2012.4.22「草はしおれ、花は散る Ⅰペテロ1:22-25」

「草はしおれ、花は散る」とありますが、まさしく、桜が散ってしまいました。悲しいかな、花は散るのです。でも、聖書は私たちに、永遠の希望を与えてくれます。Ⅰペテロ1:22後半で「互いに心から熱く愛し合いなさい」と命じられています。世の終わりは、愛が冷えてくるのに、どうしてそんなことができるのでしょう?ペテロは、「あなたがたは朽ちない種である、神のことばから生まれたからである」と、その根拠を教えています。

 

1.朽ちない種

 

Ⅰペテロ1:23「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」このところに、朽ちる種と朽ちない種の両方が記されています。「朽ちる種」は、英国の聖書には、mortal parentageとなっています。mortalは「死ぬ運命の」という意味です。これがmortalsという複数形になると、「人間」になります。そして、parentageとは「生まれ」「家柄」「血統」という意味です。2つ合わせた語、mortal parentageは、「死ぬ運命の家柄で生まれた」ということです。今はそうでもないかもしれませんが、昔はどの家柄で生まれたかですべてが決まりました。貴族で生まれたなら、貴族です。農奴で生まれたなら、農奴で生きるしかありません。日本でもついこの間まで、士農工商という階層がありました。インドでは今でもカースト制度の中に支配されています。今の私たちでも、裕福な家庭で生まれるか、あるいは貧しい家庭で生まれるかで、勝負が付くようなところはないでしょうか?「いや、私はそうじゃない。テッペンとったるぞ!」と頑張っている人たちもいます。しかし、生まれが貴族であろうと平民であろうと、すべての人は「死ぬ運命の家柄で生まれた」ことには変わりありません。中には、「人生80年、面白おかしく暮らせば良いじゃないか」と思っている人もいるでしょう。でも、永遠のいのちをいただいて、神の子どもとして生きられるとしたら、どんなにすばらしいでしょうか?そうであるなら、「生まれ」「家柄」「血統」は関係ないのではないでしょうか?

ヨハネ1:12-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。今は民主主義の時代なので、「人間は平等だ」という考えがあります。でも、中世の身分の低い人たちや、アメリカの黒人がこのみことばを見たらな、飛び上がるような喜びとなるでしょう。なぜなら、その当時は、生まれや家系がすべてを決めたからです。小学校5年生の頃、知能指数の検査がありました。残念ながら、私はそう高い方ではありませんでした。担任の先生は「靖尋君はいっぱい努力しているんですね」と言われました。そのとき、半分嬉しくて半分は悲しい気持ちがしました。何故、私はそんなに頭が良くないのだろうと思いました。私には他に7人の兄弟がいましたが、ずばぬけて頭が良かったのは長女と長男だけでした。しかし、その下の兄弟たちは平均か、平均以下でした。なぜだろうと思いました。あるとき、「どぶろく造りはやめましょう。頭の悪い子供が生まれます」というニュースを耳にしました。「どぶろく」は、密造酒のことであり、どの家でも、縁の下にこっそり酒を作っていました。「ああ、頭が悪いのは、これだったんだ!」と思いました。また、思春期になると、「どうしてこの家にはお金がないんだ」と父や母を呪いました。会社に入ると、高卒の私がいくら働いても、新卒に給料を追い越されました。「ああ、仕事ができるかではなく、学歴なんだなー」と、また、がっかりしました。皆さんも、ある程度は、自分の生まれや家系にご不満を持っておられるのではないでしょうか?しかし、少し前の総理のように、たとえ裕福な家庭に生まれたとしても、「死ぬ運命の家柄で生まれた」ことには限りはありません。人生80年、裕福であることもすばらしいですが、永遠のいのちを失ったらば、どうでしょう?イエス様はマタイ16:26で「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」と言われました。こう考えると、神様はだれにでも逆転勝利のチャンスを与えておられるのではないでしょうか?つまり、「生まれや血統がすべてではない」ということです。イエス・キリストを信じるなら、神の子どもとされ、御国の世継ぎとなることができるからです。身分が変えられ、運命が変えられ、その人の生き方も変えられます。つまり、その人は、目先の損得ではなく、永遠の御国がゴールであるなら、おのずと生き方が変わってきます。お金の使い方、時間の使い方、人生の使い方が変わってくるはずです。

