2012.2.5「みこころにかなう願い Ⅰヨハネ5:13-17」

私たちはいろんなことを神さまに願い求めます。しかし、あるものは答えられ、またあるものは答えられません。これまでのことを振り返って、自分が願い求めたことの何%が答えられているでしょうか?もし、「半分は答えられています」とおっしゃる人がいたなら、すばらしいと思います。私たちの祈りは、宝くじのように確立が低いものなのでしょうか?きょうは、どのように願い求めたなら、もっと与えられるのかを、聖書から学びたいと思います。

 

1.みこころにかなう願い

 

新約聖書において「求めたら与えられる」という有名な箇所はどこでしょうか?そうです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。ここに「神さまに求めるなら与えられる」と約束されています。確かに、求めるということは良いことであり、求めなければ決して与えられないものがあります。現代はとても便利な時代です。「必要は発明の母」と言われるように、求めたからこそ、そうなったのだと思います。では、信仰生活においては、どうでしょうか?求めたものがすべて与えられたでしょうか?「下手な鉄砲数打てば当る式で、たくさん求めたら、その中の何%はかなえられるだろう。」祈りとはそういうものなのでしょうか?もう1箇所、「求めたら与えられる」というみことばがあります。ヨハネ16:23-24を抜粋します。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」このところには、「イエス様のお名前によって求めたなら、父なる神は、何でもお与えになる」と約束されています。マタイ7:7よりも限定されています。なぜなら、イエス様を信じて、神様と親子関係になった人たちが対象だからです。しかも、「イエス」という名前を用いたら、父なる神さまは何でも与えてくれるというのです。どうでしょう?クリスチャンの方は、イエス様のお名前によって、何十回、何百回も、求めてきたと思います。でも、正直なところ、どのくらいの確立で与えられたでしょうか?「私は、30%はかなえられた」と思う方はどの位いらっしゃるでしょうか?「私は、50%はかなえられた」と思う方?「私は、70%はかなえられた」と思う方?あまり、分からないという方は2種類あると思います。1つは祈った祈りをチェックしていない人です。昔、山崎長老さんは、「祈りのノート」を持つことを提案しました。あの時は、70%くらい答えられたように記憶しています。ちゃんとチェックしたから分かったのです。もう1つは、かなえられたかどうか分からない漠然とした祈りです。たとえば、「世界に平和が来ますように。みんなが幸せになれますように」という祈りは、答えられたかどうか判断しようがありません。

では、どのようにしたら、私たちの祈りが「下手な鉄砲数打てば当る」式でなく、100発100中の祈りへと近づくことができるのでしょうか?それがきょうの聖書箇所です。Ⅰヨハネ5:14-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」これは、マタイ7章やヨハネ16章よりも、高度な求め方ではないでしょうか?では、この祈りは他の祈りとどこが違うのでしょうか?そうです。「みこころにかなう願いをするなら」と書かれています。何事でも、みこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。「わぁー、なんとすばらしいことだろう。やったー。これで100%祈りがかなえられる!」でも、難しいのは、「神さまのみこころは何か」ということを知ることです。「これは、自分からの願いなのか、神さまが私たちに願っていることなのか」どちらなのでしょう?おそらく、神さまのみこころというのは、神さまが私たちに願っていることだと思います。そして、もし、私たちが神さまの願っていることを求めたならば、神様は「よくぞ、求めてくれた。ようし、かなえてあげる」とおっしゃるのではないでしょうか?インドネシアの話です。あるとき、お父さんは息子に「最近、欲しいものはないか?」と聞きました。息子は「ゲーム機が欲しい」と言いました。お父さんは「ゲーム機も良いが、もっと必要なものがあるだろう?」と言いました。実は、少年の学校は家からとても離れていました。少年は毎日、学校まで1時間くらい、野を越え、山を越え、歩かなければなりませんでした。息子は少し考えた後「それじゃ、自転車が良いなー」と言いました。お父さんは「自転車と言ってもいろいろあるけど、どんな自転車が欲しいの?」と聞きました。息子は「そうだね。学校まで行くためには、マウンテンバイクが良いなー」と言いました。お父さんは「よーし。3日後に買ってあげるから待ってね」と言いました。実は、お父さんはマウンテンバイクを既に買っていたのです。それを納屋に隠してあったのです。息子が、マウンテンバイクを求めるのを待っていたのです。

