2012.5.6「選ばれた石 Ⅰペテロ2:4-8」

ゴールデン・ウィークの最後になりました。このたびは、天候は不順であまり良くなかったと思います。私はどこへも行かないで、一番下の子どもの写真を整理しました。9年分もたまっていると、どれがどれだから分からなくなります。ところで、みなさんの信仰生活は安定しているでしょうか?それとも風にゆらぐ葦のように安定を欠いているでしょうか?きょうの聖書箇所には、「石」ということばが何度も出てきます。イエス様は生ける石であり、尊い石です。そして、その上に私たちが生ける石として、のっかったならどうなるでしょうか?やがて、がっちりと組み合わされた、生きた神殿になるでしょう。

 

1.選ばれた石

 

旧約聖書において、礼拝において神殿はとても重要なものでした。しかし、イエス様は福音書で、「私は3日で神殿を建てる」と言われました。その神殿とは何でしょう?それはイエス様を信じる人々によって作られる神の宮であります。ペテロは石でできた神殿と、信じる者たちによって作る神殿を比較しています。旧約の神殿は命のない石でできていました。しかし、新約の神殿の石は、生ける石でできています。神殿を建てるときに最も重要なものが礎石でした。礎石は、いしずえの石とも呼ばれており、その石の上に土台が作られます。パウロはエペソ2章でこのように言っています。エペソ2:20-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」パウロも、教会を神殿にたとえています。三位一体の神さまはご自分が住まわれるところを探しています。かつては幕屋や神殿に留まっておられました。しかし、新約の時代は、私たち教会が神殿であり、神の御住まいなのです。個人でも小さな神殿ですが、たくさん集まって大きな神殿になることが重要です。午前の礼拝は大きな神殿になっていますが、これが終ると小さな神殿となっていろんなところに派遣されます。旧約時代の神殿は一箇所にじっと据えられていました。しかし、新約時代の神殿は生きていて、神のみこころのままに活動することができるのです。なぜなら、私たちの内に神さまが住んでおられるからです。

ペテロは「主のもとに来なさい」と呼びかけています。イエス様ご自身も生ける石ですが、私たち一人ひとりも生ける石であります。礎石がイエス様であり、土台が使徒預言者です。その上に生ける石が一個一個、組み合わせられて建物になるのです。私たちは一人でもある程度のことができますが、お互いに組み合わせられることによって、さらに偉大なことができます。では、私たちは一緒に集まって何をするのでしょうか?Ⅰペテロ2:4-5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」まず、分かることは、私たちが聖なる祭司だということです。マルチンルターが万人祭司説を唱えました。一部の聖職者だけが祭司なのではなく、私たち一人ひとりが祭司なのです。どんな祭司なのかは次週学びますが、福音を宣べ伝える「王である祭司」と呼ばれています。なぜ、こんなことを言うのでしょう?神さまは最初、イスラエルを神の祭司として選びました。しかし、イスラエルはつまずき堕落したので、私たち異邦人にお鉢が向けられたのです。お鉢なんて、あまり良い表現ではありません。特権であります。私たちはクリスチャンになると、どんなことを求めるでしょうか?「私を祝福してください」「体を癒してください」「もっと与えてください」と、そういう祈りだけだとしたら、間違っています。ペテロは「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」と命じています。何かの間違いではないでしょうか?普通のクリスチャンは「○○を与えてください」と神様に求めます。しかし、ここには「ささげなさい」と書いてあります。つまり、クリスチャンとは受ける人ではなく、与える人だということです。たまに、こういうクリスチャンと出会うことがあります。「教会は○○してくれない」「牧師先生は○○してくれない」と言います。しかし、それは聖書的ではありません。クリスチャンとは、ささげる人、与える人であります。

