2012.4.8「復活の必然性 イザヤ53:10-12」

先週は受難週のメッセージで、イザヤ書53章の前半を引用しました。きょうはイザヤ書53章の後半からイースター、復活祭のメッセージを取り次ぎたいと思います。普通は福音書から、復活の朝の出来事をお話ししますが、旧訳聖書から語るのは初めてです。さきほどの、イザヤ53:10-12を読んでみて、気づかれたでしょうか?苦難の僕が死んだままなら、ありえないことがいくつか書かれていました。たとえば、10節に「彼は末長く、子孫を見ることができる」とありました。また、12節には「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」と書いてありました。もし、死んだままなら、そういうことは不可能です。しかし、苦難の僕がよみがえったならば、それらのことが可能であります。イエス様もルカ21章で「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」と言われました。栄光とは復活であり、報いであります。

 

1.十字架の意義

 

 意義には、意味よりももっと深いものがあります。ふさわしい価値、値打ちみたいなものが含まれています。イエス様は何のために十字架にかかられたのでしょうか? 10節「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら…」。そして、11節後半「彼らの咎を彼がになう」。さらに、12節後半「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのとりなしをする」とあります。ここには、イエス様が十字架で死なれた、理由が記されています。第一に「罪過のためのいけにえ」とは、レビ記にあります。人が罪を犯した場合、きよい動物を祭司の前に持ってきます。祭司は動物をほふり、血を祭壇に注ぎます。いのちである血によってでしか、罪は贖われないからです。第二は「咎をになう」あるいは「罪を負う」と書いています。これもレビ記にありますが、罪を犯した人は、きよい動物の頭の上に手を置きます。手を置くという行為は、私の罪をこの動物の上に置きますという意味と、これは私の身代わりですという2重の意味があります。差し出された動物を祭司はほふった後、血を注ぎます。まさしく、イエス様は私たちの罪を負い、神さまから打たれ、命を失ったのです。正確に言うなら、イエス様ご自身が、命をささげたのであります。レビ記1章から9章まで、いろいろな犠牲が記されています。共通して言えることは、人に罪があるならば、神さまに近づくことはできません。きよい動物が殺され、血を流すことによって、人の罪が取り除かれます。そのことによって、初めて神さまに近づき、神さまを礼拝することが可能になるのです。キリストの十字架は、私たちの罪過のいけにえでした。キリストは十字架で、私たちの咎・罪を負ってくださり、神さまとの交わりを可能にしてくださったのです。

 しかし、日本人には罪の概念がありません。そのために、十字架の意味もわかりません。たとえば、「人さまに迷惑をかけてはいけない」とよく言われます。逆に言うならば、人に迷惑をかけなければ、何をしても良いことになります。そうなると、人が見ているところでは正しくふるまいますが、人が見ていないとタガがゆるむことがあります。今、幼児虐待とかドメステック・バイオレンスというのが急増しています。性的な罪、薬物中毒、詐欺事件も増えています。「我が子だから何をしても良い」「自分の体だから何をしても良い」「バレなければ良い」と思っています。裁判でも、明らかに罪を犯していているのに「私はやっていません」と無罪を主張します。確かに冤罪もあると思いますが、「そこまで、よくシラを切れるなー」と思うこともあります。日本人は、罪というものは人間との問題だと思っているからではないでしょうか?しかし、そうではありません。罪を犯すということは、神さまの御前で罪を犯していることなのです。それは、私たちを造り、私たち愛しておられる神様に背いていることになるのです。犯した罪に対しては何らかの刑罰、何らかの償いが求められますが、人だけの問題ではありません。神さまに対しても責任があるということです。だから、旧訳聖書では、罪を犯した人はきよい動物を身代わりにささげたのです。大体、「人」という漢字が問題です。金八先生が「人という字は人と人が支え合ってできている」と教えました。新渡戸稲造が最初に、「人、二人説」を提唱した人物だそうです。しかし、漢字学者によると、「人という漢字は人が一人で立っているところを横から見た姿を描いているという」ことです。それはともかく、ギリシャ語で人間はアンソーロポスと言います。これは、「上をあおぎ見て歩く」「神さまを礼拝する」という意味があるそうです。つまり、「人さまに迷惑をかけてはいけない」では、不十分で、「神さまをあおいで生活する」ということが重要なのです。また、罪を犯すということは、人との問題ではなく、何よりも、神さまとの問題だということです。

