2011.06.19 兄弟をさばかない ヤコブ4:11-12

ヤコブ書からのメッセージを順番にお伝えしています。おそらく、10年前だったら、話せなかったでしょう。いや、2年前でも無理だったかもしれません。今だからこそ、やっと話せる内容であります。一見、ヤコブ書は律法的で厳しい感じがしますが、心の深い部分が、探られます。ヘブル書にこのようなみことばがあります。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヤコブ書はまさしく、心のいろいろな考えやはかりごとを判別させてくれる書物であります。

1.悪口を言わない

ヤコブ4:11前半「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。」ここに「兄弟たち」と書かれているので、「女性には関係ないんだなー」と油断してはいけません。主にある兄弟姉妹すべてに向けて書かれた命令です。11節には、「悪口を言う」が3回、「さばく」が4回出てきます。「悪口を言う」、あるいは「さばく」は、英語の聖書を見るといろんな表現があり助けになります。いわゆる、人の悪口を言う、中傷する、そしること。他には非難する、酷評する、あらを捜す、批判するという意味もあります。この世では、人の悪口を言ったり、批判したり、陰口を言うのは当たり前ではないでしょうか?子どものときは、よく口喧嘩をしたものです。「死ね」とか、呪いのことばも吐いたかもしれません。大人になると表立っては言わなくなりますが、陰でこそこそ悪口や批判めいたことを言うものです。国会討論会を見ますと、政治家は、相手を罵倒したり、非難するのが当たり前のようです。菅総理がどのような方か分かりませんが、「日本の総理大臣にはなりたくないなー」と思います。あっちからもこっちからも、酷評され、神経がまいってしまうでしょう。そういう非難に満ちた、世の中から救われ、教会という神の家族に入りました。最初はお互いに気を使っていますので、人の悪口など言いません。でも、親しくなると、だんだん本音を言うようになります。あるとき、教会だからと安心して心を開いていたのに、ぐさっとひどい事を言われたりします。そして、「もう教会なんか行くものか!」と躓く兄弟姉妹も起こる場合もあります。

当亀有教会は、セルチャーチを目指しています。セルとは「互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うということを小グループで実行する」主旨のものです。でも、セルにおいて、どうしても克服しなければならない問題があります。先ほども申し上げましたが、最初の時はお互いに気を使っていますので、さしさわりのないことしか言いません。セルのハネムーン期です。でも、だんだん親しくなると、親切心のつもりで、「それはだめだよ」「ここをなおさなくては」と忠告します。しまいには、忠告なのか、批判なのか分からなくなります。これをセルの葛藤期と言います。結婚と同じで、お互いにぶつかり合うときが必ずやってきます。お互いの欠点や癖、性格が鼻につくようになります。最初は我慢していますが、何かの拍子にバッと出して、衝突したりするでしょう。セルも結婚も、そこで別れないで、踏みとどまる必要があります。第三の段階は、調整期です。不一致を管理するとも言います。お互いに、「ああ、こういうことを言うとこの人の地雷を踏むことになるんだなー。今度からは、こういうふうに対処すれば良いんだなー」と学習します。お互いを変えようと批判すると、よけい関係が悪くなります。そうではなく、お互いの弱点や欠点を受け入れ合うのです。すると、第四の段階、「親密さ」がやってきます。本当の親密さは、隠しあったり、遠慮しあってできるものではありません。心を開いて、幾多の衝突を乗り越えたあとに、初めてやってくるのです。結婚だけではなく、教会の中の兄弟姉妹の関係も同じです。「花も嵐も踏み越えてー」行くと、桃源郷が待っているのです。

