2012.2.19「この方こそ、まことの神 Ⅰヨハネ5:18-21」

きょうで、ヨハネ第一の手紙からの講解説教はおしまいです。ですから、本日の説教はこの手紙のまとめというか、結論的なものになると思います。大体、手紙の一番最後には、全体を要約したり、あるいは「これだけは書き送りたい」という大事なことを書くものです。では、ヨハネが最後に言いたかった事というのは何なのでしょうか?ヨハネは、第一に私たちはどういう者であるか、第二は私たちが信じている方はどういう方であるか書いています。

 

1.私たちはどういう者か

 

神の御子イエスを信じている人はどういう者なのでしょうか?Ⅰヨハネ5:18-19「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」「神によって生まれた者」とは、一体、だれのことを指しているのでしょうか?私たちクリスチャンです。イエス様を信じると、私たちは霊的に新しく生まれ変わります。これを新生と言います。生まれつきの人は罪を犯すのが普通であり、罪を犯しても何とも思いません。しかし、神によって新たに生まれた人の性質は違います。「だれも罪を犯さない」と書いてあります。原文のギリシャ語は、継続を意味します。正しく訳すならば、「罪を犯し続けない」という風になります。どういうことかと言うと、罪を犯すことが普通でなくなるということです。罪を犯すと具合が悪くなり、同じ罪を犯さないように方向転換するということです。これを悔い改めと言います。なぜ、そんなことをするのでしょうか?私たちの中に神の性質、種が宿っているので、罪を犯し続けることができないのです。道徳というのは外側からいろんな圧力をかけて、規則を守るように強制します。規則には規則、きまりにはきまりというように、やがては膨大な数になるでしょう。しかし、神によって生まれると、聖霊によって性質が変わります。そして、聖霊が内側から働いてくださるのです。私たちの頑張りとか意思ではなく、聖霊の助けと導きによるものです。

では、「神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです」とはどういう意味でしょうか?「神から生まれた方」とは、神の御子、イエス様のことです。悪い者とは悪魔です。ヨハネ10章にも似たようなみことばがあります。ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」アーメン。私たちの命はイエス様の御手の中にあります。私は洗礼準備会でこのようなたとえを用います。ここに百円玉があるとします。百円玉とはあなたの命です。これを右手でぎゅっと握りました。だれかがやって来て、手の中にある百円玉を取ろうとします。簡単に取れるでしょうか?私を打ち倒さない限り、不可能でしょう。ましてや、主イエス・キリストの御手の中に握られていたらどうでしょうか?悪魔でさえも、あなたの命を奪い取ることはできません。これが救いの確かさであります。しかし、一節に恐ろしいことが書かれています。「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」。まことに残念ですが、福音派の教会でも、このみことばの意味を知らない人たちがたくさんいます。ある人たちは、「イエス・キリストの十字架と復活で、悪魔は破れ、この世は神さまのご支配のもとにある。だから、悪魔のことは気にしなくても良い」と言います。そうではありません。主の再臨が来るまで、この世は悪魔の支配下にあります。キリストの十字架で変わったのは、この世であっても、神のご支配の中で生きることができるということです。イエス様はヨハネ17章でこのように言われました。ヨハネ17:14-15「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」このみことばからも分かるように、私たちはこの世に生きていますが、この世のものではありません。だから、この世は私たちを憎み、さらに、悪い者が私たちに攻撃を加えようとするのです。そのために、私たちは、神様から守っていただく必要があるのです。