もし、私たちが神さまを恐れて生活するならば、どうなるでしょう?「結構、きゅうくつだろうなー」と思うかもしれません。クリスチャンでも、「日曜日の10時半から12時までの時間にしてもらいたい。月曜日から土曜日までは、自由にさせていただきたい」と思うのではないでしょうか?私もパソコンを毎日のように動かしています。テキストを作るとき、画像をインターネットから取り入れたりします。そのとき、ピャーっと、エッチな画像が入ってきたりします。「ラッキー」と思って、いろいろクリックするとはまってしまいます。100%大丈夫か、というとそうではありませんが、できるだけ「肉」には栄養を与えないようにしています。これは、エディ・レオ先生から教えられたことです。多くの場合、そういうものを見続けると、肉が太ります。そして、聖書を読まないで祈りもしないと、霊が非常に弱くなります。もし、目の前に誘惑が来たなら、どうなるでしょう?やせ細った霊が「やめなさい!」と忠告します。しかし、横綱のように太った肉が「これくらいなら大丈夫!」と体当たりしてきます。そうなったら、誘惑に負けてしまいます。ですから、普段から、肉にはエサを与えないで、霊を丈夫にするように工夫しなければなりません。そのためには、「私は神の御前で生きているんだ」という意識が必要です。このように神を恐れるということも重要ですが、新約における恵みも知らなければなりません。

イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりに死なれました。そのことによってどうなったのでしょうか?11節には「彼は多くの人を義とし」とあります。さらに、12節「彼は強者たちを分捕り物として分かちとる」とあります。後半には「そむいた人たちのためにとりなしをする」とも書いてあります。これらのことを通して分かることは何でしょう?キリストの十字架は罪の赦しだけではないということです。神さまは御子イエスの犠牲によって満足し、私たちをもう裁きの対象とは見ません。それ以上に、私たちを義とみなしてくださるのです。義とは「法的に、もう裁かれない」ということです。「強者たちを分捕り物とする」とは、私たちを捕えていたサタンや悪霊を打ち砕くということです。私たちは以前、彼らの持ち物であって、手かせ、足かせがはめられていました。しかし、イエス様が私たちを買い戻し、私たちを支配していた悪者どもを打ち破ったということです。これって、すごいことではないでしょうか?私たちはこれまで、やられっぱなしでした。しかし、イエス・キリストが彼らを打ち砕き、黙らせて下さったのです。ハレルヤ!私たちの記憶の中にたくさんのトラウマがあります。しかし、それらは幻影であり、過去の遺物であります。私たちは主の勝利を私たちの潜在意識にも告げ知らせなければなりません。では、私たちがまた罪を犯したり、罪のわだちにはまったらどうするのでしょうか?「そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。これは「これからそうする」という意味があります。なぜなら、第二番目で語りますが、この方がよみがえるからであります。イエス様はずっと、神さまの右の座で、私たちをとりなしてくださるのです。Ⅰヨハネ2:1-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」アーメン。私たちはもちろん、罪を犯さないように努力しなければなりません。しかし、それ以上に、「自分はどういうものとされているか」「私たちの敵はどうなっているのか」「私たちの救い主は今も何をなさっておられるのか」、これらのことを知ることがもっと重要です。私たちの全ての罪、咎をイエス様は十字架で負ってくださいました。今や、私たちはどういうものとされたのでしょう?神の前で義と認められ、私たちを訴える敵どもは敗北し、イエス・キリストが私たちのために今もとりなしていてくださるということです。ハレルヤ!これが信仰です。信仰とは、罪を犯した過去の自分ではなく、神さまが自分に対して何をしてくださっておられるかに目を注ぐことです。車のことを考えてみましょう。あなたはハンドルを握っており、目の前にはフロント・ガラスがあります。あなたの過去の問題は小さなルームミラーです。ルームミラーは後ろを見るために必要なものです。しかし、あなたは車を運転するとき、フロント・ガラスの向こうを見なければなりません。小さなルームミラー、そして大きなフロント・ガラスがあります。それは、過去の問題と今、主にあってどういう者とされているかということの比率です。小さなルームミラーはちらちら見て、多くの時間は、どうぞ前を向いて運転してください。

