2012.2.26「御国をもたらす ルカ4:16-21」

ヨハネ第一の手紙が終りましたので、3月からはペテロ第一と第二の手紙からメッセージしたいと思います。2月の最後の週、1週空いていますので、特別なメッセージを用意させていただきました。ルカ4章のみことばは、イエス様がこれから公生涯を始めるに当って、語られた宣言文であります。「キリストのマニフェスト」と言っても過言ではありません。「ご自分がメシヤとして、どのようなことを行うのか」ということをイザヤ書の巻物から語られました。ルカ4章の内容は、イザヤ書61章から引用したものです。当時はヘブル語をギリシャ語に訳した70人訳を使っていたので、微妙に違うところがあります。これが、日本語に訳されると、さらに混乱してしまいます。しかし、きょうは釈義の方は後回しにして、イエス様がなさろうとしておられた5つの働きに注目したいと思います。

 

1.福音宣教

 

イエス様がなさろうしておられた最初の働き(ミニストリー)は何でしょうか?18節の初めに、「私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を宣べ伝えるようにと、私に油を注がれたのだから。」とあります。イエス様の地上での第一の働きは、福音を宣べ伝えることでした。福音とはgood newsですが、一口では言えない内容ではないでしょうか。クリスチャンに「福音って何ですか?」と聞くとどう答えるでしょうか?「福音って何ですか?」「いやー、すかっと、爽やかですよ」。コカ・コーラ飲んでも、すかっと、爽やかしますよ。「福音って何ですか?」「いやー、気持ち良いですよ」。お風呂に入っても気持ち良いですよ。福音って何でしょう?「良い知らせ」には違いありませんが、単なる良い知らせではありません。マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」私たちは、この地上でいろんな重荷を背負って生きています。現代は就職難の時代で、仕事にありつくことが大変です。また、「年金とか介護保険で大丈夫だろうか?」と、老後の心配があります。ある人は、過去に犯した失敗や罪責という重荷を負っています。人の顔が怖くて学校にも会社にも行けない人がいます。イエス様は十字架ですべての重荷を負って死んで、それらを葬ってくださいました。そして、三日目に復活して、神さまとの和解の道を設けてくださいました。負いきれない重荷があるのは、造り主である、神さまから離れているためです。イエス様を信じて、神様と和解するとき、重荷が取り去られ、本当の平安がやってきます。ある人は「宗教はきらいです」と言うかもしれません。「いえ、キリスト教は宗教ではありません」と答えても良いですが、こう答えたらどうでしょうか?「宗教」は「結び直す」というラテン語から来ています。人との絆も大切ですが、先ず、神さまとの絆を回復することが大切です。テレビや冷蔵庫の電源が切れていると動きません。私たちも神さまから離れているので、いろんな問題や重荷で苦労しているのです。イエス様は「すべての重荷を負っている人は、私のところへ来なさい。休ませてあげよう」と招いておられます。こんな風に説明したらいかがでしょうか?

「それでも結構です」と言う方がおられるでしょう。でも、思い煩わないでください。みことばは何と言っているでしょうか?「貧しい人々に福音を宣べ伝えるように」と言われています。そうです。人は心が貧しくならないと、福音には耳を傾けないのです。「大丈夫、間に合っています」と言います。しかし、「大丈夫」でないときが、必ずやってきます。そのときに、また福音を伝えてあげれば良いのです。それまでどうしたら良いでしょう。松戸の岡野先生が「生活伝道」ということを教えておられます。それは見返りを求めないで、福音の愛で愛するということです。その人に、ただ愛して仕えることです。すると、やがて、「どうして私にこんなことをするのですか?わけを教えてください」と言うでしょう。そのとき、自分を変えた、神様の愛を証しすれば良いのです。福音は神学的に勉強すればするほど、恐れがやってきます。論理的に、複雑に話したりしがちです。一番大切なのは、「自分がイエス様を信じてどうなったか?」です。自然食品やサプリメントと同じように、「こんな風に良かったよー」と証しすれば良いのです。昨年の暮れ、クリスマスコンサートで、ダンボール証がありました。「金がすべて」から、「愛がすべて」とか、いろいろありました。「人によって、救いの窓口が違うんだなー」と思いました。教会にいろんな人がいるのは、いろんな人が救われるためです。福音宣教と言うと硬くなりますが、自分が今、持っているものから始めてください。

 

2.解放

 

