2012.4.29「純粋なみことば Ⅰペテロ2:1-3」

イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによるのである」と言われました。ということは、私たちは肉体を養う食べ物の他に、魂のための食物があるということです。「心のごはん」と言って良いかもしれません。みなさんは心のごはんを食べているでしょうか?中には、一週間、一食の人もいるかもしれません。もし、一週間に一食しか食べなかったら、どうなるでしょうか?霊的な飢餓状態になり、この世の人と何ら変わらない生活をしてしまうでしょう。きょうは、「純粋なみことば」と題して、霊的な食物の必要性について学びたいと思います。

 

1.純粋なみことば

 

Ⅰペテロ2:1-2「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」「ですから」と書いてありますので、前の部分に対する結論であります。1:23-25には、「私たちは朽ちない種である神のことばから生まれた」と書いてありました。生まれたのでしたら、その後は、成長しなければなりません。福音のことばを信じて新生したときは、霊的な赤ん坊と同じです。過半数のクリスチャンは20代、30代と大人になってから信じたという人が多いのではないでしょうか?私は25歳で霊的に生まれたので、それまでのものの考え方、生き方を聖書のみことばと取り替える必要がありました。私は「人のことなどどうでも良い」。自分が生き延びることで精一杯でした。「ちくしょう!」「ちくしょう!」と怒りをエネルギーにして生きて来ました。でも、クリスチャン生活を始めたなら、そのままでは良くないですね。ペテロも「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…」と言っています。霊的な食物を取り入れることも大切ですが、その前に捨て去るものもあるということです。どういうものでしょうか?「すべての悪意」とあります。原文は「悪」「悪事」となっています。人のものを盗んだり、いたずらをしたり、何かを壊したりすることです。次は「すべてのごまかし」とあります。これは「欺瞞」「悪巧み」「うそ」「偽り」です。先ごろ、ある企業年金基金が問題視されましたが、ごまかしはよくありません。次は「いろいろな偽善やねたみ」です。偽善とは、「俳優が演技をする」という意味からきています。見せかけ、善人ぶるということです。ねたむことはあるでしょうか?人の不幸には同情できても、人の成功はなかなか喜ぶことができません。最後は「悪口」です。これは誹謗中傷したり、陰口を言うということです。クリスチャンになる前は、こういうことが普通でした。しかし、これらのものを捨てて、純粋な神のことばを食べなさいということです。

ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と言っています。JBフィリップスは「泣き叫びなさい」と訳しています。本当ですね。赤ちゃんはお腹がすいたら、泣き叫んで求めます。親鳥はどういうヒナに餌を与えるでしょうか?一番大きな口を開けて泣くヒナです。遠慮して、口を開けないヒナは与えてもらえません。韓国と比べて、日本の教会は上品ですので、神さまからあまり恵みを受けることができません。私たちは、もっと泣き叫んで求めるべきです。「純粋な、みことばの乳」は、他の訳は「混じり気のない」「混ぜ物のない」となっています。神のことばに混ぜ物をするということがあるのでしょうか?あります。19,20世紀に栄えた「自由主義神学」の影響を受けたものです。「聖書には間違いがある」とか「聖書のイエスと歴史的イエスは違う」といった考えです。最初にそういう書物を読んだり、神学を聞かされるとどうなるでしょう?せっかく、新生してクリスチャンになったのに、聖書を信頼して読まなくなります。「間違いもあるからなー」と思うと、みことばに従うことはできません。また、だれかの神学を基盤として、聖書を読むので、しっかり養われません。だから、霊的に生まれたなら、純粋なみことばの乳、混じり気のないみことばが必要です。生まれた時というのはとても重要です。そのとき、ちゃんとした霊的な栄養を与えられなかったら、やがてどこかに欠陥が現れるでしょう。クリスチャン生活を20年やっていても、何か霧の中を歩んでいる人もたまにいます。なぜでしょう?絶対的なものがないからです。その人にとっては、聖書の真理も救いも相対的です。「キリストは私にとって救い主だけど、他の人には他の人の救いがある」とか言い出します。もし、そう考えたなら、伝道はできません。力強い証人になれないのは、絶対的なみことばから来る基盤がないからです。ですから、生まれたてのクリスチャンに必要なのは、養育であります。たとえば、「救いの確信」「父なる神の愛」「聖書を読む」「祈ること」などです。ヘブル人への手紙4章には堅い食物、つまり義の教えについて書かれています。霊的な赤ちゃんは、そういうものは食べられません。もっと柔らかい霊的な乳、離乳食が必要なのです。しかも、最初は人から食べさせてもらわなければなりません。

