2012.4.1「キリストの苦しみ Ⅰペテロ2:21-25」

今週は受難週で、来週の日曜日は復活祭、イースターです。ちょうど私たちはⅠペテロから連続して学んでいますので、少し飛んで、Ⅰペテロ2:21節以降から十字架のメッセージを取り次ぎたいと思います。この箇所はローマのカイザルや総督、あるいは主人のもとで仕えている人たちが対象です。彼らはクリスチャンとしてさまざまな試練の中にいましたが、こういう権威ある人たちの下にいるときは、なおさらです。特に横暴な主人のもとで仕える奴隷は、不当な苦しみを受けることが多かったと思われます。「悪いことをしていないのに、なんで打ち叩かれる必要があるんだ!」という怒りがいっぱいでした。そういう人たちに、ペテロは「十字架の苦しみを忍ばれたイエス様のことを思い起こしなさい」と教えています。

 

1.キリストの模範

 

Ⅰペテロ2:21-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」ローマ・カトリックでは、「キリストに倣うべきである」というメッセージがしばしば語られます。しかし、プロテスタント教会では、キリストの贖いを強調して、キリストに倣うということはあまり語られません。しかし、ペテロは「その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」と言っています。ここで誤解をしてはいけません。罪の贖いを成し遂げられたのはイエス・キリストだけであります。私たちはイエス様と同じような、罪の贖いをすることはできないし、する必要もありません。ここで言われていることは、そうではありません。イエス様は罪を犯したことがなく、ちっとも悪いことをしていませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをしませんでした。イエス様は神さまであり、権威と力に満ちていました。罪ある人間に対して、雷のような声で叱りつけ、鉄槌を振り下ろすことも容易なことでした。ヨハネ18章には、イエス様が捕えられたシーンが記されています。イエス様がご自分を捕えようとする者たちに「それはわたしです」と言われました。すると、武器を持った兵士と役人たちは、後ずさりし、地に倒れました。ペテロが大祭司のしもべに切りかかったとき、イエス様は「剣をもとに収めなさい」と叱りました。その後、「それとも、わたしが父にお願して、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:53)と言われました。イエス様は武力で立ち向かおうと思えば、できたのです。しかし、それをあえてしませんでした。

私たちは、キリストの贖いを受けることが第一の課題です。なぜなら、それがないと救われないからです。しかし、キリストの贖いを信じて、クリスチャンになっても心の問題が解決されていない人がたくさんいらっしゃいます。心の深いところで叫んでいるのです。「わたしが受けた不当な苦しみを何とかしてくれ!これはまだ償われてはいない」と。いや、表面的にはそんなことは思いもしないでしょう。クリスチャンですから、愛と寛容と忍耐が必要なことくらいわかっています。でも、日常生活において、「あなたのせいだ」「お前が悪い」「お前が責任を取れ」と言われたらどうでしょう。それは、学校や職場、家庭、教会の中においてもありえることです。イエス様のようにつばきをかけられたり、打ち叩かれたり、ののしられるところまでは行かないかもしれません。しかし、不当な扱いを受けたり、裁かれたり、プライドを傷つけられるということはあるでしょう。週に1回、月に2、3回は「何でわたしが!こんな不当な扱いを受けなければならないの!」と過剰に反応することはないでしょうか?同じ思いがぐるぐる駆け巡り、怒りが収まらない、夜も寝付けない。そういうことはないでしょうか?私は家内とたまにあります。私は「津波に飲み込まれた人がなぜ、逃げなかったんだ。逃げる時間はたっぷりあったはずだ」と言います。すると、家内は「逃げたくても逃げられなかったのよ。助けに行ったけど、そこに留まりたい人もいたのよ」と言います。私は「そんなことはない。責任のある人が『津波が来るから高台に逃げろ!』と警告すれば良かったんだ!」と反論します。何故、私が怒るのでしょうか?それは、私の父が家庭を正しく治めていなかったからです。仕事をあまりせず、お酒を飲み、母を叩いていました。兄弟どうし争っていましたが、父は見て見ぬふりです。もし、父が「正義とはこうだ」と自ら模範をしめして、家庭を治めていたら、私の心に「守り」があったはずです。「責任を取るべき人がちゃんと責任を取る」。これがなされていない家庭で育った子どもは、いつも不安があり、怒りがあります。だから、そういう世界観で、何でも見てしまいます。