でも、1つだけ重要なことがあります。エペソ人への手紙4章に「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」と書いてあります。悪いことばとは何でしょう?アルゼンチンのエド・シルボソ師はこのように定義しています。「悪いことばとは、建て上げるかわりに引き降ろすことば、すなわち恵みのない真理である。誰かが批判的なことを言って、それが(完全に、あるいは部分的に)真理であるということを知るとき、私たちは怒り、眠れなくなる。真理かもしれないことを恵み抜きで言われたので、裁かれ責められているように感じてしまう。恵みのない真理は破壊的である。」エペソ4:15「愛をもって真理を語り」と書いてあります。Ⅰコリント13:3「愛がなければ、何の役にも立ちません」とあります。愛がないと、どんなに真理でも、さばきのことばになって、その人を傷つけてしまうのです。よく、私たちは「あなたのためだから、はっきり言うのよ」と言います。しかし、愛ではなくて、自分の怨念を晴らしている場合もあります。かつて、同じことを自分が言われたので、相手を換えてどうしても言いたくなるのです。ヤコブは3章において、「ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体も立派に制御できる完全な人です」と言いました。主にあって成熟した人は、悪いことばではなく、人の徳を建てることばを語ります。そのためには、日ごろ、舌をコントロールし、主の愛と恵みで満たされる必要があります。同じ言い方でも、人の徳を建てる言い方を主にあって学びたいと思います。

2.さばかない

 ヤコブ4:11後半「自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」悪口は、人をさばくことの1つのかたちです。おそらく、さばきを口に出すことが、悪口ということでしょう。第二番目のポイントは、悪口のもとになる、基準、ものの考え方について考えたいと思います。私たちは何をもって、「これは良い」とか「これは悪い」と批判するのでしょうか?それは、各々が持っている基準、尺度によってではないでしょうか?ある人の尺度は大変厳しく、ある人の尺度は非常にゆるやかであるかもしれません。ここに律法ということばが出てきます。律法とは神さまが人間に定めた、おきて、戒め、尺度であります。旧訳聖書には十戒を中心とした、律法が数多く記されています。律法の中には「人の悪口を言ってはいけません」と書いてあります。詩篇101:5「陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします」。また、聖書全体を見ると、「人をさばくのは神さまがすべきことであって、人ではない」と書いてあります。もちろん、裁判などでは、王様や裁判官が神さまの代わりにさばきます。ここで言われているのは刑法ではなく、おもに人間関係における戒めであります。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたのさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたの量るとおりに、あなたがたも量られるからです」といわれました。さきほども申し上げましたが、人は各々が持っている尺度で、「これは良い」とか「これは悪い」と批判するでしょう。しかし、人に当てた尺度が、こんどは自分にも当てることになります。たとえば私が子どもに「絶対、学校に遅刻をしてはいけない」ときつく叱ったとします。するとどうなるでしょう?「絶対に遅刻してはいけない」というさばきを自分にも当てて、それに縛られることになります。人に「絶対に遅刻するな」と言った手前、自分が遅刻したら、申し訳が立たなくなるでしょう。ある家族の夕食シーンです。子どもがよそ見をして、お味噌汁のお椀をひっくりかえしてしまいました。お父さんが「こら!よそ見をするからだ!」ときつく叱りました。次の日の夕食、お父さんがよそ見をして、お味噌汁のお椀をひっくりかえしてしまいました。子どもからお父さんに鋭いまなざしが向けられました。お父さんは「だれにでも失敗はある」とことばを濁しました。「さばいたら、さばかれる」。これは、自然界の法則と同じくらい、普遍的な法則であります。

