2012.3.25「聖なるものとなれ Ⅰペテロ1:31-21」

前回、お話しましたが、「聖い」ということは、「神さまのものになったということが第一の意味である」と申し上げました。しかし、本日はもっと積極的に「聖なるものとなれ」と命じられています。なぜ、ペテロは強い口調でこういうことを言っているのでしょう?それは、終わりの時代になると愛が冷え、さまざまな罪が増してくるからです。パウロもⅡテモテでこのように言っています。Ⅱテモテ3章に「終わりの日には困難な時代がやって来る。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者…神よりも快楽を愛する者になる」とあります。私たちは困難な時代に生かされていますが、どのようにしたら聖なるものとなれるのでしょうか?

 

1.父なる神の御目のもとで

 

新改訳聖書は「聖なるものとされなさい」となっていますが、これだと受け身的になります。しかし、新共同訳は「聖なる者となれ」となっており、こちらの方が原文に忠実な訳です。聖なるものとなる理由が1章16節にあります。「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」私たちを召してくださったお方は聖なるお方です。また、私たちはこの方を「父」と呼んでいます。つまり、聖なる神さまの子どもだからです。一般に、子どもは父に倣うものです。だから、ペテロは15節で「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」と言うのです。この世の人たちはいろんな宗教を信じています。不思議なことにその人は、自分が信じている神様に品性が似てくるそうです。たとえば、アッラーの神を信じているイスラム教徒はどうでしょうか?彼らの主張は「片手にコーラン、片手に剣」ですから、どうしても暴力的になります。ご利益を与える新興宗教を信じている人は、どうでしょうか?なんだか、利己的な顔立ちがします。仏教はこの世のものを否定しますので、「諦め」が支配しているように思います。当亀有教会がなぜ、明るいのでしょうか?それは主の恵みを強調しているからです。律法を強調している教会は、さばかれている感じがするでしょう。でも、私たちは、キリストにあってすべての咎めが去ったので、赦しの中を生きています。いつまでも続く「信仰、希望、愛」をスローガンにしています。

でも、きょうの箇所はとても厳しい箇所ではないでしょうか?私は最初、ホーリネスの神学校に行きました。そこは、聖めを強調していましたので「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と上段の構えで言われました。でも、律法的で、「寄らば切るぞ」という雰囲気がありました。「献身した者は、聖くあるべきだ」というのが、全面的に出ていて、人間味が欠けていました。そういう人が牧師になるとどうなるでしょう。講壇と私生活のギャップが大きくて、どうしても偽善的になるのではないでしょうか?アメリカでは90%以上の牧師がポルノに葛藤を覚えているそうです。日本の牧師は、表面は何とか繕っていても、裏では苦しんでいるのではないでしょうか?ですから、この聖さということを、律法で捉えるのではなく、恵みで捉えるべきです。なぜなら、律法になると、どうしても肉が罪を生み出してしまうからです。では、恵みによって聖くなるとはどういうことなのでしょうか?新約聖書の時代、聖い人が2種類いました。第一はパリサイ人、律法学者たちです。彼らは汚れたことから離れ、律法を守っていました。そして、律法を守れない罪人や取税人とは決して、交わろうとしませんでした。パリサイ人たちは「自分たちは彼らと違う。自分たちは聖いんだ」と自負していました。もう1種類はイエス様とその弟子たちです。イエス様は聖いお方でしたが、罪人や取税人と交わり、一緒に食事までしました。弟子たちは聖いイエス様と一緒にいても気を使うことはありませんでした。自由な雰囲気の中で、聖い生活をしていたと思います。私たちはパリサイ人、律法学者たちの聖さではなく、イエス様とその弟子たちのような聖さを求めるべきであります。でも、どうしたらそのようになれるのでしょうか?

