2011.04.10 行いのない信仰 ヤコブ2:14-20

ヤコブの手紙は「行いのない信仰が、果たしてあるのか?」ということを問うている書物です。私たちはイエス・キリストを救い主として信じると救われます。これは最も基本的な信仰であり、これがないと天国にも行けません。マルチン・ルターは「信仰義認」、人は信じるだけで救われると言いました。私たちは救いを得るために、行いは必要ありません。これが、救いを得るための信仰です。でも、信仰はそれだけではありません。日々の生活の中で、「信仰によって生きる、信仰を用いて生きる」という面も忘れてはいけません。きょうは、「命のない死んだ信仰はどういうものなのか?」同時に、「命のある生きた信仰はどういうものなのか?」ということを共に学んでいきたいと思います。

1.役に立たない信仰

 ヤコブ2:14-17は、兄弟または姉妹のだれかが、着るものや日々の食べ物にこと欠いている状態にあります。その人に対してどうしたのでしょうか?リビングバイブルは16節をこう訳しています。「『それはお困りですね。でも神さまが、祝福してくださいますよ。暖まって、お腹いっぱい食べてください。では、さようなら』と言うだけで、実際に何もしないなら、そんな信仰が何の役に立つでしょう。」日本のことわざに、「絵に描いたもち」というのがありますが、「口先だけの信仰」と言って良いかもしれません。Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と書かれています。使徒パウロも多くの手紙で、前半では教理的なことを教えていますが、後半はキリストの愛をもって生きるように勧めています。私たちの体を考えてみますと、頭があり、心があり、手足があります。頭では「ああ、こういうことで困っているんだなー」と状況がわかります。そして、心では困っている人の痛みを感じます。そして、最後は手足を用いて助けるわけです。でも、ある場合は、頭だけでストップしている場合、「可愛そうだなー」と心でストップしている場合があります。長年クリスチャンをやっていますと分かりますが、手足の行動まで行かないということがよくあります。私もその一人ですが、なぜでしょう?「それは、神さまがやってくれるだろう。神さまとその人の問題だ」みたいに考えてしまいます。まさしく、ヤコブ2:16の人物もそういう信仰者かもしれません。

 この度、「東日本大震災の被災者たちにどのような助けができるのか?」いろいろ考えさせられます。私は大きく分けて、3種類の人たちがいるのではないかと思います。第一は、「被災者たちが私の隣人である」と考えている人たちです。隣人というよりも、家族、親族、友人と言う方が良いかもしれません。特に岩手や宮城県の出身の方は、津波で失われた町や人々のことが自分の痛みや苦しみになっています。家族や親しい人が亡くなった場合は特にそうです。「関東の方で普通に暮らして良いのか、こっちの生活を捨てて助けに行くべきではないか?」という罪責感のような深いものがあるかもしれません。これは被災者たちと一体化している人です。第二は、「被災者たちは遠くの隣人である」と考える人たちです。自分の家はこっちにあるので、ほとんど被害にあっていない。テレビで被災者たちが大変だということを見たり、聞いたりしています。そのために、祈ったり、捧げたり、実際にボランティア活動に出かける人もいます。しかし、それぞれ、自分の信仰、自分のできる範囲で行っています。第三は、「被災者は日本人である」と考えている人たちです。日本に住んでいるある外国人は、一日も早く、母国に帰りたいと願っています。本当は帰りたいけどお金がないという人もいるかもしれません。クリスチャンでも「あの地震は世の終わりに起こる地震であり、人類へのさばきなんだ。日本人も早く悔い改めて神さまに立ち返るべきだ」と言う人がいます。確かに、聖書でそう言っているところもあります。でも、自分が被災したり、自分の家族や友人が被災したら、そうは言っていられないでしょう。こういうところでも、私たちの信仰のスタンスというか、行いが伴っている信仰なのか問われます。

