2011.05.15 賛美の泉 ヤコブ3:9-12

舌と口は、器官、つまりからだの一部です。悪いことを話す、舌と口自体が悪いのでしょうか?もし、そうだったら「盗みをする手が悪い」「変な所へ行く足が悪い」と言うのと同じです。そうではありません。舌と口を司るところがあります。それはやはり、心とか思いであります。心とか思いが悪いから、悪いことばが出るのです。舌と口はことばを発する器官であります。ですから、舌と口を直す前に、心とか思いを直す必要があるのです。ヤコブは自然界に存在するものを、いくつかあげて、そのことを教えています。私はこの箇所を瞑想しながら、舌と口を直すための、すばらしい知恵が隠されていることを発見しました。舌と口を良くするためにはどうしたら良いのか?3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.肉ではなく霊によって

ヤコブ39「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」ここから、私たちは第一の解決策を見ることができます。ヤコブは人を呪うことは、それは神さまを呪うことだと同じだと教えています。なぜでしょう?聖書は「人を造られたのは、創造主なる神さまである」と教えています。一方、この世ではどう教えるでしょうか?「アメーバーがだんだん進化し、やがてサルになり、サルから人間になったんだ」と教えます。進化論を通した人間の価値は、できるかできないかということにあります。そうすると、「能力のない人間は人から見下げられても当たり前である」という理論がなりたちます。しかし、ヤコブの手紙はクリスチャンにあてられた手紙ですので、創造主なる神さまも、贖い主なるイエス様も信じているということです。もし、そうであれば、神にかたどって造られた人間を呪うことはないと言うのです。確かに、人を呪うということは、その人を造られた神様を呪うことになると言われても道理的になりたちます。聖書からすると、「人間の価値は能力のあるないではなく、存在そのものである、存在そのものに価値がある」ということです。しかし、クリスチャンは、そういうことは分かっているはずです。でも、「主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろう」とはどういうことでしょうか?そうです。思いがちゃんとしていないということです。では、どうしたら思いと口が一緒になるのでしょうか?

Ⅱコリント516,17「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」ここにすばらしいヒントが隠されています。日本語では、人間的な標準と書いてありますが、原文は「肉」であります。肉によって人を知るとはどういう意味でしょう。それは、外見や能力で人の価値をはかるということです。まさしく、人間的な標準です。外見や能力で人の価値をはかると、どうしても「変だなー」とか「愚かだなー」と思ってしまいます。もう、私たちは生まれてこの方、そういう価値観の中で生きてきて、そして人からも言われてきたのです。ですから、外見や能力で人の価値をはかるめがねができてしまっているのです。それが、あるとき急に、「いや人間は神さまによって造られたんだ。存在そのものに価値があるんだ」と教えられます。でも、私たちの中にそういう価値観、めがねがあるので、急にはなおせないのです。「変なものは変」「愚かなものは愚かじゃないか」と言いたくなるのです。

でも、パウロは一歩進んで、もう1つの見方をしなさいと教えています。それはキリストを通して見るということです。「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」と教えています。イエス・キリストはその人にどういうことをなさられたのでしょうか?その人のために血を流し、罪の中から贖い取ってくださいました。クリスチャンであるないは関係ありません。すべての人のために、イエス様は死なれ、代価を払ってくださったのです。だから、すべての人にはイエス様が贖っただけの価値があるのです。そのことは私にもそうですし、その人だって同じことなのです。「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」。ですから、新約の私たちは2つのめがねレンズで人を見ることが必要です。片方は創造主なる神さまというレンズで、もう1つは贖い主なるイエス様のレンズで見るということです。どうぞ、今後は、肉によってではなく、霊によって隣人を見ることにしましょう。

