2012.5.27「愛と賜物の源 Ⅰペテロ4:7-11」

きょうはペンテコステ礼拝です。ペンテコステというのは、五旬節の祭りから来ています。イスラエルでは、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われました。それと重なるように、イエス様が復活した日曜日から、50日目に聖霊が降りました。その日から、キリスト教会の歴史が始まったと言っても過言ではありません。なぜなら、キリストの弟子たちが人格的にも能力的にも全く変わったからであります。イエス様は「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは都にとどまっていなさい」と命じておられました。そして、まさしくそのようになったのです。それが今日まで続いています。ロビーのステンドグラスは聖霊の降臨を象徴しています。本当は炎のような曲線を考えていましたが、予算の都合上なのか設計者が四角い形にしてしまいました。私は、がまんならなかったので、「鳩だけでも入れさせて欲しい」とデザインしました。

 

1.愛の源なる聖霊

 

 Ⅰペテロ4:7-9「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」ペテロはペンテコステの日、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とヨエル書から説教しました。「終わりの日」がいつから始まったかというと、ペンテコステの日から始まったのです。終わりの時代は聖霊が教会を通して働かれる時代であります。イエス様は「ご自身が成就した贖いのみわざを、世界に広げて欲しい」と聖霊様にバトンタッチしたのです。聖霊は教会に対して大きく分けて2つのことをしました。1つは人々を愛の人にしたということです。イエス様の弟子たちはいつも「だれが一番偉いか」争っていました。怒りっぽい人もおれば、多血質、憂鬱質もいたかと思います。もちろん、性格の一部は生まれつきのものもありますが、聖霊による感化によって変わります。あの弟子たちが愛の人になったということはだれも否定できないでしょう。ヨハネの手紙を見て、あの人が「雷の子」だったとだれが想像できるでしょうか?また、パウロも非常に気性の荒い人でしたが、「愛は寛容である」と始まるⅠコリント13章を書いています。ペテロも目立ちがりやで、後先考えないで行動する人でした。そのペテロが何と言っているのでしょうか?

第一に「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と言っています。「整えるとか、身を慎む」なんて、ペテロには縁遠いものでした。しかし、聖霊によって変えられたのであります。第二は「互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」。ペテロはイエス様を3度も否定しました。イエス様から罪をおおわれた経験があります。箱舟を造ったノアという人物は、洪水で助かったあと油断しました。ぶどう酒で酔っ払って、裸で寝ていました。カナンの父ハムは父の裸を見ました。しかし、セムとヤペテは後ろ向きに歩いて、着物をかけてあげました。カナンがのろわれ、セムとヤペテが祝福されました。酔って裸になるのは父の恥です。しかし、セムとヤペテは裸を見ないで、着物でおおってあげました。私たちクリスチャンも、兄弟姉妹の罪をさばくのではなく、愛によっておおってあげることが求められています。この愛は、人間の愛ではなく、聖霊さまがくださる愛です。第三は「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」です。私たちはつぶやきがそんなに大きな罪だとは理解できないところがあるかもしれません。Ⅰコリント10章にはイスラエルの民が荒野で犯した罪をしるしています。Ⅰコリント10:10-11「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」つぶやくというのは、神さまに文句を言うということです。ほめたたえるというのは、神さまを引き上げるこということです。そして、つぶやくというのは、神さまを天から引き降ろすという意味があります。「神さま、何やってんだよ。私が、そこへ行って代わりに神さまになってやろうか?」ということなのです。なんという恐ろしいことでしょうか?神さまへの反逆、クーデターです。ですから、滅ぼす者に滅ぼされないように、つぶやかないようにしましょう。その代わり、私たちは「互いに親切にもてなし合う」べきです。ペテロは聖霊の賜物を語る前に、聖霊がくださる愛について言及しています。ということは、賜物よりも愛が大切であることを言いたいのです。パウロも「もし愛がなければ、いっさいは無益である」(Ⅰコリント13:3口語訳)と言ったのはそのためです。

 

2.賜物の源なる聖霊

 

