2011.06.12 キリスト者の原動力 ヤコブ4:6-10

きょうはペンテコステ礼拝です。イエス様は召天する前に、「いと高きところから、力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と弟子たちに命じました。120人の弟子たちは、二階座敷に集まり、心を1つにして祈っていました。イエス様が召天してから10日後、天から風のように、火のように聖霊が下り、弟子たちは聖霊に満たされました。それからと言うもの、臆病だった弟子たちが別人のようになり、命がけで福音を全世界に伝えに行ったのです。彼らの力の源、原動力は何だったのでしょう?それは聖霊です。きょうはヤコブ書4章からのメッセージですが、そのことと関係付けてなんとか、お話したいと思います。少し、無理な感じがしますが、お許しください。

1.へりくだりなさい

 先ほど、お読みしたところには、少なくとも3つの命令があります。第一は「へりくだりなさい」です。ヤコブ4:6「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」そして、ヤコブ4:10「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」「高ぶる」とはどういう意味でしょうか?「こう言われている」というので、旧訳聖書から引用されたものであることが分かります。箴言3:34「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」と書いてあります。「高ぶる」とは「神なんかいない、神になんか頼らない。自分の力でやる」と神さまをあざけることです。この世においては、自分の力を頼るのは、悪いことではありません。日本は創造主なる神さまを信じない代わりに、「頑張れ、頑張れ」とやっています。父なる神さまは、天地を造り、万物を保持し、すべてのものを養っておられます。しかし、「私は神さまには頼りません。自分の力でやります」。これが高慢であり、高ぶりです。不幸にして、自分のお父さんが家庭を顧みなかった。家族を捨てたような場合、子どもたちはどうなるでしょう。どうしても、だれにも頼らないで、たくましく生きようとします。独立心、悪いことではありません。でも、反面、自分を養ってくださる父なる神を受け入れることができません。

 みなさん、水と神さまの恵みは高いところから低い所へと流れます。私たちが人生において、へりくださせられる時があります。それは自分の力だけではうまく行かないときです。私は川崎の日本鋼管扇島の工事に携わったことがあります。埋立地なので、50メートルくらいの鋼管を支持層まで打ち込みます。私の測量ミスで、向かい側が1メートルほどずれてしました。本来、四角いはずの基礎が、台形になってしまったのです。「うぁー、どうしよう」と頭を抱えて、砂地をころげまわりました。もう、自分では何ともできません。それで、上司のところへ相談、上司は日本鋼管の方に相談に行きました。ま、鉄筋を多くすることによって事なきを得ました。私の失敗をかぶって、何とか処理をしてくれた上司のおかげです。女性は神さまに向かって祈るときが、少なくとも3回はあるそうです。第一は結婚するとき、第二はお産のとき、第三は死ぬ前だそうです。男性はどうなんでしょうか?「うぁー、どうしよう」という事がないのでしょうか?私のような失敗や、事故、病気、会社の倒産、離婚、天災…「うぁー、どうしよう」となるのではないでしょうか?実は、そのときがへりくだらせられる時なのです。ヤコブ4:9「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」そして、10節「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」と続くのです。人生において、頑張りがきかなくなる時があります。そういう時こそ、神さまが一番、近いのです。