第二は「主は私を遣わされた。捕らわれ人には赦免を」です。これはどういう意味でしょうか?原文を直訳しますと「捕虜から解放する」ということです。「もう、あなたは奴隷じゃありませんよ」ということを知らせてあげるということです。イスラエルは歴史において、2回、捕虜の時代がありました。1つはエジプトのパロ王のもとで奴隷の生活をしていました。主がモーセを遣わして、彼らを救い出しました。2つはバビロンの捕囚の期間がありました。そのときは、主がクロス王を立てて、エルサレムに帰還させました。この世の人たちは、何に縛られているでしょうか?罪と死の力によって縛られています。そして、その背後にはサタンがいるのです。イエス・キリストが来られたのは、罪と死の中にいる人々を解放するためです。そのために、イエス様は十字架で死なれ、三日目に、よみがえられたのです。だれでも、イエス・キリストを信じるなら、サタンの支配から、神の支配に移されるのです。しかし、この世の人たちは、偽物の神さまを拝んでいます。人間が考え出した神社仏閣や、死んだ人間を拝んでいます。さらには、占い師や拝み屋に通っている人さえいます。その背後には悪霊がいるので、最後には恐れとジンクスで縛られていまいます。あっちの方角が良いとか、この日は悪いとか、この色は良いとか、みんな嘘です。悪魔は嘘つきの父と呼ばれており、神のかたちに似せて造られた人間をまどわしているのです。病気が治ったり、ちょっと良いことがあったとしても、その人の魂をつかまえて離しません。偶像礼拝を悔い改め、悪魔との契約を断ち切るときに、本当の解放がやってきます。イエス・キリストの御名には力があるので、悪霊どもは逃げていきます。最も重要なのは、偶像礼拝の罪を悔い改め、まことの神さまに立ち返ることです。そうするなら、イエス・キリストの御名によって、暗やみの力から、完全に解放されることができます。

日本では、教会であっても悪魔とか悪霊のことをほとんど話しません。だから、悪霊は隠れて働いています。家族の中の一人が救われても、他の家族が救われないのは何故でしょう?それは、悪魔がその家系を握っているからです。仏教の場合は、先祖代々から続いているので、そう簡単に救われません。仏壇やお墓を守らなければならないので、ついつい妥協してしまいます。そうすると、子供たちは信仰を持つことが困難になります。座間キリスト教会に三畑長老さんという人がいました。救われる前は、お酒が本当に好きで、奥さんから「それだけ好きだったら」と、頭からお酒をかけられたそうです。初めて教会に来た日、三畑さんは一番後ろで、斜に構えて聞いていました。その日、大川牧師がヨハネ2章から水がぶどう酒に変わったお話をされました。そのとき、「イエスさんて話がわかるねー」といっぺんでイエス様が好きになったそうです。その後、イエス様を信じて、ご長男と一緒に相模川で洗礼を受けられました。家に帰ってくると、仏壇と神棚が目にとまりました。「こんなの本当の神さまじゃない」と仏壇と神棚を引き降ろして、庭に出しました。それを、まさかりで割って、風呂を沸かしたそうです。「気持ち良い-」と言ったかどうか、わかりませんが、救われてから、どれが本物か目が開かれたのです。その後、何となったでしょうか?社員が数名、家族全員、孫、ひ孫さんまで救われました。イエス様はあなたに解放を与えてくださいます。

 

3.奇跡と癒し

 

18節半ばに「盲人には目の開かれることを告げるために」とあります。イエス様の公生涯の3分の1は、奇跡と癒しに費やされました。あるとき、牢に捕らえられていたバプテスマのヨハネが、弟子を遣わして、尋ねさせました。「あなたが本当に来るべきお方でしょうか?」と。その時、イエスさまは何と報告せよと、おっしゃったでしょうか?「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:5-6)そうです。来るべきメシヤのしるしは、目の見えない人が見えて、足のなえた人が歩き、らい病さえもきよめられるということでした。さらに、イエス様は弟子たちにも、同じことをするようにお命じになられました。昔の聖歌にとても強烈な歌がありました。差別用語だということで、今はあまり歌われなくなりました。「耳しいよ、聞けよ。目しいよ見よ、足なえよ歩け、おーしよ歌え」。イエス福音教団の穐近牧師が踊りながら、この聖歌を講壇から歌っていました。穐近牧師は日系人でしたが、「私を日本に遣わして下さい」とマッカーサーに直訴した宣教師です。当時の日本の教会は、リベラルの影響を受け、聖書をそのまま信じていませんでした。「今は癒しや奇跡はない。霊的な盲人が見えて、霊的な足なえが歩き、霊的に耳が聞こえない人が聞くんだ」と解釈していました。穐近牧師は、聖書を頭に載せながら、「聖書は頭に載せるものではない。聖書はそのまま信じて、実行することなんだ」と説教しました。

