2012.5.13「王である祭司 Ⅰペテロ2:9-10」

日本人は大和民族と言われていますが、どうなのでしょうか?「大陸から朝鮮半島を渡って来た。」「南方の島から渡って来た。」「北のアイヌと混ざった。」「後からイスラエルの一部族もやって来た。」いろんな説がありますが、単一民族ではないと思います。いろいろ混じり合っているのではないかと思います。鼻が低いし、目も黒いので、アングロサクソンでないことは分かります。日本はモンゴリアンと言われますが、やっぱりアジア系なのでしょうか?日本は島国ですが、大陸では、種族とか部族、国民という分け方をしました。「自分がどの種族、どの部族、どの国民に属しているのか?」ということがとても重要でした。聖書的に、クリスチャンはどういう種族でどういう国民なのでしょうか?

 

1.私たちの身分

 

 Ⅰペテロ2:9前半「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」ここには、4つに分けられています。しかし、これらは全部、イスラエルの民にあてはまることでした。でも、旧約聖書から分かりますようにイスラエルは堕落しました。最後にイエス様がユダヤ人のところにやって来たのに、拒絶されました。少し前の節では、「家を建てる者たちが捨てた石」であると書いてありました。Ⅰペテロ2:10「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」私たちは以前、神の民ではありませんでした。神のあわれみを受けない異邦人でした。ところが、イエス様を信じたゆえに、神の民となったのです。イエス様が十字架であわれみそのものになったので、私たちはもう、「あわれみを与えてください」と願う必要はありません。なんという特権でしょう。私たちは、新しい神の民、新しいイスラエルとして堂々と胸を張ることができるのです。本来はイスラエルに与えられる呼び名が、私たち異邦人に与えられました。そのことを1つずつ学びたいと思います。

 第一は、選ばれた種族です。種族というのは、「同一先祖から出た者、子孫、一族」という意味です。私たちは、かつてはアダムの子孫でした。アダムの子孫であるならば、罪と死の支配から免れることはできません。アメリカ人であろうと、イギリス人であろうと、中国人であろうと関係ありません。みんな同じような罪を犯し、同じような誘惑に負け、同じようなものを求めます。肌の色や髪の毛は違いますが、私たちと同じように年を取り、同じように死にます。では、選ばれた種族とは何なのでしょうか?イエス・キリストは第二のアダムです。罪と死に勝利し、神のいのちを持っておられる方です。私たちはこの方を信じて、新しく生まれました。もう、アダムの子孫ではありません。キリストにあって神の子どもです。新しい種族なのです。世界には70億人がいるのでしょうか?日本には1億2700万ぐらいいると思います。でも、人類を2つに分けることができます。アダムの子孫か、キリストある神のこどもか、です。クリスチャンというのは、キリストに属する者という意味です。キリストに属さない者は、アダムの子孫であり、今もなお罪と死の中にいる人たちです。『二つの翼』セミナーでキムソンゴン牧師がこのようなことをおっしゃいました。「あなたのご主人は未信者ですか?もし、そうであるなら、あなたは死人と一緒に暮らしているのと同じです。あなたは死人と一緒に寝ているのです。一日も早く、何とかしなければなりません。」私が直接、言うと怒る人が出るので、他の先生のことばを引用しました。あなたの夫、あるいはあなたの妻は、死人でしょうか?それとも、永遠の命を持つ神の子でしょうか?

第二は、王である祭司です。イスラエルは全世界の祭司として選ばれました。その後、民が堕落して、レビ族だけが祭司となりました。レビ族は世界ではなく、イスラエルの12部族の祭司となったのです。本来、祭司はどのようなことをするのでしょう?神さまと民の間に立って、民をとりなします。また、民が持って来た犠牲を神さまの前にささげます。そして、民に律法について教えます。マルチン・ルターは万人祭司説を唱えました。つまり、すべてのクリスチャンが祭司だということです。ペテロは「王である祭司」と言いました。英語の聖書では、royal(ロイヤル)となっています。直訳すると、王族の祭司です。これはイスラエルやレビ族とは違います。王である神さまの直属の祭司だということです。イエス様も王であり祭司でした。ということは、私たちクリスチャンは、王族の祭司ということになります。まとめて言うと、イエス様と一緒に支配しながら、祭司として国民をとりなすということです。しかし、私たちはこの世においてどのような立場で生活しているでしょうか?ただ、サラリーをもらうためにだけ、仕方なく働いているのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス様と一緒に支配しながら、祭司としてとりなすという仕事があるのです。会社でとりなし、家庭でとりなし、地域社会でとりなします。もし、自分の身分を正しく知るならば、おのずと生き方が変わってくるのではないでしょうか?