もし、私たちが神のみこころにかなう願いをするなら、必ず与えられます。「下手な鉄砲数打てば当る」式の求め方ではなく、神のみこころに合う求め方をすべきです。そのためには、2つのことが必要です。第一は聖書を読むということです。聖書には神のみこころが記されています。私たちは聖書を読むことによって、神さまの価値観に基づいた考え方を持つことができます。これまでは、ただ自分の欲望のために生きて、他の人のことなど考えませんでした。また、目に見えるものがすべてであって、地上のことしか考えませんでした。しかし、聖書を読み続けていくと、何が重要なのか分かります。このように、聖書には一般的な神のみこころが示されています。第二は御霊によって祈るということです。聖書を読んでから、神さまに祈り求めます。そのとき、私たちの願いと神さまのみこころが交差します。ある場合は、神さまのみこころと私たちのおこころとに、かなりのズレがあるかもしれません。しかし、継続して祈っていくと、御霊が「いや、神さまのみこころはこうだから、ここを修正しなさい」と教えてくれます。祈り続けることによって、聖霊が私たちの自己中心的な願いを聖めてくださるのです。そして、「ああ、これが神さまのみこころなんだ」と確信をもって祈ることができます。それはまるで、ボートが岸壁に接岸するときのようです。ボートに乗った人が岸壁に近づくと、岸にいる人のところにロープを投げます。そして、岸壁のポールにロープを結わえてもらいます。ボートに乗った人はそのロープを「よいしょ、よいしょ」と手繰り寄せます。そのとき、乗っている人は、まるで岸が自分に近づいてくるように見えます。本当はボートが岸に近づいているのですが、まるで岸が自分に近づいてくるように錯覚するのです。これが、みこころにかなう祈りです。神さまのみこころに、自分の祈りが変えられていくのです。そして、だんだんと、神のみこころに近づいていくのです。そのためには、私たちは自分の心を空しくして、ただ、神のみこころがなるように願う必要があるでしょう。「どうしても、これしかない」という自己中心的な願いを一度捨てる必要があります。父なる神さまの本当の願いは、求めたものを与える以上に、私たちの人格を取り扱いたいのです。たとえば、ある女性が理想の男性と結婚したいと願っています。ハンサムで、信仰深く、経済的にも安定した男性と結婚したいと祈り求めます。そうするとどうでしょう。自分もそれにふさわしいように努力するでしょう。スタイルを良くしたり、内面も整えるでしょう。西洋では、わがままな王女が整えられるという童話がたくさんあります。神さまは理想な人と結婚させたいのですが、同時に、その人自身も良くなるように願っておられるのです。

祈りには大きく分けて、求める祈りと交わる祈りがあります。求める祈りとは、さまざまな必要を求めたり、他の人のためのとりなしがあるでしょう。また、交わる祈りとは、神さまと対話する祈りです。聖書を読んでいるときもそうですが、道を歩いているとき、仕事をしながらも、交わることができます。大きな問題を抱えているときには、断食して集中して祈ることも必要でしょう。入学、就職、結婚、家を建てるとき、あるいは神さまの奉仕を選ぶとき、神様のみこころを求める必要があります。そのとき、確信が来るまで祈らなければなりません。練馬グレースの小笠原先生は「祈り抜く」という表現をします。「これだ!」という神さまからの確信が来たら、もう、それに向かって進むのです。みことばに「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」とあります。そうです。まだ、目には見えていなくても、手で触っていなくても、すでにかなえられたと知るのです。私たちに必要なのは、信仰の目であり、信仰の手です。神さまは私たちが信仰によって歩むことを願っておられます。最初は小さなものが祈りによって与えられることを経験します。次はもっと大きなことを求めることができます。それが与えられると、さらに大きなことを求めることが可能になります。なぜでしょう?私たちの信仰が大きくなったからです。もし、私たちの求める願いと神さまが私たちに与えたいという願いを比較するならば、どちらが大きいのでしょうか?私は神さまが私たちに与えたいという願いの方がはるかに大きいと思います。天国の倉庫には、私たちに送るべき荷物がたくさん用意されているそうです。ある人が、天国の倉庫を見たそうです。すると、「受取人不在」で戻ってきた品物が山積みされていたそうです。なぜしょう?一、二度は求めたけれど、途中で祈り求めることをやめたからです。神さまが「さあ、今、与えよう」と思ったとき、その人は、もういなかったのです。どうぞ、そのようにならないように、神さまのみこころを求め、みこころにあった祈りをし続けましょう。もう一度、みことばをお読みいたします。Ⅰヨハネ5:14-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」アーメン。

