2012.5.20「キリスト教倫理 Ⅰペテロ2:11-17」

倫理という言葉を聞くと、教会では少々、違和感があるかもしれません。パウロの書簡の場合は、前半は教理的なこと、そして後半は愛とか平和、きよい生活など、倫理的なことが書いてあります。ペテロの場合は、教理と倫理的なことが交互に語られていますので、単純に分けることができません。先週は、私たちは選ばれた種族、王である祭司であることを学びました。そして、きょうの箇所では住んでいる国の中でどのように生きるべきか書かれています。当時は、ローマ帝国が世界を支配していました。ローマはローマ法という、ものすごく整えられた法律がありました。しかし、皇帝礼拝も行われていましたので、クリスチャンとして生き辛くなってきた時代でもあります。日本でもたくさんの法律や条例があります。きょうは、私たちが地上において、最も守るべき基本的な事柄について学びたいと思います。

 

1.肉の欲を遠ざけなさい

 

 ペテロはいくつかのことを勧めています。少々、命令調になっていますが、どのようなものがあるでしょうか?11節から12節の中心的な命令は「肉の欲を遠ざけなさい」であります。肉の欲には、むさぼり、不品行、酩酊(めいてい)、争い、偶像崇拝などがあります。たとえば、焼肉バイキングなどに行くと、どうしても食べ過ぎてしまいます。この間、セルの集まりで那須の国民宿舎に行きましたが、バイキングのおいしい食べ方を発見しました。私などは1ぺんで全種類のものを持ってきます。すると、味が混じって、かえっておいしくなくなります。ある先生の食べ方を見て、感動しました。まず、和食のものだけを取ってきて一回、食べます。二度目は洋食とデザートを取ってきます。それだったら、味が混ざることがありません。でも、バイキングは普段の2,3倍は食べるので、むさぼりになるでしょうか?また、この世には性的な誘惑が蔓延していますので、負けてしまうかもしれません。そねみや妬み、憤りも肉の欲に入るでしょう。この世の人たちは、肉の欲で普通に生きています。でも、私たちは肉の欲を何故、避けなければならないのでしょう?ここには2つの理由が述べられています。

 第一は、「あなたがたは旅人であり寄留者である」と書いてあります。私たちは、天の御国を目指す旅人であり、地上では寄留者(エグザイル)です。ということは、肉の欲は消え去るもので、一時的なものだということです。「いや、一時的なものでも良いから、十分満たしたい」というのも人情かもしれません。今、NHKの大河ドラマでは平清盛をやっています。そこに西行という人物が出てきます。彼は清盛の友人で、鳥羽天皇に北面武士として仕えていました。ところが23歳で出家しました。彼の出家の動機は何だったのかホームページに書いてありました。第一は親しい友人が急に死んだという説であり、第二は失恋説です。解説には「西行は単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として歩んだ」と書いてありました。同時代に出家した鴨長明という人がいます。彼は「この世はうたかた(水の泡)のように、消えては結び、結んでは消えて行く」と言っています。もしも、永遠というものがなくて、この世限りの人生だとしたら、彼らのように出家するか、あるいは放蕩三昧で生きるしかありません。でも、地上の人生が永遠の御国へと続いているということが分かったならどうでしょう。短い人生にも意味が与えられるのではないでしょうか?信仰の父アブラハムは、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました。そして、出てきた故郷ではなく、天の故郷にあこがれていました。私は1ヶ月前、とってもリアルな夢を見ました。ばっと、目の前に故郷の小高い山とふもとの村落が現れました。川を渡ろうとしましたが、川底には水が一滴もありませんでした。その涸れた川を上って村落に近づきました。よく見ると私の家がありません。生まれ育った家がないのです。そのままあたりを見渡すと、それまであった家までも消えてしまいました。そして、裏山には一本の木もなくなり、赤茶けた山肌に変わりました。「うぁー、これはなんだろう」と驚いて目をさましました。あとから、「やっぱり私の本当のふるさとは地上ではなく、天にあるんだなー」と思いました。みなさん、私たちは天の故郷をめざす旅人であり寄留者(エグザイル)です。

