2011.06.26 あすのことを誇らない ヤコブ4:13-17

「あすのことを誇らない」って、変な題だと思いませんか?「取らぬ狸の皮算用」とか「大風呂敷を広げる」と言い換えても構いません。実は、信仰の世界も似ているところがあります。信仰というのは、まだ手にしてないものを、もうすでに得ているように言うからです。ある場合は、信仰どおりになりますし、ある場合は、空振りのときもあります。信仰という名で、大風呂敷を広げていると、やがて信用をなくしてしまうでしょう。でも、矛盾するかもしれませんが、信仰の世界では、夢とかビジョンというものがとても大切です。なぜなら、神さまの方法は、まずその人に、夢とかビジョンを与えます。受け取った方は、諦めないで、神さまを信じて従い続ける。そうすると、時が来たら、夢とかビジョンが実現します。

1.あすのことを誇らない

当時、あすのことを誇っている人たちがいました。どういう人たちでしょう。ヤコブ1:10,11「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴ってのぼって来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」ただ今、お読みしたヤコブ4章と重なるところがあります。また、ヤコブ3章には「舌は小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです」と書いてありました。ですから、富んでいる人たちが「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っても何の不思議もありません。でも、彼らはあすのことが分かりません。「しばらくの間、現れて、それから消えてしまう霧にすぎない」ということです。私たちの周りにも大きなことを言って、人々をひきつけ、お金を融資させる人がいます。先週、テレビのニュースで見ましたが、元ライブドア社長の堀江氏が収監されました。彼はお金を儲けるために違法に証券を取引きしました。そのため多くの株主が被害をこうむりました。もっと前には、「最高ですか!」と言う、教祖がいましたが、多くの人たちが資金を提供しました。「私はこうことをします。あなたもこうなりますよ」と言われるとどうでしょうか?発せられたことばには力がありますので、全部、ウソとは思えません。詐欺師だということが、本当に証明されるまでは、「いやー、20%ぐらいは本当じゃないだろうか?」と思うのではないでしょうか。私たちの周りには、山師のように、大きなことを言う人がいるものです。

私は牧師のコーチングをしていますが、いろんな牧師と出会う機会があります。ある牧師は「私は幼稚園、小学校、中学高校、大学までの一貫校を作るのが夢です」とおっしゃっていました。本人は牧師をしながら、幼稚園の資格を取るために勉強しています。その人と何度かお会いして、「ああ、この先生は、まるで、ドンキホーテみたいな人だ」と思いました。なぜなら、夢を持つことは自由ですが、まだ、ほとんど実現されていないからです。中には「見果てぬ夢、不可能な夢」もあります。でも、神さまのビジョンと自分の野望とは違います。私の知っている先生方では、「1000人教会を目指す。3000人教会、あるいは1万人教会を目指す」という人が結構おられます。私も韓国のチョーヨンギ師に倣い、大教会を作ることが夢でした。私は奉仕していた教会は大きかったので、教会が大きくなるのは当たり前だと思っていました。それで、当亀有教会に赴任したとき、「3年で100名礼拝になります。ならなければ、辞めます。」とまで豪語しました。28年たってもそれが実現していません。まだ、懲りないで、「長期の目標」として、「350名礼拝、5つの枝教会、5人の牧師、50人の信徒リーダー」と週報の裏に印刷しています。今でも、私は300人くらいの会衆が目の前にいるかのように、説教しています。「信じれば、きっとそうなる」と信じているからです。私は受けてはいませんが、牧師のために「教会成長研修所」というのがあります。「成長」ということばが疑問視され、現在は、JCGIと横文字になっています。ただ、横文字に言い換えただけです。あそこで2年間研修を受け、最後に研修論文を書かせられます。そこには3年後、10年後と長期の目標を書くのですが、大体、教会の人数が右上がりのグラフを書きます。「教会は人数じゃないのではないですか?」と反発する生徒もいるようです。しかし、指導の先生から「甘い!」とか言われて、やはり人数を書きます。その研修を終えて、3年、5年たっても、そのようにならない先生がたくさんいらっしゃいます。すごいフラストレーションがたまるでしょう。つまり、そのビジョンが神さまからのものなのか、それとも、自分の野望なのか区別できないところがあります。

