2012.3.11「生ける望み Ⅰペテロ1:3-5」

ペテロは「神さまがほめたたえられるように」と最初に挨拶しています。私たちの信じている神様はどんな神さまなのでしょうか?まず、「私たちの主イエス・キリストの父なる神」とあります。神さまは、私たちの父である前に、主イエス・キリストの父なる神です。神さまには息子が独りしかいません。しかし、私たちが主イエス・キリストを信じると、養子とされ、神さまを「お父さん」と呼ぶことができるようになります。また、神さまは「大きなあわれみ」を持つお方です。あわれみ深い神さまです。大きなあわれみとは、私たちを罪ある者と見ない、罪人として取り扱わないということです。なぜでしょう?私たちが、罪を贖われたイエス・キリストを信じているからです。3節から5節に、神さまの大きなあわれみが具体的に3つ伸べられています。神さまはご自身の大きなあわれみのゆえに、どのようなものを私たちのために、ご用意しておられるのでしょうか?

 

1.生ける望み

 

 Ⅰペテロ1:3「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」望みとは、希望と同じです。でも、「生ける望み」とは何でしょう?おそらく、生き生きした、わくわくするような希望でしょう。では、希望が全くない状態を何と言うでしょうか?絶望、暗やみ、死というふうになるでしょうか?『夜と霧』を書いたビクトール・フランクルはアウシュビッツを乗り越えた精神科医です。彼は「どんな状況においても、希望を失わないように。絶望の中あっても、希望こそが生きる力になるんだ」と言っています。孤独死というのがありますが、先月、さいたま市で家族3人が餓死していたというニュースがありました。「60代の夫婦と30代の息子がどうして、死ななければならなのか」と思います。住民票の登録もなかったそうです。その家族には、生きる希望が全くなかったのかもしれません。希望の対局となるものは絶望であり、死であります。しかし、何故、そのようになってしまうのでしょうか?神さまが造られた生き物、すなわち被造物は、生きるように造られています。「できるだけ増え広がり、死ぬまで生きる」それが、生き物の本能です。でも、人間だけは希望がないと死んでしまう、特別な生き物なのかもしれません。人間のどこかが狂った場合は、生きることよりも死を選ぶのかもしれません。

 大きなあわれみを持っておられる父なる神さまは、私たちが生ける望みを持つことができるように2つのことをしてくださいました。第一はイエス・キリストが死者の中からよみがえられたことであります。正確に言えば、父なる神がイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのです。死んだイエス様は何もできませんでした。なぜなら、死んでいたからです。でも、父なる神さまが全能の力をもって、御子イエスをよみがえらせたのです。ここに希望があるのではないでしょうか?もし、私たちの中にいのちがなくなった場合どうするでしょうか?自分では、もう何もすることができません。しかし、父なる神さまがイエス様をよみがえらせたように、よみがえらせるならどうでしょう?人類のすべてが死に飲み込まれてしまいます。この死に対して、誰ひとり勝利した人はいません。だから、人々は死を必然的なものとして受け入れます。仏教では死とは、決して避けられないものであり、諦めるしかありません。しかし、イエス・キリストだけが、死に勝利して、よみがえられたのです。それだけではありません。イエス・キリストは初穂であり、キリストを信じる者も、その復活にあずかることが出来るのです。復活こそが、私たちの究極的な希望であります。死は終わりではないのです。最後に復活があるのです。このような来世観を持つ者に、失望とか絶望はありません。人生でどんなことがあっても、どんな死に方をしたとしても、最後は復活があります。「終わりよければ、すべて良し」であります。レンタルでDVDを見ることがあるかもしれません。昔、インディジョーンズのシリーズを良く見ました。ハラハラ、ドキドキします。でも、安心して見られます。なぜなら、この主人公は絶対死なないということを知っているからです。結末を知っているので、安心して見られます。私たちの人生も同じです。「一寸先は闇だ」と言われますが、私たちにとっては「一寸先が復活」なのです。

