2011.04.03 あわれみは裁きに勝つ ヤコブ2:8-13

先週、私たちは奴隷ではなく、私たちは王子あるいは王女であることを学びました。奴隷というのは生き延びるために生きています。絶えず人と競走して、損した、得したという世界です。しかし、奴隷の私たちは十字架と共に死んだのです。その後に、キリストとよみがえり、私たちは王子あるいは王女になったのです。私たちは自分が誰か、自分のアイディンテティを知る必要があります。なぜなら、私たちは自分のアイディンテティのように生きるからです。この世は「何ができるか、何を持っているか」で人の価値をはかります。それは、いわば奴隷に対する評価です。それよりも大事なのは、自分はだれかという身分です。王子や王女の身分があれば、「何ができるか、何を持っているか」は二の次です。なぜなら、そういうものは他から与えられるからです。きょうは、王子もしくは王女として生きるために大切なことを学びたいと思います。

1.王の律法を守る

 ヤコブ2:8 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」ここに、「最高の律法」と書いてありますが、原文は「王の律法」です。欽定訳聖書は、Royal(高貴な)となっています。つまり、神さまが王様ですから、その律法は「王の律法」ということになります。しかし、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が、なぜ、最高の律法、王の律法なのでしょうか?最も、大切な律法は、神さまを愛することではないでしょうか?イエス様は福音書で「第一の戒めは心を尽して主なる神を愛すること、第二の戒めは自分のように隣人を愛することである」と教えてくださいました。イエス様は数ある律法をたった2つにまとめたのですから、すごい知恵です。ところが、パウロの書簡を見ると、ヤコブ書のように「隣人を愛せよ」という1つの戒めになっています。ローマ13:9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。ガラテヤ5:14「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と書いています。これはどういう意味でしょうか?本当に隣人を愛するならば、罪を犯さなくなるということです。愛は律法を全うするのです。日本の検察庁や警察に声を大にして、言いたいです。いくら罰則を厳しくしても犯罪はなくなりません。人が隣人を愛するようになれば良いのです。学校でも家庭でも、会社でもどこでも、隣人を愛することを教えれば良いのです。でも、それはイエス・キリストを信じて新しく生まれなければ与えられない性質です。

 では、どうして、主なる神を愛することが省略されて、隣人を愛することが第一になったのでしょうか?その答えがⅠヨハネ1-5章に書いてあります。簡単に言うと「神から生まれた者は、兄弟を愛する。神の愛を受けた者は、兄弟を愛するのが当然だ」ということです。では、どのようにして、その人が神さまを愛していることがわかるのでしょう?それは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しているかどうかで分かるということです。ザアカイという取税人の頭がいました。彼はとても利己的な人で、人々からお金を巻き上げていました。しかし、イエス様をお迎えして食事をしたのち何と言ったでしょう?ルカ19:8「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」別にイエス様がザアカイに命じたわけではありません。ザアカイ自身の中に、貧しい人たちに対する愛と正義の心が芽生えたのです。それで、イエス様は彼に「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と言われました。つまり、ザアカイが変えられて愛の人になったのは、救われた結果であり、実なのです。つまりこういうことです。あなたが「もし本当にイエス様を信じているなら、神さまを愛しているその証拠を見せてください」と問われたとします。それは、あなたの隣人を愛しているかどうかで分かります。私たちは教会に来て、「主よ、あなたを愛します」と礼拝を捧げるかもしれません。しかし、お家に帰ってから、妻や夫と争い、兄弟喧嘩をするなら、神への愛は本物かどうか疑わしいと言わざるをえません。ローマ人への手紙もガラテヤ人への手紙も、そしてこのヤコブの手紙もみんな、救われた人たちに対するものです。今さら、神さまを第一に愛しなさいとは命じてないということです。

