2011.05.08 舌を制御する ヤコブ3:1-8

きょうの箇所は私自身、非常に話し辛い箇所です。なぜなら、舌つまりことばに関することだからです。私はことば使いが非常に雑であり、多くの人を傷つけてきました。同時に私は説教者ですから、ことばを用いて奉仕をしています。外科手術でメスはとても重要な器具です。ブラックジャックのような熟練したお医者さんに握られるとすばらしい働きをします。しかし、いい加減なお医者さんに握られるとどこを切られるか危なくて仕方がありません。ことばも、鋭いメスのような存在です。人を活かすこともできるし、人を殺す道具にもなります。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」なぜ、教師が格別きびしいさばきを受けるのでしょう?それは、彼らの仕事がことばを用いているからです。教師が悪いことばや偽りを語るなら、多くの人たちを汚し、惑わすでしょう。そういう意味で、きょうの箇所は、私にとっても厳しい箇所です。

1.舌の持つ力

ヤコブはいくつかのたとえを用いながら、舌のもつ力、その破壊力を教えています。3節には馬とくつわの関係で示しています。馬は大きくてものすごい力があります。人が馬を御するときは、どうするでしょうか?くつわを口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことはありませんが、右の方に引っ張ると馬は右に行くでしょう。左の方に引っ張ると左の方に行くでしょう。両方引っ張ると止まるかもしれません。2番目の例は、船とかじの関係です。ここにあげられているのは、風で動く大きな帆船です。風がびゅっと吹いてきたら、風になびいて帆船は進むでしょう。しかし、船には舵があります。船全体とくらべたら、とても小さいです。船が風になびいても、小さな舵を回したら、別の方向に進ませることができます。3番目の例は大きな森と小さな火です。小さなマッチやタバコの火で、森全体を燃やすことができます。もし、森が私たちの人生であるなら、火は私たちの舌です。体の中で、とても小さい器官ですが、この舌によってからだ全体を汚し、地獄に突き落とすような破壊力があります。日本では、大臣が1つの失言によって、辞任に追い込まれることがよくあります。夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったため、離婚に発展することもあるでしょう。私のように聖書を語る人は、生と死の鍵を握っています。十戒を示して人を断罪することもできますし、福音を語って人を活かすこともできます。

みなさんなぜ、舌、つまりことばをあなどることができないのでしょう。ある人たちは、「ことばは単なる音の流れ、音波だ」と言うかもしれません。日本語では言の葉と書きます。言の葉っぱですから、ぱらぱらと散るイメージがあります。葉っぱは幹と違って、たいしたことがない感じがします。しかし、ことばとは「言魂(ことだま)」と言って、ことばには魂が宿っているのだという説もあるようです。では、聖書的にことばはどうなんでしょうか?創世記を見ますと、神様はことばによって世界を造られました。「光よ、あれ」と言ったら光があったのです。また、預言者が呪いを発するとそのようになります。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになります。ユダヤ人はことばは単なる音波ではなく、そこには実体があると考えたようです。だから、彼らが「シャローム」と挨拶するなら、「平安がその人にくるんだ」と理解していました。私たちが契約するときも、たとえ書面に書かなくても、口で約束した場合は履行しなければなりません。たとえば、ここにレモンがあるとします。今、ナイフでレモンを半分に切りました。どうぞ、口を開けてください。私がその半分をあなたの口にギュッと絞ります。そうすると、皆さんの口の中にすっぱい感じがするのではないでしょうか?良くないたとえ話ですが、たとえば、だれかから「お前を今晩12時に殺してやる」と言われたとします。言われた本人は、怖くて眠れないのではないでしょうか?それは恐喝という立派な罪になります。本当にことばで人を殺したり、病気にすることもできるのです。権威あるお医者さんから、「あなたの命はあと半年ですよ」と言われたら、ガーンと奈落の底に落とされた気になるでしょう。だから、ことばは正しく用いないと、自分や人々の人生を破壊してしまうということです。