答えは、17節にあります。1:17「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」「恐れかしこんで」という訳は、宗教的過ぎる表現です。英語の聖書はaweという単語を用いています。畏敬という意味で、尊敬と恐れが合わさった感情であります。私たちの神さまは「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方」です。神さまは公平なお方です。自分が罪を犯して、さばかれる立場であったら怖いですね。でも、私たちの神さまは、「父」なる神さまです。もし、私たちが父なる神さまを恐れ、そして親しく交わるならどうでしょう?どんなことが可能なのでしょうか?地上におられたイエス様は父なる神さまと親しく交わっていました。イエス様は父なる神さまの御目のもとでいつも暮らしていたのです。だから、聖い生活ができたのです。私たちもイエス様にあって、神さまは父です。父なる神さまから、召され、父なる神さまの子どもです。私たちの中にはアダムの種ではなく、造り主である神さまの種が宿っているのです。キリストにあって古い人であるアダムは死んだのです。私たちはキリストにあって新しく作られたものです。コロサイ3:9-10「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」私たちはアダムに属する古い人を脱ぎ捨て、造り主に似た新しい人を着ているのです。

神を恐れるということは、怖いと思うことではありません。畏敬という意味であり、尊敬と恐れが合わさった感情です。旧訳聖書の神さまは確かにそういうイメージがあります。しかし、イエス様の贖いを通して見るならば、神さまは慈愛に満ちた父なる神様です。だからと言って、神さまを舐めてはいけません。神さまはこの自然界を造られたとき、自然の法則と道徳的な法則を一緒に造られました。私たちは、自然の法則に支配されていることは容易に認めます。たとえば、万有引力の法則からは逃れることができません。二階から落ちたら怪我をします。熱いものは冷めるという、熱力学第二法則にも支配されています。でも、神さまは道徳的な法則も同時に造られました。もし、私たちがその法則を破るならば、たとえクリスチャンであっても、罪の刈り取りをしなければなりません。神さまが愛だからすべて赦されるということではありません。確かにクリスチャンであれば、罪赦され、天国には行けます。しかし、私たち自身がこの地上で刈り取りをするか、私たちの子孫が刈り取りをするかどちらかになります。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。彼が罪を認めて告白したら即座に赦されました。しかし、ダビデの家から剣が離れず、性的な罪も起こるようになりました。実際、ソロモンはたくさんの外国の女性を愛して堕落しました。列王記を見ると血なまぐさい事件がたくさん起こっています。明らかに、ダビデの咎が、その子孫に影響を与えています。ですから、私たちは神を恐れなければなりません。それは神さまが造られた道徳的な法則を守るべきだということです。現代は「でき婚」があたりまえのようになっています。しかし、それは明らかに神さまの法を犯しています。だから、必ず、その罪を刈り取るときがやってくるのです。でも、私たちの神さまはイエス・キリストの神さまです。父なる神さまは、キリストにあって私たちを赦そう、その咎を打ち壊そうとされるお方です。だから、私たちは愛であり、善である神さまを裏切ってはならないのです。聖い生活は、父なる神さまの御目のもとで生きるときに可能になってくるのです。しかし、それは窮屈な生活ではなく、親しい交わりからくる自由な生活です。Ⅱコリント3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」アーメン。

 

2.キリストの尊い血によって

 