なぜ、人は大きなことを言って、あすのことを誇るようなことをするのでしょうか?第一は、現在の自分に満足していないということです。ある人は「今の自分は、本当の自分ではありません。10年後の私を見てください」と言います。劣等感がバネになっています。第二は、大きいことを言って目立ちたいという人もいるでしょう。人から注目を浴びたいというパフォーマンス指向の人です。人に負けたくないという、実業家タイプの人かもしれません。第三は、大きく願わなければ信仰ではないという、私のような信仰スタイルであります。宣教師の父、ウィリアム・ケアリーは「神に大いなることを期待し、神のために大いなることを計画しなさい」と言いました。しかし、一歩間違えると、神さまに信仰という名で自分の願いを押し付けていることになります。第四は、現実から逃避し、夢の中で生きている人です。やむにやまれない、何かに強迫されているドンキホーテのような人です。夢とかビジョンはとても大切です。私もビジョンを持つことはとても良いことだと思います。箴言に「幻がない民は滅びる」とも書いてあります。でも、どかんと大きな花火を揚げても、実現しないビジョンは主の御名を辱めることにもなります。果たして、それが神からの本当のビジョンなのか、その人の動機を吟味する必要があります。熱いビジョンが与えられたら、こんどは頭を冷やして、実現する戦略、実行可能な目標を立て、具体的に行動しなければならないでしょう。私たちは、単なる大風呂敷にならないように、気をつけるべきであります。

2.主のみこころ

 ヤコブはあすのことを誇る人に対して、「このことを忘れてはいけませんよ」と教えています。ヤコブ4:15-16 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。本当に、ヤコブ書は厳しい書物です。私たちの願いやビジョンよりも偉大なものは主のみこころです。主のみこころがあってこそ、私たちの願い、私たちのビジョンが生きてくるのです。ここには、主のみこころについて覚えるべきことが2つ書いてあります。1つは、「主のみころなら、私たちは生きていて」という条件付きです。「きょう、あす、一年○○しよう」と言っても、私たちのいのちが、いつまで続くか分かりません。ヤコブ1章には、人の命は草の花のようだと書いてあります。また、ヤコブ4章には、「しばらくの間、現れてそれから消えてしまう霧にすぎない」とも言われています。人間の命もはかなくて、「働きの最中に消えて行くこともある」のです。それを考えると、いくら将来の夢やビジョンを語っても、主から「あなたの人生はこれでおしまい」と言われたら、文句を言えないということです。だから、私たちはあんまり、あすのことを誇ってはならないということです。どうしても、そこには条件があります。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことをあのことをしよう」ということです。もし、自分勝手な願いであるなら、志半ばで倒れてしまうことも有り得ます。使徒パウロという人は、神のみこころの中をせいいっぱい生きた人です。パウロは神さまから「あなたは、エルサレムで私のことを証したように、ローマでも証をしなければならない」と言われました。しかし、ローマに向かう途中、パウロたちは、ものすご嵐に巻き込まれ、信仰を失いそうになりました。でも、御使いがパウロの前に現れ「恐れてはなりません。あなたは必ずカイザルの前に立ちます」と言ってくれました。それで、パウロは主のみこころ通り、ローマに行くことができました。ある人は「使命があるうちは絶対、死なない」と言いました。パウロは長生きはできませんでしたが、主のみこころ、使命を全うした人です。

