2012.2.12「神と人、人と人との和解 エペソ2章10節-18節」

<エペソ2章10節-18節>

 

2:10

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

2:11

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

2:12

そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

2:13

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

2:14

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

2:15

ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

2:16

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

2:17

それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

2:18

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

****************

エペソ人への手紙はパウロの著書であると考える人と、パウロ著者説を否定する人がいますが、伝統的に支持されてきたのは、紀元60年ごろ、パウロがローマの獄中で書いたという説です。

このエペソ人への手紙は、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙の4つの手紙と合わせて、獄中書簡と呼ばれています。

パウロはこのエペソ人への手紙の中で、神様と、神様から離れてしまった人間との和解と、ユダヤ人と異邦人との和解について語っています。

本日は、神と人との和解、人と人との和解について、聖書から見て行きたいと思います。

*******************

 

まず、1つ目のポイントは、

①私たちは神の作品です

◆「隔ての壁」OUTSIDE(外側)と INSIDE(内側)とは?どういうことでしょうか。

パウロは2:11-12で、異邦人に対してこう言いました。

**********

2:11

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

2:12

そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

**********

この時代のユダヤ人たちは、自分たちは神から契約をいただいたイスラエルの国民として、特別に選ばれた存在、INSIDE(内側)の者であると自認していました。

ですから、異邦人たちはユダヤ人から見れば、OUTSIDE(外側)の人たちでした。

しかし、パウロはこう続けています。

**********

2:13

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

2:14

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

2:15

ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

***********

この「隔ての壁」とは当時エルサレムの神殿内にあった石造りの壁で、ユダヤ人と異邦人を分け隔てたシンボルだった壁のことです。(プロジェクターの図参照)

異邦人の巡礼者はこの神殿の壁の中へは入れませんでした。この異邦人の庭というところで礼拝をしました。ユダヤ人の女性は壁の中には入れましたが、この婦人の庭という所で礼拝し、神殿の中へは入れませんでした。

14節には、「二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」と書かれていますが、これは、敵対していたユダヤ人と異邦人という二つのものをキリストの血によって一つにしたという意味です。

「平和の君」なるイエス様は、この隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉においてユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男女の間にあった「敵意」を廃棄されました。

パウロがここで言ったように、イエス様はすでにその十字架の贖いによって、壁を廃棄してくださいました。

ところが、私たちの世界には、今もなお「敵意」とも言える隔ての壁がたくさんあります。

広義では、国と国との争いの壁、民族や人種の偏見や差別の壁などがあります。

また、狭義では、育った環境やお金や学歴などの壁、職場や学校での人間関係の壁、親子や友人との壁、また教会の中にも隔ての壁はあります。

知らず知らずのうちに自分がOUTSIDE(外側) にされたり、INSIDE(内側)になっていたりします。

あるアメリカの宣教師の先生がこんなことを言っていました。

「私は親の仕事の関係で幼いころ日本に来ました。高校を卒業するまで日本にいましたが、自分の母国は日本ではなく、アメリカだとずっと思っていました。なぜかというと、日本に住んではいるけれど、自分はアメリカ人なので、日本ではOUTSIDEの扱いを受けていたからです。大学生になって、アメリカに戻りました。自分の国です。ところが、母国のアメリカでも、自分はOUTSIDEでした。“サードカルチャーキッズ”と呼ばれて、アメリカ人としては扱われませんでした。」

このような文化の壁、帰国子女の問題は、本人や周りの人たちが前向きにとらえて考えなければ、その人が自分のアイデンティティー(自分の存在証明)を失ってしまうような悲しい結果になってしまいます。

また、みなさん自身にも、隔ての壁はあるのではないでしょうか。

例えば、「あー私はこの場所、この人たちとはどうも馴染めない。私はここではOUTSIDEの人間だなぁー。」と疎外感を感じることがあったり、逆に、「あの人は、私たちとはちょっと違うよね。」と仲間内でINSIDEしてかたまってしまって、その人を閉めだしたりしていませんか。

もちろん、何でもかんでも仲間に入れてあげなきゃダメな訳ではありませんが・・・。

例えば、大の大人が幼稚園児のコミュニティーにはどんなに頑張っても入れませんし、女性限定のコミュニティーだと言っているのに、男性が入れてもらえないからと言って「隔ての壁だ!」とは言えませんよね。

そうではなくて、入ることができる・・・いや、入るべきコミュニティーであるのにも関わらず、「敵意」とまでは言わなくても、歓迎されていない雰囲気を味わったという経験とか、反対に、入れてあげれば良かったのに、歓迎してあげなかったといった経験などは、みなさんあるのではないでしょうか。

