2011.07.31 義人の祈り ヤコブ5:16-20

ヤコブの手紙はきょうでおしまいです。とても辛口のメッセージでした。でも、最後に最も辛口のテーマが残っていました。なぜなら、当亀有教会に足りない3つのことが述べられているからです。いや、これは日本の教会に共通しているテーマかもしれません。最近、礼拝人数がかなり減っています。向かって右側の人たちは忠実な方々が多いように見受けられます。しかし、真中と左側の席がとても空いています。なぜでしょう?あんまり暑いので出て来られない。あるいは、いろんな葛藤があって信仰から離れている。教会が独立したばかりなので、牧師としてキツイところもあります。でも、ヤコブは3つのことを述べて、叱咤激励しています。

1.罪の告白

 ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」この16節は前の14,15節とつながっていると思います。病気の人が長老たちを招いて祈ってもらいました。そうすると、病気から回復し、さらには罪まで赦されると書いてありました。分脈から見ると、罪が原因で病になる可能性もあるということです。英語の詳訳聖書を見ますと、癒しというのは、思いや感情の調子が良くなることと書いてあります。現代的に言うなら、メンタルな病気の癒しです。最近は、メンタル・クリニック、心療内科ということばを良く耳にします。クリニックだけではなく、いろんなカウンセリングがあります。日本も欧米並みに、そういうところへ行って、治療を受けている人が増えているようです。教会でも、心理学を基盤にした内面の癒し、カウンセリングがさかんになりました。私も数えてみると5つくらいは、そういうところに通って、スキルを学び、コーチングに活かしています。でも、初代教会の頃は、メンタル・クリニックとか、カウンセリングがあったのでしょうか?

 ヤコブは「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」。そうすれば、癒されると保障しています。インドネシアのエディ・レオ師がこのようにおっしゃっていました。「現代のプロテスタント教会で、聖書の教えを最も、実行していないものは何でしょう。それは互いに罪を告白することです。これが現代のプロテスタンと教会において最もなされていないことです」と言われました。そういえば、カトリック教会、特に修道僧は、互いに罪を告白することを毎日の日課にしています。どんな小さなことでも、心で思ったことでも、彼らは互いに罪を告白します。初代教会はこれがよくなされていました。だから、初代教会にはメンタル・クリニックもカウンセリングも必要なかったのです。彼らは互いに罪を告白したので、精神的な病気にならなかったのです。なんということでしょう。現代は、罪を告白することよりも、「世の中が悪いですね。あなたの生い立ちがそうさせたんですね。それは弱さですね。大変でしたねー。あなたが悪いのではありません。お気の毒ですね。処方されたお薬を飲んで、あまり深刻に考えないようにしてください」。そして、カウンセリング、カウンセリング、さらにカウンセリング。何もカウンセリングが悪いと言っているのではありません。私もそういうものを5つも学び、多額のお金をかけたくらいですから。

 でも、そういう病気の原因は罪から来ています。重要なのは罪を告白することです。この世のカウンセリングはそうでありませんが、最近のキリスト教のカウンセリングは罪の告白をはっきり言います。エリヤハウスでは、「祈りのミニストリー」と言いますが、5つのポイントがあります。第一は認識する。第二は罪を悔い改める。第三は赦し。第四は古い構造を十字架につける。第五は新しい命をいただく。親をさばいたとか、怒ったとか、誓ったとか、そういう苦い根を認めて、悔い改める必要があります。このところに「互いに罪を告白しなさい」とありますが、これは教会内の交わり、セルにおいて欠かせないテーマです。勉強会でなどでは、大体、自分の考えとか経験を分かち合います。しかし、本当に分かち合うべきことは、内側にある自分の問題、葛藤、心の傷を分かち合うべきなのです。特に男性は、頭(マインド)のことばかり話して、心(ハート)のことは言いません。メンズミニストリーやLTGでも良く言われますが、罪を互いに告白することが、癒しとなり、力の源となります。英語ではアカウンタビリティーですが、まだ日本語になっていません。無理やり「説明責任」と訳しています。本当の共同体は、この「説明責任」がなければなりません。罪があるならば、互いに告白する。そして、祈ってもらう。これは神の教会が率先して、行うべきテーマです。どうぞ、亀有教会の各セルにおいて、また夫婦において、2、3人の交わりにおいて、互いに罪を言い表しましょう。そうすれば、私たちは霊的にも内面的にも健康になります。

