2012.1.22「世に勝つ者 Ⅰヨハネ5:1-5」

どの国民であれ、「いつ、どこで、だれから生まれたか」ということを重要視されるのではないでしょうか?旧約聖書を見ると、「だれの子どもなのか」というが重要なアイディンテティでした。父親で身分が決まってしまうようなところもありました。しかし、クリスチャンはイエス・キリストを信じると新たに生まれることができます。私たちの霊的な父親は天地を造られた神様です。なんとすばらしいことでしょうか。ヨハネは私たちのことを「神によって生まれた者」と呼んでいます。そして、Ⅰヨハネ5章のはじめで、神によって生まれた者には2つの特徴があると教えています。

 

1.兄弟を愛する者

 

 神によって生まれた者の第一の特徴は、兄弟姉妹を愛するということです。Ⅰヨハネ5:1-2「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。」使徒ヨハネは、「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」と言っています。知らない人は「イエス・キリスト」と聞くと、イエスがファーストネームで、キリストがファミリーネームみたいに思ってしまうでしょう。イエスは確かに名前ですが、キリストは職名であります。キリストは、元来、「油注がれた者」ですが、救い主とかメシヤという意味になります。当時、イエスという名前はかなり付けられていたようです。しかし、キリストはだれにでも付けられる称号ではありません。キリストはギリシャ語ではキューリオスですが、当時、ローマ皇帝がキューリオスとして崇められ、皇帝礼拝がなされていました。ですから、その当時「イエスがキューリオスです」と告白したら、コーマ皇帝を否定することになります。その人は、捕らえられ、死刑になるでしょう。私たちが「イエスはキリストです」と告白するのは、「私はイエス様を救い主として信じます」という告白と同じなのです。

 「イエスはキリストです」と心から告白するとどうなるのでしょうか?ヨハネは、「その人は神によって生まれたのです」と言っています。ヨハネ3章には、ココデモの物語が記されています。彼はユダヤ人の指導者でしたから、身分、知識、経験、宗教心、すべてを備えていました。しかし、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われました。いくら立派でも生身では神の国に入れないということです。新しく生まれるとは、「上から生まれる」という意味です。私たちが「神のひとり子、イエス様を信じます」と告白すると、神さまが私たちを新たに生まれ変わらせてくださるのです。信じるのは私たちがすべきことですが、新生させてくださるのは神であり、神の霊です。本当のクリスチャンであるなら、霊的に新しく生まれ変わった存在です。これを英語ではボーンアゲィン・クリスチャンと言います。しかし、アメリカやヨーロッパに行きますと、名ばかりのクリスチャンが大勢います。イエスはキリストであることを頭で知っていますが、霊的に生まれ変わっていないのです。聖書も読んでいるし、教会にも通っている。しかし、心からイエス様をキリストとして信じていません。だから、同然、霊的にも生まれ変わっていないのです。日本にはたくさんのミッションスクールがありますが、ほとんどの学生はボーンアゲィンしていません。教養として聖書を学び、知識としてイエス・キリストを知っているだけだからです。ヨハネは「もし、本当にイエスがキリストであることを信じたならば、神から生まれた存在である」と言っています。そして、「神から生まれたなら、このようなことが普通になりますよ」と言っています。それはどんなことでしょうか?

