2012.3.18「信仰の試練 Ⅰペテロ1:6-12」

信仰というのは、目に見えない神様を信じるのですから、大変な作業です。特に、キリスト教の場合は、信じる対象が見えません。いわゆるご本尊がないので、日本人に伝わりにくいのかもしれません。もっぱら、聖書のみことばを聞いて、「ああ、そうなのか?」と信じるケースが多いのではないでしょうか?ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」アーメン。みことばもそう言っていますので、そのとおりだと思います。しかし、一旦、イエス・キリストを信じると心の中に変化がやってきます。「目には見えないけど、確かにいらっしゃるなー」と分かるようになります。決して、洗脳されているわけではありません。霊的な目が開かれたのです。きょうは、私たちが持っている信仰がどのくらい確かなものかを学びたいと思います。

 

1.信仰の試練

 

第一は、私たちが持っている信仰が本当に確かなものなのか、ということです。Ⅰペテロ1:6-7「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」ここに、「試練」ということばが2回出てきます。英語の聖書では、2種類の試練が出てきます。第一はtrialで、良いか悪いか試験するという意味のことばです。車でもどのくらい耐久性があるのか、長時間走らせて試験します。第二はtemptationで、誘惑という意味の試練です。イエス様が40日40日断食した後で、悪魔が誘惑するためにやってきました。しかし、それは同時に、メシヤとしてこれからやっていけるか試験でもありました。同じように、私たちに思いがけないことが起こったなら、1つは試験であり、もう1つは誘惑になるのです。「神さまを信じているのに、どうしてこんなことが起こるんだ。もう、神さまを信じるのはやめてしまおう」と、躓きになる場合もあります。しかし、ペテロは私たちの信仰がどうなることを願っているでしょうか?「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」私たちの信仰が試されて、金よりも尊いものとなるということです。金を精錬するときは、まず、下から火をたいてドロドロに溶かします。そうすると上に金粕が浮かんできます。それをすくって取ります。それを何度か繰り返すと純金になるのです。純金になると自分の顔が映るそうです。でも、ここには「朽ちて行く金よりも尊くなる」というのは、金よりも、もっとすごいということでしょう。

どうでしょうか?イエス様を信じて、洗礼を受けた後は、救いの喜びがいっぱいになります。しかし、まもなくすると信仰の試練がやってきます。「神さま、どうしてこんなことが起こるの?」ということが、立て続けに起こります。信仰を守るために、親しい人と別れなければならなくなるでしょう。新しく友だちになる人もいれば、去っていく友だちも出てきます。今までは、変なところへ一緒に行ったのに、「いや、私は行かないよ」と言う。「なんだよ、付き合い悪いな!」と言われるかもしれません。上司から「これやってくれ」と頼まれる。しかし、それが正しいことでないときは、「いえ、私はできません」と断らざるを得ない時もあります。すると、上司から迫害されるでしょう。私たちが、この世において信仰どおり生きていこうとすると、風当たりが強くなります。パウロはテモテに「確かにキリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3:12)と言いました。逆に、「イエス様を信じた後も、全く迫害はありません。気持ち良いですよ」という人が、むしろおかしいのです。そういう人は、この世の流れに妥協して生きているのかもしれません。また、神さまは私たちの信仰がグレードアップするように、あえて試練を与えられます。たとえば、水泳のコーチを受けていると想像してみましょう。今度の大会で、100メートルで優勝したいと願うとします。そのためには、フォームを変えたり、体力をアップする必要があるでしょう。趣味で泳いでいる場合は、そういうことはありません。でも、記録を出すためには、苦しい練習を乗り越えなければなりません。私は大川牧師のもとで8年間いました。先生は普通の信徒には「良いよ、良いよ」と、とても優しい。しかし、「献身します」と言ったとたん、ものすごく厳しくなります。日曜日の夜の説教をスタッフが担当したときがあります。ある夜、私が説教しました。反省会をしようと、階段を登る途中、大川牧師は「今の説教、良いところが1つでもあったか?」と聞きました。きついですね。でも、今の私があるのは、大川牧師のおかげです。