ヨハネがこの手紙の中で一番、言いたかったテーマは何でしょうか?私たちに何があると、悪い者によって攻撃を受け、ある時は敗北してしまうのでしょうか?逆に言うと、私たちに何がないと、悪い者に常に勝利できるのでしょうか?それは「罪」です。罪の問題は、Ⅰヨハネ1章にも書いてありました。もし、私たちに罪があるならば、神さまとの交わりが絶たれてしまいます。その人はやみの中を歩んでいることになり、悪い者の標的になるでしょう。悪い者はあなたの救い、永遠のいのちは奪い取ることはできません。しかし、あなたを罪の中にとどまらせ、敗北的なクリスチャンにすることは可能です。私たちが罪から離れ、神さまとの交わりを回復する手立てとは何でしょうか?神さまの前で、罪を言い表すことです。するとどうなるのでしょうか?神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。でも、神さまが私たちを赦すのは、イエス・キリストが流された血潮のゆえであります。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。そして、私たちは再び、神さまと親しい交わりを持ち、光の中を歩むことが可能になります。悪い者、悪魔がなぜ、キリストの血をいやがるのでしょうか?キリストの血がその人の罪を取り除くと、訴える口実がなくなるからです。罪こそが悪魔の餌であり、私たちを訴える材料なのです。私たちに罪がなければ、悪魔はおそれるに足らずであります。だから、私たちクリスチャンは常に、キリストの血に隠れつつ、神さまの光の中を歩む必要があります。もし、自分の義で立とうとするならば、悪魔にやられてしまいます。キリストの贖いによって与えられる、神さまの義を着るのです。そうすれば、悪魔が支配しているこの世であっても、勝利し続けることができるのです。

数週間前、ある集会で、こういうことが話題になりました。私たちクリスチャンに罪があるか、ないかということです。私は「私には罪がありません。なぜなら、神さまから義と認められているからです」と答えました。すると、周りにいる人たちが怪訝そうな顔をしていました。「では、原罪があるだろう」と聞かれ、私は「肉の性質は確かにありますが、原罪はありません」と答えました。「それは、ジョンウェスレーが言う、キリスト者の完全ですか」と言われました。そこでは、神学的な話をしてもしょうがないので、そのまま帰ってきました。家内に「あなたには罪がありますか?」と聞きました。「罪はありません」という答えが返って来ました。「うぁー」さすがだなーと思いました。数日後、ある先生から、「鈴木先生が言われたことはどういう意味ですか?」という電話がありました。そこで、ローマ5章から8章までの流れを簡単に説明して答えました。私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえりました。そのことによって、私たちはもうアダムの子孫ではないのです。そのため、アダムから来る原罪は断ち切られました。あるのは肉の性質です。肉が律法によって刺激され、罪を生み出すのです。たとえ、そうであってもパウロはこう言っています。ローマ8:1-2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」アーメン。私たちは法的に義と認められており、罪がない者として見られているのです。もし、私たちが単なる「赦された罪人」であったら、罪を犯すことが当たり前になるでしょう。なぜなら、自分は罪人だと思っているからです。でも、私たちはキリストにあって義人であり、聖徒なのです。罪を犯すことが当たり前ではないのです。たとえ、罪を犯すことがあっても、義人であり聖徒なのです。ヨハネはパウロと表現の仕方が幾分違っています。法的な意味ではなく、生命的な意味で教えています。クリスチャンは神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。この世は悪い者の支配下にあります。しかし、私たちの命は、イエス様の御手の中にあります。だから、悪い者は私たちに触れることができないのです。このように、キリストにあって、自分が何者であるかを知るということは、とても重要です。聖書が私たちを何者と言っているか、そこに焦点を合わせていけば、そのように生きることができるようになるのです。

 

2.私たちが信じている方はどういうお方か

 