 第一は生んでくださった方を愛するということです。生んでくださった方とは父なる神さまのことです。神さまは単なる神さまではなく、「お父さん」です。新生した人の特徴は神さまを「お父さん」と呼べるということです。あひるなどは、卵からかえったとき、最初に見たものが自分のお母さんだと思うそうです。あひるが最初に猫を見たら、猫がお母さんになります。人間を見たら、人間がお母さんになります。ある人たちは祈るとき、「愛する天のお父様」と祈ります。これは信仰がなければとても言えないでしょう。主の祈りも「天にいます我らの父よ」と祈り出すので、信じていない人には苦痛ではないでしょうか?だけど、神さまを信じると、聖霊の助けによって、「アバ父よ」「お父さん」と呼ぶことができるようになるのです。それでは、第二の特徴は何でしょうか?神さまを愛する人は「その方によって生まれた者をも愛します」。「その方」とは神さまですから、神によって生まれた他の人たちをも愛するということです。イエス様を信じて神の子どもになったのは自分一人だけではありません。他にもイエス様を信じて神のこどもになった人がいます。いわば、兄弟姉妹です。イエス様を信じて、本当に霊的に生まれ変わった人は、他の兄弟姉妹を愛するようになるのです。もし、「私は教会の人を、だれ一人愛することはできません。みんな私のライバル、私の敵です」と言ったら、その人の救いは怪しいものとなります。J.BフィリップスはⅠヨハネ5:1,2をこのように訳しています。「イエスをキリストであると本当に信じている人はだれでも、神さまの家族の一員です。父を愛しているその人は、父の息子たちを愛さずにはおられません」。なぜでしょう?自分の中に神の愛があるからです。それまでは、愛することが至難の業でした。しかし、クリスチャンになると神の種が宿るので、愛することが自然になるのです。昔、We are the Worldという歌がありました。アメリカの選りすぐりの歌手が歌っていました。その歌詞の中に、We are all a part of God’s great big family, you know love is all we need.「私たちはみんな神の偉大な家族の一人だから、すべての人に愛が必要なんだよ」と歌っていました。歌やスポーツはそういう力があります。しかし、私たちは神によって生まれ変わることによって、そのことが可能になるのです。

 さらにヨハネはこう言っています。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」神の命令とは何でしょうか?Ⅰヨハネ4:21です。現代の聖書は章とか節がありますが、原文の聖書にはありません。だから、本来はくっついているのです。Ⅰヨハネ4:21「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」そうです。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきであり、それは神さま命令です。ヨハネは「その命令は重荷とはなりません」と述べています。重荷とは、詳訳聖書によると「飽き飽きすること」「過酷なこと」「耐え難いこと」とも言い換えられることばです。みなさん、人を愛するということは、結構、大変なことではないでしょうか?相手にされなかったり、拒絶されるかもしれません。自分の方だって、嫌な人から近づいて来られたら、「どうしよう」と構えるんじゃないでしょうか?現代は、通話料がただであったり、いろんな人とメールをやりとりできます。私のところにも「通話料がタダだから…」と言って、電話をかけてくる人がいます。「あなたの通話料がただでも、私の時間はただじゃないんだ。用件だけにしてくれ」と言いたくなります。メールが来ても、「返事を出したくないなー」という場合もあるでしょう。私たちは意識はしていないかもしれませんが、人によってランク付けをしているのではないでしょうか?「この人だったら、1時間くらい話しても良い」。「この人だったら、早く切りたい」とか。

たまに、ユニクロに買い物に行くときがあります。カウンターで会計をしている人は、とても輝いて見えます。営業の顔、営業の声なんでしょうが、「よくやるなー」と感心します。おそらく、そういう人は一日の仕事を終えたら、「ぶすー」っとなって、もう口も利きたくないという感じになるでしょう。私たちも営業で兄弟姉妹を愛することは可能かもしれません。しかし、近いうちにメッキがはがれます。「よして!なれなれしい」とか言われ、興ざめするかもしれません。教会だから、兄弟姉妹だからといって、互いに愛し合うということは簡単ではありません。お互いの距離を計ったり、「この程度は良いだろうかな?」みたいな探索が必要です。でも、いつでも忘れてはいけないことがあります。私たちは、かつては罪人でした。キリストによって贖われ、神の子どもとされたのです。今も、不完全で、罪の性質や弱さがあります。でも、自分たちの父は神さまで、神の愛が注がれています。だから、愛することをチャレンジするのです。ちょっとやそっと傷ついても愛することをやめてはいけません。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」永遠に続くものは愛です。だから、私たちは小さなことで、「傷ついた」とか「躓いた」と甘ったれたことを言ってはいけません。なぜなら、同じ、天の父を持つ兄弟姉妹だからです。本当の兄弟姉妹は良く喧嘩するものです。喧嘩をしながら、仲良くなり、愛を学ぶのです。本当の愛は、傷つき、汚れながら学ぶのです。でも、そこには確かに、神の愛が流れています。これは神の命令ですから、私たちは、愛することをやめてはいけないのです。大川牧師が「愛には卒業はない。一生、愛の課題に立ち続けるしかない」と言ったことを思い出します。私たちは、神の子どもとして、愛の課題に立ち続けるしかないのです。でも、それは重荷にはなりません。イエス様が十字架でお互いの罪を負い、聖霊様が愛を注いでおられるからです。

