2011.05.29 上からの知恵 ヤコブ3:13-18

ヤコブはこのところで、「知恵」ということばを何度も使っています。知恵には大きく分けて、地に属する知恵と上からの知恵があります。地に属するとは、人間的なもので、ある場合は悪霊から来るものであるということです。一方、上からの知恵とは、神さまから来るもので純真で平和です。私たちはいろいろな行ないや生き方をしています。しかし、その源は何なのでしょう?ある人は地に属する知恵を用いて行動しています。また、ある人は上からの知恵を用いて行動しています。この世では目に見える行ないや結果だけを評価します。しかし、神さまにとっては、その行ないが地に属するものから来ているのか、あるいは上から来たものなのかが評価されます。別なことばで言うなら、その動機が不純であるか、純真であるかどうかです。つまり、その人が行っているエネルギーの源を問うているのであります。

1.地に属する知恵

ヤコブ3:14-16「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」地に属する知恵とは何でしょうか?それは「苦いねたみと敵対心である」と書いてあります。ねたみに関する最も古い記事は、カインとアベルの物語です。カインは弟のアベルのささげものが神様に受け入れられたことをねたみました。そのため、カインは怒って、アベルを殺しました。福音書を見るとどうでしょうか?パリサイ人と律法学者たちがイエス様をねたみました。本来、彼らは人々を教え、神さまに仕える者でありました。しかし、イエス様の方がすばらしい教えを説き、大きなわざを行ないました。そのため、多くの人たちがイエス様の方に行ってしまいました。彼らはイエス様を救い主として受け入れるよりも、イエス様を取り除こうとしました。なぜでしょう?このままでは、自分たちの地位や生活が脅かされるからです。つまり、彼らは表向きには神さまに仕えていました。しかし、本当は神さまを利用し、人々を食い物にしていた偽善者だったのです。まさしく、パリサイ人と律法学者たちは苦いねたみのゆえに、イエス様を十字架につけて殺したのです。そう考えますと、ねたみというのは破壊的で大きな罪であるということが分かります。

みなさんの中にねたみはないでしょうか?子どものとき、兄弟をねたんだ。あるいはお母さんやお父さんをねたんだということはないでしょうか。女の子にとっては継母、男の子にとっては、継父が問題になります。「おばさんに、お父さんが取られた」あるいは「おじさんに、お母さんが取られた」ということで、ねたみが心に生まれるのは自然ではないでしょうか?学校に行くとどうでしょう?お金持ちの子どもがいます。お家にピアノにある。何でも買ってもらえる。成績が良くて、姿形も良い、先生から特別にかわいがられている。当然、そういう人をねたむのではないでしょうか? 大人になってからもよくあります。男性ですと、乗っている車でしょうか?停止線で並んだ場合、向こうの車が排気量が多く、高級な場合は、「くそー」と思わないでしょうか?女性ですと、一流企業のご主人と結婚している人を見ると、むっとしないでしょうか?キリスト教界でもあります。片や大教会の主任牧師、礼拝が300名も集まっています。片や礼拝が20名にも満たない教会の牧師で、アルバイトして、なんとかやっている。違う教団だったら、「そういうこともあるだろうな」と思います。しかし、同じ教団だったら、「くそー」と思わないでしょうか?信仰の世界にもねたみがあります。ピリピ1章で使徒パウロがこのように言っています。ピリピ115「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。」わー、ねたみや争いをもって、伝道しているとはどういうことでしょうか?たぶん、俺たちの群を大きくしようと思っているのではないでしょうか?言い換えるなら、「あっちよりも、自分の教会、自分の教団を大きくしよう」ということです。カトリックよりも、プロテスタント教会の方がよくありがちです。なぜなら、プロテスタント教会には数えきれないほどの、教団・教派があって、分裂分派を繰り返しています。ねたみは、恐いです。「今に見ていろ、追い越してやるから」「今に見ていろ、ぎゃふんと言わせてやるから」。世の中ではこういう動機でやっても許されるかもしれません。しかし、神の国で、それは通用しません。

