2011.06.05 どういう動機か ヤコブ4:1-5

ヤコブ書からのメッセージは体操競技で言うなら、Cを越えて、DかF難度かもしれません。それほど語りづらい内容だからです。何か挑戦的で、粗探し的な要素に満ちています。でも、ヤコブ書が長い教会の歴史の中で、ちゃんと読まれて実行されていたなら、教会は堕落しなかったかもしれません。教会は教理的な教えで、人は変わると信じてやってきました。しかし、心の動機とか欲望が手付かずのままでやってきたところがあります。人間は知性で動いているようですが、知性では動いていません。多くの場合、自分の潜在的な欲望を満たせるかどうかで動いています。きょうも、ヤコブ書から内面をえぐられるような辛口のメッセージをお届けしたいと思います。どうぞ、シートベルトを締めて、お備えください。

1.欲望が原因

 「欲望」は、英語の聖書で2種類のことばが用いられています。1節の「欲望」は、lustsです。lustsと複数形になっていますが、色情、肉欲をさします。男性はこれが非常に強いのではないでしょうか?2節と3節の「願う」はdesireです。強く望む、欲しいと願う、要望するということです。旅行がしたい、バックを買いたい、○○してもらいたい。こちらは女性の方が強いのではないかと思います。人々はこういう欲望や欲求を内側に抱えながら、社会生活をしています。政治家や企業マンはクール・ビズ(スーパ・クール・ビズ)の下に、欲望を隠し持っています。医者や看護師は白衣の下に、警察や公務員は制服の下に欲望を隠し持っています。だから、この世において、戦いや争いが絶えないのです。彼らは自分の理性や道徳性でなんとかしようとしますが、ある機会がやってくると「ばぁー」っと噴出してしまいます。現在の永田町はまさしく、そうではないかと思います。テレビや新聞広告は、人間が持っている欲望を刺激しています。「安くておいしいですよ」「美しくなれます」「快適な生活を送れます」「贅沢な気分を味わえます」みたいに、消費者を誘惑してきます。まさしく、この世は大消費社会です。消費する喜びに訴えます。1つ買っても、また次のものが欲しくなる。青い靴を買っても、今度は赤い靴が欲しくなる。昔、井上陽水が「限りない物、それが欲望」と歌っていました。

 では、「教会にそういうものがないのか?」というとあります。もっと、綺麗な包装紙でラッピングされたものです。欲望には低級なものから高級なものまであります。高級は欲望とは、支配欲、名誉欲、自己目的を達成したいというものです。イエス様の弟子たちは最後まで「この中でだれが一番、偉いだろうか?」と争っていました。教会というところは、ある意味で、この世で達成できなかったものを、肩代わりしてくれるところがあります。宣教、牧会、奉仕など、とても良いことです。神さまと人々に仕えるのですから、悪いものでは決してありません。でも、心の中の動機が汚れている場合があります。怨念、自分が得られなかったものを教会で得ようとする。だから教会がカルト化したり、分裂や分派を繰り返してしまうのです。教会の長い歴史を見ますと、そういうことがたくさんありました。プロテスタント教会は堕落したローマ・カトリックから脱却しようと改革を起こしました。ジョン・カルバンはジュネーブに代議員制の理想的な教会を作ろうと努力しました。また、バプテスト派は新生をしたものが、教会を作るべきだと国教会を否定しました。だから、バプテストは幼児洗礼を認めず、ちゃんと洗礼を受けて生まれ変わった人を教会員としました。そして、全員が参加する会衆制の教会を作りました。メソジストは「監督を立て、教会員は自我に死んで、監督の意向に従う」ということを強調しました。教会はいろんな政治形態を導入して、運営してきました。しかし、人間が内側に持っている欲望に、いつでも勝利したわけではありません。牧師と役員、役員同士の争いや戦いで教会がしぼんだことは多々あります。10年くらい前に、台湾で最も歴史のある長老教会を訪れたことがあります。ちょうど教会総会がありましたが、1日で終らず、2日目も議論していました。その教会はお金に絡む色んな活動をしていました。そこを担当している長老さんたちが、利権をめぐって争っていたのです。私もいくつかのコーチングをさせていただいていますが、「教会が壊れている」ところがあります。建物ではなくて、牧師と教会員の信頼関係が壊れているのです。

