2011.05.01 行いによって ヤコブ2:21-26

きょうの箇所はヤコブ書の1つの山場であり、最も物議をかもすところでもあります。宗教改革者マルチン・ルターはローマ書やガラテヤ書を取り上げ「信仰義認」を強調しました。しかし、きょうの箇所は「信仰だけによるのではない」とか「行いによって義と認められる」と書いてあります。「信仰義認」と真っ向から戦っている感じがします。聖書は互いに矛盾しているような箇所があります。でも、本当に矛盾しているのでしょうか?私はそうではないと思います。強調しているポイントが違うのだと思います。ローマ書やガラテヤ書は人が救いを得るために必要な信仰です。一方、ヤコブ書は救われた人が信仰をどう用いるかについて書かれているからです。

1.アブラハムの信仰

アブラハムは信仰の父と呼ばれています。新約聖書では、アブラハムの生涯から「信仰とはこういうものですよ」といくつか紹介しています。きょうの箇所はアブラハムがモリヤの山でイサクを祭壇にささげたときのことであります。アブラハムが99歳のとき奇跡的にイサクが生まれました。目の中に入れても痛くないほどイサクを可愛がって育てたでしょう。ところがある日、神さまはアブラハムに、ひとり子のイサクを全焼のいけにえとして捧げよというのです。「え?動物だったらともかく、人間を、ですか?」と文句を言えたでしょうが、アブラハムはだまって従いました。モリヤの山に登り、祭壇を築き、下にたきぎを並べました。そして、自分の子イサクを縛って、祭壇のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を取って自分の子をほふろうとした、その時、「あなたの手を、その子に下してはならない」と主の御使いが止めました。神さまはアブラハムを試みたのです。アブラハムが神を恐れ、自分のひとり子さえも惜しまないで捧げたということが証明されました。ヘブル人への手紙11章には「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。」と書いてあります。アブラハムはたとえ、ここでイサクが死んだとしても、神さまがよみがえらせて戻してくださると信じていたのです。ものすごい信仰です。しかし、ヤコブの手紙が強調したいのは、「その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたのではありませんか」と言っているところです。私は間違っていないと思います。もし、アブラハムが刀を手にしながら、「神さま、本当に殺しても良いのですか。殺しますよ。さあ、殺しますよ。本当に良いんですか?」と時間かせぎをしていたなら別です。そうではなく、アブラハムは実際にイサクを殺そうとしたのです。その一歩手前で、神さまは「わかった、もう良い」とおっしゃったのです。

ヤコブの22節以降、このように教えています。ヤコブ2:22-24「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」問題は、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」とヤコブが言っていることです。ここだけ見ると、人が義と認められる、つまり、「救われるためには、信仰だけではなく、行いも必要だよ」と言わんばかりです。実際にローマ・カトリックでは人が救われるためには信仰だけではなく、善行も必要であると言っています。もし、人が善行によって救われるなら、どれだけ良いことをしなければ救われないのでしょうか?その基準が分からなくなります。ヤコブが本当に言わんとしていることは何なのでしょうか?「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」というのは、アブラハムが召された初期の頃です。創世記15章で主は「あなたの子孫は天の星のように多くなる」言いました。そのとき、アブラハムが主を信じたので、義と認められました。アブラハムは、一回、信じたきりで、あとは信じなかったのでしょうか?そうではありません。ヤコブは「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ…『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現した」と言っています。そうです。アブラハムの信仰は生きていて、行いとともに働き続けたのです。アブラハムの生涯を見るとわかりますが、なかなか子どもが生まれませんでした。待ちきれなくて、イシュマエルをもうけたこともありました。最後には自分もサラも年老いて、死んだような体になりました。それでもアブラハムの信仰はなくならず、行いとともに働いたのです。つまり、アブラハムの信仰と行いは分離していなかった。ずっと信仰が生きていて、その信仰が全うされたということです。

