2012.4.15「~イエス様の目~」

<ルカ 21章1節-6節>

 

21:1

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

21:2

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

21:5

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。

21:6

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が

やって来ます。」

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昨年の今頃、3/11の東日本大震災のショックがまだおさまらない中、私は東京基督教大学に入学しました。その時の私には心の葛藤がありました。それは、「被災地には学校どころではないという人がたくさんいるのに、大学に通って授業を受けていても良いのだろうか?」といったものでした。

その時期は、大学の授業を休んで被災地支援のためのボランティアなどに行っている学生がたくさんいました。私が以前通っていた神学校の仲間たちも、震災の次の日から救援物資を運んだり、復興の為のボランティアに何度も行っていました。亀有ゴスペルクワイヤーのメンバーにもアクティブに東北に出かけて支援している人がいました。そういった人たちの報告を聞くたびに、「私はここにいていいのだろうか?現地に行かなくていいのだろうか・・・。」と気持ちが焦りました。

そんな時に心から気持ちが落ち着くメッセージが与えられました。それは大学のチャペルでのほんの15分ほどの短いメッセージでしたが、焦っていた私の心にとても響く内容でした。

それが今日語らせていただく聖書箇所からの「イエス様の目」というメッセージでした。

イエス様は、貧しいやもめの捧げものと、その心を見ておられ、それと同時に石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来るという世の終わりについても見ておられました。

メッセンジャーの牧師は、震災が起きてすぐに、ボランティアの学生を連れて被災地の南三陸に向かったそうです。その時現地の惨状を見て心が固まってしまい、世の終わりを実感されたそうです。

一緒に被災地にボランティアに行った学生は、「先生!もう神学どころじゃないですよ!ギリシャ語なんかのんきに勉強してる場合じゃないですよ!」と言ったそうです。

しかし牧師はメッセージの終わりにこう語っていました。

「私は、それはイエス様の目ではないと思います。東京基督教大学とはどのような大学でしょうか。ここはイエス様のような目を持つために学ぶ学校です。ですから私たちは、いつも通りの生活をして、しっかり学んでいくことが大切です。そして同時に、被災地の痛みを忘れず覚えて祈り、仕えていくのです。」

・・・私は本当にその通りだと思いました。私たちには、神様から与えられたそれぞれの使命があり、守らなければならない家族や、全うしなければならない仕事や学業や生活があります。

やらなければならないことを放り出してまで被災地に行くことを神様は喜ばれるでしょうか。

私はこのメッセージを聞いて、確かに気持ちが落ち着きました。

しかし、はたしてイエス様のような目を持つことなど自分にできるのだろうか?と疑問に思いました。

私の限界のある能力や体力、限られた時間をもって精一杯いつも通りの生活をしつつ、被災地の痛みを覚えて祈り、終末の備えをするなどといったことが一度にできるものなのだろうか?自分自身の生活に追われて、いつしか被災地の事も終末への備えも忘れてしまうのではないだろうか?と考えました。

そこでもっと聖書を深く掘り下げて読み、聖書が語っている本質や隠された奥義を知る必要があるのではないかと思いました。

・「イエス様の目」は、どこを見ておられたのでしょうか。

・また、私たちがイエス様のような目を持つには、どうすれば良いのでしょうか。

聖書の記述を追いながらご一緒に確かめて行きましょう。

 

①イエス様は貧しいやもめの心を見ておられました。

 

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<ルカ>

21:1

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

21:2

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

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この「ある貧しいやもめ」という言葉をギリシャ語の原文で直訳すると、「ある日雇い労働をしながら暮らしているやもめ」となるそうです。「やもめ」というのは「未亡人」のことですが、この未亡人は日雇いで生活をしていて、この日稼いだ生活費をすべて神様に捧げたということになります。

レプタ銅貨は、この時代の最小単位の貨幣だそうです。今でいえば、価値としては50円くらいかもしれません。やもめの全財産は50円玉2枚。・・・つまり100円しか持っていないのに、その100円全部を捧げたのです。ちょっと・・・やもめはもしかしたら算数が苦手だったのかな・・・と思ってしまうような大胆な信仰ですが、この貧しいやもめの心をイエス様は賞賛されました。