第三は聖なる国民です。国民は原文では、民族、人民という意味です。これが、複数形になると異邦人、外国人という意味がありました。ここでは「聖なる国民」と単数形になっています。当時はユダヤ人だけが選ばれた国民でした。そして、異邦人は選びから漏れている人たちでした。でも、イエス・キリストを信じると、神の民に加えられます。そして、エペソ2章にあるように、ユダヤ人も異邦人もなくなります。キリストによって民族の壁が取り除かれ、1つとなることができるのです。この地上では、口では「地球という1つの惑星に住んでいる。みんな仲間だ」と言います。しかし、民族間の争い、領土のトラブルが止むことがありません。ますます加熱化しています。先月も、衛星と称するミサイルが飛んできました。途中、海に落下したようですが大変です。朝鮮半島の北と南の緊張が高まっています。日本でも、北方領土、南の尖閣諸島(せんかくしょとう)、東シナ海ガス田の問題があります。君が代を歌うべきか、国旗掲揚をすべきか、いろいろ言う人がいます。しかし、この世はまもなく終るのです。私たちは千年王国を経て、新しい天と新しい地に住むのです。確かに日本に住んではいますが、私たちは聖なる国民、天国人なのです。「日本人としてどう考えるべきか」という文化の問題も教会でも取り上げられます。それよりももっと大事なのは、天国の文化を取り入れて生きることではないでしょうか。

第四は、神の所有とされた民です。これはどういう意味でしょうか?出エジプト19:5「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」残念ですが、イスラエルの民は、神の契約を守らなかったので、神の民となることはできませんでした。そして、神さまから捨てられてしまいました。しかし、世の終わり、もう一度、迎えるとも書いてあります。では、だれが神の民となったのでしょうか?そうです。イエス様を信じた私たちが神の民になったのです。それは教会です。教会こそが、神が所有とされた民です。聖書では、契約ということばがとても重んじられています。旧約聖書においては、十戒を中心とした契約がありました。新約聖書においても契約がありますが、どのような契約でしょうか?ヘブル9:15「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」旧約聖書は神さまと人間との契約でした。人間は10度契約を結んでも、10度破ってしまうでしょう。ところが、新約聖書においては、イエス・キリストが神と私たちの間に立って、契約を結んでくださったのです。それだけではありません。初めの契約である十戒の違反をご自身の死によって贖ってくださいました。ですから、私たちは律法の行いではなく、キリストを信じることによって神の民に加えられるようになったのです。これが新しい契約です。しかし、クリスチャンになっても、相変わらず、古い契約の中に生きている人たちがいます。「安息日礼拝を守らなければならない」とか、「什一献金をしなければならない」「奉仕に参加しなければならない」と言います。共通している表現は「○○しなければならない」です。これがひどくなると律法主義になります。礼拝も、献金も、奉仕もすばらしいことです。しかし、これらをしなければ神さまに受け入れられないのでしょうか?そうではありません。主イエス・キリストが私たちのすべての要求を満たしてくださったのです。では、私たちクリスチャンが必要なことは何なのでしょう?それは新しい契約の内を歩むということです。表現を変えるなら、キリストにとどまること、あるいはみことばにとどまるということです。そうすれば、おのずと「御霊によって、信仰によって○○させていただこう」という風になります。キリスト教会は霊で始まったことを、肉によって仕上げるというガラテヤ教会の過ちを繰り返しています。

前半では、Ⅰペテロ1:9から、私たちの身分ということを取り上げました。4つありました。第一は選ばれた種族です。私たちはアダムの子孫ではなく、キリストの子孫です。第二は王である祭司です。私たちこそ新しいイスラエルであり、世界をとりなす祭司です。第三は聖なる国民です。私たちは神の民となったのですから、天国の価値観のもとで生きるということです。第四は神の所有とされた民です。私たちは仲介者なるキリストの契約によって、神さまのものとなりました。ハレルヤ!アーメン。