2.舌が癒される

ヤコブは「舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちている」と言っています。福島の原子炉が今、大変なことになっています。制御することが難しく、今も放射能を撒き散らしています。私はクリスチャンになってから、本当に悩みました。なぜ、私のことばは粗野で、人を傷つけるようなことばを発するのだろうと思いました。箴言を読むと、ことばの弊害についてたくさん書かれています。箴言10章「無駄口をたたく愚かな者は踏みつけられる。そしりを口に出す者は愚かな者である。」箴言13:3「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る」と書いてあります。私が26歳のとき、神学校で伝道実習のときがありました。何人かのグループで、川越に行き、商店街で高校生たちにちらしを配布します。その後、喫茶店の二階で集会を開くのです。ある時、私が証しをすることになっていました。証しの前に、先輩の渡辺姉妹が祈ってくれました。「神さま、どうぞ鈴木兄弟の唇を清めてください。どうか、鈴木兄弟の口をどうか、どうか清めてください」と祈りました。私は心の中で「やかましい。これから証しをするのに、へこむだろう」と思いました。私はそれほど唇の汚れた者だったらしいのです。

どうでしょう?みなさんの中に、口が勝っ手に悪いことを言う。ことばで失敗したり、人を傷つけるタイプであるという人はおられるでしょうか?私は本当にそうです。家内が良く知っています。え?家内だけではない?よく、日本人は「口は悪いけど、腹の中は良い」と言います。しかし、それは聖書的ではありません。イエス様は福音書で口について何度か教えておられます。マタイ12:34,35「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです」。マタイ15:18「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」と教えられました。つまり、「口と心は連結しており、口は心で思っていることを語っているんだ」ということです。ですから、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良いもので満たされる必要があるということです。どうでしょう?人はイエス様を信じると霊的に新しく生まれ変わります。心に神さまの愛が満たされ、だんだん良いことばを話すようになるのではないでしょうか?それは道徳とか倫理の世界ではありません。神さまの愛が、聖霊様が私たちを変えてくださるからです。クリスチャンの心は以前は悪い倉でしたが、今では主にあって良い倉に変えられたのです。あなたはすでに良い倉を持っているのです。

しかし、申し訳ありませんが、悪いニュースが1つあります。それは私たちの悪い習慣が体の中に残っているということです。樹木にたとえるとこうです。根っこが悪いことばのもとであり、実が「悪いことば」だとします。根っこが癒されても、幹、つまり、習慣とか性格が癒されなければなりません。幹とは私たちの思い、マインドであります。私たちは子どものとき、否定的なことば、悪いことばをいっぱい浴びせられてきました。特に、怒って言われたことばは、マインドコントロールになって私たちの中に留まります。「お前は何をやってもダメだ」とか「お前はうちの子じゃない、出て行け」とか「くさい、気持ち悪い、死ね」とか、悪いことばによって私たちは汚されてきました。私たちは条件反射的にそういうことばを言われると、「お前こそ死ね」と言い返してしまうのです。私は上の兄には腕力で全くかないませんでした。その代わり、口で相手を攻撃しました。『王家の者として生きる』という本の中で作者はこう証ししています。幼い時に見捨てられ虐待されて来た子どもの多くは、自分は恥ずべき者だ、誰にも必要とされていない、取るに足りない者だという自己像を抱いてしまうのです。このような嘘の結果、私たちは敵地である世の中から自分を守るために出来上がった行動パターンを身につけてしまいます。最も基本となるアイディンテティを攻撃されて育った私たちは、とにかく何をおいても痛みをひた隠し、生き残るためだけに存在するようになってしまうのです。私の身につけた生き残り作戦の1つは、辛口のユーモアでした。私のジョークは人々を陥れ、彼らを馬鹿にする内容でした。もちろん彼らが気を悪くしているというのに気付いていませんでしたが、無意識のうちに他人の自尊心を傷つけることで、自分の気を休めていたのです。他人の失敗談をジョークで笑い飛ばしながら、ただ人を笑わせているつもりの私は、その笑いで人々の心を傷つけていたのです。