ペテロは「霊のいけにえをささげなさい」と命じていますが、どういう意味でしょうか?旧約時代は、牛や羊、やぎなどの動物をささげました。しかし、イエス・キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたので、そういうものは不必要です。では、何をささげるのでしょうか?ローマ12章にこれと似たことばがあります。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ペテロもパウロも、キリストによって贖われた私たち自身をささげなさいと言っているのであります。たとえば、私たちはこうやって日曜日の午前中、ここに来ています。私たちはここで何をしているのでしょうか?牧師のメッセージを聞きに来ているのでしょうか?大変、ありがたいことですが、それがメインではありません。現代はインターネット礼拝というのがあるそうです。個人で、パソコンの前に座って、インターネットで礼拝を守ることができます。文明の利器を用いて何でもできる時代ですが、私は反対です。私はわざわざ時間をさいて、みんなで集まり、賛美をし、礼拝をささげることに意義があると思います。ここに来て礼拝をささげるのと、パソコンの前に座っているのとでは、支払う犠牲の大きさが違います。私たち一人ひとりは生ける石ですが、一個のままでは神殿にはなりません。礎石であるキリストを敬い、その上に私たち一人ひとりが築き上げられるのです。つまり、教会という共同体で神さまにささげなければ意味がないのです。こういうところに来て、時間とお金と体力を使って、礼拝をささげることが大事なのです。でも、それだけではありません。霊的のいけにえとは、私たちの思い、私たちの献身、私たちの愛、私たちのまごころを神様にささげることであります。この世にはいろんな偶像礼拝があります。占いや魔術、オカルトがあります。そういうところに行く人は何をささげるのでしょうか?そうです彼らの魂をささげるのです。もちろん、背後にいる悪魔に対してです。私たちはまことの神さまに、私たち自身をささげるのです。でも、以前の私たちではありません。キリストの尊い血によって贖われた私たちを捧げるのです。古き人が死に、キリストによって新しくされました。するとどうしても、「ああ、救われて良かったなー」という、感謝が出てきます。喜びが湧いてきます。そして、最終的には「主よ、罪を捨てて、あなたに従います。あなたの栄光のため仕えたいです」という思いが出てきます。これこそが、もっともすばらしい、霊のいけにえであります。もちろん、そのことを助けるために、メッセージがあります。でも、メッセージを聞いただけで、神様への応答がなければ、それはただの講演会であります。「良い、話を聞いたなー、恵まれたなー」。しかし、最も大事なのは、私たちの神さまへの応答であります。向こうが私たちを愛しているならば、こちらも「愛します」と応答すべきです。向こうが私たちのことを思って命じているならば、こちらは「従います」と応答するのです。これが、生ける神殿において、聖なる祭司が、神に喜ばれるいけにえをささげるということであります。ハレルヤ!

ペテロは「主のもとに来なさい」と生ける石である私たちに命じています。そして、「霊の家に築きあげられなさい」と勧めています。つまり、クリスチャンは一人ではなく、生ける石どうし、組み合わされて築きあげられなければ神の神殿にはなれません。救われたクリスチャンは生ける石です。でも、生ける石がただ集まっているだけだと、単なる石の山であって、神さまが住まうことができません。そのために、神さまの設計図のもとで、建物になるように互いに組み合わされなければなりません。だからペテロは、「主のもとに来なさい」「霊の家に築きあげられなさい」と命じているのです。相乗効果というのがありますが、一人だと限られことしかできません。いろんな人がいろんなところから来て組み合わされると、すばらしい働きができます。礼拝でも、大勢集まると勢いが出てきます。牧師も2,3人に話すよりも、80名の会衆に話すとやっぱり力が出てきます。賛美や祈りも力強くなります。ですから、クリスチャンが共に集まり、祈りと感謝と賛美をささげることはすばらしいことなのです。そして、このことがこの世に御国をもたらすをための原動力となるのです。昔、塩狩峠という映画で「薪は一本だとすぐ消えるが、二本だと消えない」と言っていました。薪が一本ではなく、何十本を集まったら、ものすごい炎になるでしょう。最後にヘブル人への手紙を引用いたします。ヘブル10:24-25「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 

2.つまずきの石

 