 私たちが肉の欲を避ける、第二の理由は何でしょう?11節後半に「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」とあります。たましいとは、救われた心と霊を指しています。心と霊をまとめたものを、たましいと言って良いと思います。なんと、肉の欲がたましいに戦争をしかけているのです。今、北朝鮮が韓国に戦いをいどんでいるのと同じです。やんや、やんやと挑発しています。肉の欲の背後には何がいるのでしょう?そうです。この世の神であり悪魔が誘惑しているのです。肉の欲をし続けるとどうなるのでしょう?まず、たましいを傷つけてしまうでしょう。そして、たましいを汚し、堕落させるでしょう。そうしたらどうなるでしょう?神さまから離れ、全く、無力な信仰者になってしまいます。元ハーベスト・タイムの中川先生が言っていました。「世の中で最も麗しい人たちとはだれでしょう?」「それはクリスチャンです。」と。「それでは世の中で最も醜い人たちとはだれでしょう?」「それもクリスチャンです」と言われました。堕落したクリスチャンは未信者よりもたちが悪いということです。なぜなら、未信者は「罰が当る」とか言って神を恐れます。しかし、堕落したクリスチャンは神を恐れません。神をなめてわざと罪を犯します。ニーチェのお父さんは牧師でした。残念ながら、ニーチェは大学在学中、神学も信仰も棄てました。やがては「神は死んだ」という学説まで唱えました。最後は気が狂って死にました。ニーチェの哲学に傾倒している人には悪いですが、彼は信仰の道をはずれたのではないかと思います。当時、自由主義神学が盛んでしたが、神はいないという哲学が偶像になったのだと思います。哲学は人間の理性を神としているので、行き過ぎると偶像礼拝になります。

 ガラテヤ5:17には「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」とあります。みなさんの心の中に、肉と霊との戦いがあるのでしょうか?あるのが普通なのです。全くないと人というのは、イエス様を信じていない未信者です。未信者の心に中には御霊がいないので、このような戦いはありません。ちょっと良心が咎めることもありますが、時間が経つと「ま、良いか、みんなやっているから」となります。しかし、クリスチャンになると心の中に聖霊が宿るので、そういうわけには行きません。聖霊が「そうじゃないよ」と訴えるので、しょっちゅう、苦しい思いがします。心にそういう葛藤があるのは良いことなのです。なぜなら、救われているからです。でも、そのままではいけません。肉に負けさせて、霊に勝ってもらわなければなりません。では、どうしたらそのようになれるのでしょうか?それは肉に栄養を与えないで、霊に栄養を与えるということです。それは、どういう意味でしょうか?男性でしたら、ポルノでしょうか?そういうものを見ていると肉が太ってきます。女性でしたら、ねたみや恨みを温存していると肉が太ってきます。そして、聖書も読まないでテレビを見たり、雑誌ばかり見ている。祈らないで、人とおしゃべりしたり、インターネットを見ている。すると霊が弱くなります。片や横綱のように太った肉、片や痩せ細った霊です。そこへ誘惑が近づいてきます。「やめて」と霊が、か細い声で止めます。でも、肉はあまりにも強いので、いとも簡単に霊をねじ伏せてしまうでしょう。それではいけません。ふだんから、肉には栄養を与えないで、霊に栄養を与えるのです。肉を餓死させておいて、霊を太らせるのです。そうすれば、いくら、たましいに戦いをいどむ肉の欲がやって来ても大丈夫です。

 結果的にどうなるのでしょうか?ペテロ2:12「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」「りっぱ」というのは、JB.フィリップスはgood and rightと訳しています。「良くて正しい」ということです。どうぞ、どんなときでも、good and right「良くて正しいふるまい」をしていきたいと思います。そうしたら、私たちを悪くいう人たちでさえも、神をほめたたえるようになるということです。

 

2.王に従いなさい

 