最後に「それによって成長し、救いを得るためです」とあります。イエス様を信じただけでは救われていないのでしょうか?これはこういう意味です。1週間前に生まれた赤ちゃんも一人の人間です。10歳になる子どもも一人の人間です。赤ちゃんや子どもが不完全なのでしょうか?そんなことはないですね。ただ、大人として成長していないということです。救いはイエス様を信じただけでいただくことができます。でも、赤ちゃんと同じように、生まれた以上は成長しなければなりません。「救いを得る」とは、救いが完成するという意味です。言い換えると、私たちが聖められ、イエス様の御姿のように成長するということです。そして、神さまから与えられた使命を立派に果たす人になるということです。もちろん、最終的なゴールは復活して、栄えの体に変わることです。でも、神さまは私たちに成長のプロセス(過程)をあえて残しておられます。それは、父なる神さまは、一緒に成長を喜びたいからです。私たちは失っていたものがたくさんあります。いろんな罪を犯し、心の傷もいっぱい受けてきました。父なる神さまはそういったものを洗いきよめ、修復し、回復してくださるのです。これは霊的、心理的、信仰的な分野であります。私は信仰歴34年になりますが、本当に、いろんなものを回復してもらっています。心の傷やトラウマもたくさんありました。でも、最近は夢の中が変わってきました。不思議なことに、生まれ育った家の構造は同じです。少し前は、あばら家に住んでいました。だんだん、家が良くなって、夢も健全になりました。と言うことは、私の潜在意識まで救いがやって来たということです。夢もやっと、教会関係のものになってきました。この間は、大川牧師やチョーヨンギ先生が出てきたので、私の夢は20年以上遅れています。神さまはあえて、この地上で私たちが霊的な赤ちゃんから、若者、父親へと成長するプロセスを残しておられるようです。心理学的に、人間は6歳までが非常に重要だそうです。6歳まで性格や物の考え方、行動パターンがほとんどできてしまうそうです。それを、霊的なことにあてはめるならばどうでしょうか?救われた頃が一番肝心だということです。「鉄は熱いうちに打て」とありますが、心の中から悪いものを排除し、良いものを入れることが肝心です。良いものとは何でしょう?純粋な神のみことばによる養育であります。

私はどちらかと言うとほったらかしで育てられました。親からあまり世話を受けたことがありません。塾とかもなかったので、自分で勉強しました。だから、牧師になっても人を育てるということが疎かったんです。洗礼準備会もある人はやりましたが、ある人は「ま、良いか」ということでやらなかった人もいます。しかし、それを深く反省し、昨年やっと「キリストの青写真」という成長のテキストが完成しました。「遅蒔きながら」であります。とにかく、私たちは自分が霊的な成長のプロセスを歩んでいることを認めましょう。養育を受け、キリストの弟子として成長するという過程を踏んでいきましょう。遅すぎるということはありません。なぜなら、まだ天国に行っていないからです。天国に行っていないということは、私たちには成長し、多くのものを回復させていただくという課題が残されているのです。回復と成長は大きな喜びです。神さまは地上において、私たちにそういう喜びを残しておられることを感謝しましょう。パウロはピリピの手紙でこのように言っています。ピリピ3:13-14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

 

2.みことばを味わう

 