私はこの本を読んで、ああ、これは自分のことだと思いました。しかし、イエス様は私を、私たちを癒してくださいます。どうすれば癒されるのでしょうか?これはエリヤハウスの方法です。第一は、「ああ、私はそういう者だ」と認めることです。第二は告白です。「そうか、そういう訳で私は悪いことばを使うようになったのだ。これは自分を防御するための武器だったんだ。しかし、これから私は自分をこのように防御する必要はない。なぜなら、私は神の子であり、王子なんだ。私に対する悪い評価は私にはあてはまらない。たとえ、非難されたり、馬鹿にされることがあっても、私の世界は壊れないんだ。アーメン」。第三は「主よ、今まで、この口で人々を傷つけ、この舌で人々を呪ってきました。どうか赦してください」と祈ります。第四は「悪いことばの構造、性格を十字架につけます。十字架につけて死なせます。アーメン。」第五は「主よ、私に新しい命をください。今度は私に良いことば、人を活かすことばを与えてください」と祈ります。

3.舌を制御する

私たちは舌を制御する必要があります。前の段階は癒しでした。私たちの心が生まれ変わり、思いが変えられる。そして、 悪いことばを語る性質を十字架に付け、新しい命をいただく祈りをしました。これで終わりかというとそうではありません。最後はライフ・スタイルチェンジが必要です。どういう意味かというと、新しい性質を身につけていくということです。どうでしょう?自転車でも水泳でもそうですが、教室だけでは学ぶことができません。実践が必要です。何度も何度も、やって体に身につける必要があります。自転車でも水泳でも一旦、からだが覚えたら、意識しなくてもできます。でも、それまでになるためには繰り返し、繰り返し実践すること必要です。それはことばの世界も同じなのです。そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。つまり、私たちは、今後、この舌に悪いことばを語らせないように注意する必要があります。ヤコブは何と言ったでしょうか?ヤコブ3:2「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」「完全な人」とは、ギリシャ語でテレイオーですが、「大人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、クリスチャンとして成熟した人は、ことばをしっかり、制御できる人なんだということです。

Ⅰペテロ3:10,11「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」使徒ペテロもヤコブと同じようなことを教えています。もし、人がいのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思うなら、どうすれば良いのでしょうか?「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないように」すれば良いのです。私たち日ごろ、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、さばかれたり、自尊心を傷つけられたりします。そのとき、私たちは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言いたくなります。これまでそうしてきました。「目には目を、歯には歯を、口には口を」であります。そのときに、聖霊の助けによって、舌を押さえて悪を言わないようにするのです。みなさんは私と違って育ちが良いと思います。そんな乱暴なことは言わないと思います。たとえば夫婦喧嘩をしたとします。どっちが、ことばがたくさん出るでしょうか?妻の方であります。妻はマシンガンのようにババババババと撃ちまくります。夫はどうするでしょうか?アアアアアアと撃たれながら、(手榴弾の)ピンを抜くのです。そして、どかんとなります。つまり、口でかなわないので、手が出るのです。夫は母親からことばの被害にあってきたので、過剰に反応するところがあります。どうぞ、気をつけてください。何度か失敗するかもしれませんが、習慣化するためには、訓練が必要です。