最初に、これは「王の律法」であると申し上げました。すると、その対象は王子であり、王女です。王様が王子や王女に、「この私を心を尽し、思いを尽くし、力を尽くして愛しなさい」と命じるでしょうか?そうではなく、私を本当に愛しているなら、「あなたの隣人を自身のように愛しなさい」と言われるでしょう。救われる前は、私たちは奴隷のような生活をしていました。「え、私は奴隷じゃありませんよ」と反発するかもしれません。先週紹介した『王家の者として生きる』の本の巻末に「王子・奴隷テスト」があります。では、奴隷が持っている性格、生き方とはどういうものでしょうか?とりあえず10ケあげてみます。○皮肉的な冗談を言って、人々を傷つけることがある。○セールや安売りで物を買うのが好きだ。○自分は不十分、力不足だという思いに葛藤することがある。○知らず知らずに周りの人と競っている。○鏡で自分自身をよく見る。○他人と自分を比べる。○金持ちや成功している人々と一緒にいるのが苦手である。成功したり自分の上に権力を持っている人に対して反抗する傾向がある。○一生懸命頑張っても功績が上がらないと落ち込む。○人に物をあげるのは好きだが、人からされるのは恥ずかしい。○一緒にいて居心地の良い友だちは、傷ついている人たちだ。全部で40項目ありますが、クリスチャンになる前の自分はまさしくそうでした。でも、まだ半分くらいは解放されていませんでした。では、王子が持っている性格、生き方とはどういうものでしょうか?とりあえず10ケあげてみます。○他人に投資し、彼らが自分を越えて成長して行くのが喜びだ。○会話の中で相手に花を持たせる。○自由な発想を持った人、創造的な人といるのが好きだ。○自分が大好きだし、神が私を喜んでおられるのが分かる。○誰といても、心地よい。○高級レストランや上流な所に行っても、また高級品を身に着けていても後ろめたい思いはない。○人を力で押し付けるのではなく、彼らを力付けるのが喜びである。○人間関係におけるそれぞれの違い、ユニークさが大好きである。○自分とは違う見解や意見をもっている人をあえて自分のチームに選ぶ。○他人の勝利を共に喜ぶことができる。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。これが最高の律法であり、また王の律法でした。あなたの隣人を愛する前に、どういう人でなければならないのでしょうか?そうです。自分を正しく評価し、正しく愛している人です。もし、自分が奴隷であるならば、絶えず人と競いあって、ある場合は蹴落とすかもしれません。人の不幸は自分の喜びです。そのような奴隷は、隣人を傷つけることはあっても、愛することは不可能です。しかし、キリストによって贖われ、自分が王なる神の息子、娘になったらどうでしょうか?つまり、自分が王子、王女であることをしっかり認め、そのように生きている人です。そのような人は隣人を大切にして、争ったりはしません。隣人が益になるために喜んで助けると思います。つまり、自分が王子、王女でなければ、王の律法を守ることは不可能なのです。人というのは、自分が自分をどう思っているか、それに従って行動するものです。自分を卑しくて貧しいと思っていたら、隣人を愛する余裕なんかありません。他の人はどうでも良いのです。一人でもいない方が、自分の食いぶちが守られるからです。でも、王子・王女であるなら、どうでしょう?彼らは御国が無限に豊かであり、王なる神さまがいつも供給してくれることを確信しています。「一人でも多くの人が、御国の豊かさに預かってほしい」これが彼らの願いです。御国にこれ以上、人が入ったら困るのでしょうか?そうではありません、御国の豊かさは無限です。私たちは御国の王子であり、王女なのです。自分を正しく評価しましょう。正しい評価とは、自分が王子である王女だということです。そのように自分を扱い、そのように生きるならば、この戒めを全うすることが可能になります。