そして、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とつながっていきます。「私たちは義人と聞くとクリスチャンはみんな義人だから祈りはきかれる」と思ってしまいます。そうではありません。互いに罪を告白し、義人となったので、その祈りがきかれるのです。何故、初代教会はそんなに力があったのでしょうか?彼らは集まるたびに、互いに罪を告白したからです。そして、その後、心を合わせて祈ったので、力あるわざが起きたのです。私たちの交わりも、うわべだけの交わりではなく、互いに罪を告白し合いましょう。そうすると、義人の祈りには大きな力があり、驚くほどの効果を生み出すのです。

2.熱心な祈り

 ヤコブ5:17「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」ここに、「エリヤは私たちの同じような人でしたが」とあります。これも英語の詳訳聖書を見ると興味深いことが書いてありました。エリヤは私たちが持っている性質、つまり、私たち持っているような、感情、気質、体質の弱さを持っていたということです。エリヤといえば、旧訳聖書で最も力のある預言者の一人です。エリヤは、アハブ王が悔い改めないので、「どちらが本当の神さまか試そうじゃないか」と挑戦状をたたきつけました。エリヤは、たった一人で、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦うことになりました。バアルの祭壇と主の祭壇を二つならべ、天から火をくだした方が本当の神ということになりました。バアルの預言者たちが朝から昼間まで叫んでも、踊ってもダメです。最後に、自分の体を剣や槍で傷つけて求めました。しかし、何の応答もありませんでした。次はエリヤの番です。エリヤは自分が供えた祭壇に、水までかけました。そして、エリヤが祈ると、天から火が下り、いけにえと、たきぎと、石の祭壇、みぞの水もなめ尽くしました。その後、バアルの預言者たちを捕らえて、ひとり残らず殺しました。しかし、その後、どうなったでしょう?アハブ王の后、イゼベルが真っ赤に怒って、エリヤに「私が明日まで、お前を預言者たちと同じにしてやるから」と脅かしました。エリヤは恐ろしくなって、遠くへ逃げました。荒野で、「私のいのちを取ってください」と主に願いました。ある人たちは、エリヤがバーン・アウト、燃え尽き症候群になったのでは、と言います。もう、彼は何にもやる気がなくなったのです。このように、エリヤにも私たちと同じ、恐れや燃え尽きがあったということがわかります。

 でも、ヤコブはエリヤを何と言っているでしょうか?「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」そうです。主はイスラエルをさばくために、ききんを与えました。そのとき、主はエリヤの祈りで雨を止め、また3年半後、エリヤの祈りで天から雨を降らせました。エリヤはどれくらい熱心に祈ったのでしょうか?Ⅰ列王記18章を見ると、「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた」とあります。エリヤが祈って、しもべが海から雲が上って来るか見に行きました。「見えたか?」「まだ見えません」「見えたか?」「見えません」それを何度も繰り返しました。そして、7度目に、しもべが言いました。「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海の上から上っています。」その後、大雨がやってきます。祈っては、見に行かせ、祈っては、見に行かせ、少なくとも、7度は繰り返したことがわかります。それだけ、熱心に祈りました。7は完全数ですから、徹底的に祈ったということです。私たちも1回で祈りをやめる場合があります。3回くらいまでは祈るかもしれません。でも、7回、徹底的に祈るということがあるでしょうか?