 ヤコブ書の記事は遠い昔のどこかの教会ではなく、どこにでもありうる普遍的な問題だということです。教団や教会がリバイバルされ良いところまで上り詰めます。しかし、その先、どかんと崩れ去ります。確かに悪魔が働いていると言えるかもしれませんが、信仰者の中にあった欲望が解決されていなかったのです。私たちはイエス様を信じると霊的に生まれ変わります。心の内側に神さまの命、神さまの愛が入ってきます。ハレルヤ!アーメンです。ある場合は、聖霊に満たされ、賜物を受け、神さまに大きく用いられるかもしれません。でも、クリスチャンになる前から持っていた、考え方、欲望、傷というものが手付かずの状態があるということです。たとえば、団塊の世代の親から育てられた子どもはどうでしょうか?親は「やっぱり教育だ。良い学校に入って、良い会社に入るんですよ」と子どもを教えます。その子どもが大きくなってクリスチャンになりました。でも、心のどこかには「やっぱり学歴だよ。やっぱり一流企業でなければ」という考えがあります。そういう人が会社で躓いたならば、信仰は役に立ちません。「もう、自分は失敗者だ」と考えるでしょう。クリスチャンは、神の国の価値観で、満たされるべきなのですが、あるところだけがこの世の価値観のままなのです。エリヤ・ハウスでは「要塞」ということばを用いています。今のような個人的な要塞もあれば、その国で生まれた独特の要塞もあります。要塞とは、「これが真実だと思い込んでいる聖書的でない考え方」です。アフリカではクリスチャンになっても、部族同士の争いがあります。アメリカではクリスチャンになっても、功利主義から脱却できません。韓国ではクリスチャンなっても儒教の価値観を色濃く持っています。日本ではクリスチャンなっても、女性蔑視や業績志向が残っています。こういう聖書的でない考えや欲望をつき合わせたら、どうなるでしょう。教会もこの世と全く変わらないところとなるでしょう。

2.どういう動機か

 ヤコブ43「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」3節の「願う」は、lustsとかdesireなどの欲望ではなく、askです。askは願うとか求めるという一般的なものです。「求めなさい。そうすれば、与えられます」の、「求め」であります。私たちは神さまに求めて良いのです。信仰によって神様に求めたら、必ず与えられます。でも、ヤコブは求めても与えられない場合があると教えています。それは、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。神さまは、私たちの動機をご覧になっています。求めているものが良くても、やっていることは正しくても、動機が汚れている場合があります。この世では「動機」ということは、ほとんど問題になりません。ちょっとぐらい動機が不純でも、結果さえ良ければどうにでもなります。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とよく言われます。しかし、神の国では、それは通用しません。先週もお話ししましたが、「何をするか」ではなく、「何のためにそれをするか」であります。教会で言うならば、奉仕をしているエネルギーであります。この世でもエネルギー問題が騒がれています。原子力は確かに強力なエネルギーを持っています。しかし、一歩、間違えるならば手がつけられないほどの破壊力があります。では、私たちの奉仕の間違ったエネルギーとなるものは何なのでしょうか?

 傷からやっている場合があります。自分も同じ傷を持っているので、なんとかその人を助けてあげたいと思うのです。子どものとき拒絶を経験した人は、拒絶されている人に同情心も持ちます。その人から受け入れられている時は良いですが、ある場合は、拒絶されるかもしれません。すると「これだけやってあげたのに!もうやってあげない」と憎しみでいっぱいになるでしょう。ご老人の世話をしている看護師が、ご老人を虐待したり死に至らせたりするというニュースを聞きます。看護師が一生懸命やっているのに「ありがとう」も言ってくれなかったという原因であったりします。ある人は、復讐心や怒りでやる場合があります。自分が子どものとき支配されたので、大人になったら支配したい。エリヤ・ハウスでは「愛の反対は憎しみではない。愛の反対はコントロールである」と教えていました。自分の子どもをコントロールする親がいます。また、教会においても牧師やリーダーが、自分の思いどおりに教会員を動かしたいという誘惑もあります。特に、ペンテコステ・カリスマの牧師は、「牧師に従わないことは、神さまに従わないことである」と言います。指導者は、ある部分は神さまからゆだねられていることは確かです。しかし、それを乱用すると、非常に人間的になります。自分の言うことを聞いてくれる人だけを回りに集めようとします。また、ある人は、自己目的達成のためにやっている場合があります。自己目的達成というのは、この世では悪くないかもしれません。スポーツや芸術、ビジネス、みんな自己の目的を達成するために頑張っています。では、なぜ、教会において自己目的達成が良くないのでしょうか?それは栄光が神さまではなく、自分のものになるからです。神さまを利用して、実は自分があがめられたいのです。