 第二は神さまは私たちを新しく生まれ変わらせてくださいました。キリスト教は死んでから生まれ変わるのではありません。生きているうちに、キリストを信じて、生まれ変わる必要があります。ヨハネ3章には、「新しく生まれる」と書いていますが、本当は「上から生まれる」という意味が正しい訳です。上からとは、神さまによって生まれるということです。人はお母さんのお腹から生まれると肉体的な命を持ちます。その命をギリシャ語ではビオスとかプシュケーと言います。犬や猫もこの命を持っています。でも、この命だけでは、永遠の御国で生きることはできません。神さまが持っている永遠のいのちが必要です。この命は、復活の命とも言われるゾーエーです。私たち人間がイエス様を信じて、心に受け入れるなら、神の霊が私たちを生まれ変わらせてくださるのです。風がどこから吹いてどこへ行くのか見えません。御霊も同じように、その人の上に吹くのです。御霊ご自身は見えませんが、そのわざを見ることができます。なぜなら、人が霊的に生まれ変わると、内側から神のいのちが湧きあがって来るのです。愛、喜び、平和、そして希望がわきあがってきます。この希望は環境や状況によらない、神からの希望です。子どもの頃、裏山ある泉に行ったことがあります。木の棒で、わざと泉をかき回します。泉は、泥んこみたいになります。しかし、10分、20分たつと、透明な水が湧いて来ます。やがては、もとのきれいな泉になります。この世ではいろんな苦しみがあります。しかし、イエス・キリストが死者の中からよみがえられ、神が私たちを新しく生まれさせてくださいました。だから、生ける望みが湧き上がってくるのです。

 

2.朽ちない資産

 

Ⅰペテロ1:4「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」私たちは生ける希望も必要ですが、資産がなければ豊かな生活を送ることができません。しかし、どうして、「朽ちることもなく汚れることもなく、消えて行くこともない資産」と書かれているのでしょうか?当時、資産にはどのようなものがあったでしょうか?畑や家屋、牛やろば、羊、穀物が入った倉庫、晴れ着、肉桂、香油、金や銀などがありました。絹とか麻でできた着物は、やがて朽ち果てるでしょう。肉桂、香油は何年くらい持つでしょうか?金や銀は盗まれる可能性があります。これを現代風に考えたらどうでしょうか?家屋も30年たったらガタがきます。この教会も建てて19年目になりますが、いろんなところにガタがきました。外壁や屋根を補修しなければなりません。音響設備も寿命が来たようです。人間が造ったものは、老化して、最後にはなくなります。消費社会というか、新しいものを買うようになっています。でも、神さまが備えてくださる資産はそうではありません。朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産であります。

数年前、トランスフォーマーという映画を見たことがあります。ある若者が黄色いスポーツカーを手に入れました。手に入れたというよりも、向こうの方が若者を気に入った風でした。その黄色いスポーツカーはとてもおんぼろで、いたるところに錆がありました。しかし、メッチャ性能が良くて、高速で走ります。しかし、そのスポーツカーは単なる車ではなく、宇宙生命体でした。トランスフォーム(変態)すると、ロボットになります。いろいろ事件があって、最後のシーン、どうなったでしょう。なんと、そのスポーツカーがピッカ、ピッカになるのです。なぜなら、その車が宇宙生命体なので、朽ちないのです。「あんな車が欲しいなー」と思いました。神さまは宇宙全体を造りました。この地球も造りました。すべてのものは神さまのものです。黙示録21章には聖なる都エルサレムについて書かれています。道路は透き通った純金です。城壁や土台はすべて宝石でできています。私は土木で働いていたことがあるのである程度知っています。道路には砂利とアスファルトを敷きます。建物の土台は強度のあまり高くないコンクリートを使います。しかし、神さまはどうでも良いような所に、純金や宝石を用いるとは、どんなに金持ちなのでしょうか?NHKで見たことがありますが、ある星雲は全部、金でできているそうです。核融合で、ものすごい圧力がかかって、価値のある金属になるのかもしれません。もし、私たちが神さまの子供になったなら、どういう権利を持つことができるのでしょうか?そうです。私たちはイエス様と同じ、御国の世継ぎです。「世継ぎ」と言っても、高速の入口の「四つ木」ではありません。ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」アーメン。