医学が発達した今日、奇跡や癒しは不要なのでしょうか?教会は病人のためにとりなして祈るかもしれません。しかし、多くの場合、「このお薬を用いてください。医療機器やお医者さんを祝福してお持ち意ください」と祈るのではないでしょうか?神さまは自然のものを作ったので、そういう祈りも悪くはありません。でも、いくら人間の医学が進んでも病気はなくなりません。むしろ、治療法のない難病が増えています。人は病気を直すために病院に行くかもしれません。でも、人が死ぬのも病院であります。過半数は病院で死ぬのです。イエス・キリストは十字架で、病を負われました。だから、病の癒しも、贖いの中に含まれているのです。イエス様はマルコ16章で「病人に手を置けば癒されます」とおっしゃいました。これは賜物があるとかないとかではなく、信じる者、すべての人に対する約束です。薬やお医者さんを否定しているのではありません。私たちは、あまりにもそういうものを過信して、病の癒しを過少評価しているということを言いたいのです。神の健康が与えられることを信じます。モーセは120歳まで生きましたが、病気で死んだのではありません。神さまがお召しになったから死んだのです。私もそういう死に方をしたいと思います。病の癒しは神さまのみこころです。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

 

4.心の癒し

 

第四は心の癒し、インナーヒーリングです。「しいたげられている人々を自由にし」とあります。カウンセリングと言っても良いかもしれません。この世のカウンセリングは罪の問題は扱いません。絶対者なる神も罪の悔い改めもありません。しかし、キリスト教は霊的な救いだけを強調し、心の問題についてはあまり触れてきませんでした。「人は救われたら、すべてが新しくなったんだ。古いものは過ぎ去ったんだ」と言ってきました。ところが、心の傷があったり、歪んだ考えがあるために、正しい信仰生活ができないということが、近年、分かってきました。「しいたげられている人々」とはどういう意味でしょうか?社会的に圧迫されている人々が身分を回復するという意味もあります。しかし、現代的には、「虐待されている人々」というふうにも取ることができます。昔は虐待という言葉は、なかったんじゃないかと思います。躾とか教育という名で、ひどい虐待が繰り返されて来たのではないでしょうか。『隠された児童虐待』という本にこのようなことが書いてありました。両親からどのような虐待を受けたかというアンケート調査があります。第一は身体的虐待です。殴る、蹴る、つねる。体を縛って蹴る。押入れや物置に閉じ込める。家から追い出す。長時間正座をさせられる。第二は放置の虐待(ネグレクト)です。親にかまってもらえなかった。ちょっとでも悪いことをすると、罰として食事を与えてもらえなかった。よく留守番をさせられた。自分の言動を親兄弟から無視された。父親に暴力をふるわれていても母親は助けてくれず、横で何もしないで見ているだけだった。第三は性的虐待です。実際には家庭内セクハラです。加害者は父親や兄、おじさんや近所の人です。第四は心理的虐待です。一般的には虐待というよりも「支配」とか「コントロール」と呼んだ方が良いかもしれません。まず、言葉の面では、「言うことをきかないと怒るよ」と脅された。「泣く子は弱虫だ」とののしられた。「なんでこんなことができないの」とバカにされた。「~しなさい」といつも親の常識を押し付けてきた。態度の面では、「威圧的な態度で脅かした」「悲しい顔や困った顔をして、罪悪感を与えるようにしてきた。」「親を怒らせると1ヶ月以上も無視された。」両親以外には、兄弟姉妹からの虐待、さらに祖父母、おじ、おばからの虐待があります。以下は辛い環境に適応しようとして、子供たちが必死に身につけた習慣です。自分の感情を無視し続けてきたので、自分の感情に鈍感になってしまった。限界まで我慢するが、一度キレると激怒する。「~しなければならない」という考えが多い。自分がどう思うかではなく、すべて人に合わせるようにする。楽しいことを期待するといつもがっかりするので、最悪の状況をいつも考えておく。自分の気持ちより、周りの気持ちを優先させる。嫌われるのが怖いので「良い子」「良い人」を演じてしまう。