また、グループでの話だけではなく、個人的にも隔ての壁はあります。

どうしても好きになれない人、苦手な人、表面上はうまく付き合っているように見えても、自分の中に見えない隔ての壁を作ってしまって、ストレスを溜めてしまう。

・・・私たちは、そのような隔ての壁をどうして作ってしまうのでしょうか。

それは私たち人間にある罪の性質から来るのではないでしょうか。

神様はこの世界にあるすべての被造物をお造りになりました。

聖書の冒頭、創世記1章には、神様の創造のストーリーが書かれています。

その中でも人間は、神の似姿、神の御性質を受け継いで、造られたと書かれています。

ここには、そもそも隔ての壁、OUTSIDEもINSIDEもありませんでした。

しかし、アダムとエバが神に背いてから、この世界はおかしくなってしまいました。

だからと言って「そうそう。アダムとエバが全部悪いの!人間はみんな罪人だから仕方ない!」と開き直ってあきらめてしまうなら、せっかく神の似姿、神の御性質をいただいたのにもったいないですし、それは神様の御心ではありませんよね。

なぜかというと、先ほどの、エペソ2:10では、

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

と聖書が語っているからです。

私たちは神の作品です。

良い行ないをするために造られたのですから、良い行いに歩まなければなりません。

そのためには、神様と人間が和解をし、人と人とが和解をする必要があります。

では、どうすれば和解することができるのでしょうか。

*********************

 

2つ目のポイントは・・・

②イエス様によって和解する

********

2:16

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

********

実はエペソのこの箇所に書かれている「和解」という言葉は、ただの「和解」ではありません。「特別な和解」という意味があります。ギリシャ語の原文では、 avpokatalla,xh|(原型 avpokatalla,ssw アポカタラソー) という珍しいことばで書かれています。

このアポカタラソーという言葉は、エペソのこの箇所の他には、コロサイの手紙 の1章20、22節に出てくるだけです。他に「和解」を表す「カタラソー」ということばは、ローマ書とかにも出て来ますが、このアポカタラソーという言葉には特別な意味があるので、ここで使われているようです。

その特別な意味というのは・・・

①一つの立場のものが、異なるもう一つの立場に変換される。

②破壊された対人関係の「間」を回復させる。

③「敵意・憎しみ」を「好意、好み」に変える。

といったダイナミックなものです。

またこの言葉は、動詞、過去形、3人称、単数を表していますので、これは明らかに、「神が和解させてくださった」という神の行為を示しています。

また、ここでは仮定法を使っています。この仮定法が、文法上の大きなポイントとなっています。

つまり、「キリストの十字架による和解が成立したのであるならば(仮定法)」、両者(エペソの場合は異邦人とユダヤ人)の間にある「敵意」が壊されないはずはない!というニュアンスにも受け取れます。

ですから神様は、破壊されきった対人関係を回復し、「敵意や憎しみ」ですら、イエス様の十字架によって葬りさり、「好意」と変えて、両者をアポカタラソー、特別な和解へと導いてくださったのです。

これは、ありえない神の御業です!!

また、イエス様の和解の方法は、私たちには想像することすらできない驚くべき方法です。

Amazing Grace という賛美はみなさん良くご存じだと思いますが、この歌詞を作ったジョン・ニュートンは、イエス様によってまさに驚くべき方法でアポカタラソー(和解)させていただいた人です。

彼はイギリスに生まれました。3歳の時よりお母さんから聖書の教育を受けましたが、そのお母さんは、彼が7歳の時に亡くなってしまいました。

その後、彼は反抗期を迎え、非行を繰り返して、果ては奴隷船の船長にまでなってしまいました。

奴隷船とは、アフリカで捕えられた人々を、アメリカなどに連れて行く船です。

奴隷船の内部はこのように(プロジェクター参照)なっていて、アフリカで暮らしていた人を売ったり買ったりしては、このように箱詰めにして、まったく人間扱いをしないで運んだそうです。

この中の2割以上の人が、アメリカに着く前に亡くなってしまったそうです。

生き残った人々も、奴隷として売られて、そこでは人間扱いはほとんどされずに一生を送りました。

そんな奴隷船の船長をしていたジョン・ニュートンは、ある時、嵐に会っていのちの危険にさらされました。そんな時彼の口から思いがけない言葉が出てきました。

「神よ!私を助けてください。私の人生をあなたに捧げます。」

助かった彼は悔い改めて、何年か後に奴隷船の船長を辞めました。

(すぐ辞めなかったのはなぜだろうと思いますが、)その後、英国国教会の牧師となりました。

そして、Amazing Grace の歌詞を作りました。1番の英語の歌詞を見てみましょう。

*******************

Amazing grace! How sweet the sound

「アメージング  グレイス」なんという優しい響き

That saved a wretch like me!