 

2.私たちの職務

 

Ⅰペテロ2:9後半「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」前半では、私たちがどういう者とされたのか、身分や特権について語りました。しかし、それには目的があったのです。残念ながらイスラエルは身分や特権の上にあぐらをかいて、その目的を果たすことができませんでした。私たちも「ああ、私は救われて神の民となった。やがては天国で暮らすんだ」となったらどうなるでしょう。「神さまもっと私を祝福してください!天国の豊かな恵みを注いでください」。悪いことではありません。でも、神さまが私たちを祝福する理由は、私たちを通して、この世界を祝福するためです。言わば、私たちは神さまの器であり、神さまは私たち教会を通して、この世に祝福を注ぎたいのです。インドネシアのエディ・レオが来たとき、「あなたがたはペットボトルです」と言いました。20年くらい前、座間のCSキャンプで奉仕したことがあります。そのときは、丹沢のキャンプ場で行いました。帰り、ヤビツ峠というところを通りました。そこに、湧水地の水汲み場があり、おいしい水を4つの口から汲めるようになっていました。多くの人たちが車を止め、ポリタンとかペットボトルに入れていました。しかし、私は何も持っていませんでした。そのとき、座間のCSの校長先生がペットボトルに水を入れて1本くださいました。「わぁ、ありがたいなー」と思いました。今年の正月、家族で河口湖に行ったので、帰り、秦野から丹沢に登りました。ヤビツ峠の水汲み場まで、くねくね道を30分も行かなければなりません。家内と子どもはふもとのそば屋さんに降ろして、いざ出陣です。すでに、3台の車が止まっていました。足もとが凍っていて、あぶなかったのですが、ある人はワゴン車の荷台全部にありとあらゆる入れ物に入れていました。私もポリタンに3つ入れました。これでおいしいコーヒーが飲めます。ヤビツ峠の水汲み場は4つの口から24時間くまなく出ています。しかし、入れ物を持って行かなければ汲むことができません。神さまは良きもので満ちあふれています。その神さまはご自身の器である教会を通して、この世に良きものを届けたいと願っておられるのです。

ペテロは「神さまが一番、私たちにしてもらいたいことは何か」を書いています。「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」私たちは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」です。本来、イスラエルが世界のためにこのことをなすべきでした。しかし、彼らは堕落してその務めを果たすことができませんでした。では、だれがその務めを果たすのでしょうか?それは新しいイスラエルである、教会であります。キリストのからだである教会がその務めを果たす器となったのです。私たちが神の器として、この世に注ぐ、もっとも重要なものは何でしょう?ここに「みわざを宣べ伝える」と書いてあります。「みわざ」ってなんでしょうか?「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」となっています。では、だれが私たちをやみの中から、光の中に招き入れてくださったのでしょうか?父なる神さまであり、イエス様です。イエス様が私たちのために十字架にかかりすべての罪を贖ってくださいました。私たちがこのお方を信じるときに、罪赦され、やみの中から神さま光の中に招き入れられるということです。このことを短く言うと、福音宣教であります。神さまがなされたすばらしいみわざとは、福音であります。私は福音宣教でもっとも重要な立場は、「王である祭司」ではないかと思います。王である祭司とは、キリストと共に支配しながら、祭司のようにとりなすということです。しかし、祭司にはとりなすだけではなく、律法を教えるという職務もありました。新約聖書的に言うなら、福音を宣べ伝え、みことばを教えるということです。神さまはこれらのことを私たち、教会にゆだねておられるのです。支配、とりなし、福音宣教、教えです。これらを別の表現で言うならどうなるでしょう?支配とは神さまの権威を用いるということです。私たちはイエス様の御名の権威を授かっています。この世の罪と悪魔に対して、イエス様の御名の権威を用いることはとても重要です。とりなすということは、祈るということです。天におけるみころがこの地上でもなるように祈るべきです。福音宣教はどういうことでしょう?これは、あらゆる方法を通して、いつ、どんなときでも福音を宣べ伝えるということです。当亀有教会にはいろんなセルや小グループがあります。交わり、学び、音楽、お菓子作り、何でも良いのですが、共通してすべきことは福音宣教です。福音宣教がないとただのサークル、ただの社交クラブになってしまいます。教えとはなんでしょう?これはみことばを互いに教え合う、分かち合うということです。何のためでしょう?みことばは神の真理であり、神のみこころです。そして、私たちがこのみことばによって建て上げられる必要があります。人にもみことばを教えますが、同時に、自分をもその教えによって建て上げるということです。人にばっかり教えても、自分に適用しなければ頭でっかちになり、高慢になります。Ⅰコリント1:8「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」とあります。知識は実際に行うことによって、本当の知識になるからです。