2章6節後半には、イザヤ書と詩篇から、みことばが引用されています。ここには石という言葉が何度も出てきます。6節以降には、5回、岩も含めると6回も出てきます。大きく分けて、石には二つあります。1つは礎石、あるいは「いしずえ」と呼ばれる、建物の土台の石です。そして、もう一つはかしら石であります。かしら石とは、建築の最後を飾って、建物全体を一つに結び合わせる大切な石のことです。もし、切妻の建物であるなら、中央の三角の石です。先ず、最初に2:7をお読みします。2:7「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって」。これは詩篇118篇からの引用ですが、「家を建てる者たちが捨てた石」とあります。この石こそが、かしら石であります。家を建てる者たちが、建物を完成させるはずの石を「これはいらない」と捨てたのであります。その石はどうなったのでしょうか?その石が別の建物の礎の石となったのです。「捨てる」という同じことばが、福音書にもあります。マルコ8:31「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」では、家を建てる者たちとはだれのことでしょうか?そうです。「長老、祭司長、律法学者たち」、いわゆるユダヤ教の指導者たちのことです。捨てられたのはイエス様です。イエス様は三日の後によみがえられました。そして、教会の礎の石となったのです。神の民として選ばれたイスラエルは、メシヤであるイエス様を捨てました。そして、イエス様は、神の民として選ばれていなかった異邦人の救い主になったのです。これってすばらしいというか、とっても不思議なことではないでしょうか?「いらない」と言って、捨てられたものが、実は、とてつもなく価値があるものだったのです。

それでは、なぜ、ユダヤ人はかしら石であるイエス様を捨てたのでしょうか?2:8「『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」同じ石なのに、ある人たちにとっては「救いの石」にもなれば、またある人たちには「つまずきの石」にもなるということです。聖務表の聖書日課では、今、エゼキエル書を学んでいます。エレミヤ書もそうでしたが、ユダの民はなぜ、こうもまた頑ななのでしょうか?彼らは、主の戒めを守らず、偶像に走りました。預言者たちが、口がすっぱくなるほど、警告しても悔い改めない、うなじのこわい民でした。そして、最後の最後に、御子イエス様が神さまのもとから遣わされました。ヨハネ1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあります。これはユダヤ人のことであります。では、なぜ、彼らはメシヤであるイエス様につまずいたのでしょうか?このところには「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」何か、運命付けられていたのでしょうか?一種の呪いみたいなものがあります。つまずきの、一番の原因は「みことばに従わない、従いたくない」ということです。みことばとは、神さまのみこころであり、神さまの命令であります。「みことば、イコール、神さま」と言っても過言ではありません。ユダヤ人がなぜ、メシヤであるイエス様を捨てたのでしょうか?それは、神さまのみことばに従いたくないからです。ユダヤ人たちは自分たちの神さま、自分たちの宗教をこしらえていました。特に宗教的な指導者たちは、それによって地位や富を得ていたのです。もし、イエス様をメシヤとして受け入れたら、すべての特権、生活までも失ってしまうからです。これは、形を変えた偶像礼拝ではないでしょうか?みことばが言う神さまはイヤで、自分流の神さまを拝みたいということです。