 

2.世に勝つ者

 

神によって生まれた者の第二の特徴は何でしょうか。Ⅰヨハネ5:4-5「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」ここに「なぜなら」と書いてありますので、前のことと何か関係しているようです。第一のポイントでは神から生まれた者は神を愛し、神から生まれた者たちをも愛するということでした。つまり、兄弟姉妹を愛するという命令は重荷にはならないということです。それでは、世とは何でしょうか?ヨハネによる福音書にも、たびたび「この世」とか「世」という名称が出てきましたが、どういう意味でしょうか?実は「世」というのは、神に敵対している人たちのことを言うのです。そして、世の背後には、この世の神であるサタンが支配しているというのがヨハネの考えです。と言っても、キリスト教会の中には、「この世界は神様が造られたので、神様が支配しているんだ。サタンが支配しているなんてとんでもない」と言う人たちが半分くらいいるでしょう。20,30年くらい前に、霊的戦いということがクローズアップされました。アルゼンチンから来られた、アナコンディアという伝道者が、「サタンよ、よく聞け。お前の汚い手を離せ!お前を縛る」と天に向かって叫びました。それから、癒しや奇跡を行ったのですが、ものすごく、強烈でした。つまり、空中の権威を持っているサタンを縛ってから、ミニストリーをするというものでした。日本の教会は、外国と比べてサタンや悪霊の働きは顕著でありません。どちらかと言うと、隠れて働いています。なぜなら、キリスト教会の中でも、そういうものを認めていない教会が多いからです。ある教会は「悪魔はいない」というヒューマニズム、またある教会は「そういう時代は終わったんだ」という神学を持っているからです。

でも、新約聖書を見ると「世」「この世」というのは、神を認めず、神に敵対している人たちのことです。それは、アダムとエバが神に敵対してから始まったことです。神さまはこの世を救おうとアブラハムを選びました。そして、アブラハムの子孫、イスラエルの民が世界の祭司となることを願いました。しかし、旧訳聖書を見るとわかりますが、イスラエルは不信仰と不従順の歴史です。そのため、神さまは、御子イエスをこの世に送りました。イエス様は30歳で公生涯を始められます。開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。これはどういう意味でしょうか?神の国がイエス様と一緒にやってきたということです。アダム以来、この世は神に反逆して生きてきました。そこへ、神の国が「どーん」と、楔形のように突入してきたのです。イエス様は神の国はどういうものなのか、教えました。山上の説教は、いわば神の国の律法です。そして、多くの人たちの病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。神の国とはこういうものであると、デモンストレーションしたのです。デモンストレーションは、企業が新商品などの説明のための実演を行うことです。テレビを見ますと、商品を実演している番組があります。司会者が説明し、もう一人の人が商品を実際に使ってみせます。拭き掃除するクロスとか、台所用品、健康器具、いろいろあります。それを、テレビカメラの前で実演します。すると、どこからか「わぁー」と、感動の声が聞こえます。ある場合は、20人くらいの人が後ろに座って、「すごい!」とか言ったりします。おそらく、サクラでしょう。でも、実際に、商品がすごいことを見ると買いたくなります。「さあ、30分以内に申し込まれるとこの特別価格で提供します。」テレビの画面に「商品が少なくなっています」「注文が殺到しています」とか出ると、「早く注文しなくちゃ」と焦ります。同じように、神の国を口で説明するたけでは、不十分です。それで、イエス様は人々に癒しと解放を与え、神の国を体験させたのです。これは、パウロがいう「みことばに伴うしるし」であります。特にユダヤ人はしるしを求めたので、イエス様はこれに答えたのです。最大のしるしは、イエス様ご自身が死んで3日目によみがえったことです。でも、そんなしるしを間近に見ても、ユダヤ人たちは信じませんでした。なぜでしょう?なぜ、人は、神の国がすばらしいと分かっても入ろうとしないのでしょう?