さらに、ペテロが言いたいことは、「朽ちない種である、神のことばから生まれた」ということです。「種」という言葉は、いわゆる植物の種ですが、もう1つ「精子」という意味でもあります。ある英語の聖書は、その意味を表すspermになっています。日本では「子種」とも言われています。「子種を授かる」とは、家系や血統を継ぐ子どもという意味です。いわゆる、「子種」が肉体的な誕生と関係があります。でも、ペテロが言いたいのは、私たちは「朽ちない種、神のことばから生まれた」ということです。「生まれた」というギリシャ語は「再び生まれる」born againです。つまり、「子種」から肉体的な誕生をしますが、それだけではありません。「人は神のことばによって、再び生まれる(生まれ変わる)ことができる」ということです。ヨハネは「神の霊によって再び生まれ変わる」と言っていますが、ペテロは「それは神のことば」であると言っています。しかし、なぜ、神のことばなのでしょうか?もう少し、あとの25節にその答えが書いてあります。「『しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。とあるからです。』あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」とあります。神のことばとは、「宣べ伝えられた福音のことば」です。どうでしょう?私たちが霊的に生まれ変わるとき、何かを信じたのではないでしょうか?そうです。宣べ伝えられた福音のことばを聞いて、信じたのです。福音のことばを心の中に受け入れたと言っても良いかもしれません。パウロはローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と言っています。福音のことばは、言い換えるなら、キリストのついてのみことばです。キリストが私の罪ために十字架につかれ、すべての代価を払ってくれました。そして、キリストが三日目によみがえったことにより、私たちにも神の義が与えられる保証となりました。このキリストを信じるときに、人は救われ、霊的に生まれ変わることができるのです。

私たちは全部を理解しなかったかもしれませんが、福音のことばを受け入れたはずです。でも、人によっていろんな信じ方、いろんな受け入れ方があると思います。必ずしも、こういう礼拝のときに、信じたということではないでしょう。私は先輩から、9時間もしつっこく言われて、観念しました。今、考えると、個人伝道によって救われたわけです。当教会はブラックゴスペルで救われた人がたくさんおられます。ゴスペルの歌を歌っている間に、何かが降りて来てジーザスを信じたのでしょう。ある牧師は、「それはおかしい、本当じゃない。なぜなら、みことばがないからだ」と批判します。しかし、ゴスペルの歌詞が、福音そのものであります。そこに音楽があるか、ないかの違いです。柏グローリチャペルの佐々木先生は秋田県の仙北郡(すごい田舎)の出身です。中学生の頃、ラジオを聴いていたら不思議な番組がありました。確か「ルーテルアワー」だったと思います。「この住所にはがきを出せば、聖書を送る」と言うので出しました。まもなく聖書が送られてきましたが、聖書の学習ドリルも入っていました。聖書を調べて、空欄をうめて、それを送るシステムになっています。書いて送ると、添削されたものが戻って来て、さらに次のドリルが入っています。佐々木少年はラジオを聴いて、学習ドリル繰り返しているうちに、イエス様を信じたのです。そして、ルーテル同胞教会につながり、そこの団体の牧師になりました。ラジオの電波は教会が全くないところへも届きます。顔が見えなくても、ラジオの電波によっても、福音が届けられるのです。他に、ゴスペルマジックというのもあります。ハワイにはゴスペル演歌を歌っている人もいます。ゴスペルフラ、ゴスペル喫茶…なんでも良いと思います。大切なのは、そこに福音の種があるかどうかです。私たちはだれかが蒔いた福音の種によって救われました。それだったら、私たちもこれから福音の種を蒔く必要があります。蒔かなければ刈り取ることができません。残念ですが、日本の土壌は福音に向いていません。小笠原先生は、「日本はロシアの凍土のようだ」と言いました。凍土というのは、表面にうっすらと土がありますが、下が氷です。日本はツンドラだということです。でも、終わりの時代、地震や経済危機によって、日本が揺り動かされています。今、頑なな日本人の心が貧しくなっています。これからが福音宣教のチャンスです。詩篇126:5-6「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」アーメン。また、イエス様がこのようにおっしゃっています。ヨハネ4:35-36 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」終わりの時代は、これまでだれかが蒔いた種を刈り取ることのできる時代です。自分が蒔かなかったのに、前の人が蒔いた種を刈り取ることができるのです。私たちクリスチャンにとっても、困難な時代が来ています。しかし、同時に、人々の中に福音が入りやすい良い時代が来ていることを感謝しましょう。