 

2.復活の意義

 

 旧訳聖書に復活のことが本当に書いてあるのでしょうか?もう一度、イザヤ書53章10節をお読みいたします。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」問題は、後半です。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」死んだままの状態では、末長く、子孫を見ることは不可能です。子孫を見るためには復活しなければなりません。リビングバイブルはこのところをはっきりと訳しています。「彼を傷つけ、悲しみで押しつぶすのは、実は神様の計画だったのです。罪が赦されるためのささげ物として、そのたましいをささげるとき、彼は多くの子孫を見ることができます。しかも彼は復活するので、神様の計画は彼の手によって陽の目を見ます。」後半は、だれが書いたのでしょう?実は英語の詳訳聖書にも確固入りですが、同じようなことが書いてありました。「時が来たら、彼は死からよみがえらされるので、霊的な子孫を見ることができるだろう」と訳しています。これは、意訳というか、補助的に付け加えられたものです。どちらにしても、やはり、苦難のしもべが復活しなければ、子孫を見ることができないということは確かです。日本人は、「草葉の陰から見ている」みたいなことを言います。しかし、それは現実的ではありません。私たちの神さまは実に、御子イエスを死者の中からよみがえらせ、報いを与えてくださったのです。

 イエス様ご自身が福音書でこのようなことを、度々おっしゃっていました。マタイ10:38-39「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」イエス様は神さまのみこころを成就するために、十字架でご自分のいのちを捨てました。まさしく、ご自分が教えていたことを実行されたのです。しかし、どうなったでしょうか?自分のいのちを失ったけれど、あとで、それを得たのです。イエス様は神さまのみこころにゆだねて、死にました。しかし、そのままでは終りませんでした、父なる神さまは御子イエスをよみがえらせ、復活のいのちを与えてくださいました。イエス様ご自身が、それを試して、模範を示しされたのです。私たちは自分のいのちに執着して、なかなかいのちを捨てることができません。最後まで自分が可愛いくて、最後まで自分を守ろうとします。福島で原発事故が起きましたが、だれも責任を取ろうとしません。「あれは地震だから、津波だから、想定外だったから」と言います。でも、あとから考えると、「もっと備えておけば良かった。人災の面も多分にあったんじゃないか」と言われています。でも、だれも責任を取ろうとしません。できるだけ早く、もとの姿にもどろうとします。十字架を負って、自分のいのちを捨てるということは易しいことではありません。クリスチャンであっても、肉がありますので、しばしば迷うときがあります。でも、イエス様は自ら、死んでみて、よみがえりました。なんとすばらしい保証でしょうか。私たちに大きなチャレンジを与えてくれます。

 また、イエス様の復活が必然的であったことが、12節からもわかります。53:12「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」これは、どういう意味でしょうか?当時の戦争では、敵に勝利した場合、敵が持っているものを分捕り物として得ることができました。剣や身につけている武具だけではありません。彼らの町の家畜や宝石、全ての持ち物を奪い取りました。負けた敵は殺されるか、奴隷になりました。イザヤ書はこういうことを考慮に入れて書いているものと思われます。それでは、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人への手紙4:8-9「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」イエス・キリストが陰府に下られ、復活したときに「多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」ということです。おそらく、陰府の中にいた、多くの捕虜を奪回し、持ち物を奪い取ったということでしょう。では、敵とは一体だれなのでしょうか?敵とはサタンと悪霊たちであります。彼らは神から離れ、罪を犯した人間を自分の持ち物にしています。本来、神の子のものである多くの持ち物まで、横取りしている状態です。しかし、イエス・キリストが十字架の復活によって、強い者であるサタンを打ち負かし、武装を解除したのです。そして、イエス・キリストはご自分が得た分捕り物を、私たちに信仰をもって勝ち取りなさいと命じているのです。分捕り物とは何でしょう?神の国に属するすべてのものであります。たとえば、永遠の命、祝福、健康、神の子としての権威であります。