私たちは以前、どのような生活をしていたのでしょうか?14節「以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わないように」とあります。福音を知らず無知であったため、さまざまな欲望に支配されていたということです。どんな欲望でしょうか?Ⅰペテロ4:3「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」わぁー、私はノンクリスチャンのとき、好色、お酒、宴会騒ぎが大好きでした。会社の忘年会で、上野のキャバレーに連れて行ってもらいましたが、「世の中はこんなに楽しいものか!」と感動しました。「忌むべき偶像礼拝」とありますが、イスラエルの人たちはこれでやられてしまいました。偶像礼拝の背後には好色や性的罪があったようです。人々は偶像の前で踊って戯れ、汚れたことをしていたようです。日本にもいろんなお祭りがありますが、こういう罪と関係するものもたくさんあるのではないでしょうか?聖書の福音を知らず、無知であったためです。さらに、私たちはどのようなところから贖われたのでしょうか?18節「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出された」と言っています。日本人が先祖伝来、持っている空しい生き方とはどんなことでしょうか?「長いものには巻かれろ!」というお上に対する姿勢のゆえに、真の民主主義国家になれません。また、地方に行けば行くほど、お寺や仏壇にしばられ、クリスチャンになることが容易でありません。また、「頑張りや努力、勤勉」が美徳とされています。それら自体は決して悪くはありません。しかし、神さまの抜きの「頑張りや努力、勤勉」では、精神が病んでしまいます。日本に鬱病やさまざまな依存症、自殺者が多いのはそのためではないでしょうか。「勉強して良い学校に入り、良い会社に入る」という価値観も問題です。良い学校に入るために勉強するのではありません。人格的に豊かになり、考え方を広く深くするために勉強するのです。大学に入ると半数以上は勉強しません。入社後は、資格を取るときだけ勉強します。後は、飲んでカラオケに行ったり、娯楽番組を見て、本を読むことがありません。

私たちは以前、さまざまな欲望に支配され、父祖伝来の空しい生活をしていました。では、だれが私たちをその中から何をもって贖ってくださったのでしょうか?1:18-19「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」アーメン。ペテロにとっては、銀や金は朽ちる物であると考えられています。1:7「火で精錬されつつなお朽ちて行く金」とありました。私は「いやー、銀や金はさびないし、永遠のものじゃないの?」と思います。しかし、この地上のものはいつかなくなります。ペテロが考えたゴールは、新しい天と新しい地でした。そうすると、この地上にある銀や金は朽ちる物の中に入ります。しかし、ペテロが言いたかったことは、以下のことです。「銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」当時、物を買ったり売ったりするとき、銀や金が用いられました。「贖う」ということばは、「買い戻す」という意味があります。奴隷を買い戻して、自由にしてあげることき、銀や金を差し出したと思います。でも、私たちは、さまざまな欲望に支配され、父祖伝来の空しい生活をしていました。その中から贖い出すためには、銀や金では足りないのです。一体、何が必要なのでしょうか?「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血による」のです。旧訳聖書の時代、生贄に捧げる羊は、傷や汚れがあってはなりませんでした。一歳の傷のない完全な羊を捧げなければなりませんでした。イエス・キリストこそ、神の小羊であり、その尊い血によって私たちは贖われたのです。いや、キリストの尊い血でなければ、私たちは贖われなかったのです。

私たちはキリストの血による贖いを強調しても、強調しすぎることはないと信じます。はっきり言って、この考えは他の宗教にはありません。神道にも仏教にもありません。イスラム教にもヒンズー教にもありません。戦後、キリスト教の良い部分を取り入れた新興宗教がたくさん興りました。天理教、霊友会、立正佼成会、創価学会、いろいろあります。彼らもいろんな救いを説きますが、キリストの血による贖いがありません。何故でしょう?人間の罪を言わないからです。罪ではなく、業とか、煩悩、汚れ、弱さに置き換えているからです。罪は汚れではありません。これはだれか、罪のない方が、いのちをもって贖うしかありません。残念ですが、全人類は、アダムの子孫から生まれたので、贖い主にはなれませんでした。人類史上、罪がまったくないお方は、神の子であるイエス・キリストだけしかいませんでした。このお方が、一回ですべての罪を贖ったのです。ヘブル9:12「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。まことの神さまは、御子イエスの血以外は受け入れません。「過ぎ越し」のように、御子イエスの血が塗られている人だけを、裁かないで、赦すことに決めておられるのです。他の宗教の方々が「血なまぐさい」とか、「狭い」とか、馬鹿にしても心配することはありません。なぜなら、世の終わりが近づいています。同時にそれは、すべての人が義なる神さまの前に立つときが近づいているということです。白黒、つけられるときが来るということです。