第二は、私たちが信じている方がどういうお方であるか、それを知ることがとても重要です。Ⅰヨハネ5:20-21「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」私たちが信じている方とはどういうお方なのでしょうか?このところに登場しているお方はお二方おられます。第一は神の御子です。御子イエス・キリストとも書かれています。第二は「真実な方」と二回書かれています。真実な方とはだれでしょうか?もちろん、真実な方とは、父なる神さまのことです。ヨハネ第一の手紙に、同じように呼ばれている箇所があるのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「神は真実で正しい方」と書かれています。「神の愛」「神は愛です」と何度も記されていますが、「真実な方」と言われているのはここだけです。なぜ、ヨハネは「愛なる方」と言わないで、「真実な方」と紹介しているのでしょうか?このところの分脈から判断しますと、「悪い者」とは悪魔のことです。ヨハネは悪魔のことを何と言っているでしょうか?ヨハネ8:44「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」そうです。悪魔のうちには真理がありません。悪魔は偽り者であり、また偽りの父です。悪魔と反対に、父なる神さまは真実なお方です。となると、悪魔との戦いはどのような戦いになるのでしょうか?それは、真理における戦いです。もし、私たちが真理とは何であり、偽りとは何であるかを知るならば、悪魔に勝利することができるのです。だから、18-20節には「知る」という言葉が、3回記されています。特に、20節前半には、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」と書いてあります。そうです。神の御子であるイエス様が「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださった」ということです。この世の人は、悪魔をまるで神さまのようにあがめて礼拝しています。逆に、まことの神さまを悪魔のように遠ざけています。なぜでしょう?神の御子であるイエス様を通して、神様を見ていないからです。聖書以外の書物を読んだり、宗教家の教えを聞いているからです。恐ろしいことに、日本では霊能者や占い師の言うことを信じている人がたくさんいます。日本の仏教のほとんどは密教と結びついていますので、悪しき霊が影響しやすいのです。

私たちが悪しき霊、あるいは悪魔との戦いにおいて最も費やすべきことは、真理とは何かを知る作業です。では、真理とは何なのでしょうか?多くの人たちは、片方に真理があって、もう片方に偽りがあると考えています。また、片方に善があって、もう片方には悪があると考えています。しかし、それは正しくはありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、右端と左端の方に偽りとか悪があるのです。それを狭い道にたとえることができます。道幅が2メートルくらいの農道で、両脇には溝があるとします。その道を自転車で走る場合は、道の真中を走らなければなりません。右側に寄り過ぎると溝に落ちます。反対に左側に寄り過ぎると溝に落ちます。真理というのは真中にあるのです。そして、極端なものが偽りであり、悪なのです。信仰生活は極端の溝にはまらないように進む、スリルあるものなのです。悪魔が、神さまが造られた世界にやって来ました。悪魔は造り主ではありません。悪魔ができるのは、神さまが造られたものを、良いものを悪いものに歪めていくことです。しかし、それを悪い方に変えるというのは、両脇の溝にはまらせることです。たとえば、セックスに関して、一方は不品行や乱交をするように誘惑します。もう一方には「セックスは悪いものであるから絶対それから遠ざかるべきである」と言ってきます。憎しみに関してはどうでしょう?一方は「クリスチャンは決して憎しみなんか持つべきではない。何に対しても、忍耐を持ち、我慢する。どんなことに対しても、感情を持つべきではない」と言ってきます。悪魔は自分のことを憎んで欲しくないからです。しかし、神さまは咎を憎む者を愛しておられます。悪霊に関してはどうでしょう?一方には「悪霊などいないんだ。そんなの時代遅れだ」と言います。もう一方は「すべてが悪霊のせいだ。病気も家族に争いがあるのも悪霊のせいだ」と言ってきます。このように悪魔は良いものを悪いものに歪めて変えていきます。そして、どちらかの極端に生きるように誘惑します。私も心理学やカウンセリングについて長い間学びました。しかし、キリスト教会にも両極端があります。神学を強調する人たちは、「神を信じていない心理学者の言うことを聞くな。私たちは新しく生まれ変わったのだから、過去のものは過ぎ去ったのだ」と言います。一方、心理学を強調する先生は、人間の罪のことを全く話しません。「社会のせいだ、おいたちが悪かったんだ」と言います。人間には霊もあるし、心もあります。私たちは両者をバランスよく取り扱う必要があります。