もう1つは、敵対心です。敵意と言って良いかもしれません。私は毎朝、散歩をしますが、犬を散歩に連れている人たちをよく見かけます。向こうから犬を連れて来る人がいます。こちらから犬を連れてくる人がいます。犬は「わぉーん」と威嚇して、飛びかかろうとします。中にはペロ、ペロなめ合う犬もいます。しかし、半数以上は、遠くから吼えています。なぜでしょう?彼らには敵対心が本能としてあるからでしょう。人間でもそうです。男性と男性、女性と女性、しかも、同年齢、同業種の場合がそうなりがちです。私も以前はある会社の現場監督でした。大きな現場はジョイントというか、共同体でやる場合があります。もし、隣の工区が、鹿島や大林組であるならば、初めから戦いません。でも、資本金が同じかちょっと向こうが小さい会社であるなら、「負けないぞー」みたいなものがありました。ある場合は、ママさん同士も火花を散らすときがあります。向こうから赤ちゃんを乗せた乳母車、こっちから赤ちゃんを乗せた乳母車がすれ違います。一瞬の間で、目の大きさ、可愛らしさをチェックし、「ああ、こっちが勝った」とかしないでしょうか?昔、幼稚園の運動会で父兄が出るプログラムがありました。バットを額につけながら、地面を5回ぐるぐる回って、それからゴール目指して走るというレースでした。横を見るとお父さんたちはみんな緊張しています。子どもに良いところを見せたいのでしょう。私の番が来ました。私は5回ぐるぐる回りましたが、隣の人は2回、回っただけで飛び出しました。「そんなズルをしてまでも1位になりたいのか!」とむかつきました。敵対心、これは動物であろうと、人間であろうとあります。なぜなら、それは本能だからです。でも、聖書的に、それは地に属し、肉に属し、悪霊に属するものであると言っています。

ヤコブの手紙は未信者ではなく、クリスチャンにあてられた手紙です。クリスチャンであっても、動機が苦いねたみや敵対心で動いている人がいるということです。彼らは生まれ変わっていないのでしょうか?確かにイエス様を信じて、霊的には生まれ変わっています。でも、価値観が変わっていないのです。相変わらず、昔の価値観で生きているのです。あるいは、幼い時に抱いたねたみや敵対心を温存したまま大人になったのです。つまり、ねたみや敵対心が要塞となり、何でもそのように受け取り、そのように対処してしまうのです。そして、ある場合は悪霊がその足場を用いて、その人を縛って離しません。エリヤハウスで聞いたことがありますが、子どもとき、お父さんがあることで自分を信じませんでした。彼女が大きくなり結婚しました。夫が少しでも帰りが遅いと、「ああ、他の女性と浮気しているんじゃないだろうか?」と疑いました。又、他の女性と仲良く話しいているのを見ると嫉妬心でいっぱいになりました。彼女が子どものとき、「もう、男性を信じない」と誓ったからです。牧師の子どもたちもそういう傷を持ちます。牧師は家庭をそっちのけで、信徒のために時間をささげます。子どもたちは信徒にお父さんを奪われたと思うでしょう。家が貧しくておもちゃも買ってもらったことがない。心の中は、教会に対する恨みと嫉妬心で一杯でしょう。そういう子弟が牧師や牧師夫人になったらどうなるでしょうか?教会の信徒に対して、復讐してやろうと思うでしょう。怨念晴らしのために、牧師になったらどうなるのでしょうか?

5月の半ば、李光雨師の学び会がありましたが、先生はこのようなことをおっしゃっていました。「『何をするのか?』ではなく、『何のためにするのか?』が大切である。神さまは私たちの心の値打ちを計られる。それは、動機が何であるかということであり、いくら賜物があっても、怨念に満ちていたら、それは凶器になる。献身する目的は何か?恨みを晴らすためではないのか?価値観の変化が必要である。エネルギーの変化が起きているかどうかである。」聖書を見ますと、パウロはどうでしょうか?彼はクリスチャンを捕らえ、牢屋にぶち込むほど熱心なユダヤ教徒でした。彼は「自分こそ、まことのユダヤ人だ」と自負し、その怨念をエネルギーにして賜物を発揮させていました。ところが、イエス様と出会って、全く変わりました。そして前とは違うエネルギーで生きるようになったのです。ピリピ3章でこのように証ししています。ピリピ37-8「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」アーメン。パウロは律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、キリストの復活の力で生きるようになったのです。最初から純粋な動機で神さまに仕える人は多くはないでしょう。どこかに、苦いねたみと敵対心があるかもしれません。しかし、パウロのように生けるキリストと出会うなら、逆転勝利し、エネルギーが変換するのです。神さまを自分のために用いるのではなく、神さまのために自分を用いていただきましょう。

