2012.1.29「神のあかし Ⅰヨハネ5:6-12」

6から12節まで、「あかし」という言葉が、9回記されています。「あかし」は英語ではwitnessと言いますが、明らかに法律用語です。証言とか、証拠という意味です。しかし、ギリシャ語では殉教、殉教者という意味もあります。となると、命をかけた証言ということになります。ヨハネは自分が見たこと聞いたことを、あかししています。そして、そのあかしがどんなに真実であるか、この手紙で証言しているのです。

 

1.神のあかし

 

 Ⅰヨハネ5:6-8「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」このところに、「あかしするものが三つある」と書かれています。申命記19章に「ひとりの証言では足りない、二人または三人の証言によって立証されなければならない」と書かれています。ですから、ヨハネはイエス様が神の御子であることを、3つもので証言しています。第一は水です。イエス・キリストは水によって来られたということです。ほとんどの聖書注解は、水とはバプテスマであり、それはイエスの洗礼のことであると述べています。しかし、「水」ということをユダヤ人が見ると、それは「羊水」であるとすぐ分かるそうです。ヨハネはヨハネによる福音書3章で、「人は水から生まれただけでは神の国に入れない」と言いました。水とは母の胎であり、肉体的な誕生を意味しています。イエス・キリストはマリヤの胎から生まれました。これは肉体的な誕生、神が受肉したということを意味しています。当時、グノーシスという異端が出現していました。彼らは「肉体は悪であり、神さまが肉体を取ることなんかありえないんだ。肉体を持ったように見えたんだ」と主張しました。これを「仮現論」と言います。しかし、イエス・キリストは確かに、水によってこの地に来られ、私たちと同じ肉体を持っていたのです。ヨハネはそのことをⅠヨハネ1章でこのように証言しています。Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」ヨハネは「私はいのちのことばについて、聞いて、目でじっと見て、手でわさりましたよ」とあかしをしています。「ことばは肉体になった」ということを証言しているのです。

 第二のあかしは、血です。これはイエス・キリストが十字架で流した血のことであります。さきほどのグノーシスという異端は、「神さまは十字架にはかからなかった。あそこで死んだのはナザレのイエスという人間なんだ。キリストは十字架にかかる前に天に帰ったんだ」と言いました。十字架はどの世界でも躓きでありました。しかし、ヨハネは「イエス・キリストは確かに十字架で血を流し、罪の贖いを成し遂げられのだ」と証言しています。ヨハネによる福音書19:34-35「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。」ヨハネは「イエス様のわき腹から、血と水が出てきた。目撃した者があかしをしているんだから、真実なんだ」と述べています。どうして、イエス様のわき腹から血と水が分離して出たのでしょうか?イエス様は槍で刺されて死んだのではありません。「すべてが完了した!」と叫んだとき、心臓が破裂したのです。その場合、血と水が分離することが医学的に証明されているようです。とにかく、ヨハネはイエス様が血を流して、贖いを全うされたということを見て、それを証言しているのです。先々週、このところで関東コーチングセミナーが開かれました。現在、練馬グレースチャペルの主任牧師は、横田義弥先生です。彼はイエス様の十字架を思うと、涙が出て語れなくなると言いました。横田先生は2年くらい前、小笠原先生から主任牧師になれといわれたとき、祈るために山奥に行ったそうです。大柄な先生が、膝をかかえて祈ったそうですが確信が来ない。そこで、エディ・レオのメッセージをカセットテープで聞いたそうです。そのとき、「キリストの血が私たちを聖めて、神さまに近づくことができるんだ」とヘブル書から語っていました。「そうか、キリストの血なんだ!私の能力とかきよさではない」と確信が来たそうです。イエス・キリストが十字架で血を流し、贖いを全うされたのは物語ではなく、事実なのです。