私たちが今、敵対している夫や妻、あるいは職場の上司、教会の兄弟姉妹、気になるあいつ。実は、その人たちが本当の敵ではないのです。あなたは「ここで会ったが百年目」と過去において晴らせなかった恨みを、今、ここで晴らそうとしているのです。それを李光雨先生は「怨念晴らし」と呼んでいます。私たちは無意識に、未完の行為を、目の前のだれかにぶっつけて、晴らそうとしているのです。でも、それは無理なんです。本当の敵は目の前の人ではなく、あなたを最初に不当に扱った人が張本人だからです。その人とは、あなたの父であったり、母であったり、兄弟、おじさん、友人、先生なんです。あなたの世界を最初に壊した「あいつ」が原因なのです。「あいつ」との問題が解決されていないので、「何とかしてくれ!」と叫んでいるのです。でも、その人たちは年老いたか、死んだか、遠くどこかで生きています。もう、会えないかもしれません。彼らはそんなこと覚えていないかもしれません。どうでしょう?私たちはそういう過去に受けた不当な扱いに苦しんではいないでしょうか。そして、それを今、だれかを敵にみなして、「こんどこそ取り返してやろう。こんどこそギャフンと言わせよう」とやっきになってはいないでしょうか。一時的にそういう仕返しができるときはあります。しかし、また、別の事件が起こり、別の人が出てきて、同じような情況に陥ります。また、怒りがこみあげてきて、夜、眠れなくなります。ですから、問題の解決は現在の問題ではなく、その問題を引き起こした過去にあります。噴火している火山の出口ではなく、怒りのマグマがたまっている場所をなんとかすべきです。

私たちは心の深いところに、苦しみを受けられたイエス様を向かえるべきです。イエス様は十字架にかかる前にどんな扱いを受けたのでしょう。イエス様は神の座を捨て、人となって地上に降りてこられました。福音を宣べ伝え、病を癒し、多くの人を助けました。しかし、当時の宗教家たちはイエス様を非常にねたみました。不当な裁判を開いて、イエス様を罪ある者としました。群衆は彼らに扇動されて、「十字架につけろ!」と叫びました。ローマ兵はイエス様がユダヤの王様だったので、むちゃくちゃひどいことをしました。イエス様はつばきをかけられたり、ひげを抜かれたり、平手で打ち叩かれたり、さんざん嘲弄されました。動物の骨やなまりが先端に縫いこまれたローマの鞭を死ぬ一歩手前まで受けました。そのあと、重い十字架を背負わされ、歩みが遅いので、また鞭で打たれました。最後は、ローマ市民は触れてはならないという最も醜悪な十字架につけられました。「十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」と、人々から馬鹿にされました。3本の釘に全体重がかかり、呼吸すらも困難になりました。イエス様は人々から捨てられ、最後には神さまからも捨てられました。つまり、イエス様は直ちに十字架にかかって死んだのではありません。十字架にかかるまで、精神的な苦しみ、肉体的な苦しみをさんざん受けられたのです。これは何故でしょうか?ペテロは24節で「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです」と言っています。本来なら、「あなたがたの罪が贖われたのです」と言うべきです。なぜなら、イエス様の十字架の死は、罪の贖いが第一の目的だったからです。でも、「打たれた傷のゆえに癒された」と書いてあります。死なれたゆえにとは書いてありません。「打たれた傷」となっています。「打たれた傷」とは何でしょうか?それは十字架にかかる前から、不当な裁判を受け、人々の嘲笑を受け、平手で打たれ、こづき回され、ローマの鞭を受け、さらしものになったという苦しみです。イエス様は、人類と神さまのために地上に来られたのに、人からも神さまからも打たれました。なんという不当な扱いでしょうか。