Ⅰペテロ2:3「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」ほとんどのクリスチャンは、聖書をしっかり学んでから信じるということはないでしょう。あるとき、人から伝えられて、心にぐっときたのでイエス様を信じたのではないでしょうか?人によっていろんな入り口があります。当教会において、2000年からブラックゴスペルで大勢の人が洗礼を受けました。40人近くいるかもしれません。そういう人たちは、これまでにないタイプの人たちでした。普通のクリスチャンは教会の礼拝に来て、聖書をかなり学んでから「信じます」と決断したわけです。しかし、ゴスペルの人たちは、賛美している間に「オー、ジーザス」とか言って体験から入ります。体験から入った後で、礼拝に出席し、聖書を学びます。体験も必要ですが、体験だけだと、信仰が安定しません。ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と命じています。でも、その人たちはどういう人たちだったでしょうか?「すでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっていた」のです。つまり、体験があったのです。主がいつくしみ深いということを味わっていたのです。でも、ペテロは「それだけではいけませんよ。これからは聖書のみことばを味わって成長しなさいよ」と言っているのです。アーメン。どのように救われたとしても、聖書のみことばによって、養われる必要があるのです。そこで、後半は、どのようにしたらみことばを味わって、霊的に成長できるのか、お話したいと思います。これは「ディボーションの方法」と言っても良いかもしれません。従来のディボーションは聖書通読もするでしょうが、だれかの書いた本を読んでから祈ることでした。DLムーディ、スポルジョン、FBマイヤー、カウマン夫人、榎本保郎師が書いた、ディボーションの本があります。しかし、私が薦めるディボーションは、帰納法的な方法です。これは参考書を見ないで、直接、聖書から霊の糧を得るという方法です。たとえて言うと、だれかが調理したものを食べるのではなく、自分がみことばを調理して食べるというものです。レトルト食品ではなく、自分で料理したものが美味しいのではないでしょうか?この方法は、もともとは、ナビゲーターとか、キャンパスクルセードが学生たちに薦めたものです。いたって単純です。

第一は観察です。何が書いてあるか、聖書をじっくり読みます。10節から長くても1章です。福音書ですと1つの物語、書簡になるとそんなに読めません。普通は解説書を先に読んだりします。そうではなく、聖書だけをじっくり読むのです。虚心坦懐という四字熟語があります。これは、「心にわだかまりを持たない、無心で平静な心境。偏見がなく、心を開いていること」です。「神様どうぞ、お語りください」と、真理の御霊に聞きながら、何度も読むのです。すると、何かを発見します。繰り返している。言い換えている。このところは強調されている。気づいたところをノートに書きます。ノートに書くと考えがまとまるし、眠気防止にもなります。内容を観察する、これはとても重要です。

第二は教えです。観察からもう少し突っ込んで、「これはどういう意味だろうな?」と、分脈を追いながら解釈します。「聖書は難しい」と言われていますが、そんなに難しくありません。文章全体を見ていくと、「ああ、これはこういう意味なんだ」と分かります。そうしていくうちに、神さまが聖書を通して、何か教えていることに気づきます。たとえば、「こうしなさい」と命じているものもあります。「こうしてはいけません」と避けるべき罪もあります。また、「このようになりなさい」と模範が示めされたりします。あるいは、約束や励ましがあるでしょう。少し前は、エレミヤ書が聖書日課でした。エレミヤ書はさばきが多いので、読んでもあまり恵まれません。でも、「こういうことをしたらいけませんよ」とたくさんの教訓を与えてくれました。たとえば、きょうの箇所ですと、「すべての悪口を捨てなさい」という教えをいただくこともできます。あるいは、「みことばの乳を慕い求めなさい」という教えであるかもしれません。教えは、1つか2つで良いのです。なぜなら、あまり多くいただいても実行できないからです。

第三は適用です。適用とは、いただいた教えを生活で実行することです。たとえば、「すべての悪口を捨てなさい」という教えをいただいたとします。「私はだれにどんな悪口を言っているのだろうか?」と、聖霊さまに聞きます。すると聖霊さまは具体的に教えてくれます。人から教えられると腹が立ちますが、聖霊さまは優しく示してくださいます。「ああ、わかりました。そうします」と悔い改めます。適用は具体的で実行可能なものほど良いのです。漠然としたものだと、実行できたかどうか分かりません。また、「みことばの乳を慕い求めなさい」という教えをいただいたら、聖書を読むという決断をしなければなりません。一日、どのくらいの時間をあてたら良いだろうか?聖書を読むのは朝なのか、昼なのか、夜なのか決める必要があります。みことばを学んだだけでは生活が変わりません。みことばを行って初めて生活が変わるのです。イエス様は山上の説教の終わりで「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」と教えられました。