2.あわれみは裁きに勝つ

ヤコブ2:13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」。直前のヤコブ2:9-11には、「律法は1つでも違反したら、全部の律法を犯したことと同じである」と教えています。その中に人をえこひいきする罪も含まれています。えひきいきは、小さな律法のように思えます。それよりも、姦淫や殺人罪がはるかに重いように感じます。小さな律法を破っても、やはり律法の違反者になるということです。大体、この世で問われるのは刑法にあたる罪です。強盗、殺人、誘拐、詐欺、放火などは重いでしょう。でも、キリスト教会ではえこひいき、不品行、悪いことば、人を赦さないことも罪になります。おそらく、この世においては軽い罪であり、あるものは罪にもならないかもしれません。でも、大切なのは神さまの前では、大きい罪も小さい罪もないということです。私たちはクリスチャンになる前、たくさんの罪を犯しました。また、現在も何か犯しているかもしれません。また、天国に召されるまで罪を犯す存在です。身分的には聖徒であり、王子であり王女です。でも、大なり小なり、罪は犯すのです。わざとではなくても、過失で犯す罪もあります。私のような話し家は、ものごとをオーバーに話す傾向があります。どうしてもみなさんを感動させ、動機付を与えるために、米粒ほどのことをリンゴ大にして話すかもしれません。しかし、それはウソ、虚偽の罪です。商売人は商品の欠点を隠して、良い点だけを並べるかもしれません。女性は体重や年齢を少なく言うかもしれません。では、これからも罪を犯す可能性がある私たちには何が必要なのでしょうか?そうです。主のあわれみが必要なのです。律法に照らし合わされたら、誰ひとり罪のない人はいません。感謝なことに、救われた私たちが持っているのは、主のあわれみです。イエス様が十字架で私たちの罪の身代わりに死なれたので、私たちはもうさばかれないということです。これから先、どんな罪を犯してもさばかれないのです。イエス様は私たちの一生分の罪の贖いの代価を前もって払ってくださったからです。

 でも、1つだけ例外があります。ヤコブ2:13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです」。私たちが神さまからあわれみを受けているのに、隣人に対して、そのあわれみを与えない場合です。つまり、神さまの代わりに律法を手に取って隣人をさばくという行為です。私たちが避けるべきことは、他の人の罪を赦さないという罪です。もし、あわれみをかけないならば、どうなるでしょうか?マタイ18章の後半に、1万タラントをいう巨額の借金を王様から赦されたしもべが、100デナリの友人の借金を赦さなかったという物語があります。彼は、王様から呼び出され、こういわれました。マタイ18:33-35 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」獄吏とは、サタンの使いであり、その人の肉体、精神、霊を拘束することができます。神さまが直接、手を下すというよりも、さばきを受け持つ専門家に引き渡すということです。私は、時代劇を時々見ます。この前、テレビで大岡越前を見ました。最後に「しらす」という場面があります。だいたい下手人は白を切ります。すると、証拠が上げられたり、どこからか証人が連れてこられます。さばきが下されると、棒を持った下役たちが下手人を連れていきます。磔獄門になる場合もあるし、牢屋に入れられる場合もあります。牢屋に入ると牢名主がいて、さんざんいじめられます。大岡越前は直接、犯罪人を罰しているのではなく、下役、つまり獄吏がそれをするのです。しかし、それでドラマは終りません。下手人の隣には、濡れ衣を着せられた人が座っています。大体そういう人たちは善良な人たちで、だれかをかばったり、罠にかけられた人たちです。すると大岡越前はその名のとおり「大岡さばき」をします。軽いおとがめを与えるくらいで、無罪放免にします。つまり、大岡越前の場合はあわれみの心があるのです。白を切る犯罪人に対して容赦はしませんが、犯罪に巻き込まれた人にはあわれみの心があります。私は時々、テレビの前で、うかつにも涙を流したりします。「悪い人をちゃんとさばいて欲しい」という欲求が満たされます。

 それでは「あわれみはさばきに勝つ」とはどういう意味でしょうか?これは本当に解釈の難しい箇所です。「勝つ」という元々の意味は、「誇る」「自慢する」という意味です。それが強調されて、「勝ち誇る」と言う風になっています。何故、あわれみは、さばきに対して勝ち誇るのでしょうか?文脈から言うとおそらくこういう風になるのではないでしょうか?やがて私たちは神さまの前に立ちます。そのとき、神様のさばきがあります。でも、新約聖書を見ると分かりますが、クリスチャンは神さまの怒りを受けるのではなく、キリストのさばきの座の前に立ちます。そのさばきは地獄とか天国を決めるさばきではなく、いかに忠実であったかを審査するさばきです。その中で「あなたはあわれみをかけて、人の罪を赦してやりましたか?」と問われるでしょう?もし、あわれみをかけ、人の罪を赦していたらどうなるでしょう?そういう人にイエス様は「すごい、よくやったね」とハイタッチしながら誉めるでしょう。この時こそ、あわれみがさばきに勝ち誇る瞬間です。でも、中には救われていても、あわれみかけず、人の罪を赦さないまま、主の前に立つ人もいるかもしれません。そういう人は、さばきのほうがあわれみに勝ってしまうのです。その人は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言われます。そして、どうなるでしょう。御国には入れるかもしれませんが、報いは少ないでしょう。大邸宅ではなく、バラック(兵舎)かもしれません。その人は御国で1000年間、恵まれない生活をし、その後、新天新地に入るのではないかと思います。