 ペテロ2:13-17「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっ、ても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」冒頭でも述べましたが、当時はローマが世界を支配していました。王とは皇帝カイザルです。そして、領土を治めるために総督と軍隊を派遣していました。ある程度の自由は認めていましたが、納税と労役の義務がありました。ローマ法があったとしても、専制君主の国ですから、公平なわけがありません。それなのにペテロは何と言っているでしょうか?「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても・・・、王から遣わされた総督であってもそうしなさい」と言っています。ペテロが何故こんなことを言ったのでしょう?ペテロは福音を伝えるために「キリスト教は決して危険な宗教ではありません。あなたがたに服従しますよ」とローマにへつらっているのでしょうか?それとも、ローマは神の代理者だと勘違いしているのでしょうか?両方とも間違いです。そうではなく、ペテロはローマも神さまが世の中の権威として立てているということを言いたいのです。世の中に完全な政府、完全な法律など存在しません。「清濁合わせて飲む」というのが政治家の理論なようです。しかし、無政府状態、無法地帯であるなら、どうなるでしょう?極端な言い方ですが政府や法律が全くないよりはましなのです。神さまは人間に一般的な恵みを与えました。それは道徳心です。完全ではありませんが、「私生活においても、国家においても正しい生活をしよう」という願いがあります。しかし、敵意や利己的な心もありますので、争いが発展し、戦争になることもあります。そうならないために、法律を作ったり、条約を結んで平和な生活をしようと努力はしています。ペテロは神さまが、ローマが世界を支配していることを許しておられることを認めています。そして、条件付ではありますが、人の立てたすべての制度に王や総督に従いなさいと言っています。

 では、どんな条件なのでしょうか?ここに「主のゆえに」とあります。主のゆえに、というのは、「神さまがローマにある程度の権威を与えていることを信じる」ということです。主のゆえに従うのです。イエス様はマタイ5章でこのように教えておられます。マタイ5:41「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」当時、ローマ帝国は、被占領国で労働を強制させることができました。何か不足が生じると、だれにでも、強制的に、食物、宿舎、馬、助力を提供させました。クレネのシモンはこのような強制によって、イエス様の十字架を運びました。1ミリオンとは、1480メートルに相当するそうです。2ミリオンだと約3キロです。二倍行くということは、イエス様は「強いられた心ではなく、自由な自発的な心で積極的に従うように」と勧めているのです。「主のゆえに」とは、イエス様が許されているのだから、上の権威に積極的に従いなさいということです。それでは、クリスチャンとして国旗掲揚をしたり、君が代を歌うべきなのでしょうか?日本は第二次世界大戦という不名誉な過去がありました。そのとき、日の丸を掲げて世界中を侵略しました。そして、天皇陛下を神に奉り立てて、君が代を歌いました。戦争に敗れた後、天皇陛下が人間に戻りました。ですから、ある人にとっては、日の丸も君が代は、大変イヤなものなのかもしれません。しかし、日の丸は第二次世界大戦の前からありました。君が代はどうでしょうか?欧米の国歌の多くは、民衆が独立と自由を勝ち取った歌であります。しかし、日本の場合はなしくずし的に、天皇に歌った歌をそのまま使っています。君が代は、歌詞は古今和歌集から取られ、イギリスのフェントンが作曲し、あとで日本人が作曲しなおしたようです。「君」だれなのか?ある人は「作曲者が主イエス・キリストのつもりで作ったのでは?」と言います。もちろん、それは定かではありません。私たちは主にあって、国家も歌って良いのではないかと思います。もちろん、国旗を礼拝したりはしません。