2.上からの知恵

 ヤコブ317-18「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」上からの知恵とは、何でしょう。それは神さまから与えられる知恵であり、神さまが力の源であるということです。地に属する知恵は、苦いねたみと敵対心でした。しかし、上からの知恵は、それらとは全く逆の神さまご自身が持っているものです。私たちはこういうものをすべての働きのエネルギーにすべきであります。上からの知恵の第一は純真であります。純真とは英語でpure、混じり気がないということです。動機が不純でなく、純粋だということです。しかし、みなさん最初から純粋に奉仕し、純粋に献身する人がいるでしょうか?私が「直接献身したいなー」と思ったのは、洗礼を受けて、半年後のことです。そのとき、貿易会社に入っていましたが、私を導いてくれた先輩と二人で会社をやめることになりました。外国との契約を平気でやぶる社長とは、クリスチャンとしてやっていけなかったからです。先輩は「アメリカに友人がいるので、バプテスト系の神学校に入る」と言いました。私はそういうコネが全くありません。「日本の神学校で良いや。大川牧師に頼めばなんとかなるのではないだろうか?」そんな感じだったのです。大川牧師は私を志願兵として送り出してくださいました。そのとき、開かれたみことばがヤコブ3:17の「温順」です。先生は「温順とはteachable personと言って、それは教えられやすい心という意味である。だから、一生、だれからも学ぶ心を持つように」と教えてくださいました。自慢ではありませんが、それからずっと、学ぶ心を失っていません。いろんなセミナーに出かけては学んでいます。でも、動機が純粋だったわけではありません。まるで、金が精錬されるように、火のような試練によって試され、純化されて行ったのであります。「純真」と言われても、はじめから純真な人はおそらくだれもいないでしょう。しかし、愛なる神さまはその人を受け入れ、いろんな人や環境、出来事を通して、取り扱ってくださるのです。それが教会員からであったり、夫や妻や子ども、事故や失敗、病気や別れかもしれません。そのとき、私たちは地上から天を仰ぎ、両手を広げて降参します。そのとき、上からの知恵と力が注がれるのです。

 上から知恵の2つ目は何でしょう?それは平和です。18節には二回も「平和」が出てきます。敵対心の反対は平和です。私たちは平和というと、「国と国との平和、戦争がないこと」と考えるかもしれません。それもそうですが、その前に、私たちの心が平和であることが重要です。では、平和は、どこからどうやって来るのでしょう?それは神との平和です。ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」本来、私たちは罪を犯し、神さまと敵対して歩んでいました。ところが、イエス様がすべての罪を取り除くために、贖いの供えものとなってくださいました。私たちが「ごめんなさい」を言う前に、イエス様が私たちの罪をかぶって死なれ、和解を実現させてくださったのです。イエス様は片方の手で父なる神さまを、もう片方の手で私たちを握って、和解を成り立たせてくださいました。何と言う恵みでしょう。ある人たちは、「罪を悔い改めなければ救われない」と言います。では、どれだけの罪を悔い改めなければいけないのでしょうか?今まで自分が犯した全部の罪を覚えている人が一人でもいるでしょうか?では、私たちが救われるのはどういう悔い改めが必要なのでしょうか?それはこういうことです。「私は今まで神さまを信じないで、自分勝手な道を歩んでいました。これから私は、イエス様の贖いを信じて、神様、あなたに立ち返ります。」これが救いを得るための悔い改めです。私が犯した個々の罪ではなく、私そのものが罪であったということを認めることが大事なのです。そうすると、私たちの中に咎めがなくなり、「ああ、愛され、赦され、神の子どもになったんだ」という信仰が、平和と共にやってきます。そうです。イエス様の十字架による和解によって、私たちは平和を得たのです。アーメン。