プロテスタント教会で弱いのが信仰義認に頼りすぎることです。一度でも、「イエス様を救い主として信じます」と告白したら「もう大丈夫だ、天国に行ける」と言います。しかし、信仰というのは点だけではありません。「信じ続ける」という線でもあります。もちろん、どこかで「信じます」という、決断における点がなくてはなりません。でも、それだけで、教会にもつながらない、肉の欲しいままに生きる。何か生命保険のように考えている人もいないわけではありません。実際に洗礼を受けても、教会に残る人は50%以下であるという統計が出ています。そういう人は救われていないのでしょうか?私はこのように考えます。人々の中には口先だけで「イエス様を信じます」と洗礼を受ける人がいるかもしれません。特に、日本は義理と人情の世界ですから、「牧師先生に世話になったから」という理由で洗礼を受ける人もいないわけでもありません。私は教団の連合祈祷会に出たことがあります。その教会の姉妹が代表で証しをしました。そのとき、「先生に大変良くしてもらった、大変世話になった」と何度もおっしゃっていました。ところが、その証しの中に一度も、「イエス様が自分にどうした」ということがありませんでした。牧師はどうでも良いとは言いませんが、イエス様につながらなければなりません。そして、本当にその人に信仰が与えられたなら、アブラハムのように信仰が行いと共に働くのです。つまり、行いは信仰の実であり、結果なのです。もし、その人に行いがちっとも伴わないとしたら、本当に信仰があるかどうか疑わしいということになります。

黙示録2:10「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はいのちの冠を与えよう」とあります。私の家内は洗礼を受けたとき、記念として牧師から本をいただいたそうです。その本の裏表紙に「死に至るまで忠実であれ」と書いてあったそうです。家内は、そのとき、そのことばどおりに生きようと思ったそうです。私は人にプレッシャーをかけたくないので、そういうみことばを書いたことがありません。私は信仰義認を信じています。人はイエス様を一度でも信じたら、天国に生けると確信しています。しかし、私たちの信仰は天国に行くだけのものではありません。神さまは、「この世で天国のような生活ができるように、信仰を用いなさい」と命じておられます。そうです。信仰は救われるためだけのものではありません。この地上で、信仰を用いなければならないのです。その信仰を豊かに用いた人が、いのちの冠が与えられるのです。いのちの冠はただ信じただけの人には与えられません。行いとともに、信仰を用いた忠実な人にだけ与えられるのです。どうせなら、みなさんいのちの冠をいただきましょう。アーメン。

2.ラハブの信仰

二人目の例はラハブです。ヤコブ2:25「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」ラハブと言う人はヨシュア記の最初に出てきます。ヨシュアたちがエリコに攻め上ろうとしました、しかし、エリコは高い城壁で囲まれた難攻不落の町です。そこで、ヨシュアは二人の使者、いわゆる斥候を遣わしました。二人がラハブの家にいることがばれて、エリコの王さまは兵士を送りました。ところがラハブは二人をかくまって、「暗くなって、門が閉じられるころ出て行きましたよ。急いで行けば追いつけるでしょう」と言いました。そして、二人を逃がすのですが、その前に約束をさせました。彼女は「葦の海を枯らしたのは主である。あなたがたの神、主こそまことの神であると信じています。だから、この町を攻撃しに来たとき、私の父、母、兄弟、姉妹、また彼らに属する者を救い出してください」とお願いしました。二人は「分かった。私たちがこの地に入って来たなら、窓から赤いひもを結び付けておきなさい」と約束しました。その後、城壁が奇跡的に崩れ、ヨシュアの兵士たちが、町を攻め上ってきました。その時、町に住むすべての人々、家畜まで剣の刃で聖絶されました。ただし、ラハブとその親族だけが町の外に連れ出され、生かされました。ヘブル人への手紙は「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」と言っています。