私は貧しい家庭の8人兄弟の7番目で生まれました。なぜ、うちが貧しかったのか、後で知りました。おじいちゃんは、意地っ張りだったのでしょうか?財産を放棄したようです。また、おばあちゃんは、地主の娘だったようですが、こおり1つで嫁いで来たようです。私の父は、本家に「俺っちの財産をよこせ!」と談判に行ったそうです。しかし、もらえなくて、怒って、本家の座敷に馬を放ったそうです。おじいちゃんとおばあちゃんは、主張したらもらえるはずの財産を「いらない」と断ったのでしょう。私もおじいちゃんに似たのか、とても意地っ張りでした。人の世話になるのが大嫌いでした。今でもそういうところがあり、道に迷っても道を聞くことがめったにありません。家内が「聞きなさい、聞きなさい」と言うので、仕方なく聞いて、助かったことがたくさんあります。その程度ならともかく、神さまを知らない人たちは、せっかくもらえるはずの、遺産を放棄しているわけです。父なる神さまは宇宙全体を所有しているのですから、たとえ何百億人いても、有り余るほどでしょう。一人でも多くの人が、意地をはらないで、イエス様を信じて神の子となっていただきたいと思います。父なる神さまは、あわれみに富んだお方で、多くの人が救われて、御国の世継ぎになってもらいたいと願っておられます。御国の世継ぎは、だれ一人貧しい人がいません。みんな億万長者です。

 

3.最終的な救い

 

Ⅰペテロ1:5 「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」「終わりのとき」とはいつのことでしょうか?これこそが、Ⅰペテロの主題でもあります。「終わりのとき」とは、イエス様が再び来られる日のことであります。これを神学的には、「再臨」と言います。クリスマスは「初臨」と言いまして、イエス様が人類を贖うために人となって来られました。その御姿があまりにも謙遜だったので、ほとんどの人がイエス様を神さまだとは認めませんでした。「神さまの和解を受け入れるように」と、へりくだって来られたからです。しかし、世の終わりに来られるイエス様は全く違います。ヨハネは「髪の毛は羊毛のように白く、その目は燃える炎のようであり、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようである」と黙示録に書いています。ヨハネは再臨のイエス様を見て、足もとに倒れ、死人のようになりました。それだけ、権威があって恐ろしいということです。そうです。再臨のイエス様はこの世を裁くために来られるのです。世の終わりは、患難の時代であり、星が天から落ち、月も太陽も光を失います。疫病とか迫害で、多くの人が苦しさのあまり死のうとしても、死の方が逃げていきます。この世は終ります。しかし、その後に、千年王国がやって、この地のすべてが回復されます。その後どうなるのでしょうか?キリストにある者は新しい天と新しい地に迎え入れられます。しかし、キリストを信じない人は、神の前に立って、その行いに応じてさばかれます。さばかれた者は、永遠の火の中に投げ込まれます。不思議なことに、信じている人も信じない人もみんな復活します。キリストを信じていた人は永遠の御国に入るために復活します。しかし、キリストを信じていない人は、永遠の滅びに行くために復活するのです。

さて、私たちはこの後、どうなるのでしょうか?もし、私たちが生きているうちにイエス様が来られたなら、死なないで栄光のからだに変えられて、御国に入ることができます。これはとてもラッキーな人たちです。宣教学的には、「2030年代にイエス様が再臨なさるのでは」と言われています。なぜなら、その頃、マタイ24章の「御国の福音が全世界に宣べ伝えられる」のが完了するからです。もし、そうであれば、私たちにも可能性があるかもしれません。結婚したい人は早く結婚した方が良いし、結婚しなくても構いません。使徒パウロはⅠコリント7章で「時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。…もしそのままにしていられたら、その方がもっと幸いです」と言っています。しかし、きょうの主題はそういうことではありません。「最終的な救い」についてお話したいと思います。英語のある聖書は、まさしく、final salvationと言っています。救いに最初も最終もあるのでしょうか?私たちクリスチャンは、「私は、いついつ、救われました」と言います。この「救われた」というのは、「イエス様を信じて、罪の赦しと永遠のいのちをいただいた」ということです。ある人は洗礼を受けた日と重ねる人もいますが、どちらでも構いません。とにかく、イエス様を信じたら、霊的に生まれ変わり、永遠の命を内側にいただいています。私たちクリスチャンには、肉体的な命もありますが、同時に永遠の命も所有しているのです。しかし、肉体的な命には限りがあります。100年持ちません。死んだら、土の中に葬られます。これを肉体的に「眠った」と言います。私たちの魂は眠りませんが、肉体が眠るのです。眠るとは、いつかは覚めるということです。キリスト教の葬儀でも、「永眠」と言ったりします。しかし、「永眠」は正しくありません。「休眠」の方が正しいのです。なぜなら、世の終わり、イエス様が来られたときに復活するからです。