もし、私たちに信仰があるならば、以下のことが内側からあふれてきます。Ⅰペテロ1:8-9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」「信仰の結果」は英国の聖書は「あなたの信仰の収穫を刈りとっている」と訳しています。信仰の結果というのは、いわば信仰の実であります。私たちの信仰は目には見えませんが、いずれ、目に見えるものとして現れてくるのです。私たちはそのことによって、「ああ、この人は本当にイエス様を信じているなー」と分かります。それでは、信仰の実とはどのようなものでしょうか。第一は「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており」とあります。そうです。イエス様を愛しているかどうかが、ポイントです。当時の宗教家は信仰熱心でした。しかし、イエス様を愛するどころか、敵対していました。むしろ、取税人や罪人、遊女たちの方がイエス様を熱心に愛しました。なぜ、イエス様を愛したのでしょうか?それは、多くの罪が赦されたからです。「ああ、私はイエス様によって罪が赦されたんだ。私のために死んでくださりありがとうございます。」ここから、イエス様に対する愛が生まれてきます。罪の赦しを経験していない人は、イエス様を愛しません。「イエス」「イエス」と呼び捨てする人がいます。そういう人は、本当に信じているかどうか疑わしいです。

第二は「いま見てはいないけれども信じており」とあります。この信じるとは、どういう信仰の実なのでしょうか?英国の聖書は、trustと訳しています。trustというのは、「信用する、信頼する、任せる」という意味があります。信じるということを、より生活化した表現ではないでしょうか?夫婦の関係はどうでしょうか?10年、20年と試練を乗り越えていくと、信頼関係が生まれるでしょう。イエス様との関係も同じで、「信じる」から、「信頼する」というふうになるのではないでしょうか?人は裏切ります。自分も人を裏切る時があります。でも、イエス様は裏切ることはありません。イエス様はどこまでも真実なお方です。詩篇23篇の羊飼いのようであります。詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」「イエス様、どうして死の陰の谷を歩かなければならないのですか?」イエス様は「ここを通過しなければ、新しい牧草地にいけないんだよ」とおっしゃるかもしれません。「ああ、そうですか。わかりました」。でも、ある場合は、どうしてなのか教えてくれない場合もあります。そのときは、文句を言わないで、だまって、イエス様に従うしかありません。でも、イエス様は大丈夫です。イエス様にゆだねていく人生ほど、力強く、安定している人生はありません。第三は、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」おどるような喜びです。救われている人には喜びがあります。どんな喜びでしょうか?それは、永遠の滅びから永遠の命に移されたという喜びです。聖書を信じれば信じるほど「いやー、救われて良かった!」と思うのではないでしょうか?それまでは、真理も命もなく、この世に流されて生きていました。滅びに向かっていることなど、ちっとも知りませんでした。しかし、イエス様を信じた後、自分は失われていた存在であることが分かります。でも、今は救いを得ています。「うぁー、感謝だ。アーメン」と喜びが湧き上がってきます。5億円の宝くじもすばらしいけど、永遠の滅びから救われたことはもっとすばらしいのではないでしょうか。このように、信仰の対象であるイエス様は目には見えませんが、救われたならば、信仰の実が見えてきます。それは、イエス様を愛する愛であり、信頼であり、喜びです。

 

2.信仰の土台

 

私たちが信じているこの福音は、突然、降ってわいたものなのでしょうか?それとも、昔から預言されてそれが成就したものなのでしょうか?Ⅰペテロ1:10-13「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」この箇所は、長くて、ちょっと難解です。私も何回も読んで、どう語るべきか悩みました。しかし、ここには簡単に言うと、3つの流れがあります。第一は預言者たちです。第二は福音を最初に語った人たちです。第三は福音を告げ知らされた人たちです。ちなみに、私たちは第三の福音を告げ知らされ、信じたグループに入っています。私たちは車に乗るとき、エンジンやミッションがどうなっているのかほとんど意識しません。ハンドルを回して、ギアを入れるだけです。パソコンにおいてはどうでしょうか?スイッチを入れて、アイコンを押すだけです。箱の中がどのように動いているのか、ほとんど考えません。同じように、私たちは聖書に書かれている福音を信じて救われました。しかし、その福音がいつ頃発生し、だれが福音を伝えたのか、あまりわかりません。ペテロは信じている人たちに、この福音はちゃんとした過程で生まれたことを証言しています。