このようにして、王である祭司は、支配し、としなし、福音を宣べ伝え、教えるという4つの職務を負っています。こう考えると、自分の信仰生活をどのようにすべきでしょうか?「ああ、キリストの御名の権威を用いないで、この世にやられっぱなしだったなー」ということはないでしょうか?一週間、罪と誘惑に負けて、やっと日曜日の礼拝に来る。絆創膏をはがし、癒されて帰る。しかし、月曜日から「誘惑に負けた!傷ついた」と絆創膏をはる。そして、やっとこさ日曜日の礼拝に来て、癒される。この繰り返しだと、この世に支配されていることになります。そうではなく、私たちは権威を帯びて、キリストの御名によって支配する者になるのです。とりなしは祈ることです。当教会には祈祷会がありませんし、祈祷部もありません。伝統的な教会は、水曜日の夜、祈祷会があります。でも、ほんのひと握りの教会員しか来れません。他の人たちはどう思うでしょうか?「ああ、彼らがとりなしているから大丈夫」となるでしょう。とりなしの祈りは専門にだれかがするのではなく、教会員がすべきものです。でも、一人だと弱いので、ニ、三人、心を合わせて祈るなら、祈りが強力になります。福音を宣べ伝えためにはどうしたら良いでしょう?昔はビリーグラハム・クルセードとか大きなホールを借りて、伝道集会を開きました。しかし、お金ばかりかかって、実りが少ないということがわかりました。日本で有効な伝道は、関係伝道だということがわかりました。4月末に岩手の南三陸で奉仕しておられる中澤先生の証を聞くことができました。先生が牧会している仙台西教会から南三陸までは、100キロの道のりがあります。宣教師から応援を頼まれて、すぐ被災地に出向き、それからずっと携わっておられます。田舎は特にそうですが、「講」と言われる強いつながりがあり、個人では決められません。何でも、「講」に相談し、承諾を得なければ、村八分みたいになります。外部の人が被災地にかけつけても、簡単には心を開きません。「神・罪・救い」という西洋的な伝道活動がとても難しいわけです。それで中沢先生は100キロの道のりをひたすら通って、物資を届け、復旧活動を手伝い、いろんな人の話し相手になりました。1年以上たって、やっと認められ、「中澤さんは牧師さんなんでしょう?どうして伝道しなんですか?」と言われたそうです。そして、高校のすぐ下にある地主が、「この土地を提供しますので、センターを作って活動してください」と言われました。中澤先生は「そのお気持ちはわかります。キリスト教でも良いか、どうぞ、ご家族で、そして親戚でお話して下さい」と言いました。いわゆるこう「講」で相談したのですが、みんな「良いよ、どうぞ」と賛成していたということです。早速、そこに建物を建てはじめ、2人の人が常駐することになっています。また、歌津というところも近くにありますが、南三陸町と仲が悪く、全く別のコミュニティを持っています。中沢先生は歌津とも関係があり、センターの話を持ちかけたら、「どうぞ私の土地を」と何名もの方々が名乗り出たそうです。結局、歌津に第二センターを建てることになりました。その土地で最も有力な材木屋さんが「お手伝いします」と言ってくれたそうです。

宣教も教えもそうですが、関係が基盤でないと人々は受け入れてくれません。本当に祈って、仕えて、挨拶して、人々の話を聞いて、やっと福音を聞く基盤ができるのです。日本の福音宣教は人間関係が絶対欠かすことができません。でも、クリスチャンがその土地に入ることにより、人々が永遠に至る希望を持ち、豊かな命を得ることができるなんて何と幸いでしょうか。神さまは個人のクリスチャンと、クリスチャンが組み合わされた教会を用いたいのです。教会という器を通して、この世を祝福し、また神さまの豊かな命を与えたいと願っておられるのです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。やみの中から、驚くべき光の中に招いてくださった神さまのみわざを、宣べ伝えて行きたいと思います。