さて、なぜ、それでは「最終的な救い」と言うのでしょうか?神さまがご計画している救いとは、ギリシャ的な救いではありません。ギリシャ人は霊魂の不滅ということを信じていました。しかし、肉体的な復活は信じていませんでした。なぜなら、肉体は悪であり、肉体の中に霊魂が閉じ込められていると信じていたからです。つまり、肉体は不要であるということです。しかし、キリスト教の救いは、罪の贖いだけではありません。この肉体が贖われたときに、救いが完成するのです。肉体の贖いとは、すなわちイエス様のように栄光のからだへと復活することです。この栄光のからだで、私たちは新しい天と新しい地において、永遠に暮らすのです。もし、肉体なしでフワフワどこかで暮らすというのなら、不完全な救いであり、聖書が言う救いではありません。今から15年くらい前に、教会の墓地を作りました。場所は手賀沼の近くにあるラザロ霊園です。うちの教会の墓地は、大変、凝っていて、内側にタイルが貼ってあります。床が1階のロビーと同じタイルで、壁は外壁のタイルと同じものです。実際に、タイル屋さんが、お墓の中に入って工事をしました。後から聞いた話ですが、職人さんはとっても怖かったそうです。なぜなら、十字架がたくさん並んでいるからです。日が暮れてくると、もっと怖くなります。おそらく、ドラキュラかゾンビを想像したのでしょう。私も正直、怖い思いをしました。お墓の石が完成した後、白と赤の玉石を敷きに行ったときです。業者に頼むと高いので、私がホームセンターから10何袋買って、それを代車で運びました。ところが、そこに着いた時は、日が暮れていました。真っ暗なところを、何回も代車で玉石を運ぶ途中、ちょっと怖くなりました。うちの教会のお墓は、ずっと奥にあるので大変でした。でも、当教会のお墓に何と書いてあるかご存知でしょうか?「主よ、来たりませ」であります。これは、黙示録22章から取ったみことばです。今の訳では「主イエスよ、来てください」です。つまり、墓の中に眠っている聖徒たちが、願っていることばです。「主イエスよ、来てください。そうしたら、私たちは栄光のからだによみがえります」と、言うことです。墓石に書かれていることばで、最も多いのが、「復活」です。「私はよみがえり命」というのもあります。眠っている人たち全員が、復活を待ち望んでいるのです。それはいつ起こるのでしょうか?世の終わり、イエス様が再び来られる日です。

私たちは世の終わりの終わりに住んでいます。世界終末時計というのがあり、今年で5分前になったそうです。2010年より1分進みました。なぜでしょう?核兵器拡散の危険性が増大したことや、福島第一原子力発電所事故が起きたことなどによるそうです。彼らが言う、世界終末時計というのは、核戦争などによる人類の滅亡(終末)を言っているのであって、私たちの言う世の終わりではありません。この世の人たちも、「世の終わり」が来ると言います。しかし、それは人類の破滅、地球の破局を意味しています。私たちはそういう意味だけではありません。確かに、この世は終わりを告げるでしょう。しかし、その時、主イエス・キリストが天から降りて来られ、御国をもたらしてくださるということです。主の祈りで「御国が来るように」という祈りがあります。これは単なる神の支配という意味ではありません。神の支配が目に見えるかたちで、やってくるようにという意味です。私たちの信じていることが絵空ごとではなく、実際に起こるのです。キリスト教の救いは、ミッションスクールで教えているような精神的なものではありません。本当の救いは、霊も魂も肉体も救われることです。そして、永遠の住まいと朽ちない資産があり、そして主にある兄弟姉妹が仲良く暮らすところがあるのです。そこには死も涙もなく、悲しみも、苦しみもありません。そこには太陽も月もありません。神であられる主と小羊とが都のあかりだからです。私たちのゴールは新しい天であり、新しい地です。私たちはそこで栄光のからだをいただき、永遠に暮らすのです。ハレルヤ!私たちは神のことば聖書から聞くと、生ける望みが湧き上がります。きょう、明日と、永遠の命を生きていることを知るのです。きょうは奇しくも3.11の日です。願わくば、土地や財産、家屋、そして家族を失った方々に、永遠の住まいと朽ちない資産と永遠のいのちが与えられますようにお祈りしたいと思います。私たちも生ける望みをもって、世の終わりに備えましょう。