 イザヤ57:15「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」。イザヤ書を見ると、へりくだった心とは、砕かれた心だということが分ります。人生において、砕かれる時があるのは、実は良いことなのです。この間、南三陸町の奉仕の証しを聞きました。わかめの養殖をしている人たちが、普段は、「あっちが多いとか、こっちが少ない」と争っていました。ところが、津波が来て、養殖棚が全部、流されてしまいました。漁村の人が、「私たちには以前、確執がありました。主はどう思っておられるのでしょうか」と質問したそうです。質問された奉仕者は、びっくりして、それでも何とか答えたのでしょうか?「主」とは、この世の神さまではなく、特定された神さまのことです。ライフラインが全部復旧すると、生活用水を配る奉仕も不要になります。でも、人生の根本的な問題、神さまとのライフラインを回復することが残っています。神さまから離れていると、恵みも永遠の救いも流れてきません。砕かれた心とは、新約聖書的には、どういう意味になるでしょうか?「イエス様、あなたなしには生きていくことができません。あなたを人生の主として生きて行きます」と告白することです。すると、どうなるでしょうか?イエスの御霊なる、聖霊が、あなたの心に臨みます。ペンテコステ以来、だれでもイエス様を受け入れるなら、聖霊が心に臨みます。神さまは天にもいらっしゃいますが、あなたの心にも聖霊によっていらっしゃることになります。神様の本籍は天国ですが、現住所は、あなた自身なのです。ハレルヤ!聖霊は助け主、慰め主、救い主、きよめ主、王の王です。どうぞ、へりくだって、主なるイエス様を、聖霊様を心の王座にお迎えいたしましょう。

2.神に従いなさい

 ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」悪魔に打ち勝つ方法があるのでしょうか?たった1つだけあります。それは、神さまに従うことです。神さまに従うことと、悪魔に立ち向かう力は正比例の関係にあります。つまり、神さまに従えば従うほど、悪魔に打ち勝つ力と権威をいただくことになるのです。使徒の働き19章に面白い記事があります。パウロがコリントで伝道していたときです。ユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワの7人の息子たちでした。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言いました。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した、とあります。彼らはイエス様をちっとも信じないで、ただ、イエスの御名を用いて、悪霊を追い出そうとしました。だから、悪霊によって逆にやられたのです。「イエスの御名」自体には権威があります。でも、それを用いる人に権威と力がないのです。実はギリシャ語では権威と力は違います。権威はエクスーシアと言って、権利、資格、権能、支配権という意味があります。婦人の警察官が、交通整理をしているときがあります。彼女が、ピーピーと笛を吹けば、ダンプカーも止まります。ダンプカーは彼女をひき殺す力があります。しかし、彼女の背後には国家権力、エクスーシアがあります。だから、ピーピーと笛を吹かれれば、止まるしかありません。もう1つの力はギリシャ語でドュナミスと言います。これは、能力、奇跡的力、資源となる力という意味があります。お巡りさんは、権威だけではなく、力も必要です。だから、彼らは柔道や剣道で日夜からだを鍛えているのです。強盗に一人で立ち向かうとき、権威が通用しないときがあるからです。そういう場合は、力でねじ伏せるしかありません。

 2000年前のイエス様の弟子たちには、権威も力もありませんでした。イエス様が十字架につけられたとき、ヨハネ以外はみんな逃げ去りました。一番弟子のペテロはイエス様を三度も知らないと言いました。なんと、イエス様が復活された後も、彼らは部屋に隠れていたのです。では、どうして、彼らが迫害も恐れないで、全世界に出て行く人たちに変えられたのでしょうか?使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで、言われている「力」は、権威ではなく、ドュナミスという力です。なぜ、権威じゃないのでしょうか?私はこう考えます。権威とはイエス様を信じると与えられるものだと思います。イエス様を信じる者はもれなく、イエスの御名を用いることができるのです。だから、マルコ16章で「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」と書いてあるのです。しかし、何度も言いますが、クリスチャンは権威だけではなく、ドュナミスという力も必要です。2000年前、ペンテコステの日、弟子たちはドュナミスという力を上からいただきました。あの日、弟子たちは何をいただいたのでしょう?聖霊の能力をいただいたのです。聖霊の奇跡的力、資源と言っても良いです。