この貧しいやもめの話に似たような話ですが、「長者(ちょうじゃ)の万灯(まんとう)より貧者の一灯」という有名な仏教の説話があります。その話の大筋はこうです。

「インドの阿闍世(あじゃせ)王という王が、宮殿に釈迦を招きました。釈迦がその宮殿から祇園精舎へ帰る道に万灯、万の灯明(とうみょう)をともしました。その時貧乏な老女がいて老女も灯明(とうみょう)をかかげようと思い、なんとかお金を都合して一灯をともしたところ、王のあげた灯明は風で消えてしまったり、油が尽きたりしてすべて消えてしまったが、老女の灯明は朝になっても消えていなかった。」

というものです。これは、貧しい人の誠意のこもったわずかな捧げ物は、金持ちの世間体を飾った多くの捧げ物よりも勝っているという、「真心の尊さ」を教えるたとえ話です。

このように仏教でも、聖書の貧しいやもめの献金と同じような教訓が語られているように見えますね。

でも、聖書のこの箇所は道徳的なことを語っているだけではありません。「貧者の一灯」との決定的な違いは、イエス様の圧倒的な存在感と「イエス様の目」です。

この聖書の箇所で語られる礼拝メッセージは、「献金のお勧め」が多いのですが、しかし今朝は、「イエス様の目」に焦点を当てたメッセージを語ろうと思います。

イエス様の目はどこを見ておられたか。

マルコの12:41の並行記事では、

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<マルコ>

12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。

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と書かれています。

イエス様は献金箱の向かいに座って人々のようすを見ておられました。 
原文のギリシャ語では、「見る」という動詞に「qewre,w セオレオゥ」という言葉が使われていて、これは過去進行形で書かれています。これは「じっと見る」英語ではBehold・・・「じっくり見る」「注視する」という意味があります。ただの過去形だと「見た」となり、ただ一度見たという意味ですが、過去進行形だと「見続けていた」となります。 

イエス様は「じっと見る」ことで、人々のまことの心を見ておられました。

「多くの金持ちが大金を投げ入れていた」の「入れていた」も過去進行形なので、あとからあとから、どんどんお金を入れ続けていた様子が伺えます。

実はこの金持ちたちは、わざとお金を換金して大きな音がジャランジャランするようにして大金を投げ入れていたそうです。どれだけ自慢げにジャランジャランいわせて献金していたか、想像がつきますね。

イエス様はその様子をじっと見ておられました。金持ちたちの我欲も、彼らを取り巻く世界の罪や汚れもすべてをじっとご覧になっていました。来る人、来る人、不純な動機で得意げに献金を捧げる様子をじっと見続けておられたイエス様は、どんなお気持ちだったでしょうか。

そこに、貧しいやもめがやってきたのです。

実は、当時の献金の規定では、2レプタより少ない献金をしてはいけなかったそうです。つまり1レプタは捧げものとしては認められていなかったそうです。ですから、このやもめの選択は、全財産の2レプタを捧げるか、捧げるのをやめてしまうかのどちらかだったのです。

イエス様の目は、このような規定を作った者へも当然向けられていたでしょう。

やもめの決断は全財産を捧げることでした。神が養ってくださるという信仰があったのでしょう。

しかし、もしかしたらやもめには、「全部捧げてしまったら今日食べるものも買えないわ。もし、半分の1レプタでいいならそうしたいわ・・・。」と、こんな迷いもあったかもしれません。

でも、やもめはすべて捧げる方を選びました。

そのようなやもめの心に対してイエス様は、このような言葉で報いてくださいました。

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<ルカ>

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

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マルコの福音書にも同じ記述があります。そこにはこう書かれています。

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<マルコ>

12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました・・

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イエス様は「弟子たちを呼び寄せて」語られたと書いています。これは弟子たちに、「神に全信頼をおいて生きているこのやもめの姿こそ、イエス様に従う者の模範である」ということを教えようとされたのです。