 私たちはエリヤの熱心さ、熱心な祈りを学ぶ必要があります。エリヤは私たちと同じ弱さを持っていました。しかし、熱心に祈ったら、すごいみわざが起こりました。「私たちが熱心に祈っているだろうか?」「私が熱心に祈っているだろうか?」ちょっとは祈っていますが、熱心に祈るというところまでは行っていません。熱心に祈るために、祈祷会を持てば良いのでしょうか?早天祈祷会、徹夜祈祷会、断食祈祷…。教会は、祈りをプログラムにしてきました。私はそれらを全部やりました。でも、セルチャーチを導入してから、全部やめて、セルで祈るように指導しました。私もディボーションで個人的には祈っています。でも、どうでしょうか?そういう祈り会をやめると、祈りも少なくなったように思います。でも、祈りはプログラムではありません。プログラムにすると、形式的になり、「祈らなければ」という律法になります。そうではなく、どんな形であろうと、一緒に集まれば祈る。そういう教会になったらと思います。この教会はセル教会?いや、セルを目指していますが、どんな集まりであろうと2つのことは絶対忘れてはならないと思います。1つは失われた魂への伝道です。もう1つは集まったら必ず祈るということです。おそらく、どんな集まりでもこれまで祈って始め、祈って終るのではないかと思います。それを今後は、もっと具体的な課題を上げ、もっと熱心に祈る必要があると思います。そのためには、まず個人の祭壇、個人の祈りを熱くすべきであります。神さまは見えるところではなく、隠れたところの祈りを聞かれると聖書に書いてあるからです。どうぞ、亀有教会を神さまが日本のために用いてくださるようにお祈りください。この10年、私がバトンタッチします。その後継者が与えられますように。しかし、それが目的ではありません。亀有教会に枝教会ができ、5人牧師、50人の信徒リーダーが与えられますようお祈りください。現在、目の前の礼拝人数が減り、予算もギリギリです。今が、新しい道に進む、転換期だと思います。今こそ、熱心さ、熱心な祈りが必要です。人にはできないが、神にはできる。イエス様は「私が私の教会を建てる」とおっしゃいました。ですから、神の教会に、衰退はなく、ただ成長しかないのです。

3.救出作戦

 ヤコブ5:19-20「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」ここは、信仰を離れた兄弟に対して、どうすべきなのか教えている箇所です。「真理から迷い出た者」とあり、その後には「迷いの道」と書いてあります。その人は、一度はイエス様を信じました。しかし、罪や過ちを犯し、曲がった道を歩んでいます。それで、自分では、もう戻れない状態になって魂の救いすらも失っているという状況です。キリスト教会においては、「一度、救われた者は滅びることがない」という、カルバンの予定説が主流であります。もし、それが正しければ、洗礼を受けて救われたのだから、放っておいても大丈夫ということになります。私もかつて、その立場にありましたが、聖書を読むと必ずしもそうではありません。ヘブル人への手紙を見ると、あちこちそういうみことばが見つかります。また、Ⅰヨハネには、このようなみことばがあります。Ⅰヨハネ5:16,17「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」クリスチャンには、2種類の罪があって、死に至る罪と死に至らない罪があるということです。死に至らない罪を犯している人をみたら、神さまに求める必要があります。

おそらくヤコブが言っているのは、死に至らない罪のことであり、神さまに求めたら、再びいのちが回復するものです。ヤコブは「戻りたくても、戻れない兄弟がいたなら彼を連れ戻しなさい」と命じているのです。「連れ戻す」という、ギリシャ語は、「転向させる、立ち直らせる、引き戻す」という意味のことばです。おそらく、おかしくなった信仰を再び与える、回心させるということでしょう。先月の役員会で「最近、教会に来なくなった兄姉を洗い出してみよう」ということが話し合われました。一人ひとりを見ると、それなりの理由があると思いますが、中には「どうして来ないのだろう?」と理由が分からない人もいます。長期欠席になり、やがては名簿から消されるということになります。申し訳ありませんが、正直、私は淡白なところがあります。「来なさい」「来なさい」としつこく言わないタイプです。言わないというよりも、言えないという方が正しいかもしれません。何故かと言うと、来ない理由を聞いて、批判され傷つく可能性があるからです。その人は、一度は得ていた魂の命を、今、失っている状態です。マタイ18章にそのような記事があります。マタイ18:12-14「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」イエス様は「九十九匹を山に残してでも、迷った一匹を捜しに出かけるのが本当だ。なぜなら、この小さい者の一人が滅びることは、天の父のみこころではない」と教えています。ですから、何としてでも、教会の群から離れた兄姉を連れ戻す必要があります。