イエス様はただ十字架で死なれたのではありません。こういう仕打ちを受けたられたのは、私たちの心が癒されるためです。私たちがこのように決断するためです。「イエス様が受けられた痛みで、もう十分です。私に不当な扱いをして苦しめた人に、もう仕返しをしません。正しく裁かれるあなたにお任せします。復讐を放棄します。」あなたは当然、訴えることができる証書を持っているはずです。しかし、その証書を神さまに渡しましょう。そして、イエス様の十字架に一緒に釘づけしてもらうのです。これまでの十字架は、自分が犯した加害者的な罪でした。しかし、自分が受けた被害者としての傷や恥、訴えも怒りも、悲しみも、十字架につけましょう。「それらを十字架につけます」と言ったならば、神さまはそれらすべてを処理してくださいます。そして、父なる神さまとイエス様があなたを抱擁し、天の喜びで満たしてくださいます。あなたは父なる神さまとイエス様の間に手を繋がれた子どものように安心できます。父なる神さまはあなたの味方として、これからも、一緒に歩んでくださいます。

 

2.キリストの贖い

 

 ペテロは、私たちが受けた心の傷を癒されることを願っていますが、もう1つ私たちの心自体が健全になるように願っています。2:24-25「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」このところには、私たちが、今後、どのように生きるべきかが示されています。「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」とあります。さらには「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」と書いてあります。私たちが元来、犯していた罪、別な言い方をすると、的外れな生き方とはどういう生き方だったのでしょうか?アダム以来、人類は神から離れ、自分勝手な生き方をしてきました。神さまなんか認めない、神さまなんかに従わない。むしろ、反逆したい。わがままな羊こそが、私たちの生まれつきの状態です。赤ちゃんは無垢で、罪のひとかけらもないように思えます。お母さんだったらよくご存知でしょうが、数ヶ月たつと、自分の思い通りにいかないと怒り出します。2,3歳になると、親の言うことを全く聞かなくなります。あの可愛い赤ちゃんが怪物のように思えてきます。それで、負けてはならないとガンガン怒るか、それとも無視するか、です。もう、毎日が戦争です。当の子どもはどう思うでしょうか?「親から不当な扱いを受けた」と思うのです。親はこの子が立派に育つようにしつけたつもりでも、子どもの方は、虐待されたと思うのです。「私は立派な大人になりたいので、どうか私をきびしく育ててください」と願う子どもはまずいません。子ども自体が、わがままであり、親の言うことを聞きたくないのです。という訳で、私たちが受けた心の傷と、私たちが持っている心の罪も取り扱う必要があります。

 ペテロがここに書いてあることばは、旧訳聖書のイザヤ53章から引用したものです。もとはどのようになっているのでしょうか?53:6 「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」そして、53:8後半「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」ペテロもイザヤもそうですが、私たちが羊であり、神さまが羊飼いというふうにたとえています。私たちは羊ですけど、どんな羊なのでしょうか?さまよっていました。さまよっていただけなら、可愛いのですが、それだけではありません。「おのおの、自分かってな道に向かって行った」と書いてあります。ここには、頑固で、身勝手さが見え隠れしています。羊は羊飼いについて行けば、外敵から守られ、草や水にもありつくことができます。しかし、この羊は自分勝手な道を歩んでいます。すぐ後には「そむきの罪」とも書かれています。このところから、羊は羊飼いに背いている、つまり反逆の霊があることが分かります。同じように、子どもには、親に対する反逆の霊があります。親、学校の先生、警察官、牧師…権威ある者に、無性に逆らいたい。そういう気持ちはないでしょうか?聖書には「妻は夫に従いなさい」と書いてあります。妻の方々どうでしょう?「あんな夫に従えるわけがないだろう」と思いませんか。おお!反逆の霊があるのではないでしょうか?ましてや、罪人は、神さまを認めたくもないし、神さまに従いたくもありません。ところで、犬は動物の中でも最も忠実な動物だと言われています。しかし、すべての犬がご主人に忠実なわけではありません。身勝手だったり、噛み付いたり、吼えまくる犬もいます。しかし、多くの場合、ちゃんと訓練されていないからです。わがままで身勝手な犬は、一見、自由で幸せそうに見えます。しかし、犬はご主人に忠実に従うときに、一番幸せなんだそうです。愛情をかけ、正しい訓練を施すなら、犬は忠実な犬になるそうです。私たちは犬ではありませんが、どうしたら幸せになるのでしょう。イザヤ書には「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」とありました。また、Ⅰペテロ2:25「今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」と書いてあります。本当の自由とは、自分の思いのままに生きるということではありません。本当の自由は、神様のもとで、神様が与えた目的に従って生きることの中にあるのです。タクシーがいろんなところで走っています。空車の後をついていくと、大変危険です。お客さんをさがしてフラフラ走り、突然、止まったりします。しかし、一旦、タクシーがお客さんを乗せ、メーターを起こすとどうなるでしょう。走り方が一変し、目的地までひたすら走るでしょう。