最後は、その適用が実行できるように祈ります。聖書を読んでから祈るのと、聖書を読まないで祈るのとでは全然違います。聖書を読むと神さまのみこころ、神さまの約束がわかるので、的を得た祈りができます。ジョージ・ミューラは信仰の人ですが、以前は聖書を読まないでとにかく祈りました。最初は思いがさだまらずに、だらだらと30分が過ぎました。しかし、ディボーションをしてから祈るとすぐさま、神さまの御座に達して祈ることができたそうです。今、お話した「観察」「教え」「適用」を合わせたものを、「黙想」とか「瞑想」と言います。東洋の禅とかヨガの瞑想は自分を無にして、宇宙の何かと一体化することを求めます。彼らにとっての対象は人格のない神さまです。いや、対象が別になくても良いのです。カトリックも「黙想」ということを推奨めます。しかし、それは自分との対話です。自分と対話することも良いかもしれませんが、神さまと対話することがもっと重要です。つまり、私たちはみことばを黙想することによって、父なる神さまと交わるのです。すると、神さまは人格を持っていらっしゃるので、私たちに語りかけてくださいます。クリスチャンでも「私は神さまみこころが分からない」という人がたまにいます。なぜでしょう?それは聖書を開かないで、神さまと交わらないからです。聖書は一般的な神さまのみこころを記しています。そして、ディボーションによって神さまと交わると、特別なみことばが与えられます。これこそが、あなた自身に示された神のみこころであります。前者がロゴス(一般的なみことば)であるなら、後者はレーマ(特別なみことば)です。イエス様が「人は神の口から出る一つ一つのことばによるのである」と言われましたが、このことばはレーマになっています。今、神さまが私にかたってくださる「ことば」が大事なのです。

ですから、私たちはみことばを味わう必要があります。最初はこのディボーションがとても退屈で、何も得られないときもあります。インターネットを見るか、テレビを見ていたほうがよっぽど良いと思うかもしれません。多くの人は携帯で電話やメールをしています。最近はフェイスブックがあります。しかし、それらは人との関係です。人との関係は言わば、水平の関係です。しかし、神さまとの関係は垂直の関係です。神さまは人間と違って、これから起こる未来ことを知っておられます。また人には分からない英知を授けてくださいます。人がいないところで、テレビを止めて、静かな時を持ちましょう。一日、30分でも良いです。そういう、静かな神さまとの交わりの喜びを体験するとクセになります。なぜなら、魂の深いところに、喜びと平安がやってくるからです。詩篇46篇は「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」で始まります。そして、10節には「やめよ。私こそ神であること知れ」と書いてあります。英語では、Be stillとなっています。これは「静まれ」という意味です。エルサレムがアッシリアによって囲まれた時がありました。敵は、さんざん罵倒しました。兵糧攻めというのでしょうか、水も食べ物も絶たれました。しかし、エルサレムには神殿の基から、泉が湧いていますので、水だけは確保できました。ヒゼキヤ王は衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入りました。ヒゼキヤの祈りを主が聞かれました。するとどうでしょう。夜明け前、主の使いが出て、アッシリアの18万5000人を打ち殺しました。この世では戦いがあります。知らず知らず、身も心も疲れ果てている時があります。あなたはエルサレムのように、神殿の泉を持っているでしょうか?神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けになっているでしょうか?私たちの生命線は、静まって聖書を読み、神さまと交わることです。

最後に、燃え尽きで倒れたことのある、ハワイのウェイン・コディーロの証を引用して終えたいと思います。「すべてを出しつくし、もう指一本動かせませんでした。ビジョンを失い、続ける意志も消えうせてしまいました。早めに引退して、地の果にまで逃げて行き、そこで誰にも知られずに一生を終えることができるお金があるか銀行の明細を見ては思案するのでした。何ヶ月もの間、そのようにもがき苦しみ、自分をむち打つようにしてメッセージをし、ミニストリーの責任を果たしていました。しかし、それも限界でした。しかし、ひとつだけやめなかったことがあります。それは日々のディボーションです。今ではこれをやめなかったことを、ことばに言い表せないほどうれしく思っています。なぜなら、ディボーションは私の人生を救ってくれたからです。」