 

2.みこころにかなうとりなし

 

後半は、求める祈りの1つ、とりなしの祈りについて学びたいと思います。「とりなし」とは、当人に代わって、こちらが神さまに求めることです。当人が、まだ未信者であったり、クリスチャンであっても祈れない状況にある場合です。Ⅰヨハネ5:16-17「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」このところに、二種類の人がいることが分かります。一人は死に至らない罪を犯している兄弟であり、もう一人は死に至る罪を犯している兄弟です。第一の問題はここで言われている「死」とは何かということです。どちらも兄弟と呼ばれているので、イエス様を信じている人であります。クリスチャンであるならば、永遠の死に行くことはありません。たとえ罪を犯したとしても、天国に入ることができます。私はこの死とは、肉体の死であると思います。その人が、ある罪を犯したために、さばきとして、肉体的な死を迎えるということです。Ⅰコリント5章にも、同じようなことが書いてあります。Ⅰコリント5:5「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」この聖句から分かることですが、私たちは重い罪を犯すことによって、サタンに引き渡され、肉体的に死にます。しかし、そのことによって、霊が主の日に救われるということです。肉体的な死はさばきであり、そのことによって、地上の罪が帳消しになるのかもしれません。あるいは、もうこれ以上、地上で罪を犯さないように、神さまが命をお取りになるのかもしれません。使徒の働き5章にアナニアとサッピラという夫婦のことが出ています。彼らは土地代をごまかして、聖霊を欺いたために死にました。では、この夫婦が地獄へ行ったかというとそうではありません。確かに肉体的には死にましたが、霊においては救われ、天国に入ることができたと信じます。

私たちは人々のためにとりなすとき、死に至る罪を犯している兄弟姉妹のために祈っても、聞かれないと言うことです。私たちの祈りは神さまに届いているのですが、サタンがすでにその人を支配しているので、心が頑なになり、罪を悔い改めないということでしょう。神さまがその人を直接、さばくというよりも、サタンに引渡してしまうのです。結果的に、その人は肉体的に死ぬということです。パウロの弟子かもしれませんが、信仰からはずれた人たちがいました。Ⅰテモテ1:19-20「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」ここには、背教者とは書いていませんので、はっきり分かりません。しかし、「サタンに引渡した」とありますので、あきらかに裁きです。なぜなら、サタンは最終的には、その人の命を奪うからです。私たちはこういう箇所から、神を恐れるということを学ぶ必要があります。当教会のように、福音的な教会は、主の恵みを強調します。神のさばきについてはほとんど語りません。聖書を連続して学んでいますので、どうしてもこういう厳しい箇所に当ることがあります。一般のクリスチャンは重い罪を犯したり、躓いた場合は教会に来なくなります。救いをなくしたわけではないのですが、霊的に眠っている状態です。ですから、リバイバルの可能性はいつでもあります。しかし、問題なのは教会の指導的な立場にあたっている人が重い罪を犯した場合です。間違った教えを広めたり、お金をごまかしたり、パワハラ、セクハラをやめない場合です。牧師や伝道者、役員は一般のクリスチャンよりも影響力があります。悔い改めない場合、神さまは教会を守るために、さばきを下すこともありえるということです。私は、ケネス・ヘーゲンが書いた本を10冊以上読みましたが、そういうケースが書いてありました。ある牧師に癒しと奇跡の賜物が与えられました。その人が会衆の前に立つと霊的な力で人々が押し倒されました。そして、多くの人の病が癒され、奇跡も起きました。ところが、その牧師は高慢になって、さらには聖書的でないことも語り出しました。ケネス・ヘーゲンがその牧師のためにとりなしの祈りをしました。すると、神さまが先生に言われました。「もう、彼のために祈らなくても良い。私は彼の命を取ることを決めているから」と。1ヶ月位たったら、その牧師は本当に死んでしまったのです。私たちは神を恐れなければなりません。特に人々の前に立つ牧師やリーダーたちです。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」