2.泉の癒し

ヤコブ310-11「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」泉が同じ穴から、甘い水を出したり、苦い水を湧きあがらせるようなことはありません。同じように、賛美とのろいが同じ口から出て来るようなことがあってはなりません。ヤコブはこのようなことを教えていますが、実際の私たちはどうでしょうか?今、礼拝のときは、神さまを賛美しています。おそらく、この場所でいるときくらいは人をのろったりはしないでしょう。でも、家に帰ってからはどうでしょうか?学校や職場にいるときはどうでしょうか?私たちの周りにはいろんな人がおります。そして、いろんなことに私たちは遭遇します。そのとき、ポロっと私たちの口から悪いことばが出てくるのではないでしょうか?私が一番、問題なときは、車を運転しているときです。「あ、危ない。ひどいーなー」「馬鹿じゃないか」みたいなことばを連発します。昨年、船堀のコンサートの帰り、そういうことがありました。私は右折しようとしていますが、向こうから横断歩道をゆっくり歩いている男性がいます。よく見たら、携帯をいじりながらとぼとぼと歩いています。私は思わず、「何やってんだよー、早く渡れよ!」と言いました。助手席に座っていた毛利おとうさんが、「先生、車乗ると人が変わりますね。どっちが本当の先生なのですか?」と言いました。私は「こっちが本当です」と答えました。

なぜ、1つの泉である、心から時には甘い水、また時には苦い水が出てくるのでしょうか?それは泉である、心に問題があるからです。旧訳聖書に苦い泉が甘くなったという物語がいくつかあります。1つはイスラエルの民が葦の海を渡り終えて、荒野に来たときです。出エジプト1523-25「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、『私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」注解書によると、この泉は水質が悪く、塩分と硫黄を含んでいて苦い、嘔吐をもよおさせると書いてありました。ひどい水です。しかし、モーセは主に助けを求めました。すると、主は一本の木を示され、モーセがその木を水に投げ入れました。するとどうでしょう。その水が甘くなりました。中世の注解者たちは、ここには十字架の1つの型を見出しました。十字架はいのちの苦しみ、苦味を甘く楽しいものに変えてくれるからだということです。アーメン。だいたい、悪いことばをよく発する人は、そういう生い立ちの中で育ったからです。悪いことばをバンバン浴びせられ、こちらも悪いことばで対抗したことがあるからです。ですから、心の中に塩分と硫黄のようなものが沈殿しているのです。ふだんはそうでなくても、何か不当な扱いを受けると、悪いものがばーっと湧き上がってくるのです。しかし、イエス様の十字架を入れるならば、癒しと慰めを受け、甘くなるのです。フロリダやペルーに常緑樹で水を甘くする大きな木が実際にあるそうです。その木には水を良くする効力があると言われています。十字架も同じです。でも、木から染み出て中和するまでに少し時間がかかるでしょう。心に十字架を入れても、瞬時に変わるわけではありません。少しずつ、徐々に変わって甘くなるのです。アーメン。

もう一箇所はⅡ列王記にあります。Ⅱ列王記2:19この(エリコ)町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです」。すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」これは1つの奇跡ですが、新約聖書的で塩とは何でしょう?パウロはコロサイ46で「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」塩は当時も今も、料理に欠かせないものです。塩を適量、加えることによって、料理の味が良くなるからです。コロサイ書とエペソ書は兄弟みたいな書物で、ほとんど同じことを書いています。2つの書は互いに補いあっています。エペソ429「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」つまり、塩味のきいたことばとは、人の徳を養うのに役立つことばであるということです。同じ言い方でも、人の徳にならないものもあれば、人の徳を養うのに役立つ言い方もあるのです。「この部分がダメだな。これじゃ台無しだ」という言い方もあります。しかし、「この部分を改善すれば、全体がもっと良くなりますよ」と言えば、どうでしょう。多くの場合、1つで全部を否定するような言い方をします。そうではなく、「他のところは良いのですが、ここを変えると、もっと良くなります」ではどうでしょうか?日本人はそれでなくても、セルフイメージが低いので、1つ否定されたら人格まで否定されたような気になります。ですから、よっぽど注意しないと、塩味がきき過ぎて、その人を壊す場合があります。ですから、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたもの」「必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話す」ということです。