イエス・キリストの中には、神と人がバランスよく存在していました。イエス様はまことの人であり、まことの神でした。イエス様は私たちが神さまのもとでこのように暮らすべきですよ、と模範を示してくださったのです。クリスチャンになると、聖められ過ぎて、世の人たちと交わらない人がいます。しかし、イエス様は取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。その時、律法学者やパリサイ人は何と言ったでしょうか?「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と馬鹿にしました。もし、私たちがこの世の人たちと全く交わらなかったなら、伝道することは不可能です。しかし、彼らの誘惑にはまってしまう危険性も同時にあります。また、私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か分かります。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われました。ある聖書学者はこのみことばを、イエス様は「真理でいのちの道である」と訳しました。イエス様は、神さまのところへ行く唯一の道なのですが、真理でいのちの道であるということです。ある人たちは、イエス様抜きで、イエス様をバイパスして、神様のところへ行こうとします。多くの場合、彼らが主張する神さまは、本当の神さまではありません。愛とか恵みばかり強調されて、義のない神さまであったりします。あるいは、全知全能であっても、人格のない神さまであったりします。ヨハネは最後に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」と言いました。ヨハネ第一の手紙の最後のことばは唐突過ぎるでしょうか?でも、このように文脈を見ながら、学ぶと、「イエス様抜きの神さまは、偶像になるんだなー」ということが分かります。偶像とは人間が自分たちの都合の良いように作った神さまです。日本の新興宗教は、先祖崇拝を絶対はずしせません。聖書の良いところを取り入れたり、ある場合はキリストも神さまの一人であると言います。でも、そこに存在しないものがあります。それは人間の罪であり、罪を贖う救い主がいないのです。復活もなければ、御国の完成もありません。魂がどこか知らないところで、フラフラ暮らすのです。当然、地上での生き方にも支障をきたしてきます。なぜなら、真理に即した生活をしていないからです。私たちはイエス・キリストを通して、神様に到達することができるのです。また、すべての真理もイエス・キリストを通して分かるのです。

最後に、20節の後半をお読みいたします。「それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」聖書では、イエス・キリストが神さまであると直接、言っているところはほとんどありません。しかし、Ⅰヨハネ5:20は、イエス・キリストが「まことの神、永遠のいのち」であると書かれています。どの英語の訳の聖書も、そうなっています。私は「キリスト教」という言い方はあまり好きではありません。しかし、「絶対にキリスト様の名前ははずせないなー」と思います。なぜなら、キリストを通して、神さまのことが分かるし、キリストを通して神さまのところに行けるからです。さらにイエス・キリストご自身が神さまでもあります。カール・バルトは20世紀の最大の神学者だと言われています。私はちょっと立場が違うのですが、カール・バルトが強調したことには賛成です。彼はキリスト論をとても強調しました。「たとえ聖書に間違いがあったとしても、キリストを証言していることにおいては正しい。キリストこそが受肉したことばであり、啓示の中心である」と言いました。私はキリストを証言している聖書も誤りのない神のことばだと信じています。でも、キリストを通して聖書を読まないと、律法主義になったり、単なる教えになることがあります。キリストを通して神さまを見るならば、愛であり義なる神さまが分かります。哲学者であり、科学者であるパスカルがクリスチャンであることはとても有名です。パスカルも妹のジャクリーヌも天才でした。宮廷において名声を得ていた彼女が、突然、修道院に入りました。姉も結婚し、パスカル一人だけが残されました。パスカルはその才智ゆえに、社交界でも人気を博していました。しかし、人々の「きらびやかな楽しみ」に付き合うのに限界を感じました。11月23日午後10時半、突然、「火」が臨みました。奇跡が、夜の12時半まで続きました。そのとき、パスカルはこのように叫びました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神。キリスト!キリスト!キリスト!」パスカルはすべてを放棄して、イエス・キリストに完全に服従することを誓いました。パスカルは、自らの証明を忘れないように、「覚え書き」を肌着に縫いつけていたようです。パスカルはキリストと出会って、神さまがわかり、真理がわかり、永遠に至る人生が分かったのです。私たちもヨハネのように告白したいと思います。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」アーメン。å