やもめはイエス様に褒めてもらおうなどとは全く考えていませんでした。神様に精一杯の捧げものをしたいと思っただけです。イエス様は、このようなやもめの心に対して、素晴らしいことばをかけて応えてくださいました。また同時に弟子たちに信仰者のあるべき姿を教えてくださったのです。

やもめはどんなに嬉しかったことでしょう。そして、このやもめの信仰は聖書に記されて、現代の私たちにも、イエス様は信仰者のあるべき姿を教えてくださっています。

イエス様の目は私たちの心もじっと見ておられます。神様を愛する心、隣人を愛する心、どんなわずかな捧げものでも、人の目には判らないどんな小さな働きでも、イエス様はいつも見過ごさず、じっと見ておられます。そして、このやもめの真実を明かされたように、必ずその心に報いてくださるお方なのです。

 

②イエス様は同時に世の終わりを見ておられました。

 

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<ルカ>

21:5

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。

21:6

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が

やって来ます。」

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ここで出てくる宮とは、エルサレムの神殿をさしています。

エルサレムの神殿は、イエス様の時代までに三つの神殿が建てられたようです。

はじめの神殿はソロモン王が紀元前950年に建てたと言われています。ソロモンが神殿を建てるための準備は、ソロモン王の父であるダビデ王がほとんど整えたようですが、神がダビデに神殿を建てる事を許されなかったので、ソロモン王が後を引き継いで建てました。この神殿を第一神殿と言います。建築に7年かかり、約360年の間存続したようです。その後、第一神殿はバビロンの王ネブカデネザルによって紀元前586年に破壊され、イスラエルの民は捕囚の民としてバビロンに連れ去られました。

第二神殿は、イスラエルの民が70年後に帰還して、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤが中心となって建てた神殿を言います。このエルサレム第二神殿は、様々な困難があって建築に約20年かかり、480年の間存続しました。この神殿はソロモンの神殿にくらべて小規模であったと一般的には言われています。

第三神殿は、イエス様が生まれた時に殺そうとしたヘロデ王(大ヘロデ)が建てました。ヘロデ王は、イエス様が生まれる少し前からローマの後ろ盾でユダヤの王として在位していました。ヘロデ王は、身体強健、精力的で、政治家でもあり、実業家でもあり、勇敢な武人でもあり、統率者としての天分も持っていたようです。しかし、ヘロデ王は生粋のユダヤ人ではなく、エサウの子孫のイドマヤ人でした。ですから、ユダヤ人たちから信頼と支持を得るために豪華な大神殿を建てようとしたのです。この大神殿は、紀元前20年、イエス様が生まれる20年ぐらい前から建て始め、イエス様が30歳になる頃にやっと完成したようです。なんと50年もかかりました。イエス様の弟子たちが見た神殿は、できたてほやほやのヘロデの神殿ということになります。

ちなみにヘロデ王はイエス様が生まれて間もなく死んだらしいので彼の死後も引き継がれて延々と建てられていたということになります。その神殿は、イエス様の預言どおり、紀元70年にローマ軍によって破壊されました。50年もかけて建てた神殿は、わずか40年の存続に終わりました。

この実際に起こった歴史を顧みる時、私たちが暮らしているこの世も、何年もかかって建てては、あっという間に壊されてしまったこれらの神殿のように、実に、はかないものなのではないでしょうか。

ルカでも、マタイやマルコでも、イエス様はこの神殿の記述の後に終末の預言を語られています。

この終末の預言を語られたイエス様の本来の目的は、「終末にはこんなことが起こる」といった情報を、ただ提供するということではなく、終末の預言を通して、私たちがより忠実に神に従う生き方をするようにと教えることにありました。

今、私たちが生きている時代は、イエス様が復活して昇天されてから、再びこの地上に来られる再臨との間です。イエス様は、この時代において私たちが常に慌てることなく、気をつけて、福音を宣べ伝え、目を覚まし、最後まで耐え忍ぶようにと励ましてくださっています。

 

③イエス様は慈しみのまなざしで私たちを見ておられます。

 

