2011.03.06 神に願え ヤコブ1:5-11、16-18

ヤコブ書は旧訳聖書の箴言に良く似ています。どういうところが似ているのでしょうか?教えが格言のように短いということです。そして、このことあのことと、話題が飛ぶので、全体的に捉えるのが難しいということです。ですから、このように説教するときは、ある箇所を飛ばして、他の箇所とくっつける必要があるのです。そうすると1つのテーマに従って学ぶことができます。かなり、虫食い的になることを許していただきたいと思います。でも、頭には残ると思います。きょうのテーマは「神に願え」ということですが、私たちは何をどのように願ったら良いのでしょうか?どうして願っても与えられないのでしょうか?きょうは、そういうところに理解が与えられたら良いと思います。

1.神はどんなお方か?

まず、私たちの神さまはどんなお方なのでしょうか?このことを知ることがとても重要です。なぜなら、神さまがどんなお方か知るならば、私たちは大胆に求めることができるからです。5節から、神さまがどんなお方か分かるでしょう?「だれにでも惜しげもなく、とがめることなくお与えになる神」と書いてあります。神さまは、少なくとも3つの性質を持っておられます。第一に「だれにでも」ですから、神さまは分け隔てなさらない、公平なお方だということです。「あの人にはあげるけれど、あなたにはあげない」ということではありません。マタイ5章には「天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と書いてあります。第二に神さまは「惜しげもなく」与えてくださるお方です。他のことばで言うなら、神さまは気前が良くて、豊かに与えてくださる方です。第三は「とがめることなくお与えになる」神さまです。「とがめることなく」とはどういう意味でしょう?「この間、お前にあれだけやっただろう。もう使ってしまったのか。チッ、しょうがないなー。こんどは、これだけやるから、無駄に使うんじゃないぞ。」「ポイ」と、投げるように与えられたら、ありがたいでしょうか?神さまは何度でも、何度でも気前よく与えてくださるお方です。

さらに飛んで、17節以降にも神さまがどんなお方か記されています。1:17「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は上から来る」と書いてあります。上から来るとは、神さまから来るということです。神さまはどんなお方でしょう?すべての良い贈り物とすべての完全な賜物は神さまが所有しておられ、それを私たちに与えたいと願っておられるということです。すごいですね。18節から神さまは光を造られたお方だということが分かります。そして、父なる神には移り変わりや、移り行く影がないということです。これは、どういう意味でしょう?神さまは、月、星、太陽を造られました。天を見上げると分かりますが、月、星、太陽の光はすべて変化します。星は自転したり、あるいは公転したり、しています。当然、光も強くなったり弱くなったり、あるところに影ができたりします。私たちの地球にも季節があって、太陽の陽の強さが違います。月も満ちたり、欠けたりします。私たちの体調や気分も月ごとに、いや毎日変わります。では、神さまはどうなのでしょうか?神さまは「きょうは気分が良いから何でもやるぞ!」、あるいは「きょうは力あるわざは、あまりできないので控えめにしよう」、あるいは「きょうは蓄えがないので、この程度だ」とかおっしゃるでしょうか?聖書には「父なる神には移り変わりや、移り行く影がない」と書いてあります。つまり、神さまこそが本当の光であって、移り変わりや、移り行く影はありません。そして、いつでも、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物を与えたいと願っておられるのです。

聖書に神さまがこれだけすばらしいお方なのに、私たちは、かなり差し引いて見てしまうのはどうしてでしょう?ヤコブの手紙は神さまを「父」と紹介しています。父です。私が父と言うと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い浮かべるでしょう。あなたのお父さんは公平な人だったでしょうか?自分の子どもたちを公平に扱ってくれたでしょうか?あなたのお父さんは「惜しげもなく」与えてくれたでしょうか?ケチで子どものことよりも、自分のことが第一だったのではないでしょうか?あなたのお父さんは「とがめることなく」与えてくれたでしょうか?苦言やお説教をしてから、投げるようにくれたのではないでしょうか?あなたのお父さんはすべての良い贈り物、またすべての完全な賜物を所有していたでしょうか?そして、あなたに良い贈り物、完全な賜物を与えたでしょうか?あなたのお父さんは気持ちがいつも安定していたでしょうか?気難しくて、頑固で何を考えているのか分からないお父さんだったのではないでしょうか?もし、今、あげたことが全部とまでいかなくても、2つ3つ当っていたならどうなるでしょう?おそらく、天の父も歪んで見えてくることでしょう。もし、地上の父に頼ったことのない人であったら、よっぽどでない限りは神さまにお願なんかしないのではないでしょうか?「自分でやる。自分でかせぐ。ケチで弱い神さまになんか頼らないぞ」。そういうクリスチャンも中にはいるかもしれません。