 では、行いの伴う信仰、具体的な愛の行動が伴う信仰とはどういうものなのでしょうか?私たちは人を助ける場合、自分ができる範囲、自分が困らない程度で行います。募金にしても、ボランティア活動にしても、「まず、自分の生活があり、余裕があればそうしましょう」ということです。しかし、聖書で愛ということを言う場合、イエス・キリストが私たちのために十字架で死んだということです。父なる神さまは独り子を十字架で死ぬためにお渡しになりました。そして、御子イエスは自分の神としての立場、自分の義、自分の命を捨てました。すると、「愛というのは犠牲であり、痛みを伴うものなんだ」ということが分かります。私は境界線(バウンダリー)を持つということはとても大切だと思います。「人の問題と自分の問題、人の責任と自分の責任を分ける、線引きする」これはとても大切です。日本人はこの境界線があいまいで、他の人の重荷あるいは、神さまの重荷まで背負うときがあります。でも、この愛の行動ということを考えるとき、境界線だけでは説明できないと思います。自分の子どものことを考えると、ついつい、境界線を越えてしまいます。今回、ご自分の親族や友人が被災されている場合も同じことでしょう。そこで、私たちはどのくらい捧げたり、どのくらいボランティア活動等で援助すべきなのでしょうか?私はある程度、犠牲の伴う、痛みの伴うものが、本当の愛のわざではないかと思います。こずかい程度とか、時間があったらではなく、「ちょっと痛いなー」「この時間をなんとか工面しよう」というレベル。つまり、境界線を少し越えるくらいが妥当なのではないかと思います。私の場合だと、2枚あるコートを1枚差し上げる。2万円もらったけど、1万円を義援金にあてる。痛い!」どうぞ、少し痛みの伴う、具体的な行いによって隣人を愛したいと思います。こういう信仰が役に立つ信仰ではないかと思います。

2.二元論的な信仰

 ヤコブ2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」ここは、異論があって、よくわからない箇所です。新共同訳聖書はこのように訳しています。18節、しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。つまり、どこからどこまでが筆者で、どこからとこまでが人の意見なのか明確でないということです。新改訳聖書は18節全部、人の意見になっているし、新共同訳聖書は「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」だけが、人の意見です。英語の聖書にも2つの立場があります。ギリシャ語の聖書は、句読点も鍵各個もありませんので、致し方ないと思います。私は文脈上、多少違いがありますが、「信仰か、行いか」ということを語っているのではないかと思います。つまり、ある人の意見は「信仰がある人と行いのある人の二種類が存在する」ということです。そうするとどうなるでしょうか?信仰があっても全く行いのない人がいる、あるいは信仰がなくても行いのある人がいるということになります。だから、ここで「行いのない信仰があるのだろうか」もし、あるんだったら、「行いによって信仰を見せられるのに」ということです。語っている私も、頭がおかしくなりそうですが、この人は信仰と行いを別物に考えているということです。信仰は信仰、行いは行いという二元論です。

 こういう考えはクリスチャンでも、ノンクリスチャンでもあると思います。つまり、信仰とは信じる心です。信仰は日本語で「信じて仰ぐ」と書きます。すばらしい漢字の構造だと思います。ある人は仏陀を信じて仰ぎ、またある人はご先祖様を信じて仰ぎ、またある人は刺抜き地蔵を信じて仰いでいます。これはいわば信心であり、宗教心です。そして、生活は自分が信じて仰ぐ神様が、きっと自分の生活を守り支えてくださるということでしょう。ある場所へ行って、「パン、パン」と手を合わせ祈ります。でも、目を開けて実際に生活するときは、ほとんど考えていません。自分の考えや経験で生きています。つまり、信仰と生活、信仰と行いが分離している状態です。困ったときだけ、お願する。しかし、うまく行っているときは、関心がありません。それがもっと極端になったものが、行いで生きている人です。神さまはいるにはいるけど、はるか遠くに存在しています。自分の生活を切り盛りするのは、自分であります。こういう人は、世の中の不正、不平等に対しても、なんとか取り組もうとしています。キリスト教会でも、「社会派」というのがあり、靖国神社問題、性差別問題、部落差別問題等に取り組んでいる教会があります。彼らは「一般の教会がなまぬるい、口先だけの偽善者だと言うかもしれません。信仰はあるかもしれせんが、あまり機能していません。いや、信仰は役に立たないと思っているのかもしれません。