Ⅰペテロ4:10-11「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」「それぞれが賜物を受けているのですから」とはどういう意味でしょう?それは「クリスチャンであるならば、もれなく賜物が与えられていますよ」ということです。賜物はギリシャ語でカリスマと言いますが、多くの場合、聖霊によって与えられる超自然的な賜物のことを指します。神さまはご自身の働きをさせるために、その人に霊的な賜物をお与えになります。「それぞれの人がそれぞれの神からの賜物をいただいているので、それによってからだなる教会の働きをせよ」ということなのです。私たちのからだは、いろんな器官でなりたっています。手もあれば足もあります。目や耳、口、鼻もあります。からだの中にはいろんな内臓や神経、骨格もありますので、種類をあげたらきりがありません。第一ポイントであげました愛は、御霊の実であり、だれでもが持たなければならない聖霊の品性であります。しかし、第二のポイントの御霊の賜物はそうではありません。自分が与えられた賜物にだけ、責任があります。ペテロは「神のさまざまな恵みの良い管理人として」と言っています。これはどういうことかと申しますと、「自分に与えられた賜物を発見し、それを正しく用いなさいよ」ということなのです。福音書にはタラントのたとえが書いてあります。主人はある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラントを預けて、「これで商売しなさいよ」と言って旅に出ました。帰って来たとき、それぞれの人が進み出ました。5タラント預けられていた人は、さらに5タラントもうけました。2タラント預けられていた人は、さらに2タラントもうけました。主人は二人に「よくやった。忠実なしもべだ」とほめました。ところが、1タラント預けられたしもべは、地面を掘って、そのお金を隠しました。主人が帰ってきたとき、1タラントをそのまま返しました。主人は「悪い怠け者のしもべだ」と叱って、1タラントを取り上げて、10タラント持っている者にあげました。これはどういう意味でしょう。1タラントは当時のお金で6000日分の給料でした。そう足りない額ではありません。問題は、神さまから与えられた賜物を活用しないことであります。管理するということは、自分に与えられた賜物を用いるということです。そうしたら、「忠実なしもべだ」ということで、さらに賜物が与えられるのかもしれません。

そのあとに、二種類の賜物が取り上げられています。まず、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」とあります。原文は「語る人は、神託のように語れ」という意味になります。神託というのは、「神のお告げ」であります。古代ギリシャにおいて、神託を告げる賢者や巫女がいたようです。彼らはおそらく「神からのおつげがありました」みたいに語ったのでしょう。教会でも「神がこう言われます」と預言するところがあるようです。しかし、それはどうでしょうか?Ⅱペテロ1:21「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」これは聖書を書いた預言者たちのことであります。ペテロは彼らのように語れというのです。つまり、「神がこう言われます」と当時の預言者たちは語りました。では、教会の説教者や教師はどう語るのでしょうか?それは、「自分の考えや意思ではなく、聖霊に動かされて、神からのことばを語る」ということです。新改訳聖書はもっと意訳して「神のことばにふさわしく語り」となっています。「日本語的にどうかな?」という文章ですが、言わんとするところは分かります。おそらく、神のことばである聖書を、神のことばらしく語るということだと思います。直接、神さまから聞いて語る預言もありますが、神のことばである聖書から語ることが第一であります。私が何故、この講壇に立っていられるのか?その理由は、私が聖霊によって神のことばを解き明かしてもらって、神さまのメッセージを取り次いでいるからだと思います。私が講壇を降りて、食堂や家で話す日常会話は、90%が私の思いであります。「え?」と躓かれる方がおられるかもしれません。しかし、私が講壇で準備した説教を語るときは90%が神さまのみこころであると信じています。残念ながら、ここはどうしても伝えたいと私が頑張るとき、肉的なものが出てきて、50%くらいになることがあるかもしれません。だから、頑張らないで、神さまから与えられたメッセージを語れば良いのです。ハレルヤ!でも、どうしても力が入るときはあります。聖霊様の熱心さもあるかもしれません。