 神の国のギリシャ語は、バシレイアーでありまして、支配、統治、王国という意味です。英語ではkingdomです。王様が治める国であります。つまり、人が神の国に入りたいと願うなら、神さまに頭を下げなければならないということです。だって、神さまが王様なのですから、その支配下に服するのが当然ではないでしょうか。でも、生まれつきの人間は、そんなことはしたくありません。神さまじゃなくて、自分が王でありたいのです。これが罪人の本心です。ユダヤ人の指導者は、イエス様が神の子であり、メシヤであることを目の前で見たのです。でも、信じませんでした。もし、信じたら、頭を下げなければならないからです。そうしたら、これまで自分が持っていた宗教的立場や地位をなくすかもしれません。だから、イエス様を殺したのです。信じるとは、決断です。決断は英語でdecisionと言います。decisionのもともとの意味は、一方を殺し、一方を生かすという意味があるそうです。たとえばここに、コカコーラとオレンジジュースがあるとします。もし、私はコカコーラを飲むと決断したら、オレンジジュースは捨てなければなりません。「いや、私は両方飲む」と言って、コカコーラとオレンジジュースを混ぜたらどうなるでしょうか?気持ち悪くて飲めません。同じように、私たちが神の国に入ることを決断したなら、この世のものは捨てなければならないのです。主イエス・キリストを信じるなら、釈迦やもろもろの神を捨てなければならないのです。結婚も同じです。もし、私がだれかと結婚したいならば、他の女性を全部捨てなければなりません。「いや、二人と結婚します」となると、重婚罪になります。結婚後、他の女性と密かに付き合っていたら、不倫であり、姦淫です。日本は多神教が土台にあるので、霊的な純潔ということが良くわからない人がいます。

 ヨハネがなぜ、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と言ったのでしょう?もし、私たちは「イエス・キリストの神を信じます」と決断したなら、どういうことになるでしょうか?それは、私は「この世に属しません。神の国に属します。イエス・キリストの神が私の神です」ということなのです。するとどうなるでしょうか?この世があなたに歯向かってくるでしょう。この世はあなたを敵とみなすでしょう?なぜなら、この世の背後には、神の敵であるサタンがいるからです。サタンにとって、あなたが自分の国から、キリストを信じて神の国に入るということは大打撃です。自分の大切な持ち物を失ったのですから、これほど悔しいことはありません。サタンは、被害を最小限に食い止めるために、何とかしなければなりません。だから、あなたの親しい人を使って、やめさせるか、迫害を加え、あなたの思いをくじこうとするのです。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ10:34-36「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」アーメン。信仰には確かに戦いが伴います。悪魔はそれでも諦めません。私たちをなんとか敗北的なクリスチャンにしよう、影響力のないクリスチャンにしようと誘惑してきます。悪魔は肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をぶらさげて、この世にとどまるようにさせるのです。私たちが神さまと兄弟姉妹を愛するのではなく、この世のものを愛し、この世のものにエネルギーと力を向けさせるのです。でも、「世と世の欲は滅び去ります」。私たちは神の国に一度、入ったなら、王である神のみこころに焦点を合わせて生きるしかありません。もし、私たちが王である神さまの支配のもとで暮らすならどうでしょう?父なる神さまは守りと平安とすべての必要を与えて、保障してくださるでしょう。今の日本政府は社会保障をなんとかしようと考えています。消費税も10%になるかもしれません。でも、外国の工場で製品を作るので雇用問題が解決しません。円高、ドル安・ユーロ安で輸出が成り立ちません。若者は国民年金も納めていない人が大勢います。確かに、この世においては問題があります。しかし、私たちは神の国に属していることをお忘れなく。神さまが私たちの王様であり、王なる神さまが私たちの必要を面倒見てくださるのです。この世はますます希望をなくし、悪くなるでしょう。欲望、憎しみ、人殺し、嘘、偽りが支配するでしょう。治療できない病気もたくさん出ています。世に勝つのは、こういう罪や誘惑に勝利するということです。神さまは私たちに信仰の大盾を与えてくださいました。イエス・キリストを信じる信仰こそが、悪い者が放つ、火矢を消すことができるのです。イエス・キリストが死と悪魔に勝利しました。私たちも主イエス・キリストに従っていくなら、その勝利を得ることができるのです。