 私たちはこの世において達成できなかった、途中で挫折してしまったものがたくさんあります。しかし、「こんどは教会で、なんとかそれを達成したい」。もちろん、神さまは私たちの生来の賜物や努力して得た賜物を用いてくださいます。でも、自分が得られなかったものを、神さまの名前で得ようするならば、それは聖められる必要があります。どういうふうに聖められる必要があるのでしょうか?たとえば、私がピアニストだとします。ピアニストを志したけど、プロにはなれなかった。そこまでの才能がなかった。しかし、クリスチャンになって「この賛美だったら、できる。奉仕しよう」と思います。それは悪くはありません。神様に用いられることは、良いことです。何が悪いのでしょうか?1つはエネルギーの問題です。クリスチャンになる前は自分の技量や努力でやっていたでしょう。それを肉と言います。まず、一度、賜物も技量も努力も、神さまにおささげします。その後、「神様、十字架を通して、必要なものだけを私にお返しください。今度からは、聖霊様あなたを力の源とします。私を通して、あなたが働いてください。アーメン。」このように祈る必要があります。2つ目はこれまでの「埋め合わせ」ではなく、「逆転勝利」です。神さまへの奉仕は、この世でできなかったものを埋め合わせる行為ではありません。もし、そうだとしたら、偽善的であるばかりか、非常に悲しいものとなるでしょう。そうではありません。神さはあなたのこれまでの失敗、マイナス、傷、悲しみ、痛みを全部ひっくり返して、万事を益としてくださいます。そして、それらを神さまのご栄光のために、再創造して用いてくださるのです。ハレルヤ!だから、あなたがうまくいっても、うまくいかないことがあっても、神さま次第だということです。別な表現をするなら、うまくいっても誇らないし、うまくいかなくても落ち込まないということです。なぜなら、自分は神さまの道具だからです。道具は文句を言いません。使うお方に責任があるからです。

 私は高校1年生でボクシングを辞めました。最初の試合でTKOで破れて挫折し、暗い高校生時代を過ごしました。しかし、神さまは私を召して、ボクシングではなく、牧師にしてくれました。また、私はトランペットを我流ですが、28歳まで吹いていました。結婚指輪の質にしたので、もうどこへ行ったか分かりません。でも、良いのです。神さまは私を召して、福音を告げ知らせる、ヨベルの角笛として用いてくださいました。ヨベルの角笛は、ある訳は、トランペットと訳しています。福音を告げるトランペット吹きです。もう1は、私はセルフイメージが低いために、人から認められるために一生懸命努力してきました。エリヤ・ハウスで言うと、私はパフォーマンス指向の典型的な人物でした。でも、神さまは私を癒してくださいました。神さまは私がメッセージでパフォーマンスすることを喜んでいらっしゃいます。聖められたパフォーマンスというのがあるのです。また、小学生のとき、あることで切手収集を諦めました。しかし、私はいろんなセミナーの教えをパソコンで打って集めています。それをファイルにして必要な先生方に分かち合っています。神さまはこのように、一度捨てたもの、ダメになったものを修復して、ご自身のために用いてくださるのです。なんと、その活動エネルギーさえも神さまが与えてくださるのです。

3.世ではなく神を愛する

 ヤコブ44-5「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」人はなぜ、欲望に負けてしまうのでしょう。それは世を愛しているからです。このところでは、世と神さまが対極的なものであることがわかります。私たちが世を愛するならば、神様を敵としてしまうということです。なぜなら、世は神さまを信じていないばかりか、神さまに逆らって歩んでいるからです。ヨハネ第一の手紙にも同じようなことが記されています。Ⅰヨハネ215-17「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」この箇所でも、もし、世を愛しているなら、その人には、「父なる神を愛する愛はない」と言っています。世を愛するとはどういうことなのでしょうか?それは、「世にある、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」を愛することです。これらはヤコブ書で言う、lustsという欲望、desireという願い、あるいは快楽であります。なぜ、クリスチャンは、これらのものを愛してはいけないのでしょうか?