教会でも「つまずいた」ということを、たまに聞くときがあります。なぜ、人はつまずくのでしょうか?ジョン・ビビアという人が『人につまずくとき』という本を書いています。まず、つまずきの第一の原因はプライドです。人はプライドにより、自分が犠牲者であるとみなしてしまいます。心の中で、不当な扱いを受け、誤った判断をされたのだから、このような行動に出るのは仕方がないんだ」と自分を正当化します。プライドは、あなたを自由にする心の変化(悔い改め)を妨げます。へりくだりこそが解決の道です。第二の原因は未熟さです。自分を傷つけた人の誤りばかりに目が行き、自分の役割、自分の未熟さ、また自分の罪には決して向き合おうとしません。自分自身の内側を見つめないで、人に責任転嫁してしまうのです。信仰が成長すると、簡単にはつまずかなくなるのはそのためです。第三の原因はサタンの罠にはまる弱さです。サタンは「この人の前に、どんな餌をまいたらつまずくだろうか?」と機会を狙っています。サタンはその人の弱点を良く知っています。どんなことをされたら怒るか、どんなことが起きたらやる気をなくすか知っています。神さまはその弱点から解放されるように願って、そのことを許しておられます。しかし、多くの人たちは、目の前の餌に喰らい付き、魚のように釣られるのです。ジョン・ビビアの本にとても興味深いことが記されていました。イエス様はマタイ15章で「私の天の父がお植えにならなかった木は、根こそぎにされます」言われました。教会やミニストリーチームの中には、神によって派遣されたものでもなく、また神に属するのでもない人たちがいます。真理が語られたときにもたらされるつまずきが、彼らの本当の動機を明らかにし、みずから根こそぎにします。教会を巡回して奉仕する中で、教会を出て行った人たち(教会のスタッフや教会員)のことを牧師が嘆いているのを、多く目の当たりにしてきました。そのほとんどが、真理が語られライフ・スタイルの間違いが指摘されたため、腹を立ててしまったケースです。そして、教会のあらゆることに関して批判的になり、最終的には教会を離れて行きました。牧師が、教会にやって来る人すべてを引き止めようとするなら、やがては真理に妥協しなければならなくなるでしょう。だから私は、いつもこう言って牧師たちを励まします。「もし真理を語るなら、人々を怒らせることになるのです。そして彼らは根こそぎにされ、やがては教会を出て行くのです。しかし、去って行った人のことを嘆き悲しむ必要はありません。むしろ、神が送られる人たちを養い続けることに専念してください。」みことばの前にへりくだり、主だけを見上げて、従って行きたいと思います。

最後に、積極的なみことばでメッセージを終えたいと思います。2:6 「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」このみことばは、イザヤ書28章からの引用ですが、イザヤ書の方は「これを信じる者は、あわてることがない」となっています。あわてる人は、不安定な人だと言えます。なぜなら、その人の行動は正しく据えられていないからです。こういう人は、迫害や試練の嵐が吹くと、いとも簡単にふらついてしまいます。このペテロの手紙を書いた、ペテロはどういう人物だったでしょうか?イエス様は、ピリポ・カイザリヤで「あなたがたは、私をだれだと言いますか?」と質問しました。真っ先に「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と答えました。イエス様は「良く言った。あなたはペテロ(岩)です」と誉めました。その後、イエス様が「苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言いましたが、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とたしなめました。イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱りました。ペテロは天高く引き上げられたかと思いきや、どん底に落とされました。また、ペテロは荒れ狂う海で、イエス様に「私に来い」と命じてくださいとお願した後、海の上を歩きました。しかし、その直後、波を見て恐れ、海に沈みました。十字架の前、ペテロは「主よ。ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできています」と誓いました。しかし、イエス様が捕えられ、裁判を受けている時、ペテロは3度も「そんな人は知らない」と否みました。ペテロは大胆ですが、恐れやすい人でもありました。そういう不安定な人だったからこそ、尊い礎石が必要だったのです。

では、どんな人が恐れないで、安定した信仰生活ができるのでしょうか?それは「礎の石、尊い石」に自らを据える人です。しかし、それはどういう意味でしょうか?みことばです。主の口から発せられたみことばに信頼することが重要なのです。ある人は聖書をお守りみたいに、枕の横に置いています。そういうことでは、悪魔はちっとも恐れません。書かれたことばではなく、心に啓示されたみことばこそが石であり、岩になるのです。もし、主が語られたみことばに堅く土台するなら、少々のことではつまずきません。「主がそうおっしゃるので、私はただ従うしかありません」で、決まりです。多くの人たちは、「自分が選択したことが良いか」是認を求めていろいろ相談します。主が何とおっしゃっているのか。主のみことばに土台を置く人は揺るぐことはありません。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」これを信じる者は、あわてることがありません。