 第三のあかしは、御霊です。御霊は神さまですから、ヨハネは「これは神のあかしである」と述べています。ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」このみことばは、イエス様がおっしゃっています。ですから、真理の御霊がわたしについてあかしするとは、キリストについてあかしするということです。これはどういう意味かと申しますと、私たちに「イエスは神の御子であり、キリストである」ということをあかしして下さるということです。どうでしょうか?私たちが何らかのかたちで、神さまを求めたときがありました。そのとき聖書を読んだかもしれないし、ゴスペルの歌だったかもしれないし、あるいはだれかが話してくれた福音かもしれません。そのとき、神の霊があなたの霊に「イエス様は救い主である。あなたは彼を受け入れるべきだ」と語りかけたのではないでしょうか?このような肉声ではなく、細き御霊の声であります。それで、あなたは納得したか、降参したか、わかりませんが、受け入れたのではないでしょうか?このように御霊は外からあなたに向かって語ってくださいます。しかし、イエス様を受け入れた瞬間から、今度は、あなたの内側からあかししてくださいます。ローマ8:16 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」アーメン。このように、神の御霊が、キリストをあかししてくださるのです。このようにキリストを証言することが、聖霊の最も重要な働きであります。

 でも、その証言を受け入れないならどうなるのでしょうか?世の中には、そんなの信じなれないという人がたくさんいます。Ⅰヨハネ5:9-10「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」御霊のあかしは、神からのあかしです。もし、ああ、それは神のあかしですと信じる者は、自分の中に同じあかしを持っています。「アーメン、イエスは神の御子であり、キリストです。イエス様は肉体ともってこの世に来られ、十字架で血を流されました。そして、私は、そのイエス様を信じていることを御霊と共に証します。」すばらしいですね。きょうは洗礼式がありますが、まさしく、そのことを洗礼によってあかしするわけです。人は、一人で神さまの前に告白するだけで救われます。でも、洗礼式の場合は公に、自分が信じていることを言い表すことです。そうすると、ああ、「この人は確かにイエス様を信じたんだ」ということを、複数の人が認め、その証人となるということです。1週間後に「あれは嘘だったんです。忘れてください」とは言えないのです。信仰を告白するということは、それだけ重みがあるということです。しかし、この聖書の証言、あかしを信じない人もいます。神の御霊がそう証言しているのに、「私は信じない」と言ったらどうなるのでしょうか?ヨハネは「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」と言っています。神さまの証言を信じないということは、「神さまは偽り者であり、嘘つきだ」と言う人です。すごいですね。私たちは御霊の証言、つまり、福音の前に立つとき、信じるか信じないか、2つに1つしかありません。もし、信じないと言うなら、神さまが嘘を言っているから信じないということになるのです。イエス様は肉体をもってこの地に来られ、十字架につき血を流して、贖いを全うされました。このお方を救い主として信じるときに、人は救われるのです。

これは、これは神の霊、御霊も私たちに語っています。どうでしょうか?神さまは嘘を言われるお方でしょうか?「神の子イエスなんていなかったんだ。十字架で人が救われるなんて嘘だ。天国も地獄もないんだ。人は死んだら無になるんだ。聖書も作り話で嘘っぱちさ。」そうでしょうか?ヨハネの証言、聖書の証言、神の御霊の証言をアーメンと受け入れる人は幸いです。その人が救われるか、救われないかは、その証言を受け入れるか受け入れないかにかかっているからです。イエス様が十字架で血を流したのですから、私たちも命をかけて信じるしかありません。

 

2.救いのあかし

 

後半は、「イエス様を信じたらこういうことになりますよ」というあかしです。これは聖書が「救われている人はこうですよ」という、私たちに向けての証言であります。Ⅰヨハネ5:11-12「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」ここに「いのち」と書かれていますが、これはヨハネ独特の表現です。普通、「いのち」と言ったらギリシャ語ではプシュケーです。これは「魂」とか「生命」という意味です。しかし、ヨハネはゾーエーというギリシャ語で「いのち」と言っています。ゾーエーの命は、自然のいのちではありません。神のいのちであり、永遠のいのちという意味があります。ですから、この世の多くの人たち、イエス様を信じていない人は、プシュケーの命は持っているかもしれないが、ゾーエーの命は持っていないということになります。ゾーエーの命は永遠のいのちですから、「救い」と同じ意味であります。ただ今から、この聖句から、1つ1つ一緒に学びたいと思います。最初の質問は「だれが、永遠のいのちを与えてくださるのでしょうか?」11節のはじめに、「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ」と書いてあります。ですから、神さまです。神さまが私たちに永遠のいのちを与えてくださるということです。アーメン。