第二の賜物は、奉仕者です。日本語で奉仕というと「ただ働き」というニュアンスがありますが、英語の聖書ではミニスターとなっています。ミニスターは、大臣、公使、聖職者という意味があります。しかし、本当は、仕える者、給仕する者、世話する者という意味です。要は、神さまから与えられた奉仕であるならば、低いも高いもないし、粗末だとか尊いということもないということです。ペテロは「奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」と言っています。奉仕の源はどこにあるでしょうか?「神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕せよ」というのですから、神さまにあります。大体、この世の働きは、生来の賜物や能力に負うところが多いと思います。小さい時に、そろばん塾とか、ピアノのけいこに通った方もおられるでしょう。スポーツにおいても体力やわざを身につけます。基礎的なものと専門的な知識を得るために学校にも行きます。あとは、世の中で経験を積んでいっぱしのその道のプロになります。10年間くらいやったら、専門家になれるかもしれません。さらに、いろんな資格もとるし、何かを身につけるでしょう。そういうものを含めて、私たちは「こういうものができますよ」という人になります。だいたい、そういうものを履歴書に書いて、自分を売り込むわけです。でも、クリスチャンになってから、聖霊がくださる賜物は、多くの場合、履歴書に書けないものです。なぜなら、この世の仕事と違うからです。

どうでしょう?ご自分がクリスチャンになってから、神さまによって与えられた賜物というものを発見しておられるでしょうか?そして、その賜物を生かして奉仕をしておられるでしょうか?昨年、カメイ先生が来られ「賜物の発見」についてセミナーをもってくれました。その後、高柳姉が一生懸命、データーを整理してくれました。そういうところに現れた賜物こそが、生来の才能や能力とは別の、聖霊様がくださった賜物であります。神さまはその賜物を用いて、仕えてもらいたいと望んでおられるのではないでしょうか?私たちは仕事や家事など、自分の生活ですべきことがたくさんあります。その分野の才能や能力がなくても、お金のために仕方なくやっているものもあるでしょう。また、教会につながり、何らかの奉仕に携わっているかもしれません。そう生活の分野を全部含めて、神さまからの賜物を本当に活用しているかどうかです。もし、仕事は仕事、賜物は賜物と分離して考えるならば、淋しいですね。もしかしたら、仕事の中にも神さまの賜物を発揮できるかもしれません。当然なことですが、教会の奉仕の中に、神さまの賜物を発揮できるかもしれません。ある人は、この世の仕事とは全く、別な奉仕の場があるかもしれません。アメリカの教会ですが、普段は弁護士として働いている男性が、日曜日になると知的に障害をもった子どもたちを世話しています。子どもたちが男性の上に馬乗りになり、汗だくになってナーサリーの奉仕をしているわけです。神様が不思議なことに、「あなたは、この分野の奉仕をしなさい」と賜物をくださるということです。

現在、CSで奉仕をなさったり、奏楽や受付をなさったりしておられる兄姉がおられます。教えも伝道も、与えることも大歓迎です。他に慈愛や預言、異言、宣教、牧会、管理、補助・・・いろんな奉仕があります。どうぞ、キリストのからだなる教会において、チャレンジなさられたらどうでしょうか?もちろん、この賜物は職場や家庭や地域社会にも活用できます。「私のは1タラントだ」と地面に隠さないで、ぜひ、活用されたら良いと思います。神さまは「どんな偉大なことができたか」聞きません。そうではなく、「与えられた賜物にいかに忠実であったか」を問われるのです。

 

3.愛と賜物のゴール

 