私たちはもう一度、生まれ変わる必要があります。ヤコブ1:18「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」真理のことばとは、イエス・キリストでもあります。私たちは聖書のみことばに記されているイエス様を信じることによって再び生まれます。そのことによって、神さまが本当の意味で「お父さん」になります。救われる前も、神さまはお父さんだったかもしれません。でも、あまりにも罪に汚れ、あまりにも反抗的で無知だったために、できませんでした。しかし、イエス様を信じて、霊的に生まれ変わると、私たちは被造物の初穂になります。それは神の子どもであり、被造物の冠ということでしょう。そうすると、たとえ生まれや育ち、地上の父がどんなであろうと関係ないということです。確かに肉体的に生まれるために、地上の父と母が必要でした。そのことは深く感謝したいと思います。もし、天の父を知らないで生きていたら、生まれや育ちに支配され、多くの人たちは呪いの中にいたでしょう。トンボの幼虫ヤゴは、泥の中で生活します。しかし、成虫になると空を飛び回ります。蝶の幼虫は青虫ですが、植物を這い回り、葉っぱを食べて生活します。しかし、成虫になると空を飛び回ります。餌も違います。私たちも生まれや育ちは関係ありません。もちろん、生まれや育ちが良かった人は感謝すべきでしょう。でも、父なる神さまとは比べものにもなりません。私たちは天の父に対するイメージを変えなければなりません。

ある人は、ノート一冊買えないほど、貧しい家に育ちました。お父さんからびっくりするようなプレゼントを一度ももらったことがありません。その人がクリスチャンになりました。しかし、いつも中古の車に乗り、中古の住まいに住んでいました。そして、神さまに大きなプレゼントを願うことができませんでした。あるとき、ふっと気付いたそうです。「私の神様は地上の父とは違う。もっと偉大なるお方で、息子の私には最高のものをプレゼントしてくださるお方だ」と信じることができました。それからどういう訳か、マンションを購入し、会社から新車を与えられたそうです。私の家はブリキ屋で煙突とかストーブを売っていました。まっすぐな煙突、曲りの煙突、Tの字方の煙突、細いのと太いのと、いろいろありました。売れたお金は缶に入れていました。缶の中からお金を取って、お酒とか豆腐とか買いに行きました。バラ銭ばかりで、大金というのをほとんど見たことがありませんでした。母は何か必要な場合は、長男や長女からもらったり、あるいは隣り近所から借りていました。私が19歳の頃、関東で仕事しているとき、母から手紙が来ました。「やし、お金、めぐんでくれ」と書いてありました。「家にはお金がないんだなー」という考えが、ずっと残っていました。聖書の神さまがこれだけ豊かな方なのに、そのまま信じられないとしたら、貧乏の霊がまだあるのかもしれません。みなさんは、親替えをしているでしょうか?あなたの霊の父は、天地を造られた父なる神様です。そして、あなたは天の父のかけがえのない息子、娘になったのです。無駄使いはよくありませんが、父なる神さまは「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになるお方です。それも、余ったものとか、売れ残りではありません。「良い贈り物、完全な賜物」をあなたにあげたいと願っています。

葛飾テクノプラザで、たまに倒産品を売っている時があります。アシックスのシューズが1000円とかチラシには書いてあります。しかし、実際に行くとないのです。名前も知らないような1000円のシューズがいっぱい並んでいます。1、2足はあったのかもしれません。でも、それはごまかしです。私だけではなく、そうやっていそいそと、期待して来た人がいっぱいいます。でも、最後は仕方なく、1000円のシューズを買って帰ってきます。「葛飾区にも貧乏の霊でやられている人たちがいっぱいいるんだなー」と思いました。どうぞ、私たちは霊的に生まれ変わって、天地万物を造られた、豊かなる神さまをお父さんと呼びましょう。そして、王様の息子、娘として豊かな生活を送るその権利を回復しましょう。