すごいですね。ラハブは遊女ですから、聖書的にもかなり問題があるでしょう。罪があるのではないでしょうか?本当に行いによって、救いが与えられるのでしょうか? しかし、重要なのは彼女がどういう生活をしていたかではありません。彼女がヨシュアの部下二人をかくまったという事実です。二人の偵察隊を助けたという行いがあったからです。それでは信仰はなかったのでしょうか?信仰がなければ、二人を助けるようなことはしないでしょう。災いを避けるために、さっさとエリコの王様に二人を差し出していたでしょう。ラハブには信仰がありました。ヨシュアの神がまことの神さまであり、エリコがまもなく滅ぼされることを信じていました。そして、この二人を助けて、契約を交わすならば、一家は滅ぼされることはないと信じていたのです。ハレルヤ!ルカ16章に面白いたとえ話があります。あるところに、主人の財産を乱費している管理人がいました。今で言うなら、ギャンブルか投資でしょう。そのことが主人にばれて、会計報告を出せと言われました。彼はまもなくクビになることが分かっていました。「土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしい。じゃあ、こうしよう」と考え、実行しました。彼は主人の債務者を一人ひとり呼んで、油100バテを「50」と証文を書き換えました。また、小麦100コルを「80」と書き換えました。そして、彼らに「私が仕事をやめさせられたときは、どうか私を迎えてください」と恩を売ったのです。主人はそのことを知って、叱るどころか「なんと抜け目のない管理人だ」とほめました。イエス様はそのたとえ話してから、こう教えられました。「不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(ルカ16:9)と。ラハブは信仰によって、二人の使者をかくまうことによって、ヨシュアとコネクションをつけたのです。私たちが永遠の住まいに迎えられるためにはどうしたら良いでしょうか?そうです。生きている間に、イエス様の贖いを信じて、コネクションをつけておけば良いのです。アーメン。

3.たましいと肉体

ヤコブ2:26「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」本来、この26節は前の節からの文脈で語られています。アブラハムやラハブの信仰が行いと一緒だった、くっついていたということです。もし、行いと信仰が離れているならば、その信仰には命がない、死んでいるということです。つまり、本当に信仰があるならば、行いが必ず伴うということを教えています。しかし、この26節の比喩だけを取り上げても、すばらしい教えがここにあります。ヤコブは人間の死とはどういうものであるか、私たちに教えています。医学的に死というのは呼吸や心臓が停止することです。最近は移植のため、心臓が動いていても、脳が死んでいれば、死と同じだとみなしています。一般的に死というのは、肉体の細胞が死んで、亡くなることであります。しかし、ヤコブ書だけではなく、聖書は死とは、たましいと肉体が分離することだと定義しています。たましいとは、霊魂、私たちが「私たちである」と意識している心であります。たとえば、「あなたはどこにいますか?」と聞くと、「私はここにいますよ」と胸をたたきます。しかし、それは胸であります。胸のところにあなたがいるのでしょうか?肉眼では見えなくても、私たちはいるのです。たましいこそが、私たち自身なのです。しかし、レントゲンにとっても、私たちのたましいは写りません。重さも量ることができません。だから、唯物論者は、人は死ねば、無になるんだと言います。医学的にも人が死んだら、脳も死ぬので、思考する場所もなくなるので、無になるんだと考えるでしょう。しかし、日本人はなんとなく、たましいはどこかに行くんだという考えがあります。聖書的にではなく、シャーマニズム的にそう思うのです。また、仏教は輪廻、生まれ変わりを説きます。死んだら無になって、別の何かに生まれ変わるんだと信じています。しかし、聖書に土台した西欧の人たちは、そうは考えません。「たましいは永遠に行き続けるのであり、たましいこそが私たち自身である。肉体はたましいの入れ物であり、土に帰る存在である」と。だから、彼らは死んだ肉体にあまり未練はありません。そのため、臓器移植も進んでいます。その人が行方不明になったとしても、日本人のようにはこだわりません。なぜなら、たましいが神さまのもとに帰ったという信仰があるからです。さらに、はっきりしたキリスト教信仰があるなら、たましいはパラダイスにおり、眠った肉体は終わりの日に復活すると信じています。みなさん、私たちのたましいは死んでもちゃんと意識があります。眠るのは肉体であり、たましいが眠るのではありません。その証拠にルカ16章の貧乏人ラザロと金持ちは死んでから、ちゃんと記憶や意識があります。熱いとか渇いたという感覚さえあります。ですから、死は無になるということでは決してありません。