ケネス・ヘーゲンという人は、『愛、勝利に至る道』でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は「自分の舌に悪をやめさせること」です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また、神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。あるとき、一人の牧師が問題を起し、彼はその教会を去らねばならなくなりました。私はだれかに、「あの人は何をしたんですか?」と尋ねると、その人はその奉仕者が行ったことを私に話してくれました。ところで、私は考えることをせずにこう言いました。「良識のある人なら、そんなことはしないでしょうね」。ふだんならすぐ眠れますが、その夜は眠れませんでした。二日目、三日目の晩も眠れませんでした。ついに私は主に言いました。「主よ、私の何がいけないのでしょうか?私の信仰があなたとつながっていないのですか?」主が私に語りかけました。「あなたは○○兄弟について○○と言いませんでしたか?」とその牧師の名前を言われました。「はい、私はただ、『良識のある人なら、そんなことはしないでしょうね』と言っただけです。」主は私に1つの質問をされました。「彼がどんなプレッシャーを受けていたか、あなたは知っているのですか?」「いいえ」と私は言いました。主は私に言われました。「もし、あなたがそれと同じ立場にいたなら、あなたは彼ほど立派にはできなかったかもしれません」。私は涙を流しながら言いました。「ああ、神さま、私をお赦しください。私は悔い改めます」。私は悔い改めるやいなや、瞬間的に癒されたのです。私はベッドに入って、ぐっすり眠りました。幾日かぶりでした。私が主のしもべたちを批判しないように自分の口を閉ざしておくことを教えてくれたのは、このような数々の状況でした。他の人を批判するのは、いとも簡単です。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派には行うことができなかったのかもしれません。「裁くのをやめなさい。あなたがたも裁かれないためです」。

4.舌を活用する

ヤコブは舌の破壊力を語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。くつわを口にかけることにより馬全体を引き回すことができます。船の舵を取ることによって、船全体を思い通りの所へ持っていくことができます。もし、舌を正しく制御するなら、人生をも変えることができるのではないでしょうか?私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。ある人たちは何か起こると、「ああ、最悪だ」と言います。本当に最悪なのでしょうか?また、ある人たちは「病気がなかなか治らない。このままだと死んでしまう」。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかないんだ。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし、私たちがこのような否定的で破壊的なことばを発したならどうでしょう?最悪が起こり、体がますます悪くなり、失敗を重ねる人生になるのです。なぜなら、発したことばに力があるからです。失敗している人のことばをよく聞いてみると、否定的で破壊的なことばを常に発しています。私たちは逆に、肯定的で生産的なことばを発して、人生を良い方向に導いていく必要があります。マルコ11:23 「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」イエス様は、「○○と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる」と言われました。だから、私たちは問題や出来事に向かって、「動いて、海に入れ」とか「山よ、平地になれ」とか言わなければなりません。言えば、そのとおりになるのです。

ある女性が牧師先生にこう言いました。「私は長年、このぜんそくを患っていますが、私はそれからいやされません。お祈りしてもらったことは何度もあります。しかし、他の人たちと違って、私はいやされません。幾晩も、私はこのぜんそくで息苦しくなって、あと一息も呼吸できなかったことがあります。このような発作があった次の日は、私はベッドから出ることさえできません。また、あるときは、その日の初めは良くても、昼ごろまでにはぜんそくが始まって、何もできなくなります。私はなぜいやしを受けられないのでしょうか?」先生は彼女に言いました。「あなたが重いぜんそくをわずらっているのは確かですが、私がお話ししたいのは、そのぜんそく以上ではないかもしれませんが、それと同じくらい深刻なことです。あなたの否定的な態度です。あなたは私が今まで見たことがないくらい、『私はできない』という悪い症状をお持ちです。あなたの生活の中で何らかの改善や、何らかの癒しを期待する前に、その『私はできません』を『私はできますに』換えなければなりません。あなたがそうしないうちは、神は願っておられるやり方ではあなたを助けるためには働くことができないのです」。彼女は先生の言うことを受け入れ、涙を流しながら尋ねました。「ですが、私はどうすれば良いのですか?」先生は聖書のピリピ4:13を開いて、彼女に読んでもらいました。そして、こういい始めるように指導しました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。私はいやしを受け取ることができます。私はキリストを通して完全に健康になれます。キリストは私の力であり、私のいやし主です。キリストの打ち傷によって、私は癒されています」。それは瞬間的な回復ではありませんでした。彼女は長い間「私はできません」を言い続けてきたので、神のことばを言わせるのには、訓練期間が必要でした。けれども、何ヶ月後、彼女は、恐ろしいぜんそくから完全にいやされたという証しを熱心に話してくれました。私たちは自分の口で言うとおりになるのです。どうぞ、神さまと一致すること、神さまがみことばの中で言われることと同じことを言いましょう。