまいます。私はplain、簡素な生き方が好きです。plainの中には、「気取らない、ごまかしのない、腹蔵のない」という意味もあります。クリスチャンが気取ったり、クリスチャンがごまかしたり、クリスチャンが腹蔵のあるというのは似合いません。なぜでしょう?それは神さまを恐れているからです。神さまは私たちの心の内をよくご存知です。神さまにとって、私たちの本音も、動機も、かけひきをしているかどうかも明白です。だから、私たちは裏表のない、真実で簡素な生活を主にあって送るべきです。

 13節前半「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」これも、「当たり前すぎて、メッセージにならない」と思います。でも、さきほどのplain簡素な生活そのものであります。苦しんでいる人は、どんなことで苦しんでいるのでしょうか?仕事がうまくいかない。人から誤解されて悪く言われている。体のあちこちが痛い。解決策が見つからないで苦しんでいる。この地上にいるといろんな苦しみがあります。でも、多くの場合、人が苦しみに会うとどうするでしょうか?人に相談します。今は携帯やメール、チャット、「つぶやき」があります。ある人はお酒を飲んだり、カラオケに行ってうさを晴らす。ゲームやビデオ、他の楽しいことで気分を紛らわせる。でも、ヤコブは「祈りなさい」と命じています。これって、すごいんじゃないでしょうか。私たちは苦しみにあったとき、その苦しみと格闘します。そして、その苦しみや悩みを人のところに持っていきます。あるいは、苦しみをしばし避けるためにお酒や楽しみに走るかもしれません。多くの場合、それらは中毒性があります。「クリスチャンはお酒を飲んではいけない」という教会もあります。私は、この教会で強くは言いません。でも、その理由は分かります。苦しみにあったとき、お酒に逃げてはいけないということです。どうするのですか?神さまのところへ行って、祈るのです。

 これもニュー・イングリッシュ・バイブルに書いてありました。Is anyone among you in trouble? He should turn to prayer.と書いています。turnとは、「向きを変える」という意味です。直訳すると、「祈りの方を向かなければならない」となります。私たちは苦しみに遭遇すると、それに巻き込まれるか、逃げるか、どちらかをしがちです。でも、「祈りに向かう」これが一番の解決策です。大川牧師が礼拝メッセージでよくおっしゃっています。「祈りに導かれることは、すべて良し」。人生において、様々な苦しみや問題に出くわします。「ああ、なんでこんなことが起きたんだろう」「ああ、いやになっちゃうなー」。でも、そうじゃない。「祈りに導かれることは、すべて良し」と、向きを変えて、神さまに祈る。これこそが、すばらしい簡素な生き方であります。

 13節後半「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」これも、「当たり前すぎる」と思います。しかし、そうではありません。ある人が喜んでいる。人は、どんなことで喜ぶのでしょうか?やっていたことがうまくいった。欲しかったものが与えられた。夢がかなった。苦しみから脱することができた。「やったー!」「うまくいった!」そういうときがあります。先週は「なでしこジャパン」がアメリカに勝って、世界一になりました。「あのゴールどうやって蹴ったんだろう?PK戦もすごかったなー。とにかくすごいよなー」と思いました。一番喜んでいたのは戦った選手たちでしょう。そればかりではなく、日本中が喜びにわきました。ドイツや韓国、中国も喜んでくれていました。世界一、金メダル、これはスポーツにとっては、最大の喜びだと思います。でも、選手たちが「神さまを賛美しただろうか?」ということです。日本はクリスチャン人口が少ないので、おそらくはしなかっただろうと思います。「やったー!」「うまくいった!」ということを賛美しないで、喜んでいただけだとどうなるでしょうか?彼らは今度、オリンピックで金を狙うようです。そして、次からは追われる立場になりました。今回は、「失うものは何もない」とリラックスした気持ちでプレーができたと思います。アメリカはガチガチでした。なぜなら、「絶対、勝たなければならない」と思ったからです。

 なぜ、喜んでいる人が、神さまを賛美すべきなのでしょうか?私たちは「うまくいった」「願いがかなった」と喜びます。でも、それはだれのおかげでしょうか?「おかげ」は仏教的な表現かもしれませんが、お許しください。神さまのおかげですよね。神さまがそれを与え、神さまがかなえてくださったのです。もし、喜びを喜びとしていたなら、傲慢になり、誇りになります。「私がやった、俺がやった」となります。あの選手たちは、金メダルとトロフィーをもらいました。それはすばらしいことです。でも、それを自分たちの誇りにしているならば、次からは、プレッシャーになるということです。私たちは栄光を神さまにお返しすべきです。「主よ、あなたのゆえです。あなたを賛美します。ハレルヤ!」。そうすると、不要な誇りとかプレッシャーが肩から落ちて、新しい気持ちで、またチャレンジできます。私たちは、簡素な生活がとても重要です。「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」であります。私たちは苦しみも喜びも、主に捧げつつ、簡素で身軽な歩みをしたいと思います。