3.接木のすすめ

 ヤコブ3:12「私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」本当です。いちじくは、いちじくであり、オリーブの実をならせることはできない。ぶどうの木はぶどうの木であり、いちじくの実をならせることはできないということです。もし、私がいちじくで生まれたなら、もうオリーブの実をならせることできないのでしょうか?できません。もし、私がぶどうの木で生まれたなら、いちじくの実をならせることはできないのでしょうか?できません。しかし、ここは生物学的なことを教えているのではなりません。なぜなら、このたとえは「塩水が甘い水を出すこともできない」というところに帰結しているからです。塩水と甘い水はまったく別ものであり、塩水は塩水を出し、甘い水は甘い水を出すんだということです。では、どうすれば良いのでしょうか?このところは何を教えているのでしょうか?聖書にはいくつか接木のたとえを用いて、教えています。たとえば、渋柿の木があるとします。私が渋柿だとします。どうしたら私は甘い柿をならすことができるでしょうか?甘柿の枝を移植すれば、接木すれば良いですね。りんごの木の品種改良も、接木でやるようです。聖書の接木のたとえはローマ11章にあります。栽培種がユダヤ人で、野生種が異邦人です。栽培種であるユダヤ人が切られてしまいました。その代わり、異邦人である野生種のオリーブの木から切り取られ、栽培されたオリーブの木に接がれるというたとえです。

 さきほど引用した、Ⅱコリント517「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」はとても有名なことばです。そして、「キリストにあるなら」は、「キリストに接木されるなら」とも訳せることばです。Amplified Bible、詳訳聖書はそのようにも訳しています。実際、「キリストにある」という、ギリシャ語の「エン」はキリストと一体化するという意味があります。そうです。私たちは何らかの野生の木でありました。私は鈴木でしたが、佐々木もいるかもしれません。そうではなく、野生の木で、あまりぱっとした実は結ばなかったのです。しかし、キリストに接木されることにより、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったのです。キリストを信じても私たちの人格とか性格が別の人になるわけではありません。私という固有のものを残したまま、そこにキリストの品性が現われたらどうでしょうか?愛、喜び、平安とか親切、善意、柔和です。おそらく、発することばにも愛、親切、善意、柔和が現われてくるでしょう。それは元来の私たちのものではなく、救い主イエス様からくるものなのです。イエス様とつながっていることにより生み出される実なのであります。苦い実ではなく、甘い実です。もちろん、全部が全部、甘い実になったわけではありません。まだ、苦い実もいくつかあります。でも、天国に行くまで、苦い実が少なくなり、甘い実の方が多くなるのです。私はことばも同じであると信じます。なぜなら、ことばというのは、心の中からプロデュース、生み出されるものだからです。道徳や倫理では、ことば使いを良くするように指導します。しかし、それは外からくっつけるもので、生み出されるものではありません。私たちの場合は、内側から自然に流れ出てくるものです。

私は以前、感謝のカの字もありませんでした。不平不満、呪い、怒りのことばがあふれでていました。生まれが生まれ、育ちが育ち、それに現場監督でした。そういう人が、救われて、みなさんの前で「神さまは愛です。互いに愛し合いましょう」と言えるでしょうか?無理ですよね。無理なんです。そういう訳で神さまは私を山の手ではなく、こういう葛飾区亀有という町に置いてくださいました。最初ここに来たとき、タクシーの運転手に「ここは下町ですか」と尋ねました。運転手さんは「ここはそうじゃない。本当の下町は浅草とか神田のことを言うんだ」と教えてくれました。下町じゃなければ何なんでしょうか?とにかく、こういうところに派遣されて、緩和期間があったんだなーと思います。徐々にならされるという感じです。どうでしょう、少しずつ上品になったでしょうか?もう、しょうがない?とにかく、イエス様につながっているなら、希望があります。普通、乱暴な口調の人と話すと恐れをなすでしょう。しかし、私の場合は、かえって懐かしいというか、親しみを感じます。そのような人たちを導くために、良かったのではないかと思います。しかし、牧師が一番粗野で下品という教会もあまりないと思います。本当に、私は恵まれた教会で牧会しています。