こんなにけがれた私をも救ってくださった 
I once was lost but now am found

暗闇を歩いていた私に神の御手が差し伸べられた 
Was blind but now I see

盲人に一筋の光が与えられたように

********************

ジョン・ニュートンには、奴隷となった人たちとの間に大きな隔ての壁がありました。

しかし彼はイエス様によって神と和解し、人々にイエス様を証することにより、人とも和解しました。

・・・ここまでの話なら、みなさんの中には「ジョン・ニュートンの話なら飽きるほど聞いたよ」と思われる方も多いでしょう。特にゴスペル関係の方々。

でも、実はAmazing Grace のメロディーにまつわる話で、先ほど申し上げた「私たちには想像することすらできない驚くべき方法」でイエス様が和解させてくださったという、Amazingなお話があります。

Amazing Graceのメロディーは、「アイルランドとスコットランドの民謡を掛け合わせて作られたのではないか?」とか、「アメリカ民謡だ」などと言われていますが、最近違った説が出てきたそうです。

Amazing Grace のメロディーは、奴隷船に乗せられたアフリカの人たちが、船の中で歌っていたのではないか?」という説です。

つまり、ジョン・ニュートンが奴隷船で彼らを運んでいた時に、耳にして覚えたメロディーが曲としてつけられたのではないかというのです。

箱詰めにされて運ばれた人たちの歌は、嘆きの歌だったのかもしれません。あるいは自分を励ますための歌だったかもしれません。祖国を思っての祈りと慰めの歌だったかもしれません。

いずれにしても、もし、彼らが奴隷船で歌った歌と、罪深かったジョン・ニュートンの悔い改めの歌詞とが融合されて、Amazing Graceという賛美ができたのだとしたら、これこそ、Amazing Grace!「おどろくばかりの恵み」だと思いませんか?

なぜなら、ジョン・ニュートンはイエス様を通して神様と和解をし、そして神様は「Amazing Grace」という歌を与えて、加害者と被害者を融合させ、イエス様の十字架によって隔ての壁を打ち破り、究極の和解をさせてくださったからです。

これは、先ほどの2:16のみことば、 「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」・・・このみことばの通りだと思いませんか?

この話が本当だとしたら、これこそ想像することすらできない驚くべき和解の方法です。

ジョン・ニュートンの時代から300年近く経った今もなお、このAmazing Grace という賛美はいろんな国で歌い継がれています。私たちは、この賛美を歌うたびに憐れみ深い神の愛を改めて知るのです。

しかし、どうでしょう。今の私たちは、この憐れみ深い神の愛に応えているでしょうか・・・。

イエス様は、2千年前にこの地に来てくださって、この地に平和をくださろうとしてくださったのに、人間は未だに悔い改めず、今もあちこちで私利私欲のために争いが絶えず、平和がなく、罪の中にいます。世界中に差別と貧困があります。

その原因を作っているのは、私たち人間であって、私たちは今も、2千年前にイエス様を十字架につけた群衆たちと変わらないのです。

神様は、アフリカで捕えられて連れて来られた人々が、奴隷として売り買いされている様子を、どんなに悲しい思いで見ておられたか、イエス様を通して、御自身と人間との和解、人と人との和解をどんなに望んでおられたかと思うと、このAmazing Graceにまつわる話は、あまりにもリアルで、私たち人間の愚かで哀れな姿を見せつけられます。

イエス様によって神様と和解をしましょう。そして私たち人間同士も和解をしましょう。

まず、身近な身の周りの思い当たる人と和解しましょう。

その人との隔ての壁を打ち破り、OUTSIDE とか、INSIDE とかではなく、アポカタラソー和解しましょう。

今の自分にはとても無理だと思っても、「敵意は十字架によって葬り去られ」たのです。

イエス様は私たちに想像することすらできない驚くべき和解の方法を用意してくださっています。

ですから期待して祈っていきましょう。

********************

そして、最後に3つ目のポイント、聖書は私たちに大切なことを語っています。

③御霊によって神に近づく

ということです。

 

**********

2:17

それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

2:18

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

**********

と書いてあるのです。

天の父なる神様と、御子なる神イエス様と、聖霊との三位一体の、唯一なる神の真理がここに示されています。私たちが、平和の君なるイエス様によって神様と和解をし、天の父のみもとに近づくことができるのは、聖霊のみわざによるのです。

私たちは神の作品です。神は私たちが日々良い行いに歩めるように造ってくださり、その良い行いをもあらかじめ備えてくださっています。また、イエス様を通して神と人、人と人との和解がなされ、聖霊によって父のみもとに近づくならば、私たちの周りは平和で満ちあふれるはずです。

そのような豊かな信仰生活を送れるように、日々祈って参りましょう。

本日のポイントをもう一度見てみましょう。

①私たちは神の作品です

②イエス様によって和解する

③御霊によって神に近づく