 私は「信仰か行いか」ということを分けること自体が問題だと思います。私は本当の信仰というのは、その人の深い価値観、行動の規範ではないかと思います。つまり、人は心から信じていることに一致した行いをするのです。もし、行いがいい加減であるとすれば、本当に信仰があるか疑わしいことになります。つまり、行いは信仰の実であり、結果なのです。日本の学校教育とか親の躾は、表に出てくる行動や礼儀作法を重要視します。しかし、それは表面上のことなのです。もっと大切なのは、目に見えない価値観や動機であります。正しい行いをしても、動機が汚れている場合があります。ですから、私たちが信仰と言うとき、どういう神さまを礼拝しているのかということと関係があります。もし、私たちが信じている神様が、愛であり、真実であり、正義であるならば、自然にそういう生き方を目指すでしょう。イスラム教は左手にコーラン、右手に剣です。ですから、どうしても聖なる戦い(ジハード)が存在します。いや、私は「無宗教です。神を信じません」という人がいますが、そういう人は自分自身を神としています。インドネシアなどに行って、日本人が「私は無宗教です」と言ったとします。そうすると、現地の人は「この人は何をするか分からない危険な人物だ」と判断するそうです。なぜなら、神を恐れていないからです。つまり、その人が信じているものが、その人の生活や行いに現れてくるのです。だから、信仰と行いを分けること自体が不可能なのです。そして、信仰の実こそが、行いなのです。良い信仰であれば、良い行いが出てきます。イエス様はヨハネ15章でこのように言われました。ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」良いぶどうの木であるイエス様につながっていれば、豊かな実、行いの実を結ぶことができるのです。

3.観念的な信仰

 ヤコブ2:19「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」神さまを信じている人はいっぱいいます。いや、ほとんどの人が何らかの神さまを信じているのではないでしょうか?その証拠に、人が本当に困ったら「祈っています」「祈ってください」と言います。どの神さまなのか、だれの御名なのかは分かりません。とにかく、世界中の人は何らかの宗教を持って、それぞれの神さまを拝んでいます。ヤコブ2:19の人は、神さまが唯一であると信じています。この人は多神教ではありません。世界において、唯一神教は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教です。ヤコブへの手紙はクリスチャンにあてた手紙なので、この人は唯一の神さまを信じているのではないかと思います。ヤコブは、「それは立派なことです。ですが、悪魔でさえもそう信じて、身震いしています」と皮肉たっぷりに言っています。これはどういう意味でしょう?ミッション・スクールを出た人は、こういう信仰を持っています。彼らのカリキュラムの中にはキリスト教教育があります。そこでは聖書も勉強するし、礼拝の時もあるでしょう。でも、何が足りないのでしょうか?学校では神さまの存在は教えるかもしれません。しかし、その神さまに帰依して、従うことは選択の自由なのです。つまり、キリスト教は1つの学問であり、人間がより良い生活をするための道具なのです。道具などと言うと怒られるかもしれません。道具ではなく、ソフト・ウェアーの方が現代的で良いでしょうか?聖書の神さまを学校で勉強することは悪くはありません。有神論的な価値観を持つことは良いことです。でも、それは観念的な信仰であり、実際の生活とはかけ離れたものです。私も神学校に行って、「神様は無限で遍在、全知全能、聖なるお方である」と習いました。ここで1時間くらい組織神学を語ることもできます。しかし、生活費が足りないということと神が全知全能であることはほとんど関係がありません。これが観念的な信仰です。ミッション・スクールで聖書を勉強することは悪くはありません。良いことです。でも、その信仰は頭だけであり、生き方にまでなっていないということです。