ことばと人格、ことばと心とは別物ではないということです。ことばはその人の考えや思い、感情を表現する道具です。その人が発することばから、その人の人格や世界が現れてくると言っても過言ではありません。私はその人と30分も話していると、「ああ、この人はこういう世界観を持っているんだ」ということが分かります。心の叫びが聞こえてきます。私たちはキリストによって贖われた存在です。そういう人たちをさばくのではなく、「ああ、そのように生きてきたからこそ、そういう心の叫びが生まれるんだなー」とむしろ理解しなければなりません。悪いとか良いとさばくのではありません。その人の人格であり人生なんです。そのとき、つられて、自分の怒りをぶつけるのではなく、キリストのめがねが必要です。1つは創造主なる神さま、もう1つは贖い主なるイエス様のめがねレンズです。すると、「ああ、そうか、そうだったんだ」と一人の人格として見ることが可能になります。私たちはいつでもカウンセラーになることはありません。一人の兄弟姉妹として、友人として会話を交換するときもあります。カウンセラー的なものの聞き方や話し方はちょっと変です。そうではなく、キリストにある兄弟姉妹として接します。もし、そのとき聖霊様が示してくださるなら、塩で味付けられたことばを加えると良いでしょう。それはたんなるダベリングではなく、建て上げ合うときとなるからです。ちなみに、ダベルはヘブル語のダーバル「語る」から来ていることをご存知でしょうか?交わりにおいて、互いに話し合うということは重要な要素です。これがないと意思疎通がなかなかできません。でも、多くの場合、ことばによって傷ついてきたし、ことばによって傷をつけてきました。だから、どうしても消極的になるかもしれません。だけど、教会は「愛し合う訓練の場」であります。みんな工事中で、完全な人はいません。当然、コミュニケーションにおいてぶつかったり、うまく通じないことがありえます。大体多くの人は、先入観を持っていますので、「この人はこうだろうなー」で交わっています。だから、初めから誤解が含まれている場合があります。ですから、教会では本当に贖い主イエス様を間において、交わる必要があります。そうすると、「ああ、本当はそうだんだ。この人は良い人だったんだ」ということが分かります。

 先週は新大久保の教会で「二つの翼」を学びました。講師は釜山のキム・ソンゴン牧師です。セルチャーチと弟子訓練をマッチしたすばらしい教えです。教えは本当にすばらしく、先生の教会のシステムも完璧だと思います。ただ、日本人にとって、受け入れがたいところがチラホラあるということです。私が言うのもなんですが、人格的に粗野なところがあるし、つまらない冗談をよく飛ばします。先生はユーモアと言いますが、私たちは「もう、いいから、本題に入ってくれよ」と思っています。また、文化の違いもあるかもしれませんが、「このとおりにやりなさい。変えてはいけません」と言うのです。何か強制されている感じがします。キム先生はこのようによく、おっしゃっていました。「人格を変えるよりも価値観を変えなさい。弟子訓練において、人格を聖くすることをゴールにするなら天国を待つしかない。そうではなく、価値観を変えなさい。そうすれば、人格もいずれ変わってくる」と。アーメンですね。キム先生はそれを他の人に実行し、自らもそうなんだなーと思いました。「二つの翼」は、既に4回学び、あと1回で終わりです。先週、ようやく分かりました。キム先生はサラン教会の玉先生より、人格的に劣るかもしれません。しかし、先生は純粋な動機を持っておられるということがようやく分かりました。私たちは第一印象とか、その人の口調で「ああ、この人はこういう人だ」と、決め付け、ある場合は敬遠したりします。しかし、長く接しているとその人の中にある良いものと出会うことができるかもしれません。みなさんの中にも泉があります。聖霊様に与えられた泉が賛美と、塩味のきいたことばを湧き上がらせてくださるのです。