2.疑うな

 ヤコブ1:6-8節には、願いが叶えられる条件が記されています。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」では、どういう心の持ち主が、願っても叶えられないのでしょうか?それは疑う心です。神さまに疑って求める人には与えられません。でも、疑って求めるとはどういう意味なんでしょうか?ヤコブ書には「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」とあります。海の波は風に吹かれると揺れ動きます。心の中が疑いに満ちている人は、海の大波のようだということです。福音書に書いてありますが、ペテロがイエス様から「来い」とおことばをいただいて、湖の上を歩いたことがあります。なんと、ペテロは船から降りて、水の上を歩いたのですよ。おそらく人類初ではないかと思います。確かに2,3歩、あいは4,5歩は歩いたかもしれません。でも、風が吹いて来て、波しぶきがばあっと顔にかかりました。そのとき、ペテロはイエス様から目をそらせました。そして、風を見て、こわくなり、沈みかけました。おそらく、ペテロは信仰よりも自分の五感を頼ったのだと思います。水が冷たい。現実的に人間が水の上を歩くのはおかしい。そして、「ずぶずぶ」と沈みました。風に吹かれる人の心とはどういう心でしょうか?目で見て、耳で聞いて、手で触って、自分の理性で納得できることしか信じない人です。しかし、信仰は目で見て、耳で聞きて、手で触って得るものではありません。しかも、自分の理性を超えるものです。「聖書はそう言うかもしれないけど、現実はこうだ!」という人が、不安定な人の特徴です。

 ヤコブはそういう人を何と呼んでいるでしょうか?「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」この人は、不思議な人で、「右に行く」と言いながら、左にも行ける人です。「上に行く」と言いながら、下にも行ける人です。「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、二心のある人は、それが可能なのです。あるときは、Aと言い、あるときはBと言うことができるのでしょうか?できます。英語で二心はdouble mindと言います。心が二つに分かれている人です。ファミリーレストランに行くと、2品、あるいは3品、注文できます。ドリンクバーではいろいろ飲むことも可能です。しかし、残念ですが、私たちは道が2つあるとしたら、1つしか選ぶことができません。同時に2つ選ぶことは不可能なのです。結婚できる人も一人だけです。私たちが信じることのできる神様はおひと方だけです。私が若い頃、はじめて首都高を運転したことがあります。首都高はいろいろ道が分かれています。銀座の下を走っていると、突然、真中に柱が出てきて、「え?」と驚きました。夜はすいていますので、後ろからどんどん追いかけられます。あるとき、どっちの道か分からないため、真中の安全地帯に車を乗り上げた時があります。絶対、やっちゃいけないことなのです。それ以降は、たとえ間違っても、どちらか1つを選ぶことにしています。とんでもないところで降りて、自分がどこにいるのかも分からない時がありました。「呉服橋ってどこ?そんな橋あったかなー」と思ったこともあります。今は、ナビゲーターが付いていますので、どこで降りても平気です。

 とにかく、ヤコブは吹き荒れた海のように、安定の欠いた二心で求めてはいけないと言っています。ですから、私たちは疑いを心から捨てて、信じる方を選択しなければならないのです。しかし、みなさん信じても沈没するときがあります。信じて求めたのに、答えられないときがあります。でも、みなさんペテロが沈んだ直後、どうなったでしょうか?イエス様が即座に手を伸ばし、引き上げてくださいます。旧訳聖書のヨナはどうだったでしょうか?神様からニネベに行けと言われたのに、タルシシュに逃れました。途中どうなったでしょう?ヨナが乗っていた船が嵐に遭い沈没しかかりました。ヨナは「私を海に投げ込めば嵐は静まる」と船長に言いました。ヨナはどうなったでしょう?ヨナ1:17「主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませた」と書いてあります。ヨナは魚の中から、主に祈りました。彼はよみの底から悔い改めたのです。するとどうなったでしょう?ヨナ2:10「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた」とあります。そうです。私たちが失敗するときがあっても、神さまが救い出してくださるのです。主にあって、落ちたら落ちっぱなしということはないのです。ですから、疑いを捨てて、信じる方を選び取りましょう。うまく行かないときがあったとしても、主が導いてくださいます。