 

2.草はしおれ、花は散る

 

Ⅰペテロ1:24-25「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」このみことばは、イザヤ書40章から引用されたものです。ですから、そちらの方も見ながら、このみことばを解釈したいと思います。イザヤ書40:6-8には「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」となっています。イザヤ書40章には「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ」となっています。イスラエルの平原には、アネモネ、ひなげし、原始的なシクラメンなどが咲いています。かわいそうですが、砂漠からの熱風が吹くといっぺんで枯れてしまいます。つまり、草や野の花は、はかない人間のことをたとえています。また「その栄え」とは、王国の繁栄です。旧訳聖書ではエジプト、ツロ、アッシリア、バビロン、そしてイスラエルが栄えた時代がありました。しかし、その繁栄は一時的で、あっという間に他の国に支配されてしまいます。国々の上には、主のいぶきがあるようです。主のいぶきが吹くと、王国が破れ、次の新しい王国が支配します。国々の栄枯盛衰は、神さまが支配しているとしか思えません。人間は草であり、その栄光は野の花のようにはかないのです。一方、神のことばは永遠であり、変わることがありません。第一のポイントで言いましたが、人間はmortals死ぬ運命にあります。一方、神さまはimmortal不死、不滅、永遠なるお方です。私たち人間は、はかなくて弱い存在であることを認めなければなりません。なのに、人間はどこまでも進歩し、万能になれると信じています。現代もいろんな分野でバベルの塔を築いています。科学では原子エネルギー、医学では遺伝子組み換えが上げられるでしょう。電子工学が非常に進み、アメリカではマイクロチップを皮膚の下に埋め込み、すべての情報を管理しようとしています。まさしく666の時代がやってきます。やはり、世の終わりのバビロンとハルマゲドンの戦いまで行くのでしょうか?

話題が広がっていきましたが、ペテロがここで言うとしていることは何でしょう?人間は野の草や花のようにはかない存在ですが、神のことばは永遠に変わらないということです。人間の道徳倫理、科学、医学、生活スタイルもどんどん変わります。携帯電話1つとってもどうでしょう?いろんな機種が出ましたが、今はスマホーが主流です。いろんなアプリをつけて楽しんでいます。速度もどんどん速くなっています。情報が飛び交い、世界がめまぐるしく変化しています。私たちの毎日の生活が変わっていきます。この世の人たちは「進歩」とか「進化」ということばが好きですが、私は必ずしもそれが正しいとは思いません。変化に踊らされている人、変化についていけない人もいます。ペテロはこの世はいつまでも続かないと言っています。この世の歴史には終わりがきます。私たちは終わりの時代にあって、いつまでも変わらない神のことばに、立つべきです。今はGPSかもしれませんが、航海のときには羅針盤と北極星がとても大事です。私たちの人生においても、それと同じものが必要です。この世が終わりに向かって変化しても、変化しないものに基準を置くということはとても大切なことではないでしょうか?テレビのCMを見て思うのですが、まことに日本人は「異邦人だなー、神を知らない国民だなー」と思います。マタイ6:31-32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」このみことばのごとく、私たち異邦人がいつも関心を寄せているのは「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」であります。そのことで、みんな思い煩っています。そうではなく、もっと大切なものがあります。イエス様はさらに、マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とおっしゃいました。神の国と神のみことばが永遠です。私たちはこれらを第一に求めるべきであります。