でも、贖うとは罪の赦しだけではありません。解放するという意味がそこに含まれています。私たちは、この世のさまざまな欲望と父祖伝来の空しい生活から解放され、永遠に向かって生きる必要があります。この解放のためにも、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血」が必要なのです。ブラック・ゴスペルにキリストの尊い血を賛美した曲があります。Oh the blood redeeming blood, Jesus blood shed for me. And on how precious is the blood.「贖いの血、私のために流されたキリストの血。なんと尊い血なのでしょう。」罪の中に縛られている人が、どうやったら立ち直れるのでしょうか?それができる人は、「ああ、私のためにキリストの尊い血が流されたんだ」と心から理解した人だけです。罪を犯して、刑に服している人たちがたくさんいます。アメリカでも日本でも、刑務所がパンク状態だと聞きます。しかし、何年間かそこで服役しても、4割の人が出てから、また罪を犯すそうです。なぜなら、刑務所は罰を与えるためにあり、更正要素が低いからです。そこでは人間の尊厳が著しく破壊され、出所してからも前科者になります。その人の心の中に「すまなかった」という気持ちは起こりません。むしろ、「ちくしょう、あんなことぐらいで」と恨みや憎しみが増すのではないでしょうか?私も学校の先生から、数え切れないほど、叱られ、体罰も受けました。高校生のときは万引きでつかまったときもあります。その時の先生の目は、私を人間として見ていません。「何と言う、破廉恥なことを!」と見下げられ、存在を汚されたという感じがしました。「いやいや、私はそういう犯罪人ではありません」とおっしゃるかもしれません。しかし、どんな罪であれ、罪は人間の尊厳を卑しめる力があります。「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血」だけが、罪で破壊された人間の尊厳を回復する力があるのです。

罪を犯すと、だれを悲しませているのでしょうか?それは私たちを造られた父なる神さまであります。私たちが罪を犯すとき、父なる神の御前で犯しているのです。人よりも、神さまであります。社会への償いが必要ないと言っているのではありません。罪を犯した人の尊厳を回復するのは、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血しかありません。もし、罪を犯した人が、罪赦され、尊厳が回復されるまで行ったらどうなるでしょうか?「ああ、私がこうなるために、キリストの尊い血が流されたんだなー、ありがとうございます。」もったいなくて、わざと同じ罪を犯さなくなります。法的なものもありますが、最後は、神さまと人格的な関係で、人は立ち直るのではないでしょうか?ヨハネ8章に姦淫の場で捕らえられた女性の物語が出てきます。イエス様は彼女に何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ8:10-11「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」もし、イエス様が「売女め」と言ったならどうなるでしょう?また、同じことをするでしょう。でもイエス様は「婦人よ」と言いました。これは、イエス様がヨハネ2章で、マリヤに言ったのと同じ呼び方です。そして、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と彼女を解き放しました。この女性が、「わぁー、ラッキー。また、罪を犯そう」とは思わないでしょう。なぜなら、罪が赦され、尊厳が回復されたからです。キリストの血は罪によって壊れた、あなたの尊厳を回復する力があります。

ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」アーメン。福音を語るとき、キリストの血を語らないわけには行きません。福音は「良い知らせ」という意味です。キリストを信じだけで、罪赦され、救われるという良い知らせです。でも、その背後には、尊い血が流されたというキリストの犠牲を忘れてはいけません。そして、キリストの血は私たちの良心をきよめ、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にしてくれます。なんという力でしょう。きよめられるというのは、単に罪を犯さないことではありません。死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者となるということです。これまで罪のためにささげていた体を、生ける神に仕えるためにささげるということです。私たちはこのように祈りたいと思います。「神様、ありがとうございます。以前は、罪に染まって、無目的で生きていた私たちを、キリストの尊い血で贖ってくださいました。これからは、神さまの御用のために尊く用いてくださることを感謝します。」アーメン。