まず第一に、福音は旧約の預言者たちによって、預言されました。彼らがキリストについて預言したとき、2つのことが目にとまりました。それは、キリストの苦難とそれに続く栄光であります。彼らはそのことを、キリストの御霊によって教えられました。しかし、それがだれのことであり、いつ実現されるのかよくわかっていませんでした。彼らは示されたことを、ただ忠実に書きとめようとしたのです。キリストの苦難とそれに続く栄光に関して、特に詩篇やイザヤ書に記されています。たとえば、詩篇22:1「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」とあります。これは、イエス様が十字架で叫ばれた叫びです。また、イザヤ53:4-5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ書53篇は「苦難のしもべ」として、ユダヤ人にも知られていましたが、一体だれのことなのか分かりませんでした。旧約の預言者たちは、ただ、聖霊が示すように書いたのです。しかし、まるで十字架を見たかのように預言しているのは、なぜでしょう?ペテロは、「キリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされた」と言っています。それにしても、旧約時代にキリストの御霊がおられたのでしょうか?

第二は福音を最初に語った人たちです。12節半ばに、「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々」とあります。この人たちは、ペンテコステの日、二階座敷で祈っていた人たちです。使徒たちを含め、120人の人たちがいました。彼らはイエス・キリストが死なれたことと三日目に復活したことは知っていました。しかし、それは聖書的にどういう意味なのか分かりませんでした。でも、聖霊が臨んだときに、「あのことはこのことだったのか!」と分かったのです。ペテロはペンテコステの日、ヨエル書と詩篇16篇を引用して説教しました。復活されたイエス様ご自身も、二人の弟子に教えています。ルカ24 24:25-27 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。アーメン。キリストの苦しみとそれに続く栄光とは、別な言い方をすると、キリストの十字架と復活です。旧約の預言者にはそれが十字架とは預言されていませんでした。しかし、弟子たちは、あのイエス様が、私たちの罪を負ったので、十字架の上で裁かれ、神から捨てられたと分かったのです。そして、イエス様がご自分の命で罪を全部、贖ったので、父なる神さまは、墓からイエス様をよみがえらせたのだと分かったのです。十字架と復活を目撃し、聖霊を受けて理解した人たちが、最初の福音の宣教者でした。彼らは30年間、ひたすら宣べ伝えました。でも、天に昇られたイエス様が、再び来られませんでした。目撃者がだんだんと死んでいきます。これでは、良くないと福音書が書かれたのです。ですから、福音書は最初の目撃者たちの証言の記録であります。

第三は福音を告げ知らされた人たちです。これは、ペテロが手紙を送ったポント、ガラテヤ、カパドキアなど、小アジアの人たちがもちろんそうです。パウロたちがギリシャやローマに福音を宣べ伝えました。今は21世紀ですが、どのように福音が宣べ伝えられたのでしょうか?4世紀から16世紀、福音はヨーロッパ全地域を満たしました。中世の時代は、福音がかなりゆがめられてしまいました。なぜでしょう?教会が聖書を隠したので、多くの人々は、因習や風習の中で生活していました。16世紀、宗教改革が起こり、儀式や制度よりも、聖書を重んじるようになりました。ローマカトリックも刺激され、福音が南米や東南アジアに伝播されるようになりました。日本は1546年にザビエルによって福音がもたらされました。大勢の人がキリシタンになりましたが、豊臣と徳川幕府によって禁制となりました。なぜなら、封建制度を脅かすからです。イギリスからメイ・フラワー号が北アメリカ大陸に出発しました。北アメリカ全土が福音に満たされました。ヨーロッパとアメリカの教会は多くの宣教師をアジアに派遣しました。中国、インド、東南アジアに福音が宣べ伝えられました。しかし、第一次、第二次世界大戦が勃発。中国は共産国になりましたが、地下で福音が広がっていきました。そして、20世紀は南米とアフリカにリバイバルが起こりました。カトリックの形式的な信仰に対して、プロテスタントが新しい命を与えました。様々な部族の言葉に聖書が翻訳されています。今は、10-40と言われる、緯度が10度と40度の間にある国々が残っています。イラン、イラク、サウジアラビア、トルコ、パキスタン、アフガニスタン…いわゆるイスラム圏であります。この場所が、ものすごく難しいのです。