私たちは本来、神の子どもとして、父なる神さまがご用意されていた御国を受け継ぐべき存在でした。しかし、罪の中あって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の霊に従って、歩んでいました。「私は自由だ、何の問題もない!」と言っても、霊的には死んでいる状態でした。ところが、イエス・キリストが私たちを罪と悪魔の支配から奪回するために、来られたのです。使徒26章で異邦人に遣わされた使徒パウロがこのように語っています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」アーメン。救いとは「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」ことであります。そして、「罪の赦しを得させ、御国を受け継がせる」ことです。つまり、私たちはキリストの十字架と復活を信じることによって、住む世界とこれからの人生が全く変わったということです。なぜなら、イエス・キリストが私たちと私たちの持ち物を奪回してくださったからです。日本基督教団の高砂教会があります。以前、聖霊刷新で、その教会の手束牧師とお交わりをさせていただいたことがあります。手束牧師は会堂建築の1つ1つに、意味を与えておられます。外壁は紫ですが、それは王なるキリストを表現している。シャンデリヤは、その教会に聖霊が降ったときのことを象徴しています。それでは、シルバーの十字架は何でしょう?高砂教会の礼拝堂の十字架は木ではなく、ステンレスの十字架です。それは、イエス・キリストがサタンの国を打ち破った勝利の十字架であるということです。「復活の十字架は、木ではなく、シルバーでなくてはならない」というのが、先生のお考えです。私はそこまでは懲りませんが、大切なところは付いていると思います。もし、クリスチャンが罪赦された罪人であるだけなら、弱いです。クリスチャンは、キリストにあって、神の国に属している王子であり、王女です。そして、キリストの御名によって、かつて私たちのものであった持ち物を、サタンから奪い取ることができるんだということです。

『王家の者として生きる』の巻末に、「王子・奴隷テスト」がありました。これは、本当に自分が、王子・王女として生きているか、あるいは奴隷のままで生きているかのテストです。

1.皮肉的な冗談を言って、人々を傷つけることがある。

2.セールや安売りで物を買うのが好きだ。

3.自分は不十分、力不足だと言う思いに葛藤することがある。

4.知らず知らずのうちに周りの人と競っている。

5.鏡で自分自身をよく見る。

6.他人と自分を比べる。

7.「負け犬」が勝つと嬉しい。

8.神は負け犬の見方だと思う。

9.金持ちや成功している人々と一緒にいるのが苦手である。

10.成功したり自分の上に権力を持っている人に対して反抗する傾向がある。

11.自分の友人に有名人がいること、また自分が励んだ功績について、他人に話したい。

12.一生懸命頑張っても功績が上がらないと落ち込む。

13.自分に与えられた賜物とは関係なく、自分の価値を正当化しようとしてボランティア活動をしたり、ある働きに携わったりしている。

14.関係のある団体やグループ、仕事場でも一番重要な人と必死に友人になろうとする。

15.ゴールに達成できないと自分は失格者だという思いから、目標を立てるのが好きではない。

 「しばしば」「大抵の場合そうだ」という人は、奴隷根性が抜けきれていない人です。私などは、口では王子だと言ってはいますが、「まだ、まだ」です。15問中、10個くらいは当っていました。ということは私の信仰は頭だけであり、心の深いところに入っていないということです。つまり、神の王子として、復活を生きていないということです。2000年前、イエス・キリストが死からよみがえりました。そのとき、私たちをも死と罪とサタンの奴隷から解放されたことを深く思いたいと思います。そして、神の王子、王女として復活の人生を歩んでいきましょう。