 上からの知恵の3つ目以降は何と何でしょうか?寛容、温順、あわれみ、良い実、えこひいきがなく、見せかけのないものです。1つずつやっていると時間がありません。ですから、寛容でひとくくりにしたいと思います。温順は寛容に人の意見を聞く態度のことです。また、あわれみは、人をさばかないで寛容な心をもって同情することです。寛容というと、「いい加減」というニュアンスを与えます。皆さん、神さまほど義なるお方はおられません。シナイ山で十戒を与えられた神様は、何人(なんぴと)も近づけない俊厳なる神さまです。しかし、同時に神さまほど寛容なお方はおられません。ローマ24「その豊かな慈愛と忍耐と寛容」と書いています。ローマ922「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった」とあります。もし、神さまが寛容でなかったなら、私たちは数え切れないほど滅ぼされ、ここにはいませんでした。太陽の6000度の熱で、一瞬に解け去るように、消えてなくなっていたでしょう。ああ、それなのに、それなのに。私たちはそんなことをケロっと忘れ、他人をさばいてしまうのです。パウロは「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」と言っています。その人は、「さばくとさばかれる」という法則の中に落ちてしまいます。ですから、私たちはすべての罪を赦してもらった人として、寛容さが必要です。それは「いい加減」ということではありません。「寛容」のギリシャ語は「公平な、寛大な、柔和な、優しい」という意味のことばです。逆に言うと律法的に考えないということです。英語ではgentleと訳されています。ladies andgentlemanのgentleです。

 私たちは生まれてこのかた、「公平で、寛大で、柔和で、優しい」人と出会ったことがあるのでしょうか?逆に、えこひいきして、怒りっぽく、偏狭で、厳しい人とばっかり出会ってきたのではないでしょうか?この間、聞いたことです。ある先生の子どもが分度器か何か忘れたようです。他の二人は「忘れ物をしてごめんなさい」と謝ったけど、その子だけは謝りませんでした。それで、先生はみんなの前で「ごめんなさいも言えないのか」となじったそうです。その子はそれから学校に行けなくなりました。朝になると、おなかがいたくなり行けないのです。お医者さんのところに行くと確かに胃炎になっているというのです。学校の先生が家庭を訪問し、「はっきりと物ごとを言える」教育を目指したいと言っていたそうです。聞くところによると、前の先生はとっても優しくその子と接してくれました。しかし、4月からの先生は厳しくて、とっつきにくかったようです。その子は謝りたかったけど、緊張してことばが出なかったのでしょう。「もし、寛容な先生ならどうするでしょう?「そうか、いろんな事情があったんだよね、きっと。この次からは忘れないようにね」ぐらいで良いのではないでしょうか?緊張すると、よけい頭が働かなくなります。私たちの神さまは「ごめんなさい。確かに罪を犯しました。次からは決してしませんと」悔い改めなければ、赦してくださらないのでしょうか?義なる神さまと罪ある私たちの間には和解を成し遂げられたイエス様がおられます。神さまはイエス様を通して、私たちをご覧になるのです。だから、私たちが「ごめんなさい」の「ご」ぐらいで赦して下さるのです。もっと言うなら、私たちが悔い改める先から、赦す準備をしておられるのです。神様は寛容で、温順で、あわれみに富んだお方です。もし、私たちがこのような父なる神さまとの出会いを経験したならどうなるでしょうか?私たちの心の中に、寛容と温順とあわれみが生まれるのではないでしょうか?律法の定規を人々に当ててさばくのは簡単なことです。律法の定規にあてはまる人などどこにもいません。しかし、やがては、自分もその定規で測られることになります。私たちは検察官にではなく、弁護士になるべきです。では、「罪がいい加減になるのでは?」と心配します。そうではありません。聖霊様がその人に罪を悟らせ、本当の悔い改めに進ませてくださるのです。顔に吹き出物が出た場合どうするでしょう。すぐ、絞るとどうなるでしょう。ちょっとは出るかもしれませんが、中にひっこみ、後から怒り出すでしょう。それよりも、ちょんちょんと薬を塗って、放っておけば良いのです。時が来ると、熟して、中の悪いものが出てきます。私たちは、「それは罪だ!」とさばくので、ひっこんで、後から怒り出すのです。

 私たちは地上の知恵ではなく、上からの知恵を求めるべきです。地上の知恵である苦いねたみと敵対心を捨てましょう。その代わり、神さまがくださる純真、平和、寛容、温順、あわれみを求めましょう。そうするなら、良い実が満ち、義の実が結ばれていくのです。