priority優先順位という言葉があります。あれも、これもではなく、一番重要なことに目を向け、重要な事柄から手をつけていくということです。神の国の優先順位とは何でしょうか?それは、神の国とその義とを第一に求めることです。「神の国」とは、神さまのご支配です。「その義」とは神さまのみこころです。それはイコール神のことばです。神のことばに聞かなければ、神の義も神のみこころも分かりません。この世にはいろんな情報が飛び交っています。「あなたはこれを知らないと時代遅れですよ」と私たちをけしかけてくるかもしれせん。ある人たちは、この世の流れに振り回され、押し流されています。しかし、私たちはそういう情報よりも、永遠に変わらない情報、神にことばに焦点を合わせるべきです。だから、たとえ寝る時間がなくても、聖書を読み、神さまと交わる必要があります。忙しければ忙しいほど、そういう時間を持たなければなりません。イエス様はあれこれと思い煩っているマルタにこういわれました。ルカ10:41-42「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。」ある人たちは、人に嫌われないように、人から信頼を失わないように一生懸命がんばっています。しかし、人の評価を満たすことは無理です。なぜなら、人は変わるからです。そうやって人に合わせる人は共依存的であり、いつかは燃え尽きてしまうでしょう。そうではなく、私たちは神さまの基準、神さまの価値、神さまの義に焦点を合わせるべきです。たとえ、人から嫌われても良いのです。極端に言えば、神様から嫌われなければ良いのです。おお、なんとシンプルな生活でしょう。シンプルな生活には力があります。優先順位がしっかりしている人は、シンプルな生活をしています。アーメン。

現代の人たちはニュートラル、宙ぶらりんな時間を過ごしています。少し前はネット・サーフィン、今は、スマホ・サーフィンではないでしょうか?電車でもよく見かけますが、指をひたすら動かして、何かを見ています。私たちがちゃんとした目標、自分のゴールを持っていなければ、ぼーっとして時間を過ごしてしまうでしょう。私たちクリスチャンは新たに生まれたので、永遠のいのちが与えられています。そうすると、この地上の短い人生がどうでも良いかというとそうではありません。短い人生だからこそ、貴重になるのではないでしょうか?私たちの魂は永遠ですが、この肉体はそうでもありません。肉体という入れ物が年と共にだんだん、ガタがきます。先日、奥歯が痛いので歯医者さんに行きました。「私は入れ歯にしたくない」と問診表に書きました。レントゲンを取った後、お医者さんから、「あなたは歯槽膿漏ですよ。奥歯をささえる骨が熔けていますよ」と言われました。さらに、歯医者さんは「私は神様じゃないので、なくなった歯茎は元通りにできないよ」と言いました。私はそれを聞いて感動しました。「このお医者さんは、神さまはできる」と信じているんだなと思いました。しかし、家に帰って来て、「ああ、入れ歯になるのかなー」と悲しくなりました。その夜から、新しい歯が生えるように、一生懸命祈っています。アルゼンチンでは、リバイバルのとき第三歯が生えたそうです。それはともかく、この肉体も草のように、野の花のように枯れようとしています。本当に、この肉体を正しく管理しながら、あるいは補修しながら、できるだけ長く持たせるしかありません。魂は永遠でも、この肉体に限りがあるのは残念です。この目も、この脳みそも、この手足もいつまで動くのでしょうか?使徒パウロはローマ8章でこのように励ましています。ローマ8:11「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」アーメン。私たちの内には聖霊が住んでおられます。聖霊はイエス様を死者の中からよみがえらせました。だったら、同じ聖霊が、私たちの死ぬべきからだを生かしてくださるのです。アンチ・エィジングという言葉がありますが、聖霊様こそ、老化にブレーキをかけてくださる神の力です。枯れそうで枯れない、しぼみそうでしぼまない。なぜなら、私たちはキリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでいるからです。私たちのゴールはどこでしょうか?永遠の御国です。私たちにはすでに神のいのち、永遠のいのちがあります。どうか、このいのちが内側からあふれ出てきて、死ぬべきからだをも生かしてくださるように。