3.知恵を求めよ

 ヤコブ1:5 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」ヤコブがここで求めなさいと私たちに言っていることは、「神様に知恵を求めよ」ということです。どうして、知識ではなく知恵なのでしょう?どうしてお金ではなく知恵なのでしょう?どうして力ではなく知恵なのでしょう?日本の学校教育は知識を詰め込むことが教育だと考えているかもしれません。歴史も苦労しましたが、クイズ番組には少しは役立ちます。高校の英単語はどうでしょう?もし、中学校程度の英単語をマスターしていれば、日常会話には事欠かないそうです。数学の微分・積分には躓きました。今は計算機やパソコンがやってくれます。アメリカのフォードという人は小学校しか出ていなかったそうです。ある人から「あなたは世界の国々がどこにあるか分からないのに、よく社長やっていますね」と批判されました。彼はこう答えたそうです。「確かに私は世界の国々がどこにあるか、その国名も分かりません。でも、私にはたくさんの秘書がいますので、知識に困ったときは、すぐ調べてくれます。しかし、私にはだれもが持っていない知恵があります。」そのように答えたそうです。ソロモン王は神さまから「あなたに何を与えようか。願え」と言われました。ソロモンは「長生き、お金、敵のいのち」と答えないで、国民をさばく知恵を願い求めました。すると願わなかった、長寿、富、誉れも与えられました。ユダヤ人が頭が良いのは、創造主なる神を恐れ、知恵を神さまからいただいているからです。

 私たちはどうでしょうか?私も学歴から言ったら、かなり劣る方だと思います。特に日本の牧師は高学歴で外国の神学校を出ている先生もおられます。「自然に成長する教会」NCDが世界32カ国の成長している教会を徹底的に調査しました。牧師の学歴と教会成長、この2つが関係があるだろうか調査しました。なんと、ちゃんとした神学校を出た牧師の教会よりも、どこか分からない神学校あるいは出ていない牧師の教会の方がよりよく成長しているというデーターがでました。なぜ、そうなのでしょう?ちゃんとした神学校を出た牧師は、他から学ぼうとしないということです。しかし、ろくに神学校を出ていない牧師は、いろんなセミナーに出かけ、いろんな先生から学びます。知識がある先生に限って、方策とか戦略を軽く扱います。神学は実践神学も必要であることを忘れてはいけません。その点、私は「後者の方で良かったなー」と思います。自慢ではありませんが、神さまは私に「知恵」を下さいます。ちょっと自慢していますが。救われる前の知恵は生き延びるために、人の上前をはねるようなセコイ知恵でした。しかし、クリスチャンになって聖霊様に満たされた後は、神からの知恵が与えられます。こういう説教において、牧会において知恵が与えられます。しかし、私に欠けているものは遠くを見る目、ビジョンとそれを実行に移す戦略が欠けています。目先の知恵はききますが、遠くを見通す知恵がありません。やはり、一人の人間に与えられる賜物には限界があるということでしょう。指導とか管理、預言は別の賜物だと思います。

 でも、みなさん私たちは信仰生活において、神からの知恵をいただく必要があります。ある人たちは信仰と生活を分けて考えています。信仰は信仰、生活は生活、これでは力がありません。あなたの生活1つ1つに、神さまは関心を持っておられます。どうぞ、ビジネスに知恵を求めてください。子育てや買い物にも知恵が必要です。創作的な仕事をなさっておられる方は特にそうです。神さまはすばらしいデザイナーです。デザインとは計画とか設計という意味があります。中世の芸術家がなぜ優れていたのでしょう?無心になって、神さまの栄光を現そうとしたからです。お金も必要ですが、お金を第一にすると、デザインが去っていくように思います。「人々の生活が向上するために、人々のニーズにどうこたえたら良いか?」そこから、しばらしいアイディアが生まれます。イエスさまはものすごく知恵がありました。当時の宗教家たちが難問をふっかけても即座に答えることができました。なぜなら、それは神が共におられたからです。そして、イエス様はみことばをよく読んでおられたからです。みことばこそが知恵の宝庫です。これは賜物とは関係なく、クリスチャンであるならだれにも与えられます。詩篇119:130「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」アーメン。私たちがみことばに親しむとき、聖霊様が今、ぶつかっている問題に対して、解決する知恵を与えてくださいます。いつも、みことばと神さまと親しく交わり、必要な知恵をいただきましょう。