 日本という国はどうなのでしょうか?大阪のある教会の牧師が、「日本の仏教を学びなおす」とホームページで書いてありました。釈迦はインドの出身の人ではありません。ネパールで生まれました。世界がもし百人の村だったら、キリスト教徒は33人だそうですが、仏教徒は6人くらいです。もっと驚くべきことに、仏教が始まったと日本人が思っているインドでは、現在、全人口の中で0.8%しか仏教徒はいないのです。日本に仏教を伝えてくれた中国でも、全人口の8%しか仏教徒はいません。では、なぜ日本には仏教徒が多いのでしょう。そこに、ある博士の論文を引用しながら、2つの理由を上げています。第一は、1640年、宗門改めと檀家制度、寺請け制度、法事と仏壇を家々に設置させたこと。第二は、仏教による死者供養を制度化したこと。つまり、約250年間の徳川幕府による怨念が、まだ、日本を支配しているということです。家内が2月末に岩手のお葬式に行きました。5日間、いろんなことがあり、驚いたそうです。地方によっても違いますが、「死出の旅」というイメージは共通しています。亡くなった人にわらじを履かせ、脚絆を巻き、杖を持たせます。棺の中に小銭をいれます。本当に、「あの世」の旅支度です。儀式は一回ではありません。7日、49日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌、五十回忌。こういう法要は、仏教だけではなく、儒教や神道からも来ているようです。最後は成仏し、仏になるのでしょうか?これが日本の風習であり、正しいと思われている来世観です。

こういう日本に福音が入るためには、何を強調する必要があるのでしょう?私は救いとは、天国に行くということよりも、神の国に入るということだと思います。神の国とは、永遠の御国であり、永遠の住まいです。これに似た考えは、神道や仏教にもあります。常世の国とか極楽浄土と言うかもしれません。しかし、それらは作り話であり、人間の願望から生まれたものです。なぜ、福音というのでしょう?私たちはこのままでは、神の国に入ることはできません。なぜなら、罪があるからです。罪があるかないかは、神の律法と私たちの良心が教えてくれます。イエス・キリストがなぜこの世に来られたのか?それは、私たちの罪を帳消しにし、私たちに神の義を与えるためです。そのために、イエス・キリストは私たちの罪を負い、苦しめられ、神から捨てられたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。本来なら、私たちが地獄から叫ばなければならなかったのです。イエス様は私たちのすべての罪を贖ったので、父なる神は、イエス様を死からよみがえられました。イエス様は栄光を与えられ、天に昇られました。それは、私たちも義とされ、私たちもよみがえり、私たちも神のみもとに行けるんだという保証です。日本では死んだ人が、どこか知らないところへ旅立ちます。しかし、私たちは生きているうちに神の国に入り、日々、天のエルサレムに向かっているのです。この地上では、私たちは旅人であり寄留者です。エグザイルです。福音とは何でしょう?イエス・キリストの十字架と復活を信じるなら、行ないによらず、恵みによって救われるということです。魂に救いを得たならばどうなるでしょう?この世においても、愛、信仰があり、喜びがあります。確かに、この世では試練があります。でも、私たちの信仰は金よりも尊いものとなり、いよいよ、神さまを心から仰ぐ者とされるのです。