 60年代のローマはだんだん、皇帝礼拝を強いるようになってきました。ネロ皇帝によって、パウロやペテロが殉教したといわれています。そういうことになっても、キリスト教会はローマに従うべきなのでしょうか?それは「ノー」です。国家が神さまの領域を超えた場合は、断じて、従ってはいけません。だから、イエス様の使徒たち、および教会教父たちは殉教していったのです。「他のことは従いますが、これだけは従えません」と断ったのです。ヨハネによる黙示録はローマの迫害時代に書かれた預言書です。この預言書は悪魔化したローマが背景にあります。終末には、これがさらに大きくなり、「獣を拝め」という世界的国家が出現すると預言されています。現代でも、キリスト教の信仰が許されていない国家がたくさんあります。共産国とイスラム圏の国々です。中国は公には宗教の自由を認めていますが、教会で共産主義を批判したら逮捕されます。トルコなども観光で行くなら最高ですが、宣教が最も厳しい国の1つです。インドネシアはイスラムが国を支配しています。キリスト教会がものすごく迫害されていますが、軍隊は見て見ぬふりです。ウクライナのキエフはリバイバルが起こり、キリスト教国になるところでした。しかし、勢力が逆転され、ロシア側に戻りました。指導者のサンディ・アデラジャ牧師が逮捕されたと聞いています。国家のことを全く関知しない教会もあります。でも、「信仰は個人のものだからと政治のことは関知しない」となったらどうなるのでしょうか?ナチス・ドイツが支配していたとき、教会はダンマリを決め込んでいました。ボンフェッファーのように戦った牧師はほとんどいませんでした。日本でも大戦中は教会が日本基督教団1つにまとめられました。そして、礼拝の中で君が代斉唱、国旗掲揚、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)が行われたと聞いています。ホーリネス系の教会が反対して、100名以上の教職者が治安維持法違反で検挙されました。それに対して、教団の幹部らは政府に「不純なものを除去してくれて感謝しています」と答えたそうです。教団の代表は、検挙された牧師たちに「自発的に辞任しなければ、身分を剥奪する」と言ったそうです。韓国の教会は血を流して抵抗しましたが、日本の教会は妥協してしまいました。平和な時代には、「戦争反対」「信教の自由」とか言えますが、いざ、国家権力のもとで支配されてしまうと、簡単にはいかないでしょう。残念ですが、この世からだけではなく、教会内からも、迫害される場合があります。

 ペテロは結論的に、何と言っているのでしょうか?2:16-17「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」私たちはこの国にいても、本当は自由であり、自由人なんだということです。ペテロはどうしてそのようなこと言えたのでしょうか?イエス様はマタイ10章でこのように言われました。マタイ10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」アーメン。この世の国がどんなに悪魔化して、私たちを迫害しても、殺せるのは肉体だけです。私たちの魂は自由です。私たちの永遠の命は神の御手の中にあります。だから、私たちはどんな境遇の中にいても自由なのです。この世の倫理道徳は人間社会という枠組の中で正しく生きるためのものです。私たちはこの世や社会ではなく、それを越えた神の国に生きています。神の国の法律の中で私たちは生きています。魂はこの世と次元の違うところで生きていますが、肉体的にはこの世で生活しています。確かにこの世は私たちを迫害し、ある場合は自由を取り去るかもしれません。しかし、それは肉体的なものまでであり、魂まで束縛することはできません。極端に言えば、私たちは神をおそれ、神さまの御目のもとで正しく願うことを求めれば良いのです。もちろん、私たちはこの世の法律や習慣を守る努力はします。しかし、この世の風習や価値観のゆえに、疎外されたり、迫害されることがあるかもしれません。そういうものは、甘んじて受けるしかありません。でも、私たちの魂、私たちの信仰を捨ててまで妥協してはいけません。この世において、「クリスチャンは、なんと良い人たちだろう」と思われるときがあります。しかし、ある時は、「クリスチャンは、なんと偏屈な人たちなんだろう」と思われるときもあるでしょう。それでも良いのです。パウロはローマ12章でこのように命じています。ローマ12:2 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」JB.フィリップスは「この世の鋳型に押しつぶされてはいけません」と訳しています。「私たちが不自由だなー」と感じるときはどんな時でしょう?それはこの世の価値観や習慣に縛られているときです。この世の人たちにへつらって、貢いでいるからかもしれません。誤解されても、悪く言われても。神さまの御目のもとで正しく生きようと努力していれば良いのです。「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」とあります私たちは二人の主人に仕えることはできません。一方を重んじたなら、一方を軽んじることになるからです。でも、できるだけ私たちは神さまから与えられた自由と、力を平和のために使いたいと思います。すぐ喧嘩して、すぐ物別れするのは子どもじみています。成熟したクリスチャンは、神の国にしっかりと魂を置きながら、身をかがめて手を伸ばす人です。この世に傷みつけられ、けちょんけちょんにされる時もあるでしょう。たとえ、土曜日に死んだようになったとしても、日曜日の朝、復活のいのちをいただくのです。私たちはこの国に生きてはいますが、本当は神の国で生きているのです。なぜなら、この国、この世は過ぎ行くものであり、神の国は永遠だからです。今週も、神さまの命を豊かにいただいて、日々、勝利して歩みたいと思います。