「イエス様の目」は、私たちが今どのように生きているかという生きざまをじっと見ておられます。

私たちが、神様から与えられた自分自身の進むべき道をしっかりと歩み、また、終末に向けても目を覚ましているかどうかをイエス様はじっと見ておられます。

しかし、イエス様のそのまなざしは冷ややかに私たちを凝視しているまなざしではなく、慈しみ深く、憐れみ深く、私たちを愛と恵みで包み込んでくださるようなまなざしなのではないでしょうか。

私たちは、ついつい人の目を気にしてしまいます。自分がどのように見られているかという事ばかり考えてしまったり、世間体を気にして見栄を張ってしまったり、人から裁かれたりして傷つくのが恐いからと、不本意ながら周りの人に合わせてしまったりしてしまいます。

しかし、本来私たちが気にするべき目は、人の目ではなく、「イエス様の目」だけなのではないでしょうか。はかなく崩れ去った神殿のように、この世で価値があると言われる、見せかけだけのものは、いつかは崩れ去ってしまいます。

みなさんの中には、「自分はそんなに立派なことはできないし、ただ生きるのに精一杯だから、イエス様に顔向けできない。そんなに見つめられると、追い詰められてるみたいで逆につらいなぁー。」と思ってしまう人が、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。

でも大丈夫です。イエス様の12弟子たちも、それほど立派な人たちはいませんでした。

イエス様の一番弟子と言われたペテロなどは、イエス様が捕えられた時、自分も捕まってしまうかと恐れて、イエス様を3度も知らないと言って逃げました。しかし後に聖霊を受けて、力強く福音を伝え、最後は逆さ十字架に架かって殉教したと言われています。そのペテロを支えたのは、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」でした。イエス様はペテロにこう言われました。

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<ルカ>

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

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イエス様は後にイエス様を裏切るペテロのために「信仰がなくならないように」と祈ってくださいました。

また、ペテロがイエス様を3度知らないと言った直後にこのようなことがありました。

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<ルカ>

22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。

22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

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ペテロを見つめたイエス様の目は、どんなに慈しみ深く憐れみ深いものだったことでしょうか。

ペテロはこの時、イエス様を裏切った後悔の涙とともに、あの時の、「信仰がなくならないように」と言ってくださった時の、そしてたった今、裏切ったペテロを振り向いてご覧になった時の、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」を思い出して激しく泣いたのではないでしょうか。

このペテロに向けられた、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」は、私たちにも向けられています。

なぜなら、私たちもペテロと同じように、弱く、人の目を気にしてイエス様を裏切ってしまう存在だからです。

でも、イエス様は、私たちのためにいつも「祈りと慈しみのまなざし」をくださっています。

人の目ではなく、イエス様の目だけを気にしていきましょう。

ギリシャ語で「パンタクリストス」という言葉があります。「パンタ」=「すべて」、「クリストス」=「キリスト」を表し、「キリストがすべて」という意味になります。イエス様の目は、やもめの心を見ておられ、終末を見ておられ、今も私たちを見ておられます。イエス様の目はすべてを見ておられます。

こうして、イエス様の目はどこを見ておられたかを聖書の記述から追っていくうちに、私は冒頭に語った、「イエス様のような目を持つことなど自分にできるのだろうか?」という疑問の答えを見つけました。

私は、「イエス様の目」をいつも身近に感じているならば、それは可能だと思います。

「イエス様の目」を近くで、また心の内で、いつも感じていることによって、私たちは正しい目を持つことができるのではないでしょうか。イエス様のような慈しみのまなざしや、やもめやペテロにかけてくださった愛のことばを持つことができるのではないでしょうか。

またそうすることによって、今やらなければならないことや、神様から与えられたこの世の使命を忠実に果たし、同時に被災地の痛みを覚えて祈り、終末の備えをすることができるようになるのではないでしょうか。

黙示録の最後の章には、

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

と書かれていますが、この御言葉は、イエス様がすべてを支配しておられるお方だという事を、イエス様ご自身が宣言されている御言葉です。なんとダイナミックで、なんと心強い宣言でしょうか!

私たちは、ただこのお方に従って行けばよいのです!「パンタクリストス」=「キリストがすべて」です。