第二の質問は「永遠のいのち、救いはだれが持っているのでしょうか?」これは、持っているというよりも、永遠のいのちを与える手段と言っても良いかもしれません。「そしてこのいのちが御子のうちにあるということです」。はい、御子イエス様のうちにあるということです。イギリスの聖書は「神さまが私たちに永遠のいのちを与えてくださった。そして、そのいのちが御子のうちにあることを見出した」と訳しています。神さまが永遠のいのちを与えてくださったらそれで良さそうなものです。しかし、そのいのちはイエス様のうちにあるということです。これをたとえるとこうなると思います。私たちのところに、郵便小包、あるいは宅配便が来ます。私たちはそれを受け取るとき、「はい、確かに受け取りました」とハンコかサインをします。もし、私たちがそこにいない場合は、彼らはそれを持ち帰って、再び配達してくれます。私たちは受け取ったら箱を開けて、中味を取り出します。そこで、品物が自分のものになるのです。神さまは救いの入った箱を送ってくださいます。が、それを受け取って、開ける作業が残っています。また、パソコンをなさる方はよくご存知だと思いますが、ダウンロードという作業があります。マイクロソフトでもダウンロードセンターがあり、アップデートをするために必要です。私たちはマイクロソフトからクリックして、ダウンロードします。すると、自分のパソコンまであるデーターが運ばれてきます。それだけではダメなんです。「開く」というところをクリックします。すると、「同意しません」と「同意します」のチェックがあります。わざわざ、「同意します」というところをクリックしないと、自分のパソコンにインストールされません。もう、パソコンにデーターが、来ているんですが、それを開いて、同意しないとダメなのです。何か救いの関係と似てはいませんか?神様からの救いは私たち一人ひとりに届けられています。そして、救いはイエス・キリストという箱の中にあるということです。イエス・キリストを開いて、「受け取ります」と同意すれば良いのです。いや、同意しなければなりません。

第三は、では、だれが永遠のいのちを持っているのでしょうか?これは、どういう人が永遠のいのちを持っているかという質問になります。どういう人でしょうか?「御子を持つ者はいのちを持っており」と書いてあります。「持つ」とはギリシャ語で「持つ」という意味ですが、「悪霊に憑かれている」という場合も、同じことばを使います。「キリストに憑かれている?」というのも変ですね。簡単に言うと、人格的で霊的だということです。悪霊も心を開いて、こちらからお願いしない限りは簡単には入って来れません。私たちがイエス様に心を開いて、「受け入れます」と願うならば、イエス様が聖霊によってお入りくださるのです。だから、クリスチャンというのは、聖霊によって、イエス様が内側に住んでおられるということです。イエス様は霊ですから、イエス様を信じても体重は変わりありません。クリスチャンになったら、500グラムくらい増えるとわかりやすいのですが、そういうことはありません。でも、はっきりしていることは、イエス様を心の中に有している人は、永遠のいのちも同時に有しているということです。