2.信仰による祈り

 14-15節をお読みいたします。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。こんどは、病気の人に対する勧めです。病気の人は、何をすべきなのでしょうか?普通でしたら、病気の人は教会の長老たちのところに出向いて、「どうかお祈りください」と願うべきでしょう。しかし、ヤコブは彼らに「来て下さい」と招けと命じています。なぜでしょう?1つは病気が重くて、自分からは行くことができないというケースです。もう1つは、「遠慮しないで、招いて祈ってもらって良いよ」ということです。これは当教会のことではありません。ある先生から聞いたことです。ある教会の信徒が、病院に入院しました。しかし、牧師先生はそのことを知らずに、ずっと後で、兄弟姉妹から間接的に聞きました。「どうして?」と聞くと、「先生には言わないで」と口止めをされていたそうです。考えてみると、うちの教会でも、そういうことがあったかもしれません。「心配かけなくないので」「大げさにしたくないので」という理由だったかもしれません。でも、ほとんどの場合は、連絡してくださいますので、入院された直後に、病院に行って祈ったという記憶が多いです。どうでしょう?「入院したので、祈ってください」と言いづらいのでしょうか?

 ヤコブ書は何と言っているでしょうか?「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は堂々と、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」「堂々と」は、私が加えたものですが、そういうニュアンスはあります。なぜ、会の長老たちを招いて、祈ってもらえ」ということなのでしょうか?それは、肉体の病気になると、祈る気力すらなくなるからです。私たちは肉体が弱ると、信仰も弱る傾向があります。そうすると、ますます、体も悪くなります。だから、病気の人は、教会の長老たちに出向いてもらって、祈ってもらったら良いのです。今だったら、電話して「どうか来て、祈ってください」と願えば良いのです。教会の長老たちというのは、今で言うと牧師や役員、霊的指導者という意味です。オリーブ油は、マルコ福音書6章でも、弟子たちがそれを用いて病を癒したとあります。オリーブ油、そのものに癒す力があるというよりも、それが癒しの管になるのではないかと思います。「油を塗る」というのは、聖霊の助けを求める行為であります。「長老たち」とありますので、複数です。マタイ18章に「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」とあります。イエス様がそこに臨在して、その祈りを聞いてくださるということです。だから、「主はその人を立たせてくださいます」と書いてあるのです。ニュー・イングリッシュ・バイブルは、「ベッドから、彼を立たせてくださると」訳しています。マルコ2章で、イエス様は中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい」と言われました。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、出て行った」とあります。ヤコブ書5章からも、完全に癒されて、立ち上がるその様を思い浮かべることができます。

3.罪の赦し

 ここには、病の癒しだけではなく、罪の赦しのことも書いてあります。15節後半「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は癒されます」とあります。14節から15節をそのまま読むと、木に竹を接いだような感じになります。でも、これは、その人の病が罪から来る場合のことを言っているのです。ですから、リビング・バイブルや現代訳聖書はこのように訳しています。「もし病気の原因が罪によるものなら、主はその罪をも赦してくださいます」。これを見て、驚く人がいるのではないでしょうか?「え?罪が原因で病気になるの?」と疑いの目で見るかもしれません。すべての病気は罪から来たものです。でも、それはアダムの罪、最初の人間が犯した罪から来たものです。そのため、私たちに病気や死が訪れるようになったのです。でも、神さまの一般恩寵(恵み)で、人間は健康で寿命を全うできるようになっています。最後は体のどこかが壊れて、お医者さんは何らかの病名をつけるかもしれません。でも、クリスチャンの場合は、「この地上の使命が終ったので、神さまが天に召してくださった」と考えるべきです。しかし、どのくらいの割合か分かりませんが、アダムではなく、その人自身が犯した罪が原因で病気になるケースがあります。全部ではありません。だから、病気の人をつかまえて、「何か未解決の罪があるのではないでしょうか。罪を悔い改めるべきですよ」と言ってはいけません。そうすると、その人は肉体と心と二重の苦しみを負うことになるでしょう。だから、そう簡単には言ってはいけません。ただ、その可能性があるということです。