 世というのは神さまを信じないで、神さまに逆らう人たちのことです。しかし、その背後には悪魔がおり、神さまを信じない人たちを所有しているのです。悪魔はこの世の人たちを、神さまを求める代わりに、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などで生きるように仕向けます。そして、悪魔はこの世がまるで永遠に続くかのように、騙しています。この世は永遠に続くのでしょうか?ヨハネは「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言っています。悪魔は目に見える現実の世界がいつまでも続くかのように騙しています。私たちも学校で、目に見えるものがリアルだと教えられ、歴史でもアメーバーから今の人類に到達したことを教えられました。しかし、聖書はこの世は過ぎ去る、永遠のものは神のことばと神の国であると教えています。神の国は目には見えません。しかし、神の国はイエス様と一緒にこの世にやって来たのです。本当は神の国のほうがリアルであり、この世の見えるものが一時的なものなのです。かなり前に、マトリックスというキアヌ・リーブス主演の映画がありました。映画ではコンピューターが作り出した仮想世界をマトリックスと呼んでいます。彼らは現実の世界と仮想の世界を行ったり、来たりしています。なんと、現実の世界は変わらなくて、仮想の世界が変わって行きます。やがて、仮想の世界が現実を飲み込んでいきます。悪魔、サタンはこの世界が現実であり、いつまでも続くものであるかのように思わせています。サタンは「天国と地獄は仮想の世界なんだ。この世がすべてだ」と、肉の欲、目の欲、持ち物の欲に訴えます。

 どうでしょう?私たちクリスチャンも以前は、サタンに教育されて育ちました。「目に見える五感が現実で、天国は仮想である。天国というのは、人間が『あったら良いなー』と望んだ世界なんだ。本当は神も人間が『いたら良いなー』と望んだものなんだ。宗教というのはそうやってできたんだ。弱い人には宗教は必要かもしれないけど、強い人には宗教は必要ないんだ」。そのように考えて生きて来たのではないでしょうか?それが急に、30歳になって神さまを信じた。きょうは、洗礼式がありますが、50か60歳になって神さまを信じた人もいるかもしれません。そのため、この世の見方やこの世の価値観が随分と入っていることになります。そういう場合は、聖書のある部分は信じるけど、ある部分は信じられないということが起こります。もし、どこかに目に見える、この世がすべてであるとしたなら、どのような信仰生活になるでしょう。日曜日、教会に行っていたとしても、やっぱり、この世のものを慕い求めて生きるのではないでしょうか?神様はそういう人をどう思っているのでしょう?「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」とあります。クリスチャンであるなら、もれなく、神の御霊が宿っています。父なる神さまはご自分の御霊をクリスチャンに与えました。そのクリスチャンが父なる神さまではなく、世のものを慕い求めて生きるならどうなるでしょう?神さまが悲しむだけではなく、神さまの妬みをかうことになります。もし、神さまの妬みをかったら、人はどうなるでしょう?子どものころ、遊び過ぎて、日が落ちても、家に帰らない場合があります。ある場合は、父や母が近所だけではなく、山や川を探すこともあるでしょう。もし、父や母が子どもを見つけたらどうするでしょう。「この!」と一発、殴ってから、手を引っ張って家に連れて帰るでしょう。もし、クリスチャンがこの世にどっぷり浸かって、神さまを忘れたらどうするでしょう。神さまは妬むほど私たちを愛していますので、肉体の命を取ってでも、御国に連れ戻すのではないでしょうか?すべての早死にがそうだとは言いません。でも、ある時は、そういうこともありえます。

 私たちクリスチャンは価値観を変えなければなりません。まず、この世と神の国、どっちが永遠に続くかを知らなければなりません。もし、この世が永遠に続くのだったら、肉の欲、目の欲、持ち物の欲で生きてもかまいません。しかし、聖書が言うように、世と世の欲が滅び去り、私たちの魂と御国が永遠であると悟るならどうでしょう?やっぱり、私たちが持っている能力や持ち物を永遠の御国のために投資すべきではないでしょうか?世の中には3種類の人がいます。第一は、飲んで、食べて、生き延びるために生活をしている人です。その人は動物と同じです。第二は、自分の願いや夢を実現するために生きている知的な人です。その人はこの世に属するホモ・サピエンスです。第三は、永遠である神の国のために投資する人です。その人は歴史を変える人、ヒストリー・メイカーとして「いのちの書」に名前が記されるでしょう。