第四、最後の質問ですが、どういう人が永遠の命を持っていないのでしょうか?「神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。そうです。神の御子である、イエス様を持っていない人は、永遠のいのちも持っていないということです。持つとは、信じると同じ意味です。しかし、ヨハネはなぜ、持つとか持たないとか、そういう言い方をしたのでしょうか?ヨハネは、いつもは、信じるとか信じないという言い方をするのに何故でしょうか?信じるというのは、漠然として分からないところがあります。頭で知的に信じるという信じ方もあれば、全面的に信頼して信じるという信じ方もあります。その人が、どの程度、信じているのか客観的に見定めるのは不可能です。でも、持っているか持っていないかとなるとどうでしょうか?持つというのは、非常に物質的で、非常に分かり易い表現です。「あなたは、今、1万円持っていますか?」と聞かれたらどうでしょうか?「それは頭で知的にという意味でしょうか?」「それとも全面的に信頼してという意味でしょうか?」そのように聞く人はまずいません。持っているか、持っていないかすぐわかります。しかし、中には、お財布の中にいくらお金が入っているか分からない人がたまにいます。金持ちなのかズボラなのか、分かりません。でも、そういう人であったとしても、ちょっとお財布を調べると分かります。持っていたら、「持っている」。持っていなかったら、「持っていない」と答えるでしょう。でも、どうなのでしょうか?問題は、イエス様を持っていないことが、1万円をもってないことと同じくらい明白かどうかということです。これは、「自分がクリスチャンか、それともクリスチャンでないか」ということが分かると同じです。表現を変えるなら、「自分は救われて永遠のいのちがあるか、あるいは自分には救いも永遠のいのちもないか」です。

 こういうことを聞いて不安になる人がおられるでしょうか?「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。この言葉を聞いて、「あれー、私には救いも永遠のいのちもないみたいだ。その確信がない」という人はおられるでしょうか?それとも、「ああ、私はイエス様を持っているので、やっぱり救われているんだ。永遠のいのちもあるし、天国にも行ける!」と改めて確信を持たれたでしょうか?みなさんに、ここで挙手を願うわけにはいかないでしょう。どうぞ、確信がない場合は、後日、私のところに電話をしてください。そして、再び、私が福音を伝え、信仰告白へと導かせていただきます。でも、イエス様を信じることが、物を持つことと同じくらい、確かなことなのでしょうか?いのちの問題を何か論理で証明することは難しいと思います。たとえば、私が5歳のこどもに、「○○ちゃんは生きている」と聞いたとします。その子はどう答えるでしょうか?私の心臓は鼓動して、脈もあります。考えることもできるし、手足を自由に動かすこともできます。息もしているし、瞳孔も開いていません。このように答える子どもはまずいないでしょう。おそらく、「ほら、生きているよ」と答えるでしょう。生きていることは、本人が一番良く知っています。それを客観的に表現することはできないかもしれませんが、本人は分かるのです。同じように自分がイエス様を持っていて、永遠のいのちがあるということを知っているのは本人です。同時に、自分はイエス様を持っていないし、永遠のいのちもないということを知っているのも本人です。私はこれまで150人近くの方々に洗礼を授けてきました。でも、その中には、「人間的にお世話になっているので、仕方なく」という人もいたかもしれません。実際に、洗礼を受けて、次の週から全く来なくなった人もいます。きょう、この後、洗礼式があるのに、恐ろしいことを言っています。言いたいことは、本当に信じているかどうか分かっているのは、本人自身だということです。もし、イエス様を信じているなら、本当に救いの確信があり、永遠のいのちがあるという確信があります。でも、人間は生き物ですので、時には救いの確信がなくなったりすることもあるでしょう。鬱病になったり、悪霊にやられた場合、そういうことがあるようです。その時はどうしたら良いのでしょうか?それは「聖書にそう書いてあるから」と答えるのが一番です。私はイエス・キリストを持っています。だったら、救いも永遠のいのちもあるのです。「私はイエス様を失いたくありません。イエス様は私の救い主、私のいのちです。」もし、そのように告白しておられるなら、確実に、救いと永遠のいのちはその人にあります。世の中では、最後に気持ちだとか、気力だとか言います。アスリートの人の人たちは「最後は気持ちの勝負だ」と良く言います。でも、クリスチャンはそうではありません。「最後は神のみことばです。みことばが何と言っているか」であります。子どもの讃美歌に「主われを愛す」という曲があります。しかし、英語の歌詞を直訳するとこうなります。「イエス様は私を愛しています。私はこのことを知っています。なぜなら聖書がそのように私に言っているからです。彼に属する小さい者達は弱くとも、彼(イエス様)は強いのです。」聖書のみことばに立つとき、救いの確信はゆるぐことはありません。