 みなさん、イエス様を信じている人は、イエスの御名を持っています。つまり、天国からの神の権威を持っているということです。でも、それを使う能力がないとしたらどうでしょうか?もし、私が名刀村正を持っているとします。しかし、名刀を振り回す能力がないとしたらどうでしょう?自分の手や足を切ったりするかもしれません。また、敵とも戦うことができないでしょう。どうぞ、クリスチャンであるなら、聖霊の力もいただくべきです。多くの人たち、クリスチャンでも、「そういうものは不要であり、過去のものだ」と言います。では、なぜ、クリスチャンが悪魔にやられるのでしょうか?現代は、せっかく牧師になったのに、鬱病や燃え尽きで倒れる牧師が多いと聞きます。彼らは聖書のことばと福音は信じています。しかし、多くの場合、聖霊の力を信じていません。自分の真面目さや頑張りでやるので、倒れてしまうのです。悪魔はいろんな方法でクリスチャンを誘惑します。人の厳しいことば、教団の圧力、精神的な病をもった人たち、性的誘惑、多忙…いつの間にか力を失います。士師記16章にありますが、サムソンがデリラに騙されて、髪の毛をそり落とされました。そのとき、力はサムソンを去っていました。デリラが「ペリシテが襲って来たよ」と言いました。サムソンは、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と思いました。しかし、彼は主が自分から去られたことを知りませんでした。私たちクリスチャンも、力が去っているのに分からないときがあります。

 では、どうしたら上からの力をいただき、それを保持することができるのでしょうか?第一は、ペンテコステの弟子たちのように、「上から力を着せてください」と願うことです。クリスチャンであるなら、すでに内側に聖霊様を持っています。これは間違いありません。上から、英語ではuponです。教団によって聖霊のバプテスマとか満たし、いろんな表現があります。でも、イメージ的には、上から聖霊が注がれ、満たされた状態です。たとえば、コップにジュースを入れているとき、よそ見をして、ジュースがあふれるときがあるでしょう。「あーっ、こぼれちゃった」。一回、こういう経験をすると、次から、どう満たされるか分ります。一瞬、「主よー」と願っただけで、満たされます。これは、「神さまは私をいつでも、聖霊で満たしてくださるんだ」という信仰の世界であります。自分が無限なる神さまの湖につながっています。時として、その水路がふさがれる時があります。丸太やゴミでふさがれてチョロチョロしか流れてこない場合もあるでしょう。何が原因でしょう?第二の必要は告白と悔い改めです。だれかを恨んでいる、憎んでいることがあります。その時は「赦します」と祈ります。また、ある場合は思い煩いや心配があるかもしれません。その時は「全能の御手にゆだねます」と祈ります。そうすると、ふさがれていた丸太やゴミがどかされて、勢い良く、神さまの力と恵みが流れてきます。私たちは日々、神さまとの関係がどうなのかチェックしなければなりません。水道工事のように、維持管理、メンテナンスが重要です。この世においてはいろんな戦いがあります。でも、ヤコブは勝利の秘訣を教えています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

3.神に近づきなさい

 ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」これは、どういう意味でしょう。これは、私たちの神さまに対する信仰の姿勢です。多くの場合、信仰というと受身的です。神さまのお導き、神さまのご計画、神さまのご摂理、などと言います。特に、カルバンの改革派の信仰を持っている人たちは、自分で何かをするというよりも、「神さまがおっしゃったら、そうする」という姿勢が強いと思います。私は悪くはなく、むしろ正しいと思います。でも、聖書の神さまは「求めなさい。そうすれば与える」神さまです。神さまは、私たちの意思、私たちの願いを尊重されます。ナビゲーターという宣教団体があります。学生たちの弟子訓練で有名です。そこに、人生において車のハンドルをだれが握るかというたとえがあります。ナビゲーターの本では、「人生のハンドルをイエス様にゆだねなさい。そうすれば安心です」と教えているようです。私はこれには反対です。人生のハンドルを握るのは私たちで、「こっちだ、あっちだ」と教えてくれる方がイエス様だと思います。大体、ナビゲーターという意味は、道などの案内をしてくれる人や物を指す言葉です。私はやったことがありませんが、自動車のラリーというのがあります。ドライバーが運転し、助手席には地図と計算機をもった人がいます。彼はドライバーに、こんどはこっちだ、あっちだと走行経路を教えます。その人が、ナビゲーダーです。おそらく、ナビゲーターのテキストは、新しいクリスチャンを導き育てる人物を言うのでしょう。でも、イエス様に人生のハンドルを委ねるというのは、間違っていると思います。もちろん、自分が運転できなくて、運転を交代するときもあるかもしれません。しかし、多くの場合は、選択し、実行するのは自分自身であります。だから、私たちはその結果に対して、責任を持つ必要があります。イエス様は、「あなたは本当はどうしたいんだ」と聞いておられるのではないかと思います。