以前、蒲郡の石原先生が、共依存の癒しのためにキャンプを開いたことがあります。心の蓋を開けると悪いものが「ばーっ」と出て収集がつかないことがよくありました。さらに、キャンプから帰ってくると怪物のようになって、自己主張をし始めます。何でも、コントロールされているように過剰反応します。ですから、「心の癒し」は行わない教会もあります。積極的思考やみことばを宣言することによって、上から押さえつけるというものです。また、ある教会は、そういう人たちを全国から集め、共同生活をしながら、癒していくということもやっています。それは、特別な賜物と召命のある教会でしょう。では、私たちはどうすれば良いのでしょうか?私はこのような礼拝説教を、カウンセリング的な説教にしています。韓国のチョーヨンギ先生も同じです。会衆に「こういう心の傷は、このように癒されますよ」と告知します。それを聞いて、心当たりのある方は、自分でイエス様から癒しをいただきます。エリヤハウスのように、小グループでミニストリーをし合うのも良い方法です。私が今、最善だと思っているのは、インターバル式、段階的に癒しを受けるという方法です。本人が癒しを求め、こちらも了解して、一定のきまりの中で、ミニストリーを行うのが良いと思います。とかく教会は、傷のある人を重んじ過ぎて、牧師も教会もふりまわされる傾向があります。教会に、そういう人は常に存在します。でも、医療のように、緊急の場合は手術をしますが、そうでない場合は漢方を用いたりします。彼らにとって、一番、有効なのは神の共同体です。教会が心のリハビリーセンターの役割を果たしたら何と幸いでしょうか?

 

5.神の国について語る

 

ルカ4:19「主の恵みの年を告げ知らせるために」とあります。ある教会は「働き」と言えば、福音宣教のことしか話しません。癒しや解放をまったくしない教会もあります。それでは、イエス様の働きを継続していることにはなりません。イエス様は現在、どのように存在しておられるのでしょうか?そうです。復活、召天したキリストは、かしらとして全宇宙を支配しておられます。では、キリストのからだはどこでしょうか?教会こそがキリストのからだであり、2000年前、イエス様がなされた働きを継続するために存在しているのです。私たち一人ひとりが、キリストのからだの器官であり、それぞれの賜物を差し出して、イエス様の働きを推し進めるのです。私たちは救われて天国に行くだけの存在ではありません。この地上で、イエス様の働きを担うために、御国をもたらすために召されているのです。でも、ここで私たちが持たなければならない概念は、神の国であります。天国は神の国の1つの段階ですが、すべてではありません。教会は「人は死んだら、天国に行くんだ」ということを強調してきました。そうするとどうなるでしょう?イエス様を信じて、洗礼を受けました。「ああ、死んだら天国に行けるんだ。それまで、自由、気ままに生活しよう。だって、天国行きが決まっているんだから」となるでしょう。救いというものが、天国行きの切符を得ることぐらいにしか、思われていません。今では、この世の人たちも、「死んだらみんな天国に行くんだ」と考えています。テレビで芸能人のお葬式が放映され、「○○さんは天国に行きました」と言います。悪いとは言いませんが、天国のバーゲンセールです。

私たちは神の国がどのようなものであるか知らなければなりません。神の国とは神さまの支配であり、それは段階的にやってきます。どのようにでしょうか?この地上はやがて終わりがやってきます。ヨハネ黙示録のような患難時代がやって、信じない者はさばかれます。イエス様を信じている者は復活し、千年王国で報いを受けます。その後、神さまは私たちのために新しい天と新しい地を造られ、そこで永遠に暮らすことができるのです。では、天国とはどこでしょうか?ユダヤ人は神ということばを避けるために、あえて天と置き換えました。本来は神の国と言う意味なのですが、いつからか死んだ魂が行くところになりました。間違いではありませんが、そこはゴールではありません。最終的なゴールは新しい天と新しい地です。イエス様は「主の恵みの年を告げ知らせるために」というところで、巻物を係りの人に渡しました。しかし、イザヤ書にはその先のことが記されています。「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め」とあります。イエス様はあえて、今後来る、「神の復讐の日」をカットしたのです。しかし、世の終わり、イエス様が再び来られるとき、「神の復讐の日」が起こるのです。しかし、イエス・キリストを信じる者が復讐を免れ、「恵みの年」を喜ぶことができるのです。私たちは、やがて来られるイエス様と再会するまで、イエス様の働きを継続する必要があります。