 もう1つの神のみこころは、「主のみこころなら…このことを、または、あのことをしよう」ということです。数年前に、韓国の先生の「クリスチャンのコーチングセミナー」に出席したことがあります。この世のコーチングは、個人の持っている潜在能力を引き出すことが最も大きな強調点です。そして、その人の希望や願いをかなえるために、コーチはお手伝いをします。しかし、クリスチャン・コーチングは違います。「神さまがあなたに期待していることは何か?神さまのみこころは何か?」ということを本人に知ってもらいます。つまり、神さまのみこころが第一であるということです。では、どのようにコーチしていくのでしょう。自分の願いを神さまのみこころの方に修正していくということです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。私たちクリスチャンは、神さまの栄光を現わす人生を送りたいと願っています。一度きりしかない人生です。朝には咲いて、昼には枯れてしまうような草花かもしれません。それだったら、永遠の御国のために、人生を投資すべきではないでしょうか。もし、私たちが神のこころにあったビジョンを持ち、神のみこころにあった願いをするならば、神さまは責任をもってかなえてくださるでしょう。自分勝手なひとりよがりの夢とかビジョンであるなら、神さまはかなえる責任がありません。ですから、私たちは神さまが自分に対して何を願っているのか、神さまからのビジョンを受け取るべきであります。では、どうしたら、自分に対する神さまのみこころとかビジョンを知ることができるのでしょうか?もし、私が初めから分かっていたなら、10年も20年も回り道をしていなかったでしょう。今になって、2つか、3つのことは、はっきり言えます。1つはあなたのこれまでの過去の人生にヒントがあります。あなたには両親から受け継いだもの、生まれつきの才能や性格があります。さらに、いろんな勉強、いろんな技術を身につけて来られたでしょう。失敗や「あんなことがなければ良かった」という嫌なこともあったでしょう。しかし、神様の御手はあなたが生まれる以前から、ちゃんとありました。そして、神様は失敗や間違い、様々な傷をも、逆手に取って用いてくださいます。いわゆる逆転勝利の人生です。本当に神さまから用いられたいと思ったなら、エネルギーの転換が必要です。温故知新という中国のことわざがありますが、あなたのこれまでの過去の人生にヒントがあります

 第二は、神さまの語りかけがあります。ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」簡単に言うと、神さまがあなたの心に、語りかけるということです。神さまはどのように私たちに語りかけるのでしょうか?神さまはまず、神のことばである聖書を通して私たちに語りかけます。聖書をちっとも開かないで「神さま、あなたのみこころは何ですか?」と聞いてもそれは無理です。聖書には神さまのみこころ、神さまの計画、神さまご自身ことが書かれています。私たちが聖書を読むとき、神様の声に耳を傾けているということになります。しかし、聖書は一般的な神さまのみこころです。それでも、聖書を地道に読んでいくと、あなたに特別に語りかけることがあります。「ああ、これだ。このみことばこそが、私の人生の指針だ。これこそが私のなすべきことだ」と聖書のみことばが浮き上がってきます。払いのけても、払いのけても、浮かび上がってくる、そういう神のみことばがあります。第三は客観的な実、あるいは賜物です。本当にあなたに、神さまからのみこころや使命があるならば、必ず現れてきます。大小関係なく、「ああ、これだなー」というものを自分自身も他の人もきっと分かります。プロ級でなくても良いのです。神様への奉仕はプロもアマもありません。大小も関係ありません。神さまがあなたに与えたものが必ずあります。そして、人々が「あなたには、確かにこういうものがありますね」と認めてくれます。数年前、ポール・ポッツと言う人がオーディションの番組に出ました。彼は携帯電話の倉庫でアルバイトをしていました。審査員が「何を歌うの?」と聞いたら、「オペラ」と彼は答えました。3人の審査員は怪訝そうな顔をしました。とても「オペラ」という顔じゃなかったからです。でも、彼が歌い始めたらどうでしょう?審査員は「鳥肌が立った」とあとから言いました。終る頃は、観客が総立ちしていました。3つの○が付いて、彼は合格しました。審査員はあとから何と言ったでしょう。「だれにでも、ダイヤモンドの原石はあるものだ」と言いました。ダイヤモンドの原石は外から見たら、ただの石ころです。でも、ちゃんと磨いて、カットしたら、ものすごい値打ちがあります。日本という国は「出る杭は打たれる」という横並びの国なので、発掘が難しい国です。どうぞ、聖書を開いて神さまからの声を聞きましょう。神様はあなたの人生に、特別なご計画を持っていらっしゃるからです。