 福音書に盲人のバルテマイの記事があります。彼は盲人でしたので、物乞いをして生きて行くしかありませんでした。ある日、イエス様がエリコの町を通られました。バルテマイは渾身の力をこめて「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と叫びました。周りの人たちは「うるさい、だまれ!」と彼をたしなめました。すると、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てました。すると、イエス様は立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。すると、彼は上着を投げ捨てて、立ち上がり、イエス様のところに来ました。イエス様は彼に「私に何をして欲しいのか」と聞かれました。「何をして欲しいのか?」って、わかるでしょう。「これですよ、これ」とは言いませんでした。バルテマイは、はっきりと「先生。目が見えるようになることです」と答えました。イエス様は彼に「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、彼は目が見えるようになりました。イエス様は神さまですから、バルテマイがどういう状態で、何を望んでいるのか分っていました。でも、あえて、「何をして欲しいのか?」と聞かれたのです。それで、彼は「目が見えるようになることです」と願いました。これって、すごいことではないでしょうか?クリスチャンはあまりにも受身です。牧師もあまりにも受身的な人がいます。

 聖霊に満たされると、聖霊と同じ思いになります。満たされるとは、支配されるという意味です。その人は、神さまの御手の中にありますので、手当たり次第、何をしてもOKです。士師記のサムソンの記事を見ますと、「まことにそのとおりだなー」と思います。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していました。サムソンは色んななんくせを付けて、ペリシテ人を困らせます。しかし、「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた」(士師14:4)と書いてあります。サムソンはペリシテ人と結婚したり、遊女のところへ入って、いろんな問題を起します。その戦い方も、非常に幼稚です。あるときは、ジャッカル同士のしっぽをつないで、そこにたいまつを付けて、畑に放しました。また、あるときはロバのあごの骨で1000人を打ち殺しました。最後は、目をくりぬかれましたが、神殿を崩して、3000人以上のペリシテ人を倒しました。サムソンが神の霊で満たされると、ものすごい怪力を発揮しました。そして、神さまは幼稚な方法であっても用いたのです。同じ士師記のギデオンの戦い方も、「そんなんで勝てるのかなー」という方法でも勝利しました。使徒の働きには、聖霊に満たされた弟子たちの記事があります。ピリポも、ペテロも、パウロも聖霊に満たされ、町々をひっくり返しました。手当たり次第、癒しや解放をし、手あたり次第、みことばを宣べ伝えたのではないかと思います。詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」「何をしても栄える」とあります。

私は年ととったせいか、失敗を恐れ、慎重になりすぎるときがあります。聖霊に満たされた1つの特徴は何でしょうか?それは大胆さです。使徒の働きの、聖徒たちには大胆さがありました。それは向こう見ずな人間の大胆さではなく、聖霊による大胆さでした。私たちは今、終わりの時代に生かされています。神様は、一人でも多くの人が救われるように願っておられるでしょう。教会はどうしても、方法論にこだわります。石橋を叩いて、叩きすぎて割ってしまうところがあります。そうではありません。聖霊に満たされ、聖霊が原動力となるならば、神さまはどんな方法でも用いてくださいます。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」私たちはイエス・キリストによって神の子どもとされました。それだけではなく、一人ひとりが神の聖徒、神の兵士でもあります。「どうぞ、神の国がこの日本でも広がるように、自分たちを用いてください」と神さまに近づこうではありませんか。私たちが一歩近づいたならば、神さまは私たちのところに、二歩も三歩も近づいてくださるお方です。