 クリスチャンになっても、自分が主人であり、自分の思いのままに生きている人がいます。それは、わがままな羊、わがままな犬であります。一見、自由そうに見えますが、人生に目的がありません。趣味はたくさんありますが、使命がないのです。使命とは命を使うと書きますが、何のために命を使っているか分からないのです。「いや、私はやることがたくさんありますよ」と言うかもしれません。しかし、それは心の空洞を埋めるために、ただ動いているだけかもしれません。神さまがこの世に生を与え、イエス様がその生を贖ってくださいました。その次があるはずです。「罪を離れ、義のために生きる」とは、神さまのご栄光のために、贖われた人生を使うということです。そうすると、どうしても矯正されなければならない所が出てきます。自己中心、身勝手さ、反逆心、これが取り扱われる必要があります。神さまは私たちをとても愛しておられますので、そういう環境の中に、すっぽりと入れてくださいます。あるいは、自分を矯正してくれる、イヤなヤツを何名か置いてくださいます。ヤコブは兄と父を騙して、長子の権利を得た狡猾な人物でした。しかし、ヤコブはどこで訓練を受けたのでしょう?ヤコブよりも数枚上手の、おじのラバンのもとに10年以上暮らしました。ラバンは横綱級の狡猾さで、10数回も約束を覆しました。ヤコブはそこで、すっかり砕かれました。モーセは40歳のとき、ヘブル人を救おうと立ち上がりました。しかし、失敗して、ミデヤンの荒野に逃れ、40年間、羊飼いをしました。モーセは「俺が、私が」という思いが、すっかり砕かれ、神さまに従う者になりました。預言者エリヤも使徒のペテロやパウロも、みんなそうです。

 それでは、私たちはどういうことがきっかけで、神さまに従順になるのでしょうか?神さまに逆らうと痛い目に会うからでしょうか?神さまに従えば、幸せになるからでしょうか?動物は、どれで良いかもしれませんが、人間はそういう訳にはいきません。Ⅰペテロ2:24 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」イエス様は、強いられて、十字架にかかられたのではありません。確かに、ゲツセマネの園では、もがき、苦しみました。イエス様は、死を恐れたのではありません。罪を恐れたのです。Ⅱコリント5: 21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」イエス様が私たちの罪を負うことによって、神様から断罪され、神様から捨てられる。これを恐れたのです。それまで、父なる神様と御子イエス様は一瞬たりとも離れたことがありませんでした。しかし、イエス様が罪を負うことにより、父なる神様から捨てられ、拒絶されたのです。イエス様が十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれました。あの苦しみ、あの孤独、あの悲しみが、私たちが罪を離れ、神様に従う動機になるのです。本来なら、私たちが地獄で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばなければなりませんでした。しかし、イエス様が私たちの人生を取り返すために、自ら罪となり、神さまから捨てられたのです。イエス様を十字架に釘づけしていたのは3本の釘ではありません。道行く、人々は「十字架から降りて来い、そうしたら信じる」と馬鹿にしました。イエス様は十字架から降りて、天に帰ることがいつでも可能だったのです。しかし、イエス様は私たち一人ひとりの人生を贖うために、ご自分の意思で十字架にかかっていたのです。イエス様は私たちの罪を贖うだけではなく、私たちの人生を贖うために、十字架にかかってくれたのです。ある人たちは、「キリストを信じるのは、罪赦されて天国にいけることだ。教会には縛られたくない」と言います。しかし、教会はキリストのからだであり、神の家族です。残念ですが、教会を離れて、神様からの目的を果たすことはできません。なぜなら、神さまはキリストのからだである教会を通して、働こうと願っておられるからです。教会は生まれつきわがままな私たちを矯正してくれるところでもあります。また、教会は人間関係で傷ついた私たちを癒してくれる神の家族です。羊は一匹で孤立していると、とても危険です。私たちは大牧者なるイエス様のもとで、共に集まって暮らすべきなのです。「たましいの牧者であり監督者である方」とは、私たちのために十字架で苦しみ、私たちの罪と人生を贖ってくれたイエス・キリストのことです。