もう1つ、このこところで言われていることは、とりなしの祈りです。Ⅰヨハネ5:16「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」さきほどの例は、極端な場合であり、多くの人たちは死に至らない罪を犯している人たちです。だから、結構、長く生きているのではないでしょうか。神さまのご性質は、愛であり、恵みであり、あわれみです。私たちを喜んで赦したいのです。とりなしの祈りで最も有名な聖書箇所は、アブラハムがロトのために祈ったことです。創世記18章にその物語が書いてあります。主はソドムとゴモラの罪があまりにも重いので、滅ぼすことを決めていました。そして、そのことを神の友である、アブラハムに告げました。アブラハムはソドムとゴモラにはロトとその家族がいるので、一生懸命にとりなしました。最初に「その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでください」と願いました。でも、だんだん不安になり、45人、40人、30人、20人、10人と下げていきました。最終的に、主は「滅ぼすまい、10人のために」と約束しました。しかし、ソドムとゴモラには正しい人が10人いなかったのです。結局、その町は火と硫黄とによって滅ぼされました。でも、主はアブラハムの祈りを聞いていたので、御使いを遣わして、ロトとその家族を救い出してくださいました。残念ながら、ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱にされてしまいました。でも、何故、主はアブラハムにソドムとゴモラに対するさばきを、前もって告げたのでしょうか?それは、アブラハムがとりなすことによってロトとその家族を救い出したかったからです。神様はご自分のみこころを行なうために、とりなす人を今も求めておられます。しかし、なぜ、そんなややこしいことをしなければならないのでしょうか?イエス様は弟子たちに「みこころが地でも行われるように祈りなさい」とお命じになられました。天においてはみこころは完全になされますが、問題はこの地であります。この地は人の罪とそれを食い物にしている悪魔が支配しています。神さまは、ご自分の義を曲げて、この地に介入することはできません。しかし、誰かが、その人の罪をとりなしてくれるならば、神さまは合法的に助けられるのです。ですから、神さまは今でも、「あの人のために、祈ってくれないか」と私たちにお声をかけるのです。それは寝ている真夜中かもしれないし、道を歩いている時かもしれません。子供のために、夫や妻、あるいは兄弟姉妹のために「祈れ!」とお命じになるのです。そのとき、私たちは「ぱーっ」とその人の顔が浮かびます。そして、その場にしゃがみこんで祈るならば、どうでしょう。あとから、「こういう不思議なことがありました。恐ろしい事故から免れました。」などという証しを聞くでしょう。神様が私たちのとりなしの祈りに応え、御使いを遣わしてくださったとしか思えません。

使徒パウロはエペソ6章の後半で、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽し、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください」とお願いしています。どうぞ、兄弟姉妹のためにお祈りしましょう。そして、神さまのみことばを取り次ぐ、牧師のためにも祈ってください。日曜学校のため、ジュニアのため、そして病の中で戦っている兄弟姉妹のために祈ってください。さらに、日本の国民が危機の時代にあって、福音に耳を傾けるようにお祈りください。神さまのみこころにおいて、私たちに対する一番の願いは何でしょう?Ⅰテモテ2:4-5「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」