 でも、人の罪を赦さない、つまりあわれみをかけない心は、地上の生活でも大きな影響を与えます。マタイ5:25,26「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」1コドラントとはローマの貨幣の最小単位で、ユダヤのレプタ2枚分にあたります。罪に対する裁きは、最後の1コドラントまで支払わなければなりません。もし、私たちが他者の罪を赦さない、あわれみを示さないなら、どのようなことが起こるかご存知でしょうか?先ほど、私たちも天国に行くまで罪を犯す存在であると申し上げました。もし、人の罪を赦さない人が、罪を犯したらどうするでしょう?その人は、「どうか私の罪をお赦しください」と神さまに出づらくなります。主の祈りは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」となっています。つまり、人の負い目、罪を赦しているからこそ、自分が犯した罪を赦してくださいと祈れるのです。ケネス・ヘーゲンの本『愛に至る道』にこのようなことが書いてありました。「みなさんはお気づきかどうか知りませんが、あわれみのないことと人を赦そうとしないこととは、私たちが神から受け取ることを妨げ、また私たちが霊的に成長することも妨げるのです。赦さない思いは、私たちが神の望んでおられる仕事に就くのを妨げ、私たちが神の望んでおられる性格の者となるのも妨げるのです。」私たちは表面的には赦しているつもりでも、心に恨みを抱いている場合があります。聖書は「あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません」と言っています。私はパソコンの中に、「1クリック最適化」というソフトを入れています。パソコンを使っていると、ファイルやプログラムの残りがだんだん溜まっていきます。インターネット開いただけで、何かが残るのです。しかし、「1クリック最適化」を押すと、システムが掃除されて、早く動きます。あなたはだれかに対して恨みを持ってはいないでしょうか?あなたは小さな恨みや小さな赦さない思いはたいしたことがないと思っているかもしれません。でも、それがクリスチャンとしての歩みをダメにしているのです。私たちの信仰を破壊しているのは大きな罪ではありません。処理していない多くの小さな罪なのです。それがあなたの信仰を働かなくさせ、あなたの祈りを聞かれなくさせているのです。どうぞ、小さな恨み、小さな赦さない罪を神さまの前に差し出し、キリストの血によって掃除してもらいましょう。

 みなさん、神さまの性質は何でしょうか?神さまの性質はあわれみの心です。あわれみ深い神さまだからこそ、「仲間をあわれんでやるべきではないか」とおっしゃっておられるのです。あわれみとは何でしょう?赦しとは何でしょう?向こうが謝ったら赦すというのではありません。向こうが全く謝る気がない、あるいはちっとも悪いと思っていない。そういう罪に対して、赦してやることがあわれむということです。イエス様は十字架で自分を殺そうとした人たちに何と祈られたでしょうか?「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」この祈りは、イエス様だからできたのでしょうか?執事の一人ステパノも同じように祈りました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」私たちは神さまの息子、娘であります。何度も言いますが、神様は王様ですから、私たちは王子であり、王女です。ですから、王なる神さまと同じ心、同じ性質を持っているはずです。この性質は生まれつきの性質ではありません。生まれつきの性質は、やったらやり返すという奴隷の性質です。しかし、私たちが御霊によって生まれ、神の子となり、新しい性質が与えられました。神を愛する人は兄弟をも、姉妹をも愛するのです。なぜなら、神の種が宿っているからです。どうぞ、隣人の罪を赦し、明るい、すがすがしい信仰を持とうではありませんか。そうするなら、あなたの祈りはいと高い所に届くのです。私たちは既に、王子であり、王女なのです。王様と同じ、愛と赦しとあわれみの心を持っているのです。あわれみの心を日々の生活の中で表していきましょう。