もし、聖書に土台した死生観、来世観を持つならどうでしょうか?イエス・キリストを信じている人、クリスチャンは、あるときから永遠の世界を生きているということです。私たちがしてきたこと、すること、考えることが、ずっとずっと継続されていくということです。ある人は、自分の過去をリセットするとか言いますが、それは聖書的ではありません。たとえ、死んでもリセットすることはできません。黙示録22:12「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」と書いてあります。何故、私たちは行いを無視できないのでしょうか?それは私たちがどのように生きてきたかが、神さまの前で問われ、またそれに応じて報いが与えられるからです。イエス様は、世の終わり、この地に戻ってこられます。「わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」とおっしゃっています。報いというのは2種類あります。1つは罪に対するさばきという報いです。もう1つは良い行いに対する報いです。「報い」というと私たちは何となくいやらしいと思わないでしょうか?報いを受けるためにやるなんて、安っぽいと思うでしょうか?確かに人から報いを受けるためにやるのは、偽善的かもしれません。でも、聖書は神さまの報いは受けて良い、むしろ求めなさいと言っています。マタイ6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」マタイ6:3,4「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」他に祈りや断食のことが書かれています。イエス様は、はっきりと父なる神さまが報いてくださると言われました。

きょうのテーマは行いの伴った信仰であります。行いの伴う信仰が与えられるためには、結局、どうしたら良いのでしょうか?それは神さまの報いを信じて行うということではないでしょうか?私たちはこれまでの人生で、「どうせ、これだけやっても、だれも認めてくれないんだ」と思ったことはないでしょうか?報われない人生を過ごしてきたのではないでしょうか?逆に、ある人はなんとか人から報われようと努力している人もいます。しかし、それも空しい感じがします。人の目、人の評価というものはいい加減だからです。では、人の評判とか人からの信用はどうでも良いのでしょうか?そうでもないと思います。でも、人の評判とか人からの信用というものは結果であり、実だと思います。それよりも私たちがもっと意識すべきことは、神さまの御眼のもとで生きることです。特に神さまは隠れたところで見ておられるお方です。「私はこれだけ良いことをしました」と誇ると神さまの報いがなくなります。なぜなら、既に人から報われてしまったからです。だから、隠れたところで良い行いをすることは、信仰がなければなりません。逆に隠れたところで悪いことをするのは、信仰がないからです。信仰があれば、人が見ていようと、人が見ていまいと一貫した生き方ができるはずです。ハレルヤ!だれが認めてくれなくても、父なる神さまが認めていてくださる。だれが報いてくれなくても、イエス様が報いてくださる。なんという慰め、なんという励ましでしょうか。そういうふうに誠実に生きているなら、結果的に、人が認め、評価してくれるかもしれません。しかし、必ずしもそうなるとは限りません。一生誤解され、悪評を受け、死んだ100年後に「あの人はすばらしかった」という人が歴史的にたくさんいます。考えてみれば、イエス・キリストも当時の人たちから、さんざん馬鹿にされ、捨てられ、十字架につけられました。イエス様は人々の病を癒し、弱い人々を助け、良いことばかりをしました。良いことだけをしたのに、殺されたのです。地上の生涯において、イエス様はほとんど報いられませんでした。弟子たちもみんな逃げていきました。しかし、この歴史上において、イエス様ほどあがめられ、イエス様ほど高められた人もいません。イエス様のために死ぬ人すらいます。私たちはイエス様と同じではありませんが、生き方の原理は学ぶことができます。これだけははっきりと言うことができます。御子イエス様は、御父のもとで正しく忠実に生きたお方です。だから、御父によって報いられたのです。私たちもイエス様のように、御父のもとで正しく忠実に生きる信仰をいただくことは可能だと思います。イエス様は模範だけではありません。イエス様は聖霊によって私たちの内に住んでおられ、行いの伴った信仰を与えてくださいます。私たちに必要なのは、みことばとイエス様に聞きながら、日々、歩むということです。そうするなら、後から良い行いが実として現れてくると信じます。