では、どういう理由から、礼拝を休み、教会から離れてしまったのでしょうか?そして、どういう対処が必要なのでしょうか?Ⅰヨハネ2章によると、子ども、若者、父と3種類の人が教会にいることがわかります。それぞれ必要があり、その必要が満たされないと教会を去っていきます。霊的な子どもが信仰から離れるのは、罪が永遠に赦されていることを知らないからです。「洗礼を受けたけれど、また再び罪を犯してしまった。もう神さまは赦して下さらないのではないだろうか?」そうやって罪責感にとらわれて、教会からも神さまからも離れるのです。そういう人たちのためには、「救いの確信」を与える必要があります。罪を犯して失うのは、神様との交わりであって、神さまの子どもである身分は失わないということです。また、霊的な子どもは温かい交わりと養いが必要です。教会の人たちが率先して自分のセルに招き入れ、できるだけ孤立しないように助ける必要があります。落ちないように支えるという意味のフォーローアップが大事です。また、霊的な若者はどうでしょうか?悪い者に打ち勝つ必要があるのに、悪習慣や古い罪に捕らわれている人です。一度は清い生活をしていたのですが、この世の友だちが誘ってくるし、自分の中にも未解決の問題があります。こういう人こそ、兄弟姉妹が行って、連れ戻さなければならない人たちです。ランボーという映画がありましたが、敵地にひとりで乗り込んで行く。たった一人で捕虜を奪還するという乱暴な映画でした。私たちは一人ではなく、チームでそれをやるべきです。最後は父たちとあります。この父たちは信仰歴が10年、20年も経っているのですが、父になりきっていない。若者と父の間に留まっている人です。こういう人は羊というよりも、角が生えたヤギです。牧師や教会にいろんな不満を持っています。気にいらないことが起こると教会を去ってしまいます。信仰はあるかもしれませんが、教会には行かないというタイプです。イエス様ではなく、教会に躓いているのです。いろんな行き違いや誤解が重なって、そうなってしまいました。もし、父まで成長していれば、牧師や教会の足りないところをカバーするのですが、そこまで達していません。そういう場合、両者を取り持つ仲介的な人が必要です。一度へその曲がった人を連れ戻すにはものすごいエネルギーと時間がかかります。

このように、「ああだ、こうだ」と理論的に分析することは可能です。でも、一番必要なのは愛があるかどうかです。愛は理屈ではありません。愛はイエス様から押し出されて出てくる行動です。パウロは、口語訳ですが、Ⅱコリント5:14「キリストの愛が私たちに強く迫っているからである」と言いました。自分が何とかやらなければ、というよりも「キリストの愛が強く迫っているから、そうせずにはおれない」ということです。私が教会に通い始めた頃、あることで躓いて、教会に行かなかった頃があります。すると職場の先輩は、「昨日の説教はこうだったよ」とお話ししてくれます。また、礼拝のテープや榎本保郎先生のテープを貸してくれました。ある日曜日、車で、教会の前まで行くのですが、通り過ぎてしまいました。1ヶ月後、先輩に誘われて、また教会に通い、洗礼を受けることができました。礼拝後、「昼食をしていきませんか?」と誘われましたが、二階に上ると、女性ばかりでした。恥ずかしくて帰りました。何ヶ月後、神学生が強く勧めてくれたので何とか昼食を食べました。「早天祈祷会がありますよ」「英語礼拝がありますよ」「修養会がありますよ」、どんどん誘われ、最後には教会に入り浸りになりました。長老さんから「うちのアパート安いよ」と言われ、そこに住みました。人々から「三畑マンション」と呼ばれていましたが、床が傾いていたせいもあってか、月1万円でした。長老さんは「ここに入った人はみんな献身するんだよ。この建物は東京聖書学院の方に傾いているんだ」と言いました。そのことばのごとく、半年後に神学校に入りました。良く考えると、いろんな人たちの交わりによって支えられ、成長してきたんだなーと思います。この礼拝だけでは、人は教会につながりません。なんとか、キリストの愛によって押し出され、愛の交わりを熱く、そして密にしていきたいと思います。