 悪魔でさえも、神はおひとりだと信じています。しかも、そう信じて身震いしています。では、悪魔は神さまの存在は信じてはいるけど、何をしないのでしょうか?そうです。その神さまに従っていません。悪魔は、むしろ、逆らっています。ここで1つ質問があります。「私は神様を信じています。でも、力がありません。すぐ、誘惑に負けて罪を犯してしまいます。」そういう人は何が足りないのでしょうか?そうです。本当の信仰とは、神さまの存在だけをただ信じるのではありません。本当の信仰は神さまに従うという要素がどうしても必要なのです。私は神様を信じるけど、神様には従いませんというのはありえないのです。では、どうしたら悪魔や誘惑に打ち勝つ信仰を持つことができるのでしょうか?ヤコブ4:7,8「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」これはどういう意味でしょう?私たちが神さまに従えば従うほど、悪魔に立ち向かう力が増すということです。つまり、神さまにちっとも従わないならば、悪魔や誘惑には、立ち向かえないということです。ある人たちは、「私は信仰が弱いのです。信仰を増して下さい」と言います。気持ちは分かりますが、その前になすべきことがあります。私たちは神さまに従うことを第一に求めるべきです。そうすると、何があっても大丈夫だ、という信仰が増してくるのです。神さまにちっとも従わないで、信仰を増してくださいというのは不可能です。

これは1つのたとえ話です。ある人が二階建ての大きな家を建てました。その家には1階に部屋が5つ、2階に5つありました。彼はイエス様をそのお家にお招きしました。彼はイエス様に「1階のどの部屋にも入っても構いませんが、2階には上がらないでください」と言いました。あるとき、悪魔がやってきました。彼が1階にいたので、イエス様が悪魔を追っ払ってくれました。しかし、あるとき、悪魔は2階にやってきて、2階に住んでいたその人を攻撃しました。彼は「イエス様助けてください!」と叫びました。しかし、イエス様は「私は2階には上れません」と言いました。そのため、その人は悪魔にけちょん、けちょんにやられてしまいました。そこで、彼はイエス様に「2階の4部屋まではどこにも入っても結構です。でも、端っこの1部屋だけは私の秘密の部屋なので、そこにはお入れできません」と言いました。あるとき、悪魔は2階の秘密の部屋に入ってきました。彼は「イエス様、助けてください!」と叫びました。しかし、イエス様は「他の部屋はともかく、その部屋だけは入ることができません」と言いました。そのため、その人は悪魔に前よりもひどく打ち叩かれてしまいました。彼は最後にどうしたでしょう?1階のすべての部屋も、そして、2階のすべての部屋にも入ることを許可したのです。そして、イエス様が単なる客人ではなく、すべてを治める主人になってもらいました。その後、度々、悪魔がやってきましたが、その都度、主人であるイエス様が悪魔を追っ払ってくださいました。これはどういう意味でしょう?家とはあなたの心です。あなたの心にはきっといろんな部屋があると思います。仕事の部屋、趣味の部屋、夫婦生活の部屋、教会生活の部屋、娯楽の部屋、インターネットの部屋、ショッピングの部屋、祈りの部屋、夢の部屋などがあります。もしかしたら、あなたはこの部屋は入っても良いけど、この部屋だけは絶対だめですとイエス様におっしゃってはいないでしょうか?そこだけは覗かれては困るのです。そこだけは触れられては困るのです。でも、どうして力がないのでしょうか?どうして誘惑に負けてしまうのでしょうか?その部屋を悪魔が支配しているからです。あなたは自分が支配しているつもりでも、実は悪魔の支配下にあるのです。悪いとは思っても直せない、変えたいと思っても変えられないのです。本当の信仰とは何でしょう?すべての心の部屋をイエス様に明け渡すことです。イエス・キリストはあなたの主人であり、王様です。イエス・キリストは、あなたの価値観の中心であり、人生そのものなのです。どうぞ、心のすべての部屋をイエス様におゆだねしましょう。

 ある人はプライドを捨てることができません。またある人はお金を捨てることができません。またある人はスティタス、自分の身分を捨てることができません。またある人は自分の好みや趣味を捨てることができません。またある人は秘密の喜びを捨てることができません。しかし、それらのものは神さまよりも大事な偶像です。偶像礼拝は大きな罪です。どうぞ、偶像を壊して、神さまを第一にしましょう。そうすれば、健康な信仰、力ある信仰、きよい信仰が生まれてきます。イエス・キリストを心の王座にお迎えいたしましょう。「では、一体何を楽しみに生きていくのか?」と文句を言う人がいるかもしれません。最後に詩篇のみことばをお読みいたします。詩篇37:4-6「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」