 チョー・ヨンギ先生の本に書いてありました。あるとき、学校の校長をしているご婦人が面会を求めて来られました。このご婦人は関節炎を患っており、どの病院に行っても治らなかったそうです。チョー先生は、彼女の上に手を置いて、祈り、命じ、叫びました。教会には癒された人が大勢いると言うのに、彼女だけは癒しの恵みに預かることができませんでした。あるとき、聖霊様が「私は彼女に力を現すことができない。彼女が前の夫を憎んでいるからだ」と教えてくださいました。そこで、先生は彼女に「姉妹よ、ご主人と別れなさい」と言いました。彼女はびっくりしながら、「それはどういう意味でしょうか?私は主人と10年前に離婚しています」と答えました。先生が答えました。「確かに、法律的には離婚されました。でも、精神的にはどうでしょうか?あなたは来る日も来る日も、夫を呪い、夫を憎んできました。あなたは今でもご主人と暮らしています。ご主人に対する炎のような憎しみがあなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみがじゃまをして、関節炎を治らせないようにしているのです。」彼女が反発しました。「そうです。でもあの人は、本当にひどい仕打ちをしたのです。結婚したのは良いけれど、仕事は何一つしようとしない怠け者。私がせっかく得たお金を湯水のように使い、最後はあっさり私を捨てて、別の女と駆け落ちしたのです。そんな人間をどうして赦せるでしょう」と言いました。チョー先生は「それだったら、あなたの関節炎は治りません。でも、神さまはあなたの心の中から流れ出て、あなたを癒そうとしておられるのです。だから、夫を愛して、夫を祝福しなさい」と答えました。彼女はその場で、しばらく悶え苦しみました。何度か先生とやり取りした後、「私は夫を赦します。夫を愛します。夫を祝福します」と告白して祈りました。それから、先生は彼女に手を置いてお祈りしました。すると、おおよそ3ヶ月後、彼女の関節炎は完全に癒されたということです。ですから、罪が病の原因になったり、罪が病の癒しを妨げている場合があるということです。チョー先生は『第四次元』の中で、憎しみ、復讐心、恐れ、劣等感、そういったものが病の原因になったり、あるいは病の癒しを妨げていると教えていました。

 きょうのメッセージの主題はplain、簡素な生活ということです。現代社会はあまりにも複雑で、情報が飛び交っています。今は携帯だけではなく、フェイスブックをやっている人もいます。「そんな情報どうするんだ?処理しきれないだろう」と思います。また、いろんな恐れや心配で、夜も眠れないという人が大勢います。そして、多くの人が精神的な病と戦っています。日本人は、人の目や世間体に敏感なところがあります。でも、人の口には戸を立てることはできません。また、どう思われても、「神さまがあなたをどう思っているか」であります。私たちは神さまの御目のもとで、正直で、潔白に生きれば良いのです。plainには、「明白な、簡単な、装飾のない、簡素な、率直な、気取らない」という意味があります。中世に描いた聖画は非常にゴテゴテしています。弟子たちの服装も華美で、イエス様のお顔もどちらかと言うと無表情です。今のキリスト教のカレンダーを見るとどうでしょう?装飾のない、簡素なお姿のイエス様が多いように思います。また、数年前から「マンガ聖書」できて、イエス様もマンガになりました。マンガほど、簡素なものはありません。これが世界中に広がっています。新生宣教団のホームページを引用致します。「マンガを通して、読者はイエス・キリストのストーリーに引きつけられ、神がひとり子を送ってくださったという犠牲の愛に心の目が開かれます。イエス・キリストの死と復活が現実となって迫り、多くの人に信仰を与えているのです。識字率の低い地域のこどもにはテキストとして用いられ、 文字とそれを表現する絵の描写を通して学んでいます。特に、経済的困難に直面している国や、様々の迫害下にある子供たちへのマンガ製作は、皆様からのご献金によって進められています。マンガ聖書は英語のほか日本語、ポルトガル語、フランス語など、21ヶ国語に翻訳されており、その数は増え続けています。」この間、新生宣教団で奉仕している尾山謙仁先生から東北の被災地に行った証しを聞きました。なんと、「マンガ聖書」が大変良く読まれているそうです。ある子どもは、擦り切れるほど読み、ストーリーを全部覚えているそうです。きょうは、plain簡素に生きることをお勧めしました。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美しなさい。病気の人は長老たちを招いて祈ってもらいなさい。イエス様が共におられるなら、「簡素で、率直で、気取らない」信仰生活が可能です。派手さはないかもしれませんが、一番、安定性があり、長持ちするのではないかと思います。