 きょうは「父の日」です。「母の日」と比べて、あまり重んじられません。なぜでしょう?子どもにとって、お父さんは、お母さんと比べ感謝すべき存在でないからでしょうか。しかし、お父さんを尊敬し、お父さんに感謝するということは、とても大事なことです。多くの場合、私たちが子どものときに、お父さんを口で、あるいは心の中でさばいたのではないでしょうか?「お父さんは独断的で、子どもの気持ちをちっとも分かってくれない」「お父さんは本当にだらしない。私はお父さんのような人とは結婚しない」「お父さんは不公平だ。他の兄弟を可愛がって私をないがしろにした。私はお父さんが大嫌いだ!」…もし、子どものときにこのようにさばいたならば、必ず刈り取りをすることになります。ガラテヤ書6章に「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」とはっきり書いてあります。ご存知と思いますが、種はすぐ育って実は結びません。根が生え、芽を出し、枝を伸ばし、葉っぱを張ります。やがて、花が咲き、実が稔って刈り取る時がきます。独身のときは分かりません。でも、結婚して、子どもを設けたときに刈り取りをするかもしれません。「お父さんのようになるまい」と思っていたのに、同じことを子どもにしていた。あるいは、「お父さんのような人と結婚しない」と誓ったのに、同じような人と結婚してしまった。伴侶に対して、お父さんから得られなかったものを要求するかもしれません。これは、「さばくとさばかれる」「種を蒔くと刈り取りもする」という2つの法則が合わさったものです。なぜ、お父さんは大切な存在なのでしょうか?聖書的に、お父さんは神さまの代理であり、権威の象徴です。しかし、多くの場合、この世のお父さんは理想的ではありません。そのため、子どもがさばくのも当然でしょう。でも、父親をさばいたために、神さまに対して歪んだ見方を持つことになります。なぜなら、神さまは父なる神様だからです。また、父親を敬わなかったために、先生や権威ある人たちを敬うことが難しくなります。結局はその人が損をすることになります。

 神の律法は何と言っているでしょうか?「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」ここには、条件が書いてありません。あなたの父と母という存在だけで、「敬え」と言うのです。もし、私たちが「神さまが与えた父と母に感謝します。敬います」と心から祈ったらどうなるでしょうか?さばきによる呪いが取り除かれ、祝福が及ぶでしょう。私は牧師でありますが、人格的にも能力的にも不十分です。でも、ある人たちは私が牧師だということだけで、敬う人がいます。私も人間ですから、そういう人に対してはできるだけ良くしてあげたいと思います。しかし、ある人は、色々と批判します。そういう人には、「ああ、そうですか。どうぞご勝手に」と、面倒を見ないところがありました。昔は、その理由が良くわかりませんでした。「お互いに波長が合わないのかな」と思いました。でも、ある時、それはその人が「自分の父を敬っていないからだなー」と言うことがわかりました。ある人は、自分がお父さんから受けられなかったものを牧師に求めようとします。その構造を知らないときは、その人の言うことを聞いて、貢いだこともありました。しかし、今は、批判を受けても、過剰に反応しないようになりました。どうぞ、父の日に際してお勧めいたします。父と母を敬わなかった、さばいていた。そのために、刈り取りをしてはいないでしょうか?子どものとき、さばいたことを悔い改め、父と母を赦しましょう。そして、主の命令として、父と母を敬いましょう。そうするなら、呪いが解かれ、豊かな祝福が訪れるでしょう。

3.神さまの福音

 ヤコブ4:12「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」神さまが律法を定めたのであり、神さまがさばきを行うただ一人のお方であるということです。そして、その神さまは救うことも滅ぼすこともできるのです。神さまの代わりに、「隣人をさばくあなたは、いったい何者でしょう」。しかし、いつから、人は神さまの代わりに隣人をさばくようになったのでしょうか?それは、創世記3章で、「善悪を知る知識の木」から、実を取って食べた時からであります。人は「いのちの木」からではなく、「善悪を知る木」の実の方を選んだのです。それでどうなったのでしょうか?文字通り、人は「これは良いこと、これは悪いこと」「これは善であり、これは悪である」と善悪を判断することができるようになりました。しかし、本来、善悪の判断はだれがすべきことなのでしょうか?それは人間ではなく、神さまがすべきことなのです。本来、私たちは神さまと交わり、神さまから善悪を教えていただくべきなのです。ところが、神さまを差し置いて、私たちが神の座にすわって、善悪を知る者となりました。確かに、人は善悪を知ることができます。「あれは良いことだ、あれは悪いことだ」と判断できます。しかし、それを守り行う力がないのです。「悪いと分かっているけれど、やめられない」。しかも、他の人をさばきながら、自ら同じことをしています。これは「いのちの木」から食べていないためです。善悪を知っても、それを守り行う力がないのです。ローマ2:1「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 もし、私たちが神さまを差し置いてさばくなら、それは神さまへのクーデターです。「神さま!あんたがさばかないんでしたら、私が代わりにさばきます。そこをどいてください。私がそこに座りますから。」わあー、何と私たちは恐ろしいことを今までしてきたのでしょう。しかも、人をさばいておいて、自分も同じ罪を犯していたなら、もう、言い逃れはできません。しかし、ここに福音があります。聖日礼拝は律法で終ってはいけません。必ず、福音を語り、福音で終ることになっていますので、ご安心ください。せっかく教会にいらしたのに、重荷を背負って、帰らせたら申し訳ありません。中には、そういう教会もあるようです。ある教会の牧師は、「信徒が涙を流して悔い改める。それが良い説教だ」おっしゃいました。すると、だんだん礼拝に来る人が減ったそうです。すると、その牧師は「真の教会ほど、人数が少ないのだ。イエス様もいのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれですと言われた。数が多いのは福音を水増ししているからだ。信徒をみことばで打ち叩かなければならないんだ」と言ったそうです。私はそうは思いません。私たちには律法ではなく、福音が必要です。このヤコブ書にも福音があります。ヤコブ書は、「あなたが隣人をさばかないで、神さまにゆだねなさい」と命じています。「それでは、この地に、悪がはびこり、善は踏みにじられるでしょう」とあなたは反論するでしょうか?ヤコブが言っているのは、この世のことを言っているのではありません。この世のことは、この世の人がさばくでしょう。ヤコブは神の家族、教会のことを言っているのです。主にある、兄弟たち、姉妹たちのことを言っているのです。私たちがさばいてはいけないのは、第一に、主の贖いを受けている隣人であります。その後に、信仰に応じて、家族や友人と、周りの人へと広げて行けば良いのです。しかし、基本は神の家族であります。神の家族がすべてのスタートであります。

 私たちは主にあってどういう存在なのでしょうか?ローマ8章を読むならば、そのことが良くわかります。私の偏見でしたら申し訳ありません。しかし、あえて申します。旧訳聖書よりも新約聖書が啓示や恵みにおいてすばらしいです。新約聖書でローマ書は最もすばらしい書物だと思います。ローマ書の8章はローマ書で一番すばらしい箇所です。ということは、聖書のエベレスト山、聖書の最高峰は、ローマ書8章ということになります。ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」アーメン。そして、ローマ8:33以降「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」アーメン。ここで言われている中心的なことは何でしょうか?私たちはキリストにあって、もう罪に定められることはないということです。表現を変えるならば、もうだれからもさばかれないということです。どうしてでしょう?イエス・キリストが私たちの罪のために死んで、私たちが義とされるためによみがえられたからです。もし、私たちをある人が「罪あり」とさばくならば、それは神を敵に回していることになるのです。たとえ、「罪あり」とさばかれることがあっても、イエス・キリストが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださいます。ハレルヤ!

「私は主にあって、さばかれることはない。赦され、受け入れられている。アーメン」と魂の奥底から、信じるならどうなるでしょうか?魂の奥底に深い平安がやってきます。浅い平安と深い平安があるかどうかわかりませんが、とにかく、深い平安です。そうするとどうなるでしょう?たとえ、人から悪口を言われたり、中傷されたり、そしられたり、非難され、批判されても動じないということです。正直、少しはぐっと来るかもしれません。震度1か2、強くても3くらいでしょう。でも、家が倒れる震度6とかには決してなりません。だいたい、震度1か2くらいで、しのぐことができます。そうしたらどうなるのでしょう?悪口に悪口を、中傷に中傷を、そしりにそしりを、非難に非難を、批判に批判を返さなくても良くなります。昔は、「やられたらやり返す。倍にして返すぞ!」。これが普通だったかもしれません。しかし、心の深いところに、「自分はさばかれていない。神さまが味方なんだ。キリストの愛から引き離すものは何もない。アーメン」という平安があります。そうすると、過剰反応しないで、乗り越えられるのです。もっと成長するならば、悪に対して、善をもって勝利できるようになります。ここまで行ったら、本物の聖徒、セイントです。人から何と言われようと、神さまは私をさばいてはおられない。イエス・キリストによってすべての罪が赦されている。ここに、信仰の錨を降ろしましょう。そうすれば、どんな人生の嵐をも乗り越えることができます。