3.なすべきこと

 ヤコブ4:17「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」この17節だけを読んだら、「ならざる罪というのもあるんだ。正しいことはしなければ罪になるんだ」と理解するでしょう。でも、「こういうわけで」とありますので、文脈全体から捉える必要があります。「なすべき正しいこととは何でしょうか?」それは、神さまからあなたに与えられた計画、ビジョンであります。これまでは、自分の夢や願望で生きてきたかもしれません。ところで、AKB48がブレーク中ですが、この間、総選挙がありました。そのCDを1000枚も買って、投票する人がいました。また、AKBを応援するボランティアのダンサーもいます。みなさん、人それぞれですが、そういうことのために短い人生を費やして良いのでしょうか?この間のメッセージでも申し上げました。この世には3種類の人がいます。第一は、飲んで、食べて、生き延びるために生活をしている人です。その人は動物と同じです。第二は、自分の願いや夢を実現するために生きている知的な人です。その人はこの世に属するホモ・サピエンスです。第三は、永遠である神の国のために投資する人です。その人は歴史を変える人、ヒストリー・メイカーとして「いのちの書」に名前が記されるでしょう。イエス様を信じて救われても、第二番目の、自分の幸せだけを求めて生きている人が大勢います。神さまはあなたに、「このことを成し遂げてもらいたい」という計画、ビジョン、願いを持っていらっしゃいます。もし、私たちの願いが神さまの願いと合致するならば、実現できるように神さまが後押ししてくださるでしょう。

しかし、環境的に自分は何をしたら良いのか、何ができるのか?夢とかビジョンと言われても、さっぱり描くことができないという人はいないでしょうか?私の郷里は秋田ですが、目の前に秋田平野が広がっています。今頃は、夜になるとたんぼで、かえるの合唱が聞こえきます。布団に入っていると、夜汽車が広いたんぼの向こうを走ります。「いつもいつも通る夜汽車、静かなひびき聞けば遠い町を思い出す」ゴゴゴゴゴー、ゴゴゴゴゴーと大きくなったり、小さくなったりしながら、東京の方に行きます。私には兄が3人いました。みんな東京方面に就職に行きます。長男が東京から帰ってくると、私たち弟を田舎者だと馬鹿にしました。「あんなことあった、こんなことあった」と夜中じゅう、母と話していました。こんどは、二番目の兄が上京します。正月に帰ってくると、「○○じゃん」とか都会風を吹かせます。いろんな自慢話をしていました。三番目の兄、すぐ上の兄は仙台に行ったのですが、弟の私を田舎者だと馬鹿にしました。やはり、自慢話をしていました。田舎に残っている私は、とても淋しい思いをしました。見下されている感じもしました。子どものとき、稲刈りがありました。兄たちは両手で大きな稲の束を2つかかえて、リヤカーまで運びます。私は小さかったので1つの束をひきずりながら、やっと持って行きます。今、お家と教会のゴミ出しをしますが、2つのゴミ袋を持つ時、その時のことを思い出します。「あの稲の束はこれよりも重かったのだろうか?今、自分には兄たちのような力があるのだろうか」と考えます。私は7番目なので、両親からもあまり期待されていませんでした。田舎で育った私には、夢を描くとか、ビジョンを持つということがありませんでした。ただ、生き延びることしか考えていませんでした。働いて、お金が入ったら、それで楽しいことをする。「人生、自分がしたいと思うことを、できるだけたくさんすれば良いや」と生きてきました。

みなさんはどうでしょうか?どうしたら、神さまからビジョンが与えられ、その使命を果たすために生きることができるのでしょうか?使徒2:17,18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」そうです。イエス様を信じて、聖霊が注がれると、どんな人でも、夢と幻(ビジョン)を見ることができるのです。自分が見るというよりも神さまが見せてくださるのです。ここに「しもべにも、はしためにも」と書いてあります。みなさんの中には奴隷はいませんでしょう。でも、子どものとき、「ガキだからひっこんでいろ」「半人前のくせに」とか言われたことはないでしょうか。そのため、「自分にはそんなことができない」と、夢や希望を持つことを諦めたかもしれません。神さまはあなたをキリストによって贖ってくださいました。あなたは罪赦され天国に行くだけの存在ではありません。神さまは訳あって、21世紀の日本に生まれさせました。大小関係なく、神さまはあなたに計画(デザイン)を持っています。「あなたに、このことを成し遂げてもらいたい」と言う、願いを持っておられます。神様は私にも、夢とビジョンを与えてくださいました。もう、貧弱で、ただ生き延びるだけの存在ではありません。天国人として、神さまの使命を果たす人になりました。人々にキリストによる救いを手渡す人になりました。みなさんの中には、すでに自分の夢や願いを持っている人もおられるかもしれません。でも、どうぞこの地上だけのことではなく、永遠にまで続く夢を持ってください。どうぞ、明日を誇らないで、明日をくださる主を誇る者となりましょう。