 第一のポイントは聖霊の実である愛でした。これは人格的なものです。第二のポイントは聖霊の賜物でした。これは働きや奉仕です。それら2つのゴール、愛と賜物の目標は何なのでしょうか?Ⅰペテロ4:11の後半「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」たとえば、愛の源が自分の道徳性や品性であったらどうでしょうか?この世では、「人徳だからね」とよく言ったり、言われたりします。クリスチャンになる前から、穏やかで愛のある人がおられます。そういう人は、聖霊の助けなしに、そういう品性が生まれつきある人です。もし、そういう人が人から「あなたの人柄はすばらしいですね」とほめられたらどうなるでしょうか。その人は「私の人徳かな?」と、神さまではなく自分のせいにするでしょう。つまり、栄光を神さまではなく、自分に帰してしまうということです。もちろん、両親から愛されて、心に傷のない人は、健全な人格を持つことができるでしょう。でも、御霊の実は生まれつきの人格以上のものです。生身の人間は自分の敵を愛することは不可能です。「自分の隣人を愛し、敵を憎め」というのが人間の限界です。しかし、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。自分を愛してくれる人を愛するのはだれでもできます。しかし、自分に敵対し、悪いことを言ったり、行ったりする人をどうして愛することができるでしょう。私は今でも高校のときを思い出します。修学旅行に行った先で、バスケットをやっている同級生から膝蹴りを食わされたことです。みんなでしゃがんでガイドの話を聞いているとき、後ろから彼の肩に手を置いただけなのに、膝蹴りを食わせやがって! 40年前のことなのに、今でも忘れません。私は復讐心を抱いて人を殺す人の気持ちが良くわかります。しかし、クリスチャンの場合は、イエスの御霊が宿っています。では、イエスの御霊が宿っているだけで、憎しみから解放されるのかというとそうでもありません。やっぱり、聖霊様を認めて、ゆだねて、イエス様が現れるように願う必要があります。自分が小さくなって、イエス様が大きくなる。そうすると、生まれつきの人格ではなく、超自然的な神の品性が現れるのです。私はそうなるように、御霊によって歩むことを心がけています。キリスト教は道徳ではありません。奇跡です。そうすると、「これは自分ではなく、神さまのゆえなんだなー」と神さまをほめたたえたくなるのです。

 もう1つは聖霊の賜物です。うまれつき才能がある人がいます。また、一生懸命、夜も寝ないで、人の何倍も努力して身につけた能力があるでしょう。スポーツ選手、芸術家、ビジネスマン、職人、技術者。そういう人たちはだれをほこるでしょうか?自分を誇るでしょう。歌手などは、観客からもらう拍手喝采が命です。スポーツ選手も応援してくれる人がいるので一生懸命、パフォーマンスするところがあります。この世では、人々から称賛されることは悪いことではありません。もうすぐオリンピックがありますが、メダルを取り、高いところに立つことを願って頑張るでしょう。でも、ほとんどの場合は、栄光が神さまではなく、自分に行きます。「みなさんのお陰です」と口では言うかもしれませんが、「俺がやったんだ。私がやったんだ」と思うでしょう。しかし、御霊の賜物は元来、自分にはなかった能力です。少しは努力したかもしれませんが、神さまから一方的に与えられた賜物です。賜物は英語ではギフト、贈り物です。もらったものですから、自分を誇ることはできません。では、何のために神さまがその人に与えたのでしょう?それは神さまのわざを行うためです。だれが行うのでしょうか?その人を通して、神様が働くためです。だからその人は道具であり、器なのです。道具や器は自分を誇ることができません。それを用いてくださるお方がすばらしいのです。もし、その人が神さまではなく、自分を誇るならどうなるでしょう?それは神さまの栄光を盗んだことになります。「いや、良いでしょう。少しは私も称賛されたって」と思うかもしれません。しかし、神さまは栄光を人とは分かち合いません。栄光は神さまだけのものです。もし、私たちが「やるべきことをしたに過ぎません」と、ふつつかなしもべとして奉仕するならば、生きている限り用いられるでしょう。

 この間、朝、中川を散歩していて、ツバメを見ました。ツバメの羽は独特です。早く飛べるし、急旋回することもできます。そうやって、空中に飛んでいる虫を捕まえるのでしょう。私はものすごいスピードで飛んでいるツバメを見て、神さまをほめたたえました。「神さま、あなたは小さい鳥にそのような能力を与えたんですね。すごい!」と思ったとたん、嗚咽してしまいました。そして、自分にも神さまは特別な賜物を与えておられるんだ、と思いました。学校時代の勉強やスポーツ、適性検査に左右されないでください。クリスチャンには、もれなく、ペンテコステの霊が注がれています。そして、神さまはあなたを特別な分野で用いるために、特別な賜物を与えておられます。どうぞ1タラント預けられたしもべのように地面に隠さないで、豊かに用いましょう。神